PR
Keyword Search
Calendar
Comments
Freepage List
三十三間堂は、仏像の設置の常識が解る、仏像鑑賞に役立つお寺でした。
右 本尊 左(上位)
雷神・ 帝釈天(太陽)・吽形仁王 風神・梵天(宇宙)・阿形仁王
NHK大河ドラマ平清盛がありましたが、後白河上皇の壮大な離宮
【法住寺殿】の一角に上皇は勅命により清盛に三十三間堂を
1164年創建したと伝えられています。
柳と三十三間堂
法住寺殿跡地
三十三間堂外の向いに位置し、そのお隣に75代 後白河天皇の
御陵 そして、 養源院 が並んでありました。恐らくどなとも知られず
ひっそりとしていました。
後白河天皇陵
豊臣秀吉は、一旦、その広大な法住寺の跡地を我がものとしましたが
後に徳川家康によって採り上げられてしまいました。
栄枯盛衰の歴史が感じられます。
養源院門
【養源院】 浅井長政と徳川の菩提寺
当初、淀君が秀吉に頼んで、父の菩提のため建てられました。
秀吉亡きあと、豊臣に関係ある建物は太閤屏の一部を残して
壊されましたが、妹【江】(ごう) の願いで、長政の菩提寺は残され、
徳川の菩提寺ともなりました。
伏見城の【血天井】としても忠臣鳥居氏たちの供養もされています。
参道
徳川の三つ葉葵
参道の現在の紅葉
三十三間堂外側から
この向かいに養源院があります。
修学旅行生がタクシーでそして外人の方も多く見かけます。
殆どの方は、日本一細長いお堂の中を1001体の観音像に驚き
そのまま退散される方が多いですが、往時火災で持ち出されたのは、
観音さんの前に並んだ鎌倉時代の国宝二十八部衆と風神・雷神に
観賞されるゆとりも無いようです。
タクシー利用の修学旅行生
時代は代わり、桃山時代には豊臣秀吉がこの周辺を広く確保し
方広寺では高さ19mの木造大仏(奈良の大仏14.9m)を建てた
とされています。秀吉死後、墓地を背後の阿弥陀が峰に葬り
徳川家康によって、秀吉の所縁のものは、ねねさんの願いで
太閤塀と南大門だけが、現代遺されています。
南大門と築地塀 瓦に五七の桐紋
歴史の流れを推し量りながら、明日から順次寺社の説明に
はいりたいです。
後白河上皇も、平清盛も、権力を持たれて三っつの事が
できないと言われた(加茂川の水・賽の目・比叡の僧兵)
72代白河天皇に縁があり、後白河天皇は、鳥羽天皇と待賢門院さんとの
子で、平清盛は、父平忠盛だが、祇園八坂神社境内にある忠盛灯篭
のゆわれで、白河天皇のご褒美として、白河院の
女房祇園女御(妹の説?) 与えられた母とも言われています。
そしてその清盛の母は呪われているとして白河院の目の前で
家来の槍で突かれて惨殺されました
あれだけ歴史上の有名人物でも
仔細が判然としていません。いずれにしても両者
後白河天皇も平清盛も気性は激しかった ようです。
平忠盛は、一介の北面武士でしたが、冷静に思慮の深さで社僧の
命を落とさずに救った手柄が、歴史を変えました。
平忠盛燈篭 八坂神社の社殿の側
明日は歴史上名高い方広寺に参ります。