元MONOZUKIマスターの独白

元MONOZUKIマスターの独白

第五篇第二一章~二三章


      分裂 利子生み資本
  第二一章 利子生み資本
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 一般的利潤率または平均利潤率を最初に考察したときには(第三部第二篇)、まだこの平均利潤率はその完成した姿ではわれわれの前に現われていなかった。というのは、その平均はまだいろいろな部面に投下された産業資本のあいだの平均として現われていただけだからである。この点は第四篇で捕足され、そこではこの平均への商業資本の参加と商業利潤とが論究された。そこでは一般的利潤率と平均利潤率とが前よりも狭い限界のなかで現われた。これからの展開の途上では、今後われわれが一般的利潤率とか平均利潤とか言う場合には、このあとのほうの意味でそう言うのだということ、つまりただ平均率の完成した姿に関してのみそう言うのだということを、つねに念頭に置いていなければならない。・・・・・資本は、生産部面のなかで産業に投下されようと流通部面で商業に投下されようと、その大きさに比例して同じ年間平均利潤をあげるのである。
 貨幣――ここではある価値額の独立な表現として考えられるもので、この価値額が実際に貨幣として存在するか商品として存在するかにはかかわらない――は、資本主義的生産の上では資本に転化させられることができ、この転化によって、ある一定の価値から、自分自身を増殖し増大させる価値になる。それは利潤を生む。すなわち、それは、資本家が労働者から一定量の不払労働、剰余生産物、剰余価値を引き出して自分のものにすることができるようにする。こうして、貨幣は、自分が貨幣として持っている使用価値のほかに、一つの追加使用価値、すなわち資本として機能するという使用価値を受け取るのである。ここでは貨幣の使用価値とは、まさに、それが資本に転化して生みだす利潤のことなのである。このような可能的資本としての、利潤を生産するための手段としての、属性において、貨幣は商品に、といっても一つの独特な種類の商品に、なるのである。または、結局同じことになるが、資本が資本として商品になるのである。

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 出発点は、AがBに前貸しする貨幣である。この前貸は、担保付でも担保なしでも行なわれる。とはいえ、担保つきという形態は、商品引き当ての前貸とか手形や株式などのような債務証書引き当ての前貸を別とすれば、より古風な形態である。これらの特殊な形態はここではわれわれに関係がない。われわれがここで取り扱うのは普通の形態の利子生み資本である。
 Bの手で貨幣は現実に資本に転化させられ、運動G-W-G´をすませてから、G´として、G+デルタGとして、Aの手に帰ってくる。このデルタGは利子を表わす。ここでは、簡単にするために、資本がかなり長いあいだBの手にとどまっていて期日ごとに利子が支払われるという場合は暫く問題にしないことにする。
 そこで、運動は次のようになる。
     G-G-W-G´-G´
 ここで重複して現われるものは、(1)資本としての貨幣の支出であり、(2)実現された資本としての、G´またはG+デルタGとしての、貨幣の還流である。
 商業資本の運動G-WG´では同じ商品が二度持ち手を取り替える。または、商人が商人に売る場合には、もっと何度も持ち手を取り替える。しかし、同じ商品のこのような場所変換はそれぞれの商品の一つの変態、その買いかまたは売りを示しているのであって、その商品が最終的に消費に落ちるまでにこの過程が何度繰り返されようとも、そうなのである。
他方、W-G-Wでは同じ貨幣の二度の場所変換が行なわれるが、しかし、それは商品の完全な変態を示しているのであって、商品はまず貨幣に転化させられ、次に貨幣から再び別の商品に転化させられるのである。
 これに反して、利子生み資本の場合にはGの第一の場所変換は、けっして商品変態の契機でもなければ資本の再生産の契機でもない。Gは第二の支出ではじめてこのような契機になる。すなわち、このGで商業を営むかまたはそれを生産資本に転化させる機能資本家の手のなかではじめてそうなるのである。ここでGの第一の場所変換が表わしているものは、AからBへのGの移転または引渡し以外のなにものでもない。そして、この移転は、ある法律上の形式と留保とのもとで行なわれるのが常である。
 このような、資本としての貨幣の二重の支出――その第一のものはAからBへの単なる移転である――には、この貨幣の二重の還流が対応する。それはG´またはG´+デルタGとして運動から機能資本家Bに還流する。次にBは再びそれをAに引き渡す。といっても、同時に利潤の一部分をつけて、実現された資本として、G+デルタGとして引き渡す。この場合、デルタGは全利潤に等しいのではなく、ただ利潤の一部分、利子でしかない。Bの貨幣が還流するのは、ただ、Bが支出したものとして、機能資本として、とはいえAの所有物として、還流するだけである。だから、その還流が完全になるためには、Bはそれを再びAに引き渡さなければならない。しかし、Bは、資本額のほかに、自分がこの資本額であげた利潤の一部分を利子という名目でAに引き渡さなければならない。なぜならば、AがBに貨幣を渡したのは、ただ、資本として、すなわち運動のなかで自分を維持するだけではなく自分の所有者のために剰余価値を創造する価値として、渡しただけだからである。この貨幣がBの手に留まっているの、ただそれが機能資本であるあいだだけである。そして、その還流――約束の期限がきてからの――とともに、それは資本として機能しなくなる。しかし、もはや機能しない資本としては、それは再びAの手に、すなわちまだそれの法律上の所有者でなくなってはいないAの手に、返されなければならないのである。

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 ところが利子生み資本ではそうではない。そして、まさに、そうでないことこそが利子生み資本の独自な性格をなしているのである。自分の貨幣を利子生み資本として増殖しようとする貨幣所有者は、それを第三者に譲り渡し、それを流通に投じ、それを資本として商品にする。ただ自分自身にとってだけではなく他の人々にとっても資本として、である。それは、それを譲り渡す人にとって資本であるだけではなく、はじめから資本として、剰余価値、利潤を創造するという使用価値をもつ価値として、第三者に引き渡されるのである。すなわち、運動のなかで自分を維持し、機能を終わったあとでその最初の支出者の手に、ここでは貨幣所有者の手に帰ってくる価値として、引き渡されるのである。つまり、ただしばらくのあいだだけ彼の手から離れ、ただ一時的にその所有者の専有から機能資本家の専有に移るだけで、支払われてしまうのでも売られるのでもなく、ただ、貸し出されるだけの価値として、である。すなわち、第一には一定期間の後にはその出発点に帰ってくるという、また第二には実現された資本として、したがって剰余価値を生産するというその使用価値を実現した資本として、帰ってくるという条件のもとでのみ、その価値は譲り渡されるのである。

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 本章でわれわれが取り扱うのはただ本来の貨幣資本だけであって、そのほかの貸付資本の諸形態はこの貨幣資本から派生したものである。
 貸し出された資本は二重に還流する。再生産過程ではそれは機能資本家の手に帰り、それからもう一度、貸し手すなわち貨幣資本家への移転として、つまり、資本の現実の所有者、その法律上の出発点への返済として、復帰が繰り返される。

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 これまでは、貸付資本がその所有者と産業資本家とのあいだで行なう運動だけを考察してきた。次には利子を研究しなければならない。
 貸し手は自分の貨幣を資本として支出する。彼が他の人に譲り渡す価値額は、資本であり、それだから、彼のもとに還流する。しかし、ただ彼の手に帰ってくるだけでは、それは、貸し付けられた価値額の資本としての還流ではなく、貸し付けられた価値額の単なる返済であろう。資本として還流するためには、前貸しされた価値額は、運動のなかで自分をただ維持しただけではなく、自分を増殖し、その価値量をもっと増やしていなければならず、つまり剰余価値を伴って、G+デルタGとして帰ってこなければならない。そして、このデルタGはここでは利子である。すなわち、平均利潤のうち機能資本家の手のなかに留まっていないで貨幣資本家のものになる部分である。

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 普通の売りではなにが譲り渡されるか?売られる商品の価値ではない。なぜならば、この価値はただ形態を変えるだけだからである。この価値は、現実に貨幣の形態で売り手に移る前に、価格として観念的に商品のなかに存在している。同じ価値、そして同じ価値量が、ここではただ形態を取り替えるだけである。同じ価値、同じ価値量が一度は商品形態で存在し、もう一度は貨幣形態で存在する。現実に売り手によって譲り渡され、したがってまた買い手の個人的または生産的消費にはいって行くものは、商品の使用価値であり、使用価値としての商品である。
 それでは、貨幣資本が貸出期間中手放していて、借り手である生産資本家に引き渡しておく使用価値は、なになのか?それは、貨幣が資本に転化させられることができ資本として機能することができるということによって、したがって貨幣が自分の元来の価値量を保存するほかになおその運動中に一定の剰余価値、平均利潤(それよりも大きかったり小さかったりすることはここでは偶然として現われる)を生むということによって、貨幣が受け取る使用価値である。ほかの商品の場合には、最後の手のなかで使用価値は消費され、したがって商品の実体はなくなり、またそれといっしょに商品の価値もなくなってしまう。ところが、資本という商品は、その使用価値の消費によってその価値もその使用価値もただ維持されるだけではなく増殖もされるという特性をもっているのである。
このような資本としての貨幣の使用価値――平均利潤を生む能力――を貨幣資本家はある期間だけ産業資本家に譲り渡すのであって、この期間中は、貸し付けた資本の処分を産業資本家に任せておくのである。
 このようにして貸し付けられる貨幣は、そのかぎりでは、産業資本家にたいする地位から見た労働力と一種の類似点をもっている。ただ、産業資本家は労働力の価値を支払うのであるが、貸し付けられた資本の価値のほうはただ返すだけである。産業資本家にとっての労働力の使用価値は、労働力自身がもっているよりも、また労働力に費やされるよりも、より多くの価値(利潤)をその消費によって生みだすということである。この価値超過分が産業資本家にとっての労働力の使用価値である。同様に、貸し付けられた貨幣資本の使用価値も、やはり価値を生んでふやすというその能力として現われるのである。・・・・・
 貸し出される貨幣の使用価値は、資本として機能することができるということ、資本として平均的事情のもとでは平均利潤を生産するということである。

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 貸し手も借り手も、両方とも同じ貨幣額を資本として支出する。しかし、ただ後者の手のなかだけでそれは資本として機能する。利潤は、同じ貨幣額が二人の人にとって二重に資本として存在することによっては、二倍にはならない。その貨幣額が両方の人にとって資本として機能することができるのは、利潤の分割によるよりほかはない。貸し手のものになる部分は利子と呼ばれる。

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・・・・・貨幣は、また場合によっては商品は、それ自体として、潜勢的に、資本なのであって、それはちょうど労働力が潜勢的に資本であるようなものである。なぜならば、(1)貨幣は生産要素に転化させられることができ、そのままで生産要素の単に抽象的な表現であり、生産要素の価値としての定在だからである。また、(2)富の素材的諸要素は、潜勢的にはすでに資本であるという属性をもっているからである。なぜならば、そのような諸要素を補足する対立物、それらを資本にするもの――賃労働――が、資本主義的生産の基礎の上では現存しているからである。

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 利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現われる。資本の前貸は、貸し手から借り手への資本の単なる移転として現われ、実現された資本の還流は、借り手から貸し手への単なる逆移転、利子をつけての返済として現われる。また、利潤率は、一度の回転で得られる利潤の前貸資本価値にたいする割合によって規定されているだけではなく、この回転期間そのものの長さによっても規定されており、したがって産業資本家が一定の期間にあげる利潤として規定されている。という資本主義的生産様式に内在する規定も、やはりそうである。このこともまた、利子生み資本の場合にはまったく外面的に、一定の期間について貸し手に一定の利子が支払われるというふうに、現われるのである。

  第二二章 利潤の分割 利子率 利子率の
         「自然的な」率
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・・・・・われわれがここでしようとするのは、ただ、利子生み資本の独立な姿と利潤にたいする利子の独立化とを展開するということだけである。
 利子は、利潤のうちの、われわれのこれまでの前提によれば産業資本家から貨幣資本家に支払われるべき一部分でしかないのだから、利子の最高限界として現われるのは利潤そのものであって、その場合には機能資本家のものになる部分はゼロになるであろう。利子が実際に利潤よりも大きく、したがってまた利潤から支払われることもできないような個々の場合を別にすれば、監督賃金(wages of superintendence)に分解できるものとしてもっとあとで展開されるべき利潤部分を利潤全体から引き去ったものを、おそらく利子の最高限界とみなすことができるであろう。利子の最低限界は全然規定することのできないものである。利子はどんな低さにでも下がることができる。とはいえ、やがてまた反対に作用する事情が現われて、利子をこの相対的最低限よりも高く引き上げるのが常である。
 はじめにまず、総利潤と、そのうちの利子として貨幣資本家に支払われるべき部分とのあいだに、ある固定した割合があるものと仮定してみよう。そうすれば、明らかに、利子は総利潤につれて上がり下がりするであろう。そして、総利潤は一般的利潤率とその変動とによって規定されている。・・・・・
 他の事情はすべて変わらないとすれば、すなわち利子と総利潤との割合を多かれ少なかれ不変なものと仮定すれば、機能資本家は、利潤率の高さに正比例してより高いかまたはより低い利子を支払うことができるであろうし、また支払うことを辞しないであろう。すでに見たように、利潤率の高さは資本主義的生産の発展に反比例するのだから、したがってまた一国の利子率の高低も産業的発展の高さにたいしてやはり反比例するということになる。すなわち、利子率の相違が現実に利潤率の相違を表わすかぎりでは、そういうことになる。といっても、かならずそうなるとはかぎらないということは、もっとあとで見るであろう。この意味では、利子は利潤によって、より詳しくは一般的利潤率によって、規制される、と言うことができる。そして、このような利子の規制の仕方は、利子の平均にもあてはまるのである。

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 近代産業がそのなかで運動する回転循環――平静状態、活気増大、繁栄、過剰生産、破局、停滞、平静状態という循環であって、そのより詳しい分析はわれわれの考察の圏外にある――を考察してみれば、そこで見いだされることは、利子の低い状態はたいていは繁栄または特別利潤の時期に対応し、利子の上昇は繁栄とその転換との分かれ目に対応し、また極度の高利にもなる利子の最高限は恐慌に対応するということであろう。1843年の夏からは明瞭な繁栄が始まった。1842年の春にはまだ41/2%だった利子率が、1843年の春と夏には2%に下がり、9月には11/2%にさえ下がった。
 やがて1847年の恐慌中には利子率は8%以上に上がった。
 もちろん、他面では、低い利子が停滞に伴い、利子の適度の上昇が活気の増大に伴うということもありうる。
 利子率が強度の高さに達するのは恐慌中のことであって、そのときには支払をするためにはどんなに高くかかっても借りなければならない。これは同時に、というのは利子の上昇には有価証券価格の下落が対応するからであるが、処分可能な貨幣資本をもっている人々にとっては利子つき証券を捨て値で手に入れる絶好の機会なのであって、このような証券は、事態が通例の経過をとる場合には、利子率が再び下がればすぐにまた少なくともその平均価格には達するにちがいないのである。
 しかしまた、利子率が利潤率の変動にはまったくかかわりなしに低落する傾向もある。そして、次のような二つの主要な原因がある。
   1 「生産的投下のためよりほかには資本が借り入れられることはないと想定しても、なお、総利潤の率にはなんの変動もないのに利子率が変動するということもありうる。なぜならば、ある一つの国民がますます富を発展させるにつれて、自分たちの父祖の労働によって財源を与えられてただその利子だけで生活ができるような人々の一階級が発生し、しかもますますそれが大きくなるからである。・・・・・それゆえ、古くて豊かな国々では、新しくできた貧しい国々でよりも、国民資本のうち所有者が自分で充用しようとしない部分が、社会の総生産資本にたいしてより大きい割合をなしているのである。イギリスでは金利生活者の階級の人数がなんと多いではないか!金利生活者の階級が大きくなるにつれて、資本を貸す人々の階級も大きくなる。というのは、この二つの階級は同じものだからである。」(ラムジ『富の分配に関する一論』、201、202ページ。)
   2 信用制度が発達するということ、また、それにつれて社会のあらゆる階級のあらゆる貨幣貯蓄を産業資本家や商人が銀行業者の媒介によってますます多く利用できるようになるということ、また、この貯蓄の集積が進んで、それが貨幣資本として働くことができるような量になるということ、これらのこともやはり利子率を圧迫せざるをえない。これについては詳しくはもっとあとで述べることにする。

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 利子の平均率を見いだすためには、(1)大きな産業循環のなかでの利子率の諸変動をつうじてその平均を計算しなければならない。(2)資本がかなり長い期間にわたって貸し出される投資部面での利子率を計算しなければならない。
 一国で支配的な利子の平均率――絶えず変動する市場率とは区別されたものとしての――は、どんな法則によっても全然規定することのできないものである。この仕方では利子の自然的な率というものは存在しない。つまり、経済学者たちが自然的利潤率とか労賃の自然的な率とか言うような意味では、存在しない。

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これまでに述べたことによって、「自然的な」利子率というものがないということは明らかである。しかし、一方では、絶えず変動する利子の市場率とは区別される中位の利子率または利子の平均率は、一般的利潤率とは反対に、その限界をどんな一般的法則によっても確定できないものである。というのは、問題はただ総利潤を二人の資本所有者のあいだに違った名目で分けることだけだからであるが、逆に利子率のほうは、中位の利子率であろうとそのつどの市場率であろうと、一般的利潤率の場合とはまったく違って、一つの一様な、確定された、一見して明らかな大きさとして現われるのである。
 利子率と利潤率との関係は、商品の市場価格と商品の価値との関係に似ている。利子率が利潤率によって規定されているかぎりでは、それはつねに一般的利潤率によって規定されているのであって、特殊な産業部門で行なわれているかもしれない独自な利潤率によって規定されているのではなく、まして個別資本家が特殊な事業部面であげるかもしれない特別利潤によって規定されているのではなおさらない。それだから、一般的利潤率は事実上平均利子率において経験的な与えられた事実として再現するのである。といっても、後者はけっして前者の純粋または確実な表現ではないのであるが。

P458L5
 中位の利子率は、どの国でも、いくらか長い期間については、不変の大きさとして現われる。なぜならば、一般的利潤率は――特殊な諸利潤率の不断の変動にもかかわらず、といっても一部面での変動は他の部面での反対と相殺されるのではあるが――ただかなり長い期間に変動するだけだからである。そして、一般的利潤率の相対的な不変性がちょうどこの中位の利子率(average rate or common rate of interest)の多少とも不変な性格に現われるのである。
 しかし、絶えず動揺する利子の市場率について言えば、それは、商品の市場価格と同様に、各瞬間に固定的な大きさとして与えられている。なぜならば、貨幣市場ではすべての貸付可能な資本がつねに総量として機能資本に対立しており、したがって、一方では貸付可能な資本の供給の割合、他方ではそれにたいする需要が、そのつどの利子の市場水準を決定するからである。ますますそういうことになってくるのは、信用制度の発達とそれに伴うその集中とが貸付可能な資本に一般的社会的性格を与えるようになり、それを一度に同時に貨幣市場に投ずるようになるからである。これに反して、一般的利潤率はいつでもただ傾向として、いろいろな特殊な利潤率の均等化の運動として、存在するだけである。資本家たちの競争――この競争そのものがこの均等化運動である――とは、ここでは、利潤がかなり長いあいだ平均よりも低い部面からは資本家たちがだんだん資本を引きあげていって、利潤が平均よりも高い部面にやはりだんだんに資本を投じて行くということである。あるいはまた、追加資本がこれらの部面のあいだに配分される割合がだんだん違ってくるということである。それは、これらのいろいろな部面にたいしての資本の供給と引きあげとの不断の変動であって、けっして利子率の決定の場合のような同時的な大量作用ではないのである。

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 このような利子率と利潤率との相違を強調するにあたっては、われわれ自身、利子率の固定化を助ける次のような二つの事情を見視しているのである。すなわち、(1)利子生み資本の歴史的先在と、伝統的に受け継がれた一般的利子率の存在、(2)世界市場が一国の生産条件にはかかわりなく利子率の確定に及ぼす直接的影響は、それが利潤率に及ぼす影響に比べてずっと大きいということ、の二つである。
 平均利潤は、直接に与えられた事実として、現われないで、それは、研究によってはじめて確定されるべき、反対の方向への諸変動の平均の最後の結果として、現われる。利子率はそうではない。利子率は、少なくともある地域内で一般的に通用するものとしては毎日確定されている事実であり、産業資本や商業資本の操作では計算上の前提および項目として役だちさえもする事実である。2%とか3%とか4%とか5%とかをあげるということは、100ポンドという貨幣額のどれでもがもつ一般的な能力になるのである。気象報告が気圧計や温度計の示度を記録する正確さも、取引所報告が、あれこれの資本についてではなく貨幣市場にある資本すなわち貸付可能な資本について利子率の高さを記録する正確さの上には出ないのである。

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・・・・・この利子率は、その大きさから見ればたしかに変動しはするが、しかし、それがすべての借り手にとって一様に変動するということによって、借り手にはつねに固定した与えられたものとして相対するのである。それは、ちょうど、貨幣の価値変動が、すべての商品にたいして貨幣が同じ価値をもっていることを妨げないようなものである。また、ちょうど、商品の市場価格が毎日変動しても、それは市場価格が日々の価格表に記されることを妨げないようなものである。利子率もまったく同様であって、利子率もやはり規則正しく「貨幣の価格」として記録されるのである。なぜならば、ここでは貨幣形態にある資本そのものが商品として供給されるからであり、したがってその価格の確定は他のすべての商品の場合と同様にその市場価格の確定だからであり、したがって利子率はつねに一般的利子率として、どれだけの貨幣に対してどれだけとして、量的に規定されたものとして、現われるからである。これとは反対に、利潤率は、同じ部面のなかでも、また商品の市場価格が同じでも、個々の資本が同じ商品を生産する条件が違うにしたがって、違っていることがありうる。なぜならば、個別資本にとっての利潤率は、商品の市場価格によって規定されるのではなく、市場価格と費用価格との差額によって規定されるのだからである。そして、これらのいろいろに違った利潤率は、まず第一に同じ部面のなかで、それから次にはいろいろな部面そのもののあいだで、ただ不断の変動によってのみ平均化されることができるのである。

 第二三章 利子と企業者利得
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 利子は、われわれがすぐ前の二つの章で見たように、機能資本家としての産業資本家や商人が、自分の資本ではなく借り入れた資本を充用するかぎり、この資本の所有者であり貸し手である人に支払わなければならないところの、利潤すなわち剰余価値の一部分にほかならないものとして元来は現われるのであり、元来はそれにほかならないのであり、また現実にもやはりそれにほかならないのである。もし彼がただ自分の資本だけを充用するならば、このような利潤の分割は起きないのであって、利潤はすべて彼のものである。じっさい、資本の所有者たちが自分で資本を再生産過程で充用するかぎり、彼らは利子率の決定の競争には加わらないのであって、すでにこの点にも、利子という範疇――これは利子率の規定なしにはありえない――が産業資本自体の運動にとっても外的なものだということが現われているのである。
 じっさい、ただ、資本家が貨幣資本家と産業資本家とに分かれるということだけが、利潤の一部分を利子に転化させ、およそ利子という範疇をつくりだすのである。そして、ただこの二つの種類の資本家のあいだの競争だけが利子率をつくりだすのである。

P466L17
・・・・・貨幣資本家と生産的資本家とが、単に法律上別な人としてだけではなく、再生産過程でまったく違った役割を演ずる人として、または、その手のなかで同じ資本が現実に二重のまったく違った運動を行なう人として、現実に相対しているという想定から出発しなければならない。一方は資本を貸すだけであり、他方はそれを生産的に充用するのである。
 借りた資本で事業をする生産的資本家にとっては、総利潤は二つの部分に分かれる。すなわち、彼が貸し手に支払わなければならない利子と、利子を越える超過分で利潤中の彼自身の分けまえをなすものとに分かれる。一般的利潤率が与えられていれば、このあとのほうの部分は利子率によって規定されている。利子率が与えられていれば、一般的利潤率によって規定されている。さらにまた、総利潤、つまり利潤総額の現実の価値量が各個の場合にどれだけ平均利潤からかたよろうとも、機能資本家のものになる部分は利子によって規定されている。なぜならば、利子は(特別な法的な取決めを別とすれば)一般的利子率によって規定されていて、生産過程が始まる前から、したがって生産過程の結果である総利潤が得られる前から、先取りされるものとして前提されているからである。・・・・・
 こうして、借り入れた資本で事業をするかぎりでの産業資本家にとっても、自分の資本を自分では充用しないかぎりでの貨幣資本家にとっても、同じ資本にたいして、したがってまたその資本によって生みだされる利潤にたいして別々の請求権をもつ二人の違った人のあいだでの総利潤の単に量的な分割が、質的な分割に変わるのである。利潤の一方の部分は、今では、一つの規定における資本にそれ自体として帰属する果実として、利子として、現われ、他方の部分は、反対の一規定における資本の独自な果実として、したがって企業者利得として、現われる。・・・・・
 こうして、利子は確立されるものであって、それはもはや、ただ産業資本家が他人の資本で事業をする場合にたまたま起きる、生産には無関係な、総利潤の分割としては現われないようになる。産業資本家が自分の資本で事業をする場合でも、彼の利潤は利子と企業者利得とに分かれる。こうして、単に量的な分割が質的な分割になる。この分割は、産業資本家が彼の資本の所有者であるか非所有者であるかという偶然的な事情にはかかわりなしに行なわれる。それは、ただいろいろな人々に分配される利潤の分けまえであるだけではなく、利潤の二つの違った範疇なのであって、この二つの範疇はそれぞれ資本にたいして違った関係にあるのであり、つまり資本の別々の規定性に関係しているのである。
 そこで、このような利子と企業者利得とへの総利潤の分割がひとたび質的な分割になってしまえば、なぜそれは総資本にとっても総資本家階級にとってもこのような質的な分割という性格を受け取るのかという理由は、今では非常に簡単に明らかになる。
 第一に、このことはすでに次のような簡単な経験的な事情からも出てくる。すなわち、産業資本家の多数は、たとえいろいろに違う割合でではあるにしても、自己資本と借入資本との両方で事業をするという事情、また、自己資本と借入資本との割合は時期によって変動するという事情がそれである。
 第二に、総利潤の一部分が利子という形態に転化することが、総利潤の他の部分を企業者利得に転化させるのである。この企業者利得は、じっさい、ただ、利子が独自な範疇として存在するようになるときに総利潤のうち利子を越える超過分がとるところの対立的な形態でしかないのである。どのようにして総利潤は利子と企業者利得とに分化するかという全研究は、簡単に、どのようにして総利潤の一部分は一般的に利子として骨化し独立するかという研究になってしまうのである。ところで、歴史的には、資本主義的生産様式とそれに対応する資本や利潤の観念が存在するよりもずっと前から、利子生み資本は完成した伝来の形態として存在し、したがってまた利子も資本が生みだした剰余価値の完成した下位形態として存在する。それだからこそ、今なお普通の観念では貨幣資本、利子生み資本が、資本そのもの、すぐれた意味での資本とみなされるのである。・・・・・
 第三に、産業資本家が自分で事業をするか借りた資本で事業をするかということは、産業資本家に貨幣資本家の階級が特別な種類の資本家として対立し、貨幣資本が独立な資本種類として対立し、利子がこの独自な資本に対応する独立な剰余価値形態として対立するという事情を、少しも変えるものではない。
 量的に見れば、利潤のうち利子を形成する部分は、産業資本や商業資本そのものに関連してではなく貨幣資本に関連して現われるのであって、剰余価値のこの部分の率、すなわち利子率または利子歩合はこの関係を確立するのである。なぜならば、第一に、利子率は――一般的利潤率に依存するにもかかわらず――独立に規定されるからであり、また第二に、利子率は、商品の市場価格と同様に、捕捉できない利潤率とは反対に、あらゆる変動にもかかわらず確定した、一様な、明白な、つねに与えられている割合として現われるからである。もしいっさいの資本が産業資本家の手中にあるのならば、利子も利子率も存在しないであろう。総利潤の量的な分割がとる独立な形態が、質的な分割を生みだすのである。・・・・・これよりももっとひどく無意味なのは、資本主義的生産様式の基礎の上では、資本は、生産資本として機能しなくても、すなわち利子が単にその一部分でしかない剰余価値を創造しなくても、利子を生むはずだということ、つまり、資本主義的生産様式は資本主義的生産がなくても進行するはずだということである。もし資本家のむやみに大きい部分が自分の資本を貨幣資本に転化させようとするならば、その結果は、貨幣資本のひどい減価と利子率のひどい低落とであろう。たくさんの資本家たちがたちまち利子で食ってゆくことができないようにされ、したがって産業資本家に逆もどりせざるをえなくなるであろう。しかし、いま述べたように、個別資本家にとってはこれは事実である。それゆえ、必然的に彼は、自分の資本で事業をする場合でも、自分の平均利潤のうち平均利子に等しい部分を、生産過程を無視して、自分の資本そのものの果実とみなすのであり、また、利子として独立させられたこの部分に対立させて、総利潤のうち利子を越える超過分を単なる企業者利得とみなすのである。
 第四に。{原稿では空白。}

P475L5
・・・・・だから、利子は、ただ、価値一般――一般的社会形態にある対象化された労働――が、現実の生産過程で生産手段の姿をとる価値が、独立な力として、生きている労働力に対立しており、不払労働を収得するための手段となっているということの表現でしかないのであり、また、価値がこのような力であるのは価値が他人の所有として労働者に対立しているからだ、ということの表現でしかないのである。とはいえ、他方、利子という形態では、賃労働にたいするこのような対立は消えてしまっている。なぜならば、利子生み資本そのものが自分の対立物としているのは、賃労働ではなく、機能資本だからである。貸付資本家そのものが直接に対立しているのは、再生産過程で現実に機能している資本家であって、まさにこの資本主義的生産に基礎の上では生産手段を取り上げられている賃金労働者ではないからである。利子生み資本は、機能としての資本にたいして、所有としての資本である。ところが、資本は、それが機能しないかぎり、労働者を搾取せず、労働に対立しないのである。
 他方、企業者利得は、賃労働にたいして対立物をなしているのではなく、ただ利子にたいして対立物をなしているだけである。
 第一に。平均利潤を与えられたものとして前提すれば、企業者利得の率は、労賃によってではなく利子率によって規定されている。その高低は利子率に反比例する。
 第二に。機能資本家は、企業者利得にたいする自分の請求権を、したがってまた企業者利得そのものを、自分の資本所有から引き出すのではなく、資本がただ怠惰な所有として存在している場合のその規定性に対立する資本の機能から引き出すのである。・・・・・
 そこで、彼の頭のなかでは必然的に次のような観念が発達してくる。彼の企業者利得は――けっして賃労働にたいしてなんらかの対立をなしていてただ他人の不払労働でしかないというようなものではなく――むしろそれ自身労賃であり、監督賃金であり、労働にたいする賃金[wages of superintendence of labour]であり、普通の賃金労働者よりも高い賃金である。なぜ高いかといえば、(1)その労働が複雑労働だからであり、(2)彼は自分自身に労賃を払うのだからである。彼の資本家としての機能は、剰余価値すなわち不払労働をしかも最も経済的な諸条件のもとで生産することにあるということは、完全に忘れられる。それが忘れられるのは、資本が資本家としての機能をなにもしないで単なる資本所有者である場合にも利子は資本家のものになるのに、反対に企業者利得はたとえ機能資本家が自分が機能するための資本の非所有者であっても彼のものになる、という対立のためである。利潤がつまり剰余価値が分かれる二つの部分の対立的な形態のために、両方とも剰余価値の部分でしかないということが忘れられ、また、剰余価値の分割は剰余価値の性質やその起源やその存在条件を少しも変えることはできないということが忘れられるのである。・・・・・利子は企業者利得に対立し、企業者利得は利子に対立し、つまり両者は互いに対立し合っているが、しかし、労働には対立していないということからは、次のことが出てくる。――企業者利得・プラス・利子・、すなわち利潤は、さらには剰余価値は、なににもとづいているのか?それの二つの部分の対立的形態にだ!ところが、利潤は、それのこのような分割が行なわれる前に、また、このような分割が問題になることができる前に、生産されるのである。

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 労働の監督賃金としての企業者利得の観念は利子にたいする企業者利得の対立から生ずるのであるが、この観念はそれ以上の根拠を次のことのうちに見いだすのである。すなわち、実際に利潤の一部分は労賃として区分されることができるし、また現実に区分されてもいるということ、またむしろ逆に、労賃の一部分は資本主義的生産様式の基礎の上では利潤の不可欠な成分として現われるということがそれである。この部分は、すでにアダム・スミスが正しく見つけだしたように、その規模などが管理者に特別な労賃を与えるのに十分な分業を許すような事業部門の管理者の俸給において、純粋に、独立に、そして一方では利潤(利子と企業者利得との合計としての)から完全に分離され、他方では利潤から利子をひき去ったあとにいわゆる企業者利得として残る部分からも完全に分離されて、現われるのである。
 監督や指揮の労働は、直接的生産過程が社会的に結合された過程の姿をとっていて独立生産者たちの孤立した労働としては現われない場合には、どこでも必ず発生する。しかし、この労働は二重の性質のものである。
 一面では、およそ多数の個人の協力によって行なわれる労働では、必然的に過程の関連と統一とは一つの指揮する意志に表わされ、また、ちょうどオーケストラの指揮者の場合のように、部分労働に関するのではなく作業場の総活動に関する諸機能に表わされる。それは、どんな結合的生産様式でも行なわれなければならない生産的労働である。
 他面では――商業的部門はまったく別として――このような監督労働は、直接生産者としての労働者と生産手段の所有者との対立にもとづくすべての生産様式のもとで、必然的に発生する。この対立が大きければ大きいほど、それだけにこの監督労働が演ずる役割は大きい。それゆえ、それは奴隷制度のもとでその最高限に達する。しかし、それは資本主義的生産様式でも欠くことのできないものである。なぜならば、この生産様式では生産過程は同時に資本家による労働力の消費過程だからである。それは、ちょうど、専制国家では政府が行なう監督や全面的干渉の労働が二つのものを、すなわちすべての共同体の性質から生ずる共同事務の遂行と、民衆にたいする政府の対立から生ずる独自な諸機能との両方を、包括しているようなものである。

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・・・・・貨幣資本家にたいしては産業資本家は労働者ではあるが、しかし、資本家としての、すなわち他人の労働の搾取者としての、労働者なのである。この労働の代償として彼が要求し収得する賃金は、収得した他人の労働の量と同じであり、また、彼が搾取に必要な骨折りを自分で引き受けるかぎりでは、直接にこの労働の搾取度によって定まるのであって、この搾取のために彼にとって必要な努力、そして彼が適当な支払と引き換えに管理者に転嫁することができる努力の程度によって定まるのではない。



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