P458L5 中位の利子率は、どの国でも、いくらか長い期間については、不変の大きさとして現われる。なぜならば、一般的利潤率は――特殊な諸利潤率の不断の変動にもかかわらず、といっても一部面での変動は他の部面での反対と相殺されるのではあるが――ただかなり長い期間に変動するだけだからである。そして、一般的利潤率の相対的な不変性がちょうどこの中位の利子率(average rate or common rate of interest)の多少とも不変な性格に現われるのである。 しかし、絶えず動揺する利子の市場率について言えば、それは、商品の市場価格と同様に、各瞬間に固定的な大きさとして与えられている。なぜならば、貨幣市場ではすべての貸付可能な資本がつねに総量として機能資本に対立しており、したがって、一方では貸付可能な資本の供給の割合、他方ではそれにたいする需要が、そのつどの利子の市場水準を決定するからである。ますますそういうことになってくるのは、信用制度の発達とそれに伴うその集中とが貸付可能な資本に一般的社会的性格を与えるようになり、それを一度に同時に貨幣市場に投ずるようになるからである。これに反して、一般的利潤率はいつでもただ傾向として、いろいろな特殊な利潤率の均等化の運動として、存在するだけである。資本家たちの競争――この競争そのものがこの均等化運動である――とは、ここでは、利潤がかなり長いあいだ平均よりも低い部面からは資本家たちがだんだん資本を引きあげていって、利潤が平均よりも高い部面にやはりだんだんに資本を投じて行くということである。あるいはまた、追加資本がこれらの部面のあいだに配分される割合がだんだん違ってくるということである。それは、これらのいろいろな部面にたいしての資本の供給と引きあげとの不断の変動であって、けっして利子率の決定の場合のような同時的な大量作用ではないのである。
P475L5 ・・・・・だから、利子は、ただ、価値一般――一般的社会形態にある対象化された労働――が、現実の生産過程で生産手段の姿をとる価値が、独立な力として、生きている労働力に対立しており、不払労働を収得するための手段となっているということの表現でしかないのであり、また、価値がこのような力であるのは価値が他人の所有として労働者に対立しているからだ、ということの表現でしかないのである。とはいえ、他方、利子という形態では、賃労働にたいするこのような対立は消えてしまっている。なぜならば、利子生み資本そのものが自分の対立物としているのは、賃労働ではなく、機能資本だからである。貸付資本家そのものが直接に対立しているのは、再生産過程で現実に機能している資本家であって、まさにこの資本主義的生産に基礎の上では生産手段を取り上げられている賃金労働者ではないからである。利子生み資本は、機能としての資本にたいして、所有としての資本である。ところが、資本は、それが機能しないかぎり、労働者を搾取せず、労働に対立しないのである。 他方、企業者利得は、賃労働にたいして対立物をなしているのではなく、ただ利子にたいして対立物をなしているだけである。 第一に。平均利潤を与えられたものとして前提すれば、企業者利得の率は、労賃によってではなく利子率によって規定されている。その高低は利子率に反比例する。 第二に。機能資本家は、企業者利得にたいする自分の請求権を、したがってまた企業者利得そのものを、自分の資本所有から引き出すのではなく、資本がただ怠惰な所有として存在している場合のその規定性に対立する資本の機能から引き出すのである。・・・・・ そこで、彼の頭のなかでは必然的に次のような観念が発達してくる。彼の企業者利得は――けっして賃労働にたいしてなんらかの対立をなしていてただ他人の不払労働でしかないというようなものではなく――むしろそれ自身労賃であり、監督賃金であり、労働にたいする賃金[wages of superintendence of labour]であり、普通の賃金労働者よりも高い賃金である。なぜ高いかといえば、(1)その労働が複雑労働だからであり、(2)彼は自分自身に労賃を払うのだからである。彼の資本家としての機能は、剰余価値すなわち不払労働をしかも最も経済的な諸条件のもとで生産することにあるということは、完全に忘れられる。それが忘れられるのは、資本が資本家としての機能をなにもしないで単なる資本所有者である場合にも利子は資本家のものになるのに、反対に企業者利得はたとえ機能資本家が自分が機能するための資本の非所有者であっても彼のものになる、という対立のためである。利潤がつまり剰余価値が分かれる二つの部分の対立的な形態のために、両方とも剰余価値の部分でしかないということが忘れられ、また、剰余価値の分割は剰余価値の性質やその起源やその存在条件を少しも変えることはできないということが忘れられるのである。・・・・・利子は企業者利得に対立し、企業者利得は利子に対立し、つまり両者は互いに対立し合っているが、しかし、労働には対立していないということからは、次のことが出てくる。――企業者利得・プラス・利子・、すなわち利潤は、さらには剰余価値は、なににもとづいているのか?それの二つの部分の対立的形態にだ!ところが、利潤は、それのこのような分割が行なわれる前に、また、このような分割が問題になることができる前に、生産されるのである。