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元MONOZUKIマスターの独白
第五篇第二九章~三一章
P593
次には、銀行資本がなにから成っているかをもっと詳しく考察しなければならない。
・・・・・
しかし、われわれがもっとあとの研究で明らかにするように、ここでは貨幣資本が、利子生み資本という意味でのmoneyed capital と混同されているのであって、前のほうの意味では貨幣資本はつねにただ、資本の他の諸形態すなわち商品資本や生産資本から区別されたものとしての、資本の一つの通過形態でしかないのである。
銀行資本は、(1)現金、すなわち金または銀行券と、(2)有価証券とから成っている。有価証券はさらに二つの部分に分けることができる。一方は商業証券、手形であって、これは流動的で次々に満期になって行くもので、その割引が銀行業者の本来の業務とされるものである。他方は、公的有価証券、たとえば国際証券や国庫証券、各種の株式であり、要するに利子付証券ではあるが、手形とは本質的に区別されるものである。不動産抵当証券もこれに数えることができる。これらの物的成分から構成されている資本は、さらに銀行業者自身の投下資本と預金とに分かれ、この預金は彼の銀行営業資本[banking capital]または借入資本をなしている。発券銀行の場合にはさらに銀行券が加わる。・・・・・
利子生み資本という形態に伴って、確定した規則的な貨幣収入は、それが資本から生ずるものであろうとなかろうと、すべて資本の利子として現われることになる。まず貨幣収入が利子に転化させられ、次に利子といっしょに、その利子の源泉となる資本も見いだされるのである。同様に、利子生み資本とともに、どの価値額も、収入として支出されさえしなければ、資本として現われる。すなわち、その価値額を生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して元金[principal]として現われるのである。
P595L5
国は借り入れた資本にたいしていくらかの額の利子を年々自分の債権者に支払わなければならない。この場合には債権者は、自分の債務者に解約を通告することはできず、ただ債権を、それにたいする自分の占有権を、売ることができるだけである。資本そのものは、国によって食い尽くされ、支出されている。それはもはや存在しない。国の債権者がもっているものは、(1)たとえば100ポンドというような、国の債務証書である。(2)この債務証書は債権者に、国の歳入すなわち年間租税収入にたいするいくらかの金額たとえば5ポンドまたは5%の請求権を与える。(3)彼はこの100ポンドの債務証書を任意に他の人々に売ることができる。利子率が5%で、そのための国の保証が前提されていれば、所有者Aはこの債務証書を通例100ポンドでBに売ることができる。なぜならば、Bにとっては、100ポンドを年5%で貸し出しても、100ポンドの支払によって国家から5ポンドという額の年貢を確保しても、同じことだからである。しかし、すべてこれらの場合には、国による支払がその子(利子)とみなされる資本は、やはり幻想であり、架空資本である。・・・・・このような取引はまだ何度でも繰り返されるかもしれないが、国債という資本は相変わらず純粋に架空的な資本なのであって、この債務証書が売れないものになった瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう。それにもかかわらず、すぐ次に見るように、この架空資本はそれ自身の運動をもっているのである。・・・・・
債務証書――有価証券――が国債の場合のように純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも、この証券の資本価値は純粋に幻想的である。前に見たように、信用制度は結合資本を生みだす。証券は、この資本を表わす所有証書とみなされる。鉄道や鉱山や水運などの会社の株式は、現実の資本を表わしている。すなわち、これらの企業に投下されて機能している資本、またはこのような企業で資本として支出されるために株主によって前貸しされている貨幣額を表わしている。とはいえ、それらの株式がただの搾取を表わしているということも、けっして排除されているわけではない。しかし、この資本は二重に存在するのではない。すなわち、一度は所有権の、株式の、資本価地として存在し、もう一度は前記のような諸企業に現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただあとのほうの形態で存在するだけであって、株式は、この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする按分比例的な所有権にほかならないのである。Aはこの権利をBに売り、それをまたBはCに売るかもしれない。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合、AやBは自分がもっている権利を資本に転化させたのであるが、Cは自分の資本を、株式資本から期待される剰余価値にたいする単なる所有権に転化させたのである。
P598L8
国債証券だけではなく株式をも含めてこのような所有権の価値の独立な運動は、この所有権が、おそらくそれがもとづいているであろう資本または請求権のほかに、現実の資本を形成しているかのような外観を確定する。すなわち、このような所有権は、その価格が独立な運動をし独特な定まり方をする商品になるのである。その市場価値は、現実の資本の価値が変化しなくても(といってもその価値増殖は変化するかもしれないが)、その名目価値とは違った規定を与えられる。一方では、その市場価値は、その権利名義によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。・・・・・
これらの証権の減価または増価が、これらの証券が表わしている現実の資本の価値運動にかかわりのないものであるかぎり、一国の富の大きさは、減価または増価の前もあともまったく同じである。
これらの証券の減価が、生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか、着手した企業の中止とか、実際に無価値な企業への資本の投げ捨てとかを表わすものでなかったかぎり、この国は、このような名目的な貨幣資本のしゃぼん玉の破裂によっては一文も貧しくならなかったのである。
すべてこれらの証券は、実際には、将来の生産にたいする蓄積された請求権・権利名儀のほかにはなにも表わしてはいないのであって、この権利名義の貨幣価値または資本価値は、国債の場合のようにまったくどんな資本も表わしていないか、または、それが表わしている現実の資本の価値とは無関係に規制されるのである。
すべて資本主義的生産の国には、このような形態で巨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed capitalが存在している。そして、貨幣資本の蓄積というものの大きな部分は、生産にたいするこのような請求権の蓄積のほかには、すなわちこのような請求権の市場価格の蓄積、その幻想的な資本価値の蓄積のほかには、なにも意味しないのである。
P600L14
ところで、銀行業者資本の一部分はこのいわゆる利子付証券に投下されている。この証券そのものは、現実の銀行業務では機能していない準備資本の一部分である。その最大の部分は、手形、すなわち産業資本家や商人の支払約束から成っている。貨幣の貸し手にとっては、この手形は利子付証券である。すなわち、彼がそれを買うときには、満期までの期間の利子をひき去るのである。これが割引と呼ばれるものである。だから、手形が表わしている金額からどれだけが引き去られるかは、そのときの利子率によって定まるのである。――
最後に、銀行業者の資本の最後の部分をなすものは、金または銀行券から成っている彼の貨幣準備である。預金は、契約によって比較的長期間にわたるものとして約定されないかぎり、いつでも預金者が自由に処分できるものである。それは絶えず増減している。しかし、ある人がそれを引き出せば他の人がそれを補充するので、営業状態が正常なときには一般的な平均額はあまり変動しないのである。
銀行の準備金は、資本主義的生産が発達している国では、つねに平均的には、蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表わしているのであって、この蓄蔵貨幣の一部分は、それ自身また証券から成っている。すなわち、金にたいする単なる支払指図券であってけっして自己価値ではない証券から成っている。それゆえ、銀行業者資本の最大の部分は、純粋に架空なものであって、債権や(手形)国債証券(過去の資本を表わしているもの)や株式(将来の収益にたいする支払指図券)から成っているのである。この場合次のことを忘れてはならない。すなわち、銀行業者の鋼鉄製の金庫のなかでこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値は、その証券が確実な収益にたいする支払指図券(国債証券の場合のように)であるか、または現実の資本の所有証書(株式のように)である場合でさえも、まったく架空なものであって、少なくとも一部分はこれらの証券によって表わされている現実の資本の価値からはかたよって規制されるということ、あるいはまた、これらの証券に表わされているものが単なる収益請求権であって資本ではない場合には、同じ収益にたいする請求権が、絶えず変動する架空な貨幣資本で表現されるということである。そのうえに、この架空な銀行業者資本の大部分は、銀行業者の資本を表わしているのではなく、利子がつくかどうかにかかわらずその銀行業者のもとに預金している公衆の資本を表わしているということが加わる。・・・・・
利子生み資本や信用制度の発展につれて、同じ資本が、または同じ債権でしかないものさえが、いろいろな人手のなかでいろいろな形で現われるいろいろに違った仕方によって、すべての資本が二倍になるように見え、また場合によっては三倍になるようにも見える。この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空的である。すべての預金が、準備金を除けば、銀行業者への貸し金にほかならないのであるが、その貸し金はけっして預託現金として存在するのではない。預金が振替取引に役だつかぎりでは、それは、銀行業者によって貸し出されてからも、彼らにとって資本として機能する。彼らは、これらの貸し金の差引計算によって、存在しない預金にたいする相互の支払指図券を互いに支払い合うのである。
第三十章 貨幣資本と現実資本1
P609L1
信用制度に関してこれからわれわれが近づいてゆく無類に困難な問題は、次のような問題である。
第一に、本来の貨幣資本の蓄積。これはどの程度まで現実の資本蓄積の、すなわち拡大された規模での再生産の、指標であるのか、またどの程度までそうでないのか?いわゆる資本の過多、いつでもただ利子生み資本すなわち貨幣資本だけに用いられるこの表現は、ただ、産業上の特殊な表現でしかないのか、それとも、それとは別に一つの特別な現象をなしているのか?貨幣資本のこの過多、この供給過剰は、停滞している貨幣量(現金、金貨幣、銀行券)の現存と一致しており、したがって、この現実の貨幣の過剰は、あの貸付資本の過多の表現であり現象形態であるのか?
そして、第二に、貨幣逼迫すなわち貸付資本の欠乏は、どの程度まで現実資本(商品資本と生産資本)の欠乏を表わしているのか?それは、他方、どの程度まで貨幣そのものの欠乏、流通手段の欠乏と一致するのか?
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いろいろな会社事業、鉄道や鉱山などにたいする所有権は、やはりすでに見たように、たしかに事実上は現実資本にたいする権利である。とはいえ、それはこの資本にたいする自由処分力を与えるものではない。この現実資本を引きあげることはできない。その所有権は、ただ、この現実資本によって獲得されるべき剰余価値の一部分にたいする請求権を与えるだけである。ところが、この権利が現実資本の紙製の複製になるのであって、それは、ちょうど積荷証券が積荷とは別に、また積荷と同時に、ある価値を与えられるようなものである。それは、存在しない資本の名目的代表物になるのである。なぜならば、現実資本はそれとは別に存在していて、この複製品が持ち手を取り替えることによってはけっして持ち手を取り替えないからである。
P612L6
当面の問題を狭い限界のなかに引きもどして言えば、国債も株式やその他の有価証券も、貸付可能な資本、すなわち利子を生むように予定されている資本にとっての投下部面である。これらの有価証券は、この資本を貸し出す形態である。しかし、それら自身が、それらの形態で投下される貸付資本なのではない。他方、信用が再生産過程で直接的役割を演ずるかぎりでは、産業家や商人が手形割引や貸付を受けたいと思うとき、彼が必要とするものは、株式でも国債証券でもない。彼が必要とするものは、貨幣である。だから、彼は、ほかの方法で貨幣を調達することができなければ、それらの有価証券を質に入れるとか売るとかするのである。この貸付資本の蓄積こそは、われわれがここで取り扱わなければならないものであり、しかもそれは特に貸付可能な貨幣資本の蓄積である。ここで問題にするのは、家屋や機械やその他の固定資本の貸付ではない。また、産業家や商人が彼らどうしのあいだで商品の形で再生産過程の循環のなかで与え合う前貸しでもない。といっても、われわれはこの点もあらかじめもっと詳しく研究しなければならないのであるが、ここでは、ただ、媒介者としての銀行業者によって産業家や商人に与えられる貨幣貸付だけを問題にするのである。
――――――――――
そこで、第一に、商業信用、すなわち再生産に携わっている資本家たちが互いに与え合う信用を分析してみよう。この信用は信用制度の基礎をなしている。この信用を代表するものは、手形、すなわち確定支払期限のある債務証書、延払証券[document of deferred payment]である。・・・・・
ところで、この純粋な商業信用の循環については、二つのことを言っておかなければならない。
第一に、このような相互の債券の決済は、資本の還流にかかっている。すなわち、ただ延期されただけのW-Gにかかっている。紡績業者が綿布製造業者から手形を受け取ったとすれば、綿布製造業者がその支払をすることができるのは、彼が市場に出している綿布がそのあいだに売れているときのことである。穀物相場師が取引相手の仲買人あてに手形を振り出したとすれば、仲買人が貨幣を支払うことができるのは、やがて穀物が予想通りの価格で売れたときのことである。つまり、これらの支払は、再生産すなわち生産・消費過程の流動性にかかっているのである。しかし、信用は相互的だから、各人の支払能力は同時に他の支払能力にかかっている。・・・・・還流の見込みを別とすれば、支払は、ただ、手形振出人が還流の遅れたときに自分の債務を履行するために処分できる準備資本によってのみ、可能になることができるのである。
第二に、この信用制度は、現金支払の必要をなくしてしまうものではない。まず、支出の大きな一部分、労賃や租税などは、いつでも現金で支払わなければならない。次にまた、たとえば、Cから手形で支払を受けたBは、この手形が満期になる前に自分自身がDに満期手形の支払をしなければならないとすれば、そのためには彼は現金をもっていなければならない。前に綿花栽培者から綿糸紡績業者まで行きまたその反対の道をたどるものとして前提されたような、再生産の完全な循環は、一つの例外でしかありえないのであって、つねに多くの個所で中断されざるをえないのである。・・・・・たとえば、織物業者にたいする紡績業者の債権は、機械製造業者にたいする石炭供給業者の債権によっては決済されない。紡績業者は自分の事業では機械製造業者に対する反対債権をもつことはない。なぜならば、彼の生産物である綿糸はけっして機械製造業者の再生産過程にその要素としてはいらないからである。それゆえ、このような債権は貨幣によって決済されなければならないのである。
P615L1
商業信用にとっての限界は、それ自体として見れば、(1)産業家や商人の富、すなわち還流が遅れた場合の彼らの準備資本処分力であり、(2)この還流そのものである。この還流は時間的に遅れるかもしれないし、そのあいだに商品の価格が下がるかもしれないし、また市場の停滞のために商品が一時売れなくなるかもしれない。手形が長期であればあるほど、まず第一に準備資本がそれだけ大きくなければならず、また価格の下落や市場の供給過剰による還流の減少または遅延の可能性がそれだけ大きくなる。さらに、もとの取引が商品価格の騰落をあてこんだ思惑によってひき起こされたのであれば、回収はますます不確実である。ところが、労働の生産力が発展し、したがってまた大規模生産が発展するにつれて、(1)市場が拡大されて生産地から遠くなり、(2)したがって信用が長期化されざるをえなくなり、したがってまた(3)思惑的要素がますます取引を支配するようにならざるをえないということは、明らかである。大規模で遠隔市場向けの生産は、すべての生産物を商業の手に投げ入れる。しかし、国の資本が倍になって、商業自身が自分の資本で全国の生産物を買い占めて再びそれを売ることができるようになるというようなことは、ありえない。だから、ここでは信用は不可欠である。信用は、量的には生産の価値量の増大につれて増大し、時間的には市場がますます遠くなるにつれて長くなる。ここでは相互作用が行なわれる。生産過程の発展は信用を拡大し、そして信用は産業や商業の操作の拡大に導くのである。・・・・・だから、この場合には二つの区切りを区分しなければならない。第一の区切りでは、信用は同じ物品の生産中に次々に現われる現実の諸段階を媒介する。第二の区切りでは、信用は、ただ、輸送も含めての一方の商人の手から別の商人の手への移行、つまりW-Gという行為を媒介するだけである。しかし、この第二の区切りでも商品は少なくとも絶えず流通行為のなかに、したがって再生産過程の一段階に、あるのである。
それだから、この場合に貸されるものは、けっして遊休資本ではなく、その所有者の手のなかでその形態を変えなければならない資本であり、その所有者にとっては単なる商品資本であるという形態で存在する資本、すなわち、再転化させられなければならない資本、しかも少なくともまず貨幣に転換されなければならない資本である。したがって、ここで信用によって媒介されるものは、商品の変態であり、単にW-Gだけではなく、またG-Wと現実の生産過程とでもある。再生産の循環のなかの信用――銀行業者信用は別として――が多いということは、貸付のために提供されていて有利な投下を求めている遊休資本が多いということではなくて、再生産過程で資本が大いに運用されているということである。だから、この場合に信用によって媒介されるものは、(1)産業資本家に関するかぎりでは、一つの段階から次の段階への産業資本の移行、互いに従属し合い接合している諸生産部面の関連であり、(2)商人に関するかぎりでは、商品が貨幣と引き換えに最終的に売られるかまたは他の商品と交換されるかするまでの、一つの手から別の手へのその商品の輸送と移行である。
P617L11
信用の最大限度は、この場合には、産業資本のいっぱいの運用、すなわち消費の限界を無視しての産業資本の再生産力の極度の緊張と同じである。この消費の限界は、再生産過程そのものの緊張によって拡張される。この緊張は一方では労働者や資本家による収入の消費を増大させるのであり、他方ではそれは生産的消費の緊張と同じなのである。
再生産過程が流動的であり、したがって還流が確実であるあいだは、この信用は持続するのであって、その膨張は再生産過程そのものの膨張にもとづいているのである。還流が遅れ、市場は供給過剰になり、価格は下落し、その結果として停滞が現われるならば、そこにはすでに産業資本の過剰がある。といっても、それは産業資本がその機能を果たすことができなくなるという形での過剰である。大量の商品資本があっても、それは売れない。大量の固定資本はあるが、再生産の停滞のために大部分は運転されていない。信用は収縮する。なぜならば、(1)この資本が運転されていないからである。すなわち、その変態をすませることができないために再生産の一つの段階に停滞しているからである。(2)再生産過程の流動性への信頼が破られているからである。(3)この商業信用にたいする需要が減るからである。紡績業者は、生産を制限しており大量の売れない在庫綿糸をもっているので、綿花を信用で買う必要はない。・・・・・恐慌の最中には、だれでも売るものをもっていながら売ることができず、しかも支払をするためには売らなければならないのだから、遊休していて投下を求めている資本量ではなく自分の再生産過程のなかでせき止められている資本の量は、まさに、信用欠乏もまた最大であるとき(したがってまた銀行業者信用では割引率が最高であるとき)にこそ、最大なのである。そのようなときには、すでに投下されている資本も実際には大量に遊休している。というのは、再生産過程が停滞しているからである。工場は休止し、原料は堆積し、完成生産物は商品として市場にあふれている。だから、このような状態を生産資本の過剰の欠乏のせいにすること以上にまちがったことはないのである。まさにこのようなときにこそ生産資本の過剰があるのである。すなわち、それは、一方では、正常な、といってもさしあたりは収縮している再生産規模から見て過剰なのであり、また一方では、麻痺している消費から見て過剰なのである。
P619L6
生産資本の現実の不足ということが言えるのは、少なくとも資本主義的に発展している国の場合には、ただ、主要な食料や最も重要な工業原料やの一般的な不作の場合だけである。
ところが、いま、この商業信用に本来の貨幣信用が加わる。産業家や商人どうしのあいだの前貸が、銀行業者や金貸業者から産業家や商人への貨幣前貸と混ぜ合わされる。・・・・・しかし、他面では、一部はただの融通手形やりくりによって、また一部はただ手形づくりを目的とする商品取引によって、全過程が非常に複雑にされるのであって、外観上はまだ非常に堅実な取引と順調な還流とが静かに続いているように見えても、じつはもうずっと前から還流はただ詐欺にかかった金貸業者とか同じく詐欺にかかった生産者とかの犠牲によって行なわれているだけだということにもなるのである。それだから、いつでも事業は、まさに破局の直前にこそ、ほとんど過度にまで健全に見えるのである。
P520L8
そこでまた貨幣資本の蓄積に帰ることにしよう。
貸付可能な貨幣資本の増加は、必ずしも現実の資本蓄積または再生産過程の拡張を示しているのではない。このことは、産業循環のなかでは恐慌を切り抜けた直後に貸付資本が大量に遊休している段階で最も明瞭に現われる。このような瞬間には、生産過程は縮小されており(イギリスの工業地帯の生産は1847年の恐慌のあとでは三分の一ほど減っていた)、商品の価格は最も低い点まで下がっており、企業精神は麻痺してしまっていて、一般に利子率の水準が低いのであるが、この低い水準がここで示しているものは、まさに産業資本の収縮と麻痺とによる貸付可能資本の増加にほかならないのである。商品価格が下がり取引が減り労賃に投ぜられる資本が小さくなるにつれて、流通手段の必要が少なくなるということ、他方では、対外債務が一部は金流出によって生産されてしまえば、世界貨幣として機能するための追加貨幣は必要ではないということ、最後に、手形割引業務の大きさがこの手形そのものの枚数および金額の減少につれて減るということ、――すべてこれらのことは一見して明らかである。こうして、流通手段としてであろうと支払手段としてであろうと(新たな投資はまだ問題にしない)、貸付可能な貨幣資本にたいする需要は減退し、したがってこの貨幣資本は相対的に豊富になるのである。しかしまた、貸付可能な貨幣資本の供給もこのような事情のもとでは積極的に増加するということは、もう少しあとで明らかにするとおりである。
P624L7
貨幣資本の膨張は、銀行制度が普及したために以前は個人の蓄蔵貨幣または鋳貨準備だったものが一定の期間を限っていつでも貸付資本に転化するということからも生ずるが・・・・・生産規模が同じままであるかぎり、このような膨張は、ただ、生産資本に比べて貸付可能な貨幣資本を豊富にするだけである。それだからこそ利子率が低くなるのである。
再生産過程が、再び、過度な緊張の状態の直前の繁栄状態に達したならば、商業信用は非常に大きく膨張するのであるが、その場合、この膨張には、実際に再びまた、円滑に行なわれる還、流と拡大された生産という「健全な」基礎があるのである。この状態では、利子率は、その最低限度よりは高くなるとはいえ、やはりまだ低い。じっさい、この時期こそは、低い利子率、したがってまた貸付可能な資本の相対的な豊富さが産業資本の現実の拡張と一致すると言える唯一の時点なのである。商業信用の拡大と結びついた還流の容易さと規則正しさとは、貸付資本の供給を、その需要の増大にもかかわらず、確実にして、利子率の水準が上がるのを妨げる。こうなると、準備資本なしに、またはおよそ資本というものなしに事業をやる、したがってまったく貨幣信用だけに頼って操作をする騎士たちが、ようやく目につくようになってくる。いまではまた、あらゆる形での固定資本の大拡張や、新しい巨大な企業の大量設立が加わってくる。そこで、利子はその平均の高さに上がる。そして、利子が再び最高限度に達するのは、新しい恐慌が襲ってきて、急に信用が停止され、支払が停滞し、再生産業資本の過剰が現われるようになるときである。
このように、利子率に表わされる貸付資本の運動は概して、産業資本の運動とは反対の方向に進むのである。まだ低いとはいえ最低限度よりも高い利子率が恐慌後の「好転」および信頼の増大といっしょに現われる段階、また特に、利子率がその平均的な高さ、すなわちその最低限度からも最高限度からも同じ距離にある中位点に達する段階、ただこの二つの時期だけが、豊富な貸付資本と産業資本の大膨張が現われる場合を示している。しかし、産業循環の発端では低い利子率と産業資本の収縮とが同時に現われ、循環の終わりには高い利子率と産業資本の過剰豊富とが同時に現われる。「好転」に伴う利子率は、商業信用がまだ自分の足で立っているのでわずかな度合いでしか銀行信用を必要としないということを表わしている。
この産業循環は、ひとたび最初の衝撃が与えられてからは同じ循環が周期的に再生産されざるをえないというようになっている。弛緩の状態では、生産は、それが以前の循環中に到達した規模、そして今ではそのための技術的基礎ができている規模よりも下に下がる。繁栄期――中位期
――には、生産はこの基礎の上でさらに発展する。過剰生産と眩惑的景気との時期には、生産は生産諸力を最高度に緊張させて、ついには生産過程の資本主義的制限をも越えさせてしまうのである。
恐慌期には支払手段が欠乏しているということは自明である。・・・・・
再生産過程の全関連が信用を基礎としているような生産体制のなかでは、急に信用が停止されて現金払しか通用しなくなれば、明らかに、恐慌が、つまり支払手段を求めての殺到が、起こらざるをえない。だから、一見したところでは、全恐慌がただ信用恐慌および貨幣恐慌としてのみ現われるのである。そして、これらの手形の多くは現実の売買を表わしているのであって、この売買が社会的な必要をはるかに超えて膨張することが結局は全恐慌の基礎になっているのである。しかしまた、それと並んで、これらの手形の大きな量がただの思惑取引を表わしていて、それが今では明るみに出てきて破裂する。これらの手形は、さらに、他人の資本でやってみたが失敗に終わった思惑を表わしており、また最後に、減価したり全然売れなくなった商品資本や、もはやはいってくるはずのない還流を表わしている。・・・・・とにかく、ここではすべてがゆがんで現われるのである。なぜならば、この紙の世界ではどこにも実在の価格やその実在の諸契機は現われないのであって、ただ、地金や硬貨や銀行券や手形や有価証券が現われるだけだからである。ことに、国内の貨幣取引の全部が集中する中心地、たとえばロンドンでは、このような転倒が現われる。全過程がわけのわからないものになる。生産の中心地ではそれほどでもないのであるが。
第三一章 貨幣資本と現実資本2(続き)
P632L1
貸付可能な貨幣資本の形態にある資本の蓄積がどこまで現実の蓄積すなわち再生産過程の拡張と一致するかという問題については、われわれはまだ結末に達していない。
貸付可能な貨幣資本への貨幣の転化は、生産資本への貨幣の転化よりもはるかに簡単なことである。しかし、われわれはここで二つのことを区別しておかねばならない。
1 貸付資本への貨幣の単なる転化。
2 貸付資本に転化させられる貨幣への資本または収入の転化。
産業資本の現実の蓄積と関連する積極的な貸付資本蓄積を含んでいることがありうるのは、ただあとのほうの点だけである。
第一節 貸付資本への貨幣の転化
P632L9
すでに見たように、生産的蓄積とはただそれと反比例するという関連しかないような、貸付資本の堆積、その過剰豊富が生ずることもありうる。それは産業循環の二つの段階で現われる。すなわち、第一には、産業資本が生産資本と商品資本とのどちらの形態でも収縮している時期、つまり恐慌のあとの循環開始期である。そして、第二には、好転は始まっているがまだ商業信用をわずかしか要求しない時期である。第一の場合には、以前は生産や商業で充用されていた貨幣資本が遊休貸付資本として現われる。第二の場合には、それがだんだん大きな度合いで充用されるようになるが、その利子率はまだ非常に低い。というのは、この時期には産業資本家や商業資本家が貨幣資本家に条件を指定するからである。貸付資本の過剰は、第一の場合には産業資本の停滞を表わしており、第二の場合には、還流の流動性や信用の短期性や自己資本による営業の優勢にもとづいて商業信用が銀行信用から相対的に独立していることを表わしている。他人の信用資本をあてにしている投機師たちはまだ出動していない。自己資本で営業する人々は、ほとんど純粋な信用操作からはまだ遠く離れている。第一の段階では、貸付資本の過剰は現実の蓄積の表現とは正反対のものである。第二の段階では、この過剰は再生産過程の拡張の更新と同時に現われ、これに伴ってはいるが、しかしこの拡張の原因ではない。貸付資本の過剰はすでに減少しており、需要に比べての相対的なものでしかない。どちらの場合にもそれによって現実の蓄積過程の拡張が促進される。なぜならば、第一の場合には低い価格と一致し第二の場合にはゆるく上がって行く価格と一致する低い利子が、利潤のうちの企業者利得に転化する部分を増大させるからである。繁栄期の頂点で利子がその平均度に向かって上がって行く場合にも、こういうことはもっと多く現われる。このような時期にはたしかに利子は上がっているが、しかし利潤に比例して上がってはいないのである。
他方、すでに見てきたように、貸付資本の蓄積は、少しの現実の蓄積なしに、単に技術的な手段によって、たとえば銀行制度の拡張や集中、流通準備の節約、あるいはまた個人の支払手段準備金の節約によって、行なわれうるのであって、これらの準備金はこうしていつでも短期的貸付資本に転化させられるのである。この貸付資本は、いつでもただ短期的貸付資本の形をとっているだけで(じっさいまた割引も短期でなければならない)、それだからこそまた浮動資本(floating capital)とも呼ばれるのであるが、それは絶えず流入したり流出したりしており、一人がそれを持ち去れば、別の一人がそれを持ってくるのである。こうして、貸付可能な貨幣資本の量は(ここでわれわれが言っているのはけっして何年間もの貸付のことではなく、ただ手形や預託証券引き当ての短期貸付だけのことである)じっさいに現実の蓄積には少しもかかわりなく増大するのである。
P638L13
とにかく、貸付資本の量は通貨の量とはまったく別である。われわれがここで通貨の量と言うのは、一国にあるすべての流通銀行券と、貴金属地金を含めてのすべての硬貨との総額のことである。この量の一部分は、その大きさから見て絶えず変動している諸銀行の準備金をなしている。・・・・・
信用の発達している諸国では、貸付のために利用できる貨幣資本はすべて銀行や貨幣貸付業者のもとに預金の形で存在しているものと仮定することができる。少なくとも全体としての事業についてはそうだと言ってよい。さらに、本来の投機が盛んになる前の好況期には、信用が容易で信頼が増大しているので、流通機能の大部分は、金属貨幣や紙幣の介入なしに、単純な信用移転によって果たされる。
流通手段の量が相対的に少ないのに預金額が大きいということの単なる可能性は、ただ次のことだけにかかっている。
(1) 同じ貨幣片によって行なわれる購買や支払の度数。
(2) 同じ貨幣片が預金として銀行に帰ってくるその再転化の度数。すなわち、それが繰り返し預金に転化することに媒介されて購買・支払手段としてのその機能が繰り返される度数。
P641L4
現実資本すなわち生産資本および商品資本の蓄積については、輸出入統計が一つの尺度を与える。そして、いつでもそこに示されているのは、10年の循環周期で運動するイギリス産業の発展期(1815年―1870年)のあいだは、いつでも、恐慌の前の最後の繁栄期の最高限が、次に来る繁栄期の最低限として再現し、それからまたそれよりもずっと高い新たな最高限に上がって行くということである。
第二節 貸付資本に転化させられる貨幣への
資本または収入の転化
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われわれはここでは貨幣資本の蓄積を考察するのであるが、それは、商業信用の流れの停滞の表現でもなければ、また現実の流通手段なり再生産当事者の準備資本なりの節約でもないというかぎりでの、貨幣資本の蓄積である。
この二つの場合を別とすれば、貨幣資本の蓄積は、たとえば1852年と1853年にオーストラリアやカリフォルニアの新たな金鉱によって起きたように、異常な金流入によって起きることがありうる。・・・・・
すべて貨幣貸付資本家が行なう蓄積は、言うまでもなく、つねに直接に貨幣形態で行なわれるが、他方、すでに見たように、産業資本家が行なう現実の蓄積は通例は再生産資本の諸要素そのものの増加によって行なわれる。だから、信用制度の発達や大銀行の手中での貨幣貸付業務の巨大な集積は、それ自体として、すでに貸付可能な資本の蓄積を現実の蓄積とは別な形態として促進せざるをえないのである。それゆえ、貸付資本のこのような急速な発展は現実の蓄積の結果なのである。なぜならば、それは再生産過程の発展の結果であり、また、これらの貨幣資本家の蓄積源泉となる利潤は、ただ、再生産資本家が取り出す剰余価値からの一控除分(同時に他人の貯蓄の利子の一部分の取得)でしかないからである。貸付資本は産業資本家と商業資本家との両方の犠牲において蓄積するのである。
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