元MONOZUKIマスターの独白

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第四篇第十章~十二章


第十章 相対的剰余価値の概念

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・・・・・労働日の長さが与えられていれば、剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生ずるほかはなく、逆に必要労働時間の短縮が剰余労働の延長から生ずるわけにはゆかないのである。われわれの例で言えば、必要労働時間が10分の1だけ減って10時間から9時間になるためには、したがってまた剰余労働が2時間から3時間に延長されるためには、労働力の価値が現実に10の1だけ下がるよりほかはないのである。

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 われわれが労働の生産力の上昇と言うのは、ここでは一般に、一商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するような、したがってより小量の労働により大量に使用価値を生産する力を与えるような、労働過程における変化のことである。そこで、これまで考察してきた形態での剰余価値の生産では生産様式は与えられたものとして想定されていたのであるが、必要労働の剰余労働への転化による剰余価値の生産のためには、資本が労働過程をその歴史的に伝承した姿または現にある姿のままで取り入れてただその継続時間だけを延長するだけでは、けっして十分ではないのである。労働の生産力を高くし、そうすることによって労働力の価値を引き下げ、こうして労働日のうちのこの価値の再生産に必要な部分を短縮するためには、資本は労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを変革しなければならないのである。

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 労働日の延長によって生産される剰余価値を私は絶対的剰余価値と呼ぶ。これにたいして、必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値を私は相対的剰余価値と呼ぶ。
労働力の価値を下げるためには、労働力の価値を規定する生産物、したがって慣習的な生活手段の範囲に属するかまたはそれに代わりうる生産物が生産される産業部門を、生産力の上昇がとらえなければならない。しかし、一商品の価値は、その商品に最終形態を与える労働の量によって規定されているだけではなく、この商品に含まれている労働量によっても規定されている。たとえば、長靴の価値は、ただ靴屋の労働によってだけではなく、革や蝋や糸などの価値によっても規定されている。だから、必要生活手段を生産するための不変資本の素材的諸要素すなわち労働手段や労働材料を供給する諸産業で生産力が上がり、それに応じて諸商品が安くなれば、このこともまた労働力の価値を低くするのである。これに反して、必要生活手段も供給せずそれを生産するための生産手段も供給しない生産部門では、生産力が上がっても、労働力の価値には影響はないのである。・・・・・ある一人の資本家が労働の生産力を高くすることによってたとえばシャツを安くするとしても、けっして、彼の念頭には、労働力の価値を下げてそれだけ必要労働時間を減らすという目的が必ずあるわけではないが、しかし、彼が結局はこの結果に寄与するかぎりでは、彼は一般的な剰余価値率を高くすることに寄与するのである。資本の一般的な必然的な諸傾向は、その現象形態とは区別されなければならないのである。

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・・・・・こうして、改良された生産様式を用いる資本家は、他の同業資本家に比べて一労働日中のより大きい一部分を剰余労働として自分のものにする。彼は、資本が相対的剰余価値の生産において全体として行なうことを、個別的に行なうのである。しかし、他方、新たな生産様式が一般化され、したがってまた、より安く生産される商品の個別的価値とその商品の社会的価値との差がなくなってしまえば、あの特別剰余価値もなくなる。労働時間による価値規定の法則、それは、新たな方法を用いる資本家には、自分の商品をその社会的価値よりも安く売らざるをえないという形で感知されるようになるのであるが、この同じ法則が、競争の強制法則として、彼の競争相手たちを新たな生産様式の採用に追いやるのである。こうして、この全過程を経て最後に一般的剰余価値率が影響を受けるのは、生産力の上昇が必要生活手段の生産部門をとらえたとき、つまり、必要生活手段の範囲に属していて労働力のかちの要素をなしている諸商品を安くしたときに、はじめて起きることである。

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 商品の価値は労働の生産力に反比例する。労働力の価値も、諸商品の価値によって規定されているので、同様である。それは、生産力が上がれば上がり、下がれば下がる。12時間の社会的平均労働の一日は、貨幣価値を不変と前提すれば、つねに6シリングという同じ価値生産物を生産するのであって、この価値総額が労働力の価値の等価と剰余価値とにどのように分割されるかにはかかわりなくそうである。しかし、生産力が上がったために一日の生活手段の価値、したがってまた労働力の日価値が5シリングから3シリングに下がれば、剰余価値は1シリングから3シリングに上がる。労働力の価値を再生産するためには、10労働時間が必要だったが、今では6労働時間しか必要でない。4労働時間が開放されていて、それは剰余労働の領分に併合されることができる。それゆえ、商品を安くするために、そして商品を安くすることによって労働者そのものを安くするために、労働の生産力を高くしようとするのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向なのである。・・・・・ところで、相対的剰余価値は労働の生産力の発展に正比例して増大するのに、商品の価値は同じ発展に反比例して低下するのだから、つまりこの同じ過程が商品を安くすると同時に商品に含まれる剰余価値を増大させるのだから、このことによって、ただ交換価値の生産だけに関心をもっている資本家がなぜ絶えず商品の交換価値を引き下げようと努力するのかという謎が解けるのである。

第十一章 協 業

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 とはいえ、ある限界のなかでは、ある変化が生ずる。価値に対象化される労働は、社会的平均質の労働であり、したがって平均的労働力の発現である。ところが、平均量というものは、つねにただ同種類の多数の違った個別量の平均として存在するだけである。どの産業部門でも、個別労働者、ペーターやパウルは、多かれ少なかれ平均労働者とは違っている。この個別的偏差は数学では「誤差」と呼ばれるものであるが、それはいくらか多数の労働者をひとまとめにして見れば、相殺されてなくなってしまう。・・・・・同時に働かされる比較的多数の労働者の総労働日をその労働者数で割ったものが、それ自体として、社会的平均労働の一日分であるということは、明らかである。・・・・・これに反して、もし12人の労働者のうちの二人ずつがそれぞれ一人の小親方に使われるとすれば、確固の親方が同じ価値量を生産するかどうか、したがって一般的剰余価値率を実現するかどうかは、偶然となる。そこには個別的偏差が生ずるであろう。・・・・だから、価値増殖一般の法則は、個々の生産者にとっては、彼が資本家として生産し多数の労働者を同時に充用し、したがってはじめから社会的平均労働を動かすようになったときに、はじめて完全に実現されるのである。

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 労働様式は変わらなくても、かなり多くの労働者を同時に充用することは、労働過程の対象的諸条件に一つの革命をひき起こす。・・・・・しかし、20人用の仕事場を一つつくるためには、2人用の仕事場を10つくるためよりも少ない労働しかかかわない。したがって、一般に、大量に集中されて共同で使用される生産手段の価値は、その規模や有用効果に比例しては増大しないのである。・・・・・
 生産手段の節約は、一般に、二重の観点から考察されなければならない。第一には、この節約が商品を安くし、またそうすることによって労働力の価値を低下させるかぎりで。第二には、それが、前貸総資本にたいする、すなわち総資本の不変成分と可変成分との価値総額にたいする剰余価値の割合を変化させるかぎりで。・・・・・資本主義的生産にあっては、労働条件は労働者にたいして独立して相対するのだから、労働条件の節約もまた、労働者にはなんの関係もない一つの特殊な操作として、したがって労働者自身の生産性を高める諸方法からは分離された操作として、現われるのである。
 同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業という。・・・・・12人がいっしょになって144時間の同時的一労働日に供給する総生産物は、めいめいが12時間ずつ労働する12人の個別労働者または引き続き12日間労働する一人の労働者が供給する総生産物よりも、ずっと大きいのである。このことは、人間は本来、アリストテレスが言うように政治的な動物ではないにしても、とにかく社会的な動物だということからきているのである。

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 一方では、協業は労働の空間範囲を拡張することを許すので、ある種の労働過程には、すでに労働対象の空間的関連によっても協業が必要になる。たとえば土地の干拓とか築堤とか灌漑とか運河や道路や鉄道の建設などの場合がそうである。他方では、協業は、生産規模に比べての生産領域の空間的縮小を可能にする。

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・・・・単独のバイオリン演奏者は自分自身を指揮するが、一つのオーケストラは指揮者を必要とする。この指揮や監督や媒介の機能は、資本に従属する労働が従属的になれば、資本の機能になる。資本の独自の機能として、指揮の機能は独自な性格をもつことになるのである。・・・・・
 それゆえ、資本家の指揮は内容から見れば二重的であって、それは、指揮される生産過程そのものが一面では生産物の生産のための社会的な労働過程であり他面では資本の価値増殖過程であるというその二重性によるのであるが、この指揮はまた形態から見れば専制的である。いっそう大規模な協業の発展につれて、この専制はその特殊な最小限度の大きさに達したとき、まず手の労働から解放されるのであるが、今度は、彼は、個々の労働者や労働者群そのものを絶えず直接に監督する機能を再び一つの特別な種類の賃金労働者に譲り渡す。一つの軍隊が士官や下士官を必要とするように、同じ資本の指揮のもとで協業する一つの労働者集団は、労働過程で資本の名によって指揮する産業士官(支配人、managers)や産業下士官(職工長、foremen,overlookers,contre-maitres)を必要とする。監督という労働が彼らの専有の機能に固定するのである。・・・・・資本家は、産業の指揮者だから資本家なのではなく、彼は、資本家だから産業の司令官になるのである。産業における最高指令が資本の属性になるのは、封建時代に戦争や裁判における最高指令が土地所有の属性だったのと同じことである。

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・・・・・独立の人としては、労働者たちは個々別々の人であって、彼らは同じ資本と関係を結ぶのであるが、お互いどうしでは関係を結ばないのである。・・・・・協業者としては、一つの活動有機体の手足としては、彼ら自信はただ資本の一つの特殊な存在様式でしかない。それだからこそ、労働者が社会的労働者として発揮する生産力は資本の生産力なのである。労働の社会的生産力は、労働者が一定の諸条件のもとにおかれさえすれば無償で発揮されるのであり、そして資本は彼らをこのような諸条件のもとにおくのである。労働の社会的生産力は資本にとってはなんの費用もかからないのだから、また他方この生産力は労働者の労働そのものが資本のものになるまでは労働者によって発揮されないのだから、この生産力は、資本が生来もっている生産力として、資本の内在的な生産力として、現われるのである。

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・・・・・大規模な協業の応用は古代世界や中世や近代植民地にもまばらに現われているが、これは直接的な支配隷属関係に、たいていは奴隷制に、もとづいている。これに反して、資本主義的形態は、はじめから、自分の労働力を資本に売る自由な賃金労働者を前提している。

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・・・・この変化は自然発生的に起きる。その前提、同じ労働過程での比較的多数の賃金労働者の同時的使用は、資本主義的生産の出発点をなしている。この出発点は、資本そのものの出現と一致する。それゆえ、一方では、資本主義的生産様式は、労働過程が一つの社会的課程に転化するための歴史的必然性として現われるのであるが、他方では、労働過程のこの社会的形態は、労働過程をその生産力の増大によっていっそう有利に搾取するために資本が利用する一方法として現われるのである。

第十二章 分業とマニュファクチュア
   第一節 マニュファクチュアの二重の起源

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 分業にもとづく協業は、マニュファクチュアにおいてその古典的な姿を身につける。マニュファクチュアが資本主義的生産過程の特徴的な形態として優勢になるのは、ざっと計算して16世紀の半ばから18世紀の最後の三分の一期まで続く本来のマニュファクチュア時代のことである。
 マニュファクチュアは二重の仕方で発生する。
 一方では、ある一つの生産物が完成されるまでにその手を通らなければならないいろいろな種類の独立手工業の労働者たちが、同じ資本家の指揮のもとにある一つの作業場に結合される。・・・・・そのかぎりでは、まだわれわれは、有り合わせの人と物とを材料とする単純な協業の域を脱してはいない。ところが、やがて一つの重要な変化が現われる。・・・・・それは、しだいに、馬車生産をそのいろいろな特殊作業に分類するものになり、これらの作業のそれぞれが一人の労働者の専有機能に結晶してそれらの全体がこれらの部分労働者の結合体によって行なわれるようになる。同様に、織物マニュファクチュアもその他の多くのマニュファクチュアも、同じ資本の指揮のもとでのいろいろな手工業の結合から生じたのである。
 しかし、マニュファクチュアはこれとは反対の道でも発生する。・・・・・やがて、外部的な事情が、同じ場所に労働者が集まっていることや彼らが同時に労働することを別のやり方で利用させるようになる。たとえば、かなり大量も完成商品を一定期間内に供給する必要があるとしよう。したがって労働が分割されることになる。・・・・・このような偶然的な分割が繰り返され、その特有な利点を現わし、しだいに組織的な分業に固まってゆく。商品は、いろいろななことをする一人の独立手工業者の個人的な生産物から、各自がいつでも一つの同じ部分作業だけを行なっている手工業者たちの結合体の社会的な生産物に転化される。・・・・・こうして、マニュファクチュアは、一方では一つの生産過程に分業を導入するかまたはいっそう発展させるかし、他方では以前は別々だったいろいろな手工業を結合するのである。・・・・・このように相変わらず手工業的な熟練が生産過程の基礎であるからこそ、どの労働者もそれぞれがただ一つの部分機能だけに適合させられて、他の労働力はこの部分機能の終生変わらない器官にされてしまうのである。最後に、この分業は、協業の一つの特殊な種類なのであって、その利点の多くは協業の一般的な本質から生ずるのであり、協業のこの特殊な形態から生ずるのではないのである。

   第二節 部分労働者とその道具

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・・・・・一つの労働過程のいろいろな作業が互いに分離されて、それぞれの部分作業が部分労働者の手のなかでできるだけ適当な、したがって専有的な形態をとるようになれば、以前にはいろいろな目的に役だっていた道具の変化の方向は、変化していない形態によってひき起こされる特殊な困難の経験から生まれてくる。・・・・・マニュファクチュア時代は、労働用具を部分労働者の専有名特殊機械に適合させることによって、労働用具を単純化し改良し多種類にする。それと同時に、この時代は、単純な諸道具の結合から成り立つ機械の物質的諸条件の一つをつくりだすのである。

   第三節 マニュファクチュアの二つの基本
形態――異種的マニュファクチュア
と有機的マニュファクチュア

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 マニュファクチュアの編制には二つの基本形態があって、それらは、ときにはからみ合っていることもあるとはいえ、本質的に違う二つの種類をなしており、またことにマニュファクチュアがのちに機械経営の大工業に転化されるときにもまったく違った役割を演じている。この二重性は製品そのものの性質から生ずる。製品は、独立の部分生産物の単に機械的な組み立てによってつくられるか、または相互に関連のある一連の諸過程や諸操作によってその完成姿態を与えられるかのどちらかである。

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・・・・・ところが、マニュファクチュアでは、一定の労働時間で一定量の生産物を供給するということが生産過程そのものの技術上の法則になるのである。

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 それゆえ、マニュファクチュアは、それがとらえるどの手工業のうちにも、いわゆる不熟練労働者という一部類を生みだすのであるが、それは手工業経営が厳格に排除していたものである。マニュファクチュアは、完全な労働能力を犠牲にして徹底的に一面化された専門性を練達の域にまで発達させるとすれば、それはまた、いっさいの発達の欠如をさえも一つの専門にしようとするのである。等級性的段階づけと並んで、熟練労働者と不熟練労働者とへの労働者の簡単な区分が現われる。後者のためには修業費はまったく不要になり、前者のためには、機能の簡単化によって手工業者の場合に比べて修業費は減少する。どちらの場合にも労働力の価値は下がる。その例外が生ずるのは、労働過程の分解によって、手工業経営では全然現われなかったかまたは同じ程度には現われなかった新しい包括的な機能が生みだされるかぎりでのことである。修業費の消失または減少から生ずる労働力の相対的な減価は、直接に資本のいっそう高い価値増殖を含んでいる。なぜならば、労働力の再生産に必要な時間を短縮するものは、すべて剰余労働の領分を延長するからである。

   第四節 マニュファクチュアのなかでの
        分業と社会のなかでの分業

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 ただ労働そのものだけを眼中におくならば、農業や工業などという大きな諸部門への社会的生産の分割を一般的分業、これらの生産部門の種や亜種への区分を特殊的分業、そして、一つの作業場のなかでの分業を個別的分業と呼ぶことができる。
 社会のなかでの分業と、それに対応して諸個人が特殊な諸部面に局限されることとは、マニュファクチュアのなかでの分業と同じように、相反する出発点から発展する。一つの家族のなかで、さらに発展しては一つの種族のなかで、性の区別や年齢の相違から、つまり純粋に生理的な基礎の上で、自然発生的な分業が発生し、それは、共同体の拡大や人口の増加につれて、またことに異種族間の紛争や一種族による他種族の征服につれて、その材料を拡大する。他方、前にも述べたように、生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。なぜならば、文化の初期には独立者として相対するのは個人ではなく家族や種族などだからである。共同体が違えば、それらが自然環境のなかに見いだす生産手段や生活手段も違っている。したがって、それらの共同体の生産様式や生活様式も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがってこのような生産物がだんだん商品に転化されることを呼び起こすのである。交換は、生産部面の相違をつくりだすのではなく、違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の多かれ少なかれ互いに依存し合う諸部門にするのである。この場合に社会的分業が発生するのは、もとから違ってはいるが互いに依存し合ってはいない諸生産部面のあいだの交換によってである。前のほうの場合、つまり生理的分業が出発点となる場合には、一つの直接に結成されている全体の特殊な諸器官が、他の共同体との商品交換から主要な衝撃を受ける分離過程によって互いに分離し、分解し、独立して、ついに、いろいろな労働の関連が商品としての生産物の交換によって媒介される点に達するのである。一方の場合には以前は独立していたものの非独立化が行なわれるのであり、他方の場合は以前は独立していなかったものの独立化が行なわれるのである。

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 すべてのすでに発展していて商品交換によって媒介されている分業の基礎は、都市と農村との分離である。社会の全経済史はこの対立の運動に要約されると言うことができるのであるが、しかしここではこれ以上この対立には立ち入らないことにする。
 マニュファクチュアのなかでの分業のためには、同時に充用される労働者の一定の数が物質的前提をなしているが、同時に社会のなかでの分業のためには人口の大きさと密度とが物質的前提をなしているのであって、この場合には人口の密度が同じ作業場のなかでの密集に代わるのである。とはいえ、この密度は相対的に希薄でも交通機関が発達している国は、人口はもっと多いが交通機関が発達していない国に比べれば人口密度が高いのであって、この意味では、たとえばアメリカ合衆国の北部諸州はインドよりも人口密度が高いわけである。

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 とはいえ、社会のなかでの分業と一つの作業場のなかでの分業とのあいだには多くの類似や関連がるにもかかわらず、この二つのものは、ただ程度が違うだけではなく、本質的に違っている。・・・・・マニュファクチュア的分業は、一人の資本家の手中での生産手段の集積を前提していおり、社会的分業は、互いに独立した多数の商品生産者のあいだへの生産手段の分散を前提している。・・・・・作業場のなかでの分業ではア・プリオリに[はじめから]計画的に守られる規則が、社会のなかでの分業では、ただア・ポステリオリに[あとから]内的な、無言の、市場価格の晴雨計的変動によって知覚される。商品生産者たちの無規律な恣意を圧倒する自然必然性として、作用するだけである。マニュファクチュア的分業は、資本家のものである全体機構のただの手足でしかない人々にたいして資本家のもつ無条件的な権威を前提する。社会的分業は独立の商品生産者たちを互いに対立させ、彼らは、競争という権威のほかには、すなわち彼らの相互の利害関係の圧迫が彼らに加える強制のほかには、どんな権威も認めないのであって、それは、ちょうど、動物界でも万人にたいする万人の戦い(bellum omnium contra omenes)がすべての種の生存条件を多かれ少なかれ維持しているのと同様である。

   第五節 マニュファクチュアの資本主義的性格

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 マニュファクチュア的分業は、手工業的活動の分解、労働用具の専門化、部分労働者の形成、一つの全体機構のなかでの彼らの組分けと組合せによって、いくつもの社会的生産過程の質的編制と量的比例性、つまり一定の社会的労働の組織をつくりだし、同時にまた労働の新たな社会的生産力を発展させる。社会的生産過程の独自に資本主義的形態としては――それは既存の基礎の上では資本主義的な形態でしか発展しえなかったのであるが――、マニュファクチュア的分業は、ただ、相対的剰余価値を生みだすための、または資本――社会的富とか「諸国民の富」とか呼ばれるもの――の自己増殖を労働者の犠牲において高めるための、一つの特殊な方法でしかない。・・・・・したがって、それは、一方では歴史的進歩および社会の経済的形成過程のおける必然的発展契機として現われ、同時に他方では文明化され洗練された搾取の一方法として現われるのである。マニュファクチュア時代にはじめて独自の科学として現われた経済学は、社会的分業一般を、ただ単に、マニュファクチュア的分業の立場から、同量の労働でより多くの商品を生産するための、したがって商品を安くし資本の蓄積を速くするための手段として、考察する。


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