元MONOZUKIマスターの独白

元MONOZUKIマスターの独白

第二篇第十六章


  第一節 剰余価値の年率
P360L1
 流動資本を2500ポンドとし、その5分の4=2000ポンドを不変資本(生産材料)、5分の1=500ポンドを労賃に投ぜられる可変資本としよう。
 回転期間は5週間、労働期間は4週間、流通期間は1週間だとしよう。そうすれば、資本1は2000ポンドで、1600ポンドの不変資本と400ポンドの可変資本とから成っており、資本2は500ポンドで、そのうち400ポンドは不変資本、100ポンドは可変資本である。各労働週間に500ポンドの資本が投下される。50週間から成る一年では、50×500=25000ポンドの年間生産物が生産される。したがって、一労働期間に絶えず充用されている2000ポンドの資本は、121/2回転する。12 1/2×2000=25000ポンドである。この25000ポンドのうち5分の4=20,000ポンドは生産手段に投ぜられる不変資本であり、5分の1=5000ポンドは労賃に投ぜられる可変資本である。これにたいして、2500ポンドの総資本は25000/2500=10回の回転をする。

P363L1
・・・・・前貸可変資本の価値総額にたいする一年間に生産される剰余価値総額の比率を、われわれは剰余価値の年率と呼ぶ。そうすれば、この年率は今の場合では5000/500=1000%である。この率をもっと詳しく分析してみれば、それは前貸可変資本が一回転に生産する剰余価値率に可変資本の回転数(これは全流動資本の回転数と一致する)を掛けたものに等しいということがわかる。
 一回転期間中に前貸しされる可変資本は今の場合には500ポンドであり、その間に生産される剰余価値もやはり500ポンドである。したがって、一回転期間の剰余価値率は500m/500v=100%である。この100%に一年間の回転数10を掛ければ、5000m/500v=1000%となる。・・・・・
 500ポンドの可変資本が一年に10回転し、一年のうちに5000ポンドの剰余価値を生産し、したがってそれにとって剰余価値の年率は1000%であるとして、この資本を資本Aと呼ぶことにしよう。
 もう一つの5000ポンドの可変資本Bは、まる一年間(すなわちここでは50週間)にわたって前貸しされ、したがって一年にただ一回だけ回転すると仮定しよう。さらに、一年の終わりには生産物がその完成と同じ日に対価を支払われ、したがって、生産物が転化した貨幣資本がその同じ日に還流するとしよう。そうすれば、この場合には流通期間はゼロであり、回転期間は労働期間に等しく、すなわち一年である。前の場合と同じに、労働過程には毎週100ポンドの可変資本があり、したがって50週間では5000ポンドの可変資本がそこにある。また、剰余価値率は前と同じで100%、すなわち労働日の長さは同じでその半分が剰余労働から成っているとしよう。5週間をとって見れば、投下された可変資本は500ポンド、剰余価値率は100%、したがって5週間に生産される剰余価値量は500ポンドである。この場合に搾取される労働力の搾取度も、ここでの前提によれば、資本Aの場合と正確に同じである。・・・・・
 資本Aの場合にも資本Bの場合にも、われわれは毎週100ポンドの可変資本を支出してきた。価値増殖度または剰余価値率もやはり同じで100%である。可変資本の大きさも同じで、100ポンドである。同じ量の労働力が搾取され、搾取の大きさも程度もどちらの場合にも同じであり、労働日の長さは同じで、それが必要労働と剰余労働とに等分されている。一年間に充用される可変資本総額は同じ大きさで5000ポンドであり、同じ量の労働を動かして、同額の二つの資本によって動かされる労働力から同じ量の剰余価値5000ポンドを引き出す。それにもかかわらず、AとBとの剰余価値の年率には900%の差があるのである。

P373L11
 剰余価値の年率をM´、現実の剰余価値率をm´、前貸可変資本をv、回転数をnとすれば、M´=m´vn/v=m´nであり、したがってM´=m´nである。そして、M´=m´となるのは、ただ、n=1であってM´=m´×1=m´となる場合だけである。
 さらに、次のようになる。剰余価値の年率はつねにm´nに等しい。すなわち、一回転期間に消費される可変資本によってその期間中に生産される剰余価値の現実の率にこの可変資本の年間回転数を掛けたものに等しい。または(同じことであるが)一年を単位として計算したその回転期間の逆数を掛けたものに等しい。(もし可変資本が一年に10回転するとすれば、その回転期間は1/10年である。したがってその回転期間の逆数は10/1=10である。)
 さらに、次のようになる。M´=m´であるのは、n=1の場合である。M´がm´よりも大きいのは、nが1よりも大きい場合である。すなわち前貸資本が一年に一回よりも多く回転する場合であり、言い換えれば回転した資本が前貸資本よりも大きい場合である。
 最後に、M´がm´よりも小さいのは、nが1よりも小さい場合である。すなわち、一年間に回転する資本はただ前貸資本の一部分でしかなくて回転期間が一年よりも長い場合である。

P376L13
 同様に資本Aの毎回の還流にさいして、また一年の終わりの還流にさいしても、それが示しているのは、その所有者はいつでもただ500ポンドという同じ資本価値を運転しているだけだということである。それだから、彼の手にもそのつどただ500ポンドが帰ってくるだけなのである。それゆえ、彼の前貸資本はけっして500ポンドよりも多くはないのである。したがって、500ポンドという前貸資本が、剰余価値の年率を表わす分数の分母になるのである。この年率を表わすものとして、われわれは前に定式M´=m´vn/v=m´nを得た。現実の剰余価値率m´はm/vであって、剰余価値量をそれを生産した可変資本で割ったものに等しいのだから、m´nではm´の値をm/vと置くことができるのである。そうすれば別の定式M´=mn/vが得られるのである。

  第二節 個別可変資本の回転
P382L5
 この区別は回転期間の相違から生ずる。すなわち、一定期間に充用された可変資本の価値補填があらためて資本として、つまり新たな資本として機能できるようになるための期間の相違から生ずる。Bの場合にもAの場合にも、同じ期間に充用された可変資本のための同じ価値補填が行なわれる。また、同じ期間に剰余価値の同じ増殖が行なわれる。しかし、Bでは5週間ごとに500ポンドの価値補填・プラス・500ポンドの剰余価値があるのではあるが、しかしこの価値補填はまだ新たな資本になってはいない。というのは、それは貨幣形態をとっていないからである。Aでは、古い資本が新たな資本価値によって補填されているだけではなく、それがその貨幣形態で更新されており、したがってまた新たな機能能力ある資本として補填されているのである。
 価値補填の貨幣への転化、したがってまた可変資本が前貸しされるときの形態への転化が、早いかおそいかは、明らかに、剰余価値の生産そのものにとってはまったくどうでもよい事情である。剰余価値の生産は、充用される可変資本の大きさと労働の搾取度にかかっている。しかし、前述の事情は、一年間に一定量の労働力を動かすために前貸しされなければならない貨幣資本の大きさを変化させ、したがってまた剰余価値の年率を規定するのである。

  第三節 社会的に見た可変資本の回転
P383L12
 第一に、Aの労働者が流通に投げ入れる貨幣は、Bの労働者にとってのように、彼の労働力の価値の貨幣形態(事実上はすでになされた労働への支払手段)であるだけではない。それは、事業開始後の第二の回転期間からはすでに第一回転期間中の彼自身の価値生産物(=労働力の価格・プラス・剰余価値)の貨幣形態であって、それによって第二回転期間中の彼の労働が支払われるのである。Bではそうではない。労働者に関しては、ここでも貨幣はたしかに彼がすでに行った労働への支払手段ではあるが、この行なわれた労働は、それ自身の金めっきされた価値生産物(この労働自身によって生産された価値の貨幣形態)で支払われるのではない。このようなことは第二年めからはじめて起こりうるのであって、そのときBの労働者は前年の自分の価値生産物が金めっきされたもので支払を受けるのである。

P384L19
 第二に――これも第一の区別と関連しているのであるが――、労働者は、Bの場合にもAの場合にも、自分の買う生活手段の対価を、彼の手のなかで流通手段に転化した可変資本で支払う。例えば、彼は小麦を市場から引きあげるだけではなく、それを貨幣での等価によって補填する。しかし、Bの労働者が自分の生活手段の対価を支払ってそれを市場から引きあげるために用いる貨幣は、Aの労働者の場合とは違って、その一年間に彼が市場に投じた価値生産物の貨幣形態ではないから、彼は、彼の生活手段の売り手に貨幣を供給するには違いないが、この売り手がその対価として得た貨幣で買うことのできるような商品――生産手段であれ生活手段であれ――を供給しはしない。ところがAの場合にはそれを供給するのである。したがって、市場からは、労働力や、この労働力のための生活手段や、Bで充用される労働手段という形での固定資本や、生産材料などが引きあげられて、そのかわりに貨幣での等価が市場に投げ入れられる。しかし、その一年間は、市場から引きあげられた生産資本の素材的要素を補填するためのどんな生産物も市場に投げ入れられない。資本主義のではなく共産主義の社会を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によってはいってくる取引の仮装もなくなる。事柄は簡単に次のことに帰着する。すなわち、社会は、たとえば鉄道建設のように一年またはそれ以上の長期間にわたって生産手段も生活手段もそのほかどんな有用効果も供給しないのに年間総生産から労働や生産手段や生活手段を引きあげる事業部門に、どれだけの労働や生産手段や生活手段をなんの障害もなしに振り向けることができるかを、前もって計算しなければならないということである。これに反して、社会的理性が事後になってからはじめて発現するのを常とする資本主義社会では、絶えず大きな攪乱が生じうるのであり、また生ぜざるをえないのである。・・・・・こういうことは、不可避的な崩壊が労働者の予備軍を再び遊離させて賃金が再びその最低限またはそれよりももっと下に押し下げられるまで続くのである。三二
    三二  原稿では、ここに将来の詳論のための次のような覚え書きが挿入されている。「資本主義的生産様式における矛盾。労働者は商品の買い手として市場にとって重要である。しかし、彼らの商品――労働力――の売り手としては、資本主義社会は、その価格を最低限に制限する傾向がある。――もう一つの矛盾。資本主義的生産がそのすべての潜勢力を発揮する時代は、きまって過剰生産の時代となって現われる。なぜならば、生産の潜勢力は、それによってより多くの価値が単に生産されうるだけではなく実現もされうるほどには、けっして充用されることができないからである。しかし、商品の販売、商品資本の実現、したがってまた剰余価値の実現は、社会一般の消費欲望によって限界を画されているのではなく、その大多数の成員がつねに貧乏でありまたつねに貧乏でなければならないような社会の消費欲望によって限界を画されているのである。しかし、これは、次の編ではじめて問題になることである。」

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: