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本日3月25日発売の本田健さんとバシャールの対談本が、明日までアマゾンキャンペーンです。ぼくのメンターである本田さんとバシャールの本はほとんど読みましたが、このコラボレーションで「わくわくと自分らしく生きること」について、新たな視点が加わりより一層理解が深まる気がして楽しみです。さらに、目次を見ると、これから世界で起きてくることについても、二人の見方が述べられているようで、ますます見逃せないと思います。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◆本日3月25日(木)~3月26日(金)まで!◆ ◆本田健×バシャール「未来は、えらべる!」発売記念 amazonキャンペーン◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ amazonで1冊以上購入してくださった方に2つのプレゼント! ◇━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◇ ★ 応募者全員に! 本田健 特別音声ファイルプレゼント ★ ★ 抽選で300名様 4/30講演会に無料でご招待 ★ いつも応援してくださっている読者のみなさんへ、日ごろの感謝の気持ちを こめて、新刊発売に合わせて、発売記念のプレゼントキャンペーンを考えま した。今しか聞けない ■■本田健新刊「未来は、えらべる!」発売記念 amazonキャンペーン■■ 『3月25日(木)~3月26日(金)』に、amazonで、本田健新刊を 1冊以上購入してくださった方に、2つのプレゼントをご用意しました。 ○応募者全員プレゼント! 本田健 特別音声ファイル「バシャールとの対談で学んだ3つのこと」 ○抽選で300名様! 本田健 特別講演会 in 東京 『未来は、えらべる!』 ~2012年 あなたは望む人生を選択できるのか~』無料でご招待 ※また、遠方で参加できない方、抽選に漏れてしまった方にも、 ダブルプレゼントとして講演会特別レポートをプレゼントいたします。 *応募方法の詳細は、アイウエオフィスホームページからご確認いただけます ⇒ http://www.aiueoffice.com/future.html ------------------------------------------------------------------------ *購入特典* 対談シークレットコンテンツダウンロード 「未来は、えらべる!」をご購入いただいた方へ・・・・ 本書未収録特別コンテンツ(脳、教育、3つの究極の質問など)を PDFファイルでダウンロードできます! ダウンロードについては、本書内で紹介しています。お手元に届いたら、 ぜひチェックしてください。 ------------------------------------------------------------------------ ★━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━★ 4月30日(金) 本田健×バシャール 出版記念特別講演会 in 東京 『未来は、えらべる!』~2012年あなたは望む人生を選択できるのか~ ★━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━★ 【開催日時】2010年4月30日(金) 18:45~20:00(受付17:30~予定) 【開催場所】東京都内(詳細はお申し込み時にご案内いたします) 【 参加費 】1名:5,000円 2名:8,000円 3名:11,000円 ◆詳細はこちらからご確認いただけます ⇒ http://www.aiueoffice.com/1004tokyo_bashar/
2010年03月25日
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昨日まで長崎~北九州~京都と廻ってきました。長崎では自然のエネルギーにあふれた環境に身を置き、最高の料理とお酒を味わいました。ふだん都会で働き、感性が閉じ気味な私も、明らかに違った感覚を体験できました。もともと自己成長というと、ストイックなイメージがありました。仏教的な“修業”の考え方が影響していたと思われます。しかし、それも一つの道である一方、感性を開くのも自己成長の有力な方法であることが分かってきました。微細なレベルまで知覚できるよう五官を研ぎ澄ますことは、世界の真のすばらしさを体験することにつながります。それはやがて、五感を超えたより深いレベルの感覚を開いていくことにつながるような気がします。これからどうなっていくのか楽しみです。
2010年03月22日
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ひさびさにブログをチェックしましたが、相変わらずちゃんと残ってましたね。ありがとう楽天さん!新しいことを始めるのなら、新しい器を用意した方がいいのでしょうが、あえてそのまま続けて書いてみようと思います。そのときの等身大の自分の考えていることを残すという記録的な意味合いで、ふと考えたことを綴ってみようと思います。
2010年03月22日
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家のスピーカーをBOSEに買い換えた。BOSEの最新作で、Micro Music Monitor、頭文字を取ってM3という製品だ。http://www.bose-export.com/products/m3/index.htmlとても人気があるようで、申し込んでから1ヶ月待って、一昨日漸く届いた。約1ヶ月前、ある雑誌の紹介記事を読んで、ほとんどすぐ購入を決めた。曰く、「BOSEの試聴会でブラインド・テストがあった。限りなくクリアで、高音から重低音までたっぷりと密度の濃い音が響き渡る。どこに大型スピーカーが隠れているのか。真相は、大人の拳ほどの小さなスピーカーがそっと置かれていただけだった。<中略>これは間違いなくわが家のメインスピーカーに使える。」その上、旅行などにも持って行けるとのこと、なかなか魅力的でしょう?聞いてみた感想は、まさにこの文章のとおりだった。クリアな音の広がり、腹に響く重低音、聴き慣れたCDがまるで別物のよう。また、コンパクトで高剛性、スタイリッシュなボディがカッコよく、久々に物を所有することの喜びを感じさせてくれた。アンプを内蔵しており、ステレオミニプラグで直接CDやMDと接続、操作はスイッチとボリュームのみというシンプルさもいかにもBOSEらしくて好感が持てる。ミニプラグと手元のDVDやビデオをどうつなごうかという懸念はあったが、ネットで調べたらAVセレクターなるものが売っていて、4つほどの音源を簡単に切り替えることができるようにした。おかげで、古いスピーカー、アンプを片付け、ついでに使っていない古い方のビデオも処分することにして、リビングが大幅に片付いた。音だけでなく、スペース活用の点でも出色の製品である。次の構想としては、Ipodの導入を考えている。これがあれば手持ちのCDとかを全て取り込んで、エンドレスで好きな音楽によるBGMが楽しめるというわけだ。いやー、BOSE M3 、本当におススメですよ。
2006年05月05日
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あっという間に2ヶ月も経ってしまいました。なかなか書く気にならなかったのは、そのときの状況をうまく表現できる自信がなかったからです。つまり、できるだけ上手に伝えたいという欲があったわけです。しかし、そんなことを言っていると、ちっとも新しいことが書けないと思い直し、気楽に纏めてみようと思います。7日目 5時~7時 8時~10時半 (作務) 13時~17時 8時間この頃になると、かなりいい感じで坐っていることができるようになっていました。禅堂の周りで誰かが竹箒を使って地面を掃く音が聞こえていました。すると、その瞬間、掃いているのは自分だと感じました。遠くの方をカラスが啼きながら飛んでいきました。あぁ、あのカラスも自分だと思いました。理屈ではありません。ただ、そう思ったのです。その後、外に出てみました。寺は小高い山の上にあるので、瀬戸内海が見下ろせます。海がきらきら輝いて、とてもキレイでした。一体感はまだ続いていて、大きな島の横にうずくまるように浮かぶ小さな島、それも自分であるように思えました。そして、水平線が丸みを帯びた地球も。少しだけですが。とても安心で安らかな時間でした。全てが自分であれば敵も味方もありませんからね。「ワンネス~全ての存在は一つである。」という話は色々な人が語ったり本に書いたりしています。前からたしかにそれはそうだろうと思っていましたが、それは知識があるというレベル。実際に感じたことはありませんでした。ただ、このときは、たしかに周りの存在と自分との一体感を感じることができました。そして、目にする光景すべてが美しかったこと!「目覚めている」時は本来そうなのでしょうね。この感覚は一時のものでしたが、一度そのことを体験したという事実はとても大きな意味があると思っています。「人生の目的は幸せでいること」、これには多くの人が同意するのではないでしょうか。幸せの定義やそこに至る手段はひとそれぞれかもしれませんが。「無条件に幸福でいること」と、この時得た経験は実は深い関係があるなと、今になって思えるようになってきました。
2006年04月08日
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5日目にしてようやく作務を許された私ですが、6日目はずっと作務を手伝いました。道場の石段の補修を前日から行っていて、セメントを練って、ブロックや石を使って、補修していきました。体を使って行う作業は雑念も湧かず一心不乱に打ち込むことができ、とてもすがすがしいものでした。食事の時間、海苔を千切ってご飯に乗せる際、二日目ぐらいに動作が雑と注意されたのを思い出し、指先に意識を集中して綿密に丁寧に指を動かしました。すかさず、老師から、「きちっと、できてるね。」と言葉を掛けられました。これだから油断できません。たかが海苔を千切るだけの動作です。でも、身と心がぴったりと一致して、指先の一点にまで心が行き渡っている状態の下での、動きの清々しさ、美しさを自分でも感じとっていましたので、してやったりというところでした。とはいえ、この動きもやろうと思ってできるものではないのです。坐禅のとき、最高の状態になろうと思っても遠ざかるばかりであるようなものです。この日は、体は疲れていましたが、心はとても澄み切っていました。ここ居られるのもあと2日ほどなので、朝まで坐ろうかと思っていました。もう相当時間が経ったように感じ、夜中かと思って時計を見たらまだ夜の10時で、思わず笑ってしまいました。で、1時まで気持ちよく坐って、さっさと寝てしまいました。
2006年02月12日
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5日目の午後、坐禅をしている時、呼吸に意識を向けていると、いつまでも呼吸しようとしている自分がいることに気付きました。そこで、呼吸しようとするのをやめてみました。でも、やめられるもんじゃない、勝手に呼吸は続きます。体の奥の方で呼吸している働きがあることに気付きます。そして、拍動を感じました。心臓を動かしている人がいる。それこそ、宇宙の作用なんだと思い、感動しました。でも、、、お気づきでしょうか。これは坐禅ではありませんね。夕食のとき、先輩の参禅者が、「それさえも考えなくていいよ。只、感じれたままでいい。」と言ってくれました。赤いものを見ると、これは赤だとかいう思いが起きるが、その思いが起きる前の瞬間、その言葉のない場所にとどまることが大切と。
2006年02月05日
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前にも書きましたが、5日目の朝、老師から「片付けるとはどういうことか?」と訊かれて、答えられませんでした。そして、昼食後、助けられながらも答えが判りました。!!!なあんだ、気付いてみると、老師は前に答えをちゃんと教えてくれていました。しかし、捉われていると悲しいかなそれが分からない。でも、ほとんどの人は、そういう状態で生きている。だから、苦しいのです。そして、昼食の後片付けを一人でしました。坐禅、食事、寝ることなど生きるために必要なこと以外で、少林窟で初めての作業でした。食器の数が多くて大変でしたが、だんだん作業に集中して、すがすがしさがありました。夕方には5日ぶりにお風呂に入りました。その気持ちよかったこと!そして、夕食にはお祝いといって、おいしいトンカツが出ました。私のために用意していただいた、そのお気持ちがうれしかった。もちろんとてもおいしかった。この頃には、無駄に会話を交わさず、ただ食べることに成り切って、味わうという感覚が鋭敏になっていたため、なおさらでした。夕食の後の法話で、老師に「ここからが境涯辺ですよ」と言われました。境涯辺というのは、坐禅をして只呼吸そのものに成り切り、自他の隔てがない状態のことを仰っているのだと思いました。今の自分は、わずかしかその状態を維持できないけれど、その状態を続けて錬りこんでいく、それがこれからの課題だと解釈しました。そして、老師が去り際に急に戻ってきて、「昼間片付けをしてどうだった?」と私に尋ねられました。すっかり、油断していた私は、やや混乱していつもの癖でつい頭で考えてしまい、昼間頭をよぎったことを答えました。これまで、みなさんに片付けをしてもらってありがたかたったとかなんとか。すると、老師は、「それは理屈じゃ。ありがたい云々は煩悩じゃ。まだその程度か。みんな、嗤ろうてやれ。」と言って去って行きました。私は、「ほんとにそうだな。はははっ。」と内心で自分を笑いました。そして、禅堂に戻った時、再び新鮮で、軽ろやかな気持ちで坐禅に取り組むことができたのです。そして、その先、坐禅から帰った時、何となく自分が大変な経験をしてきたような気になって、周りで普通に仕事をしている人をあやうく見下しそうな気持ちになったときも、私を救ってくれました。老師から頂いたご本に載っていた少林窟の先師の言葉にこういう言葉があります。「うたた悟れば、うたた捨てよ」悟りが進めば進むほど、どんどん捨て去りなさいという意味です。自分を大したものと思った瞬間、進化はそこで止まります。老師もまたいつか歩いた道なのでしょう。正しく導いて下さる師がいるということは本当にありがたいものです。
2006年02月04日
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もう一人の自分、“わる○○○くん”は、とても自由でした。生まれたばかりの子供は二つの天性を持っているということです。ひとつは、何も恐れないということ。もうひとつは、天真爛漫ということです。他人の意向など気にかけずに、自分の気持ちだけにしたがってやりたいようにやるという自由さです。もちろん、適度な恐れは自分の身を守るのに必要だし、大人の気配りもお互いが気持ちよく過ごすには大切です。ただ、過ぎたるは及ばざるがごとしということ。失敗を恐れすぎたり、他人の意向を気にし過ぎたりすると、窮屈で息が詰まってしまいます。坐禅をしていても、坐禅を神棚の上に祭り上げ、結果を期待すると、どんどんしんどくなります。そんな私を“わる○○○くん”は嗤いました。彼には制約というものがないようです。「たかが坐禅じゃないか」と。「老師は何も難しいことやれとは言ってないよ。」「ただ息を吸って吐きなさいと言ってるだけだよ。」「そんなこと、生まれてこの方、ずっとやってきたじゃない。意識すらしなくても、一時も休まず」たしかにそうだなと思いました。これでまた一層ラクになりました。ほんとに、なーんも考えなくていいんだと。わる○○○は、実はらく○○○なんだなー、と思いました。ところで、帰ってきてから、老師が別のところで、坐禅に大層な期待はしないこと、ということを話されていたのを知りました。やっぱりねーと思いました。
2006年01月29日
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仕事が忙しくて、前回更新から、あっという間に2週間以上が過ぎてしまいました。わが社で初めての試みであるちょっとしたプロジェクトなのですが、自分としても経験したことのない類の仕事で、かなりプレッシャーを感じています。なんとなく、いつも落ち着かない感じで、今は自分の器より問題の方が大きいのだなと思っています。ただ、2ヶ月ぐらいから前から準備を進めてきたのですが、本番まで、あと2週間くらいとなって、何となくどうにかうまくいきそうという気もしてきました。日々、何かしら問題が生じてきて、それを上司や周りの助けを借りながら対処していくのですが、不安を抱きつつも、やればなんとかなるもんだなぁということも感じてきています。また、その間、正月に帰国された本田健さんの2日間セミナーにも参加していました。一言で言うと、どんな風に生きるのか、金持ちになるならないも含めて、すべてそれぞれの「生き方」なんだということを学びました。そのための行動の仕方や考え方を2日にわたって教えていただきましたが、今回、帰ってから、妻にセミナーの内容を話しました。どんな人生にしていくのか、パートナーの存在抜きには決められないのだから当然ですが、坐禅のことも含めて、観念の世界ではなく、実際の自分の現実がよりよくなっていくことにつながっていくような気がしてうれしいです。あと1ヶ月は目の前の仕事に全力で取り組もうと思います。
2006年01月28日
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続きです。そのもう一人の自分とは、社会に順応するために切り捨てた幼い頃の自分、いたずらっ子の自分だったようです。そんな風に感じました。それは、やり取りをしているうちに、相手にどんどん愛嬌を感じて、かわいく思えてきたからです。その心のどこかに閉じ込めていたの自分を解放して、統合したように思いました。すまなさとありがたさで涙が出ました。とはいえ、これは私の心の中で起こったひとつの体験です。本当にそうだったのかどうかなんて分かりません。妄想かもしれませんし。なので、体験そのものには大した意味はありません。もはや過去のものでもあり、まさに、テーマの通りたわごとです。禅の世界では、感情悟りという言葉があるようですが、こんな感じをいうのだろうと思います。まだまだ底が浅いということです。むしろ、私にとって大事だったのは、その後の実生活での変化でしょうか。心がしなやかになったというか、何となく楽しいというか、気のせいであれなんであれ、リアルの生活の質の向上は大いに価値のあることです。あと、関係修復した“わる○○○”くんは、そのときの禅修業でも役に立ってくれました。(続く)
2006年01月10日
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自分のなかにあるもう一人の自分に逆らうのをやめたら、静かに呼吸に集中できるようになりました。すると、坐禅をするのがとても楽に、そして、楽しくなります。不思議なものです。この日も、朝5時に起きて坐禅です。朝一番の坐禅だけは老師を始め全員が禅堂に集まります。(それ以外はまったくの個人の自由です。)この時間、まだ日は昇っておらず、辺りは真っ暗です。宿坊から禅堂まで、ゆっくりと一歩一歩を確認しながら歩きます。そして、禅堂の空気は、朝の清冽さに溢れ、老師がいらっしゃることにより心地よい緊張感に包まれます。私は、この朝一の坐禅がとても好きでした。朝食のとき、老師から質問がありました。ご飯茶碗を手に持って、「片付けるとはどういうことですか。」???ごにょごにょと何か答えましたが、さっぱり分かりませんでした。朝食後、坐禅をしている時のことです。実を言うと、あの後も“わる○○○”くんは出てきました。「今日帰るんじゃなかったのー?」とか言ってきますが、「うん、帰ろうね。でも、もうちょっと待ってね。」といった感じでお茶を濁すと大人しくなります。そして、さらに呼吸に集中していくと、“わる○○○”は意識のでは黒い人形だったのですが、光のなかでさらさらと崩れて吸う息とともに体の中に入ってきました。(続く)
2006年01月09日
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心の中で堂々巡りの葛藤を何時間続けたでしょうか。不満を言う自分は、まるでもう一人の自分のようでした。その内、彼はあろうことか「もう帰ろうよー。」と言い始めました。「寒いし、苦しいし、しんどいし、ご飯も飽きたし堅くるしいし」とまるで駄々っ子です。でも、その提案、私にとっては、ある意味ですごく魅力的でした。なぜなら、自分からこの苦しみを終わらすことができる。苦しんで、苦しんで、何も得られないぐらいなら、とっとと早く帰った方が圧倒的にいいですよね。ということで、私は彼を否定することをやめてみたのです。「そうだね、帰ろう。今日帰ってもいいけど、もう夜だから。明日帰ろう。それでいいよね。」と彼に語りかけました。彼も同意してくれました。「帰りたければ、帰ってもいい。」そんな当たり前のことに気付いて、心がすごく落ち着くのを感じました。「私には選択の自由がある。」その思いは、私が私の世界の主であることを思い出させてくれました。もう一人の自分も、「明日帰るから、今日は静かに坐禅をさせてね」と諭すと、急に大人しくなり静かにしていてくれるようになりました。そうすると不思議なもので、そのもう一人の自分を結構かわいく感じました。「わる○○○(○○○は私の名前)」彼にそういうあだ名をつけました。本田健さんが、神田昌典さんの初期のキャラクターが仲間内で「わるマサ」と呼ばれていると、お二人の対談のなかで話されていたのが記憶にあったようです。後になって考えてみると、わる○○○がもらしていた不満は、すべて私のことを思ってのことでした。偏ってはいるけれど、紛れもなく私というかけがえのない自分への愛だったのです。それを否定せずに受け入れることで、彼が静かになったのはある意味で当然だったなぁと思います。受け入れずに否定されれば、よりむきになったのも愛していればこそと思うと、すごく納得できます。そうして、もう一人の自分との闘いは終息に向かいました。勝つでも負けるでもなく、闘いそのものが消滅したような。ここに書いたことは、私のこころの動きを追ったものです。でも、その間やろうとしていたことは一つ。呼吸と一つになること。それだけです。そして、4日目が終わり、床に付く時、私はたしかな手ごたえを感じていました。
2006年01月07日
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あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。年賀状を書いたりするのに忙しく、少し間があきました。坐禅4日目です。この日が一番しんどかった。時間的にもこの日は16時間半と結局滞在中最高となりましたが、むしろ、しんどいのは心の方でした。相変わらず雑念は出ていましたが、3日目位からその質が変わってきたようです。つまり、最初の頃のそれは取り止めがないもので、気がつくとすぐに消えてしまうようなものでした。しかし、この日のそれは、断ち切ろうとしてもしつこく居座り続け、私を苦しめる煩悩そのものでした。それは他ならぬ、道場での修行に関することでした。老師は朝の坐禅の時には戻っておられ、正直ほっとしました。しかし、それもつかの間、夕食の時にはまた不在にされたようです。それで夜に坐っている時に、それを不満とする自我の想いが一気に噴出しました。「きちんと指導してもらっていない。」「この程度の指導しかしてもらえないのか。」「私のことなど忘れられているのではないか。」「私の修行はどうなるのか。」「一年待ってやっとここまできたのに。」また、何年か前この道場にきたことのある友人と比べている自分もいました。その人は3日目で一つの心境を得たと聞いていたので。焦りを感じ、このまま最後の日を迎えて何も得られないままで、虚しく道場を後にするのではないかと恐れました。ここまで来て何も得られないとは、自分はどれほど悟りから縁遠い資質に乏しい人間であろうかと悲しくなりました。津留さんは、ここに来れば、例外は在るが、誰でも一週間で「今、ここ」という心の位置を体得させてくれると書いていらっしゃいましたが、自分はその例外かもしれないと。このほか、それこそここに書けないほどお恥ずかしい考えも浮かび、本当にエゴの勝手さ、傲慢さはとどまることを知りませんでした。始めのうち、一つ一つ「そんなことはない。なぜなら・・・」と、理屈で説得を試みて静めようとしました。たとえば、「ここに来てまだ半分しか経っていない、半分も残っているんだから、まだ大丈夫」などいうように。しかし、これらの煩悩は知性よりももっと原始的で根源的なものである感情を伴ったものであり、そんなことで消えてくれるほど生易しいものではありませんでした。断ち切っても断ち切っても、寄せては返す波のように、さらに力を増して、呼吸に集中しようとする私を翻弄し続けました。そんなことが何時間続いたでしょうか。自分のなかで対話を続けるうち、あたかもエゴ丸出しで毒づくもう一人の自分という別の人格の存在が明確に意識され始めました。(続く)
2006年01月01日
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今日はクリスマス・イブですね。家族で最近近所にできた大規模商業施設に歩いて行ってきました。シネコンもあり、レートショーとかで安く映画が観られるなぁと喜んでいます。3時ごろお腹がすいたので外食したため、夕方になってもあまり食べたくありません。また、買ってあるケーキの解凍?も忘れていたそうです。そのため、妻と相談して、今晩の食事は家でお茶漬けとなりました。まぁ、そういうのも悪くありません。クリスマスだからどうあってもごちそうっていうのもどうかなと思うので。さて、本題です。いよいよこの日から本格的に坐禅することができました。この日は朝5時から坐って計16時間!我ながらよく頑張りました。もちろん強制されている訳ではありません。むしろ老師は眠いときは思い切って寝ろといいます。たしかに眠いと、妄想とも夢ともつかない想念がとめどなく流れ出て、坐禅どころではなくなります。この日はどうしようもなくなって夕方1時間だけ午睡したのですが、寝た後はやる気が出て頭がすっきりして調子よくなりました。とはいえ、まだまだ気持ちが一点に収まるなどとてもとても、でした。老師は昨日の夜から、地元の古参の修行者と出掛けたまま戻りません。忘れられているのではないかという思いも頭をよぎり、だんだん不安になってきました。なにしろ16時間も坐っていると、本当に色んな思いが頭に浮かぶものです。それから、禅堂に置いてあった時計の音が気になって座を移りました。そしたら、隣の方の洟をすする音がまたまた気になって、そうしたら、つまらないことで気持ちが揺らぐのに腹が立ってという具合で、心とは思うようにならないものだとつくづく感じました。夕方、風呂に入ったらどうかと先輩の参禅者が勧めてくださいましたが、お断りしました。気が緩むような気がしたので。ここでは、二日に一度、薪で風呂を焚きます。そうすると、風呂に入れるのは5日目かなーなどと考えました。薪のお風呂は、お湯をうまく使うためにちょっとした約束ごとがあるようで、それがまたうまくできるだろうかと気になりました。不安定な心はその時その時手近にあるものをなんでも材料にして、恐れという炎を燃やすようです。生きている以上、どこまでいっても材料をなくすことはできないですから、心のあり方を変えるしか恐れから自由になる方法はないのだと思います。
2005年12月24日
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2日目~3時間2日目は朝から夜まで外出でした。こんなことはこの道場ではめったにないことだそうです。道場の僧のお一人が、老師が30年前に修行したお寺の住職になるというので、100キロほど離れたそのお寺を見に行ったのです。せっかく1日坐ってさあこれからという時に、正直に言って、ついていきたくはありませんでした。時間がもったないと思ったのです。実際、この日の坐禅はわずか3時間でした。でも、この時の体験も後々役に立つことになるのだから、本当に人生には必要なことしか起きないという気がいたします。それから、この日は朝からコンタクトレンズを割ってしまいました。こんなことは20年近くコンタクトを使っていて初めてのことです。生活について心配していたら、すぐに現実となりました。本当に心配はするもんじゃありません。使い捨てレンズを持っていたのでなんとか凌ぎました。
2005年12月20日
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というわけで、参禅のために、広島県の瀬戸内海に面した禅道場に伺いました。まずは、老師にご挨拶です。その時、修行の遣り方について、簡単に説明がありました。坐禅のときは一呼吸に成り切ることをご説明していただいたあと、「呼吸するとはどういうことですか?」と尋ねられました。私:???「呼吸するとは、吸って吐くことです。。。」と答えました。老師:「それは説明ですよ。もっと「端的」に表わすとどうなりますか。」とやさしく尋ねてくださいました。私:?(しばし間があって)!なにも言わず、吸って吐いてみせました。老師:「そう。そう。言葉や概念ではなく、そのものになりきることが禅の世界なんです。」なんのことはない、あとから考えると、これが答えそのものでした。しかし、ただ耳で聞くのと、自分で気付くとのは天と地くらいの開きがあります。それから、禅の修業の一つである<きんひん>について。きんひんとは、普段の10分の1くらいのスピードで禅堂のなかをゆっくりとあることです。その意味について、こんな説明がありました。私たちは、何も考えなくても歩くことができる。だから、歩いているとき、頭は別のことを考えてここにいない。ゆっくりと、足の筋肉の動き、足の裏の感触などを感じながら歩くことで、習慣となっている回路を断ち切り、ここにいることができるというものでした。身と心が一つで、いつも今、ここにいる。こういう新しい習慣を作り出すことが、禅の修業なのです。--------------------------------<続き>挨拶が終わると、道場の僧侶の方に生活のことなどをご案内いただきました。道場でお借りした着物と袴を身に着けましたが、最初は慣れないものでどうもぎこちない感じでした。その後、ほどなくして食事となりました。動作をゆっくり行い、口を動かしている間は、箸を持つ手を休め、じっくりと味わうのです。誰も一言も発しない食事はすごく違和感がありました。おまけに、初めはコツがわからず、食べ終わるのが一番最後になってしまい、はっきり言ってどぎまぎしました。そうして、楽しくない食事も終わり、さっそく禅堂で坐禅を組むことになりました。初めて参禅した人は、後片付けもせず、直ちに禅堂に行きなさいと言われるのです。ある程度の段階に達するまでは、坐禅と食事と寝るだけの生活です。これがまた逃げ場がなくて苦しかった。頭の中でいろんなことを考えて、気を散らせていると無意味に時間が過ぎていくけれど、つねに今を守ることを自分に課して心を見張っているのは、本当にどこにも逃げられないという感じでした。普段、いかに妄想の世界に遊んでいるのかよく分かる瞬間でもありました。1日目は昼から夜11時に寝るまで、結局9時間座りました。が、取り留めのない雑念が後から後から湧いてきて、心の捉えどころのなさを痛感しました。あと、道場の慣れない、そして、色々と不便な生活のことも気がかりで、そういうどうでもいいようなことさえ心配になって心が乱れるのでした。
2005年12月18日
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どうして坐禅で、どうして広島なのか?実は何を隠そう、私が今回修行した道場は、あの津留晃一さんが亡くなる数年前に修行したところなのです。数年前からインターネットでこの道場の存在は知っていました。ページから本物であることが伝わってきましたので惹かれるものがありました。しかし、生意気ですが、私は仏教を始め既存の宗教というものに信をおいていませんでした。生まれが京都なので、今日日の大方の坊さんがどういうものか知る機会も多く、失望する体験があったからかもしれません。また、禅というのがどれほどのものなのか、正直よく分かりませんでしたので、そこへ修行に行くことはちょっとないだろうなと思っていました。ところが、津留さんの坐禅体験記を読んで、坐禅や修行することがよく分かったように思いました。(今になって考えると、半分くらいしか理解できていなかったのですが)例によって、津留さんの説明はとても明快でした。なかでも、この道場の坐禅はまっすぐにわき目もふらずゴールを目指して進んでいく、正方形の敷地の芝を対角線上に刈り込んでいくようなもので、その代わりにお掃除のし残しが出るという表現はすごくよく分かりました。これに対し、津留さんの想念観察による浄化の道は日常生活のブロックを一つ一つ順に片付けていくイメージだそうです。とにかく、ほとんどの人が(例外はあるそうですが)、一週間で「今、ここ」の心の定位置を掴むという目標を達成できるということがとても魅力的に思えたのです。この中途半端な自分になんとかけりをつけたいという思いでした。
2005年12月15日
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悟りたいという気持ち、これを菩提心というそうです。悟るとかいう大それたことは別にして、何かを求める気持ちはたしかにあったと思います。禅を志し、決心したのは昨年の10月、その間、仕事の都合(?結局は自分の準備しだいだったと思うのですが)で二度三度と都合が悪くなり、一年が経ちました。正直、これだけ邪魔が入るのは、もしかして、禅は自分が行くべき道ではないのではないかとの思いもよぎりました。そして、今回、すべての状況がグリーンになった時、本当に禅に行きたいのか、自分に問いかけました。年に一回しか取れない一週間休暇を、何を好き好んでストイックな禅修業に行くのだろうかと。辛い修行になるのは目に見えていましたので。家族と一緒に南国のリゾートでのほほんと一週間を過ごすことも考えました。そういう過ごし方もありだなと。しかし、そう考えたとき、たしかに一時の癒しにはなるかもしれないけれども、休暇一週間が過ぎても、今の状況が何も変わらないことは明らかだと思いました。もちろん、禅に行ったからといって、何も変わらないかもしれない。そのことは承知しつつも、でも、単に楽しく休暇を過ごすのではなく、なんとかして、これから自分が拠って立つ基盤を確立したい。その思いは真剣で切実だったと思います。そういう意味で、今回、私を禅に向かわせてくれた精神的エネルギーは紛れもなく「菩提心」だったと思います。すごくありがたいことで、自分に感謝です。とはいえ、この進化したいという気持ちが修行の大きな障害となるのですが。。その話はおいおい。
2005年12月14日
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先月、8日間ほど広島の禅道場で修業してきました。帰った直後はすごい経験をしたと大層に考えていましたが、2週間経ってそういう気負いもなくなりました。その上で、やはり自分にとってとても貴重な体験だったという思いは変わりませんので、ブログに記録として残すことにしました。禅というのは、24時間あらゆる行動において、行為そのものに成り切ることです。そして、今だけになるということでもあります。身と心が一つ、自他が一つ、今ここに在る、そんなことを頭ではなく、なんとなく心で感じることができました。思えば、このブログもそうですが、ここ数年、そういうことを追求してきたように思います。たった一週間ですが、真実の世界の入り口に立って、そういう世界が本当にあることを実感できたことは、とてもありがたいことです。そこは、いわばマトリックスの外の世界です。
2005年12月13日
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歯に詰めてあった金属が取れたので、歯医者に行った。神経は抜いてあるので痛みはないのだが、それでもあのキイーンという歯を削る音は気持ちのよいものではない。そこでふと頭に浮かんだのが、もし歯医者がなかったら、きちんとものが噛めないので自分は生きてはいられないなということ。それは歯だけでなく、目も同じ。コンタクトかメガネがなければ、道も歩けない。野生の動物だったら、完全にアウトだろう。一個の生命として、自然とともに生きていく力を自分は既に失くしている、文明に依存して存在しているいのちなんだという妙にリアルな感覚があった。この世に生まれてきたときは、欠けることなく完全であったものを。数十年のあいだに、えらく無茶な使い方をしたものだ。それでも文句一つ言わず、命を支えて続けてくれている自分の身体が愛おしくなった。身体に感謝しつつ、大切に使おうと気持ちを新たにした。
2005年08月02日
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日記を書かなくなって早2ヶ月近くになる。理由は特になく、書きたいと思わなかったから。しなければならないからという理由ですることは、仕事だけで十分だ。だから、おめでとうも、今年もよろしくも省略。そういうことを考え出すとまた書くのが億劫になる。思ったことだけ書くとしよう。年末にかけて仕事が忙しく、ロボットと化していた。ロボットというのは、感性のスイッチをOFFにした状態。ただやらなければならないことを効率よくこなすだけの機械みたいな存在。年末にようやく我に返ったが、気分は沈んでいた。自分が何のために存在するのか、目的を見失っていた。一刹那、生きていてもしようがないとすら思った。私の師の一人は「人生に意味はない」と言い切った。また、別の一人は「人生はいろんなことがあって、終わる」と言った。生きるということにことさら意味を見出そうとするから苦しくなると気づく。生と死はその価値において同じもの。人間とは、生と死という二極の間にあるもの。津留さんはそう言った。しかし、現代社会の根底には、生が良きもので、死が悪しきものという価値観が存在する。その価値観を手放したとき、どちらでもいいというニュートラルな場所に行き着く。その場所からだけ、真に自由な選択が可能になる。5才の娘を見た。きらきら輝く眸、バラ色の頬、こぼれる笑顔。ただ生きること、存在することの喜びにあふれている。そうか、ただ楽しめばいいんだと思う。生に執着せず、死を忌み嫌わず、今ここに居てこの体験を味わい尽くそう。至福への道は遠くないと思う。
2005年01月05日
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週末の台風22号で、私が勤める会社の方が亡くなっていたことを今日知りました。入社してから一緒に働いたことはなかったけれど、就職のとき同じ大学の先輩として話を聞かせていただきました。いつも台風で亡くなった方のニュースを聞くたびに、こんなことを考えていました。亡くなった方はその亡くなる日の朝、台風のニュースを聞きながらまさか自分がその台風で今日死ぬとは考えもしなかったろうなと。それが見知った方であればなおさらです。私は必ずしも死を悪しきものとは思いませんので、徒に無常を感じて虚しくなるということはありません。しかし、このように身近な方が亡くなったのを聞くと、ああこれは人生からのメッセージだなと思います。「あなたの人生はこのままでいいのかい?」「精一杯今日一日を生きたかい?」「もし明日という日がなかったとしても悔いはないかい?」人によって受け取り方は様々でしょうが。これを書いていて2年前にさぁこれから楽ができるという時に癌で亡くなった母のことを思い出しました。母の死もまた私にとっては、母が最後に残してくれた愛あるメッセージです。そのメッセージを受け取って、人生をより豊かで幸せなものとすることが残った者の務めだと感じています。
2004年10月12日
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最近、ある本を読んで、愛の本質とは、自と他を等しくすることだと知った。それは二つが同じものということではなく、その価値において等しいという意味だ。まずは、自分が一番大切。それが全ての前提。次に、かけがえのない自分とまったく同等に、家族や周囲の人を愛す。この時点では自分の世界に「大事な人」が存在する。そして、究極は全ての人、あらゆる存在が自分と等価になること。その時、大事な人も消えてしまう。あらゆるものが等価なら大事という価値観が消えるから。してみると、今、世間でいうところの「愛」は、極めて局所的で限定された事象しか指していないようだ。あるいは自他の逆転現象との混同もある。つまり、他者に絶対的な価値を見出し、自分をそれに摺り寄せる行為。好きになった相手の好みのとおりに自分を合わせることはこれに当たる。これは愛とは逆の作用、進化の対極にあるものだ。
2004年10月07日
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昨日から本当によく降りますね。感心するほど。それでなくてもけだるい月曜日。空もどんよりと薄暗い。窓から見る景色も煙っていて近くのビルもぼんやりとしか見えない。なんだか力の入らない一日だった。しかし、日によって気分が異なるのは自然なこと。陽気さを表現する日もあれば、暗さを味わう日があってもいい。そう思うと少し気が楽になった。明日も雨のようだが、楽しい一日になりそうな気がする。
2004年10月04日
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金曜日に帰るコールをすると、奥さんがレンタルビデオのウエアハウスから、電話があったと。借りていたDVDが延滞になっていると電話で連絡があり、慌てて返しに行ったけど、延長料金として800円も取られた、しっかりしてよと言われました。私はまず驚きました。先週の土曜日にDVDを借りましたが、期間は一週間としたはずです。それがなぜか2泊3日で受け付けられていたようなのです。そして、腹が立ちました。相手が間違えたこと、合計で通常の3倍もの料金を取られたことに対して。家に帰ってすぐ電話をしようとしましたが、ここから葛藤が生じました。どのように話をしようかと考え、頭のなかでやり取りをシミュレーションするのですが、どうしても悪い方に想像が展開します。受付の女性はたしかに一週間と言ったと思うのですが、機械上は2泊3日となっていたようです。それに、返却日をレシートで確認するよう言われたのですが、一週間と思い込んでいる私は確認もしていませんでした。そしてなにより、もう延滞を認めて延長料金を支払ってしまっています。なぜきちんとレシートを確認しなかったのだろうと、後悔し自分を責める気持ちまで生まれる始末です。どうしても、平静に電話することができませんでした。そこで、棚上げにしてとりあえず食事をすることにしたのです。食事の後、幾分平静さを取り戻した私は、事実だけを伝えることにしました。それでも、興奮した気持ちは抑えられませんでしたが。結果はどうだったか。応対に出られた方は終始ていねいで、全面的にこちらの言い分を認め、謝罪してくれた上、返金にも応じてくれました。ウエアハウスさん、いつも気持ちいいサービスですが、本当に行き届いた会社です。あとで振り返って、あの葛藤の原因を探ると、相手が自分の主張を認めてくれなかったらどうしよう、という恐れの気持ちがありました。それを怒りというマイナスの感情で打ち消そうとしていたのです。しかし、マイナス同士では当然感情は癒されることがなく、意識がマイナス方向に向き、心配がどんどん広がり、私の身体はよくない結果が起こったときと同じように反応していました。想念の力の怖さですね。勉強になります。近頃いつも感情を観察していようと心掛けている私ですが、今回は簡単にその感情に巻き込まれてしまいました。日常のほんのささいなことですが、こんなことでも体験と想念観察のよい練習になります。24時間、映画でも観るように自分の感情の動きを観察していたいと思っています。では、想念を観察すると何がよいのか、これまでも少し書いていますが、今度はそのことに焦点を当てたいと思います。
2004年10月03日
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新しいことを始めようとするとき、それが本当に前向きな選択であるのか、今の場所から逃げようとしているのか、自分でも分からなくなる時ってありますよね。そんな時、津留さんはこう言っています。それは判断しようとしているのです、と。判断とは失敗を恐れる気持ちからきています。失敗とは、結果に痛みを感じることです。痛みとは、さあ変わりなさいという愛あるメッセージですから、本来は痛みがきたらただ変わればよいのです。自我が何も判断できないのは前に述べたとおりです。だから、考えて行動する必要はないのだそうです。その時決めればよいと。本当に決めたことは、宇宙がその現実を用意してくれるからです。いちばんよい時期に。これが決心して手放すということです。執着とは宇宙を信頼しない貧困意識からやってきます。2004年の今、物質世界への現実化という意味において、思いの力は行動の力を上回っているのだそうです。
2004年10月02日
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自我がするあらゆる努力は報われませんという趣旨のことを以前に書きました。しかし、した方がいい努力が一つだけあります。(しなくてもいいのですが、最後は同じ所に着きますから)それが「想念観察」です。自我の発する想念を見ている人は自我ではありません。それはハイヤーセルフの役割です。痛みを感じている人を見ている人は痛んでいる人ではないように、舞台を観る者は演じる者とは別の人格なのです。自我を見る者、すなわち、自我が自らをハイヤーセルフと同じ立場に置き観察する者となったとき、自我はハイヤーセルフと同化するわけです。そこから、自我の変容が始まります。変えようとしなくても自然に変わります。変わろうとする努力、無になろうとする努力が一切報われないのと対照的に。この世界が心の中かが映り出たものだとしたら、24時間自分の思いを観察することで、この現実を創っているのが自分の想いであったことに気付く瞬間がやってきます。そのとき、その人の中で、内と外との逆転が確信や信念よりもさらに強い、「知っている」という状態になるわけです。
2004年09月28日
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自我とはなにか、前々回の続きである。自我とはゲームのルールである。最初の仮説は、この世は全能なるものが体験を楽しむためのゲームの舞台というものであった。ゲームを楽しむにはルールや制限が必要であり、神から見れば自我とは素晴らしいものである。自我とは選択する力である。自分がどこに行きたいのか、どうなりたいのか、目的地を決める。手段はハイヤーセルフの役割であり、どうすればできるかということは考えない。したがって、心配はしない。心配とは起きてもいない事柄に自分の生命エネルギーを注ぐことである。心配するとしたら、手段を担当するハイヤーセルフの役目だ。自我の働きである思考を使って、ありたい自分、輝かしい自分をイメージする。望む結果があるなら、すでにそれが実現しているときの喜びを感じる。私たちは、こうした行為を妄想・白昼夢として禁じられてきたが、その喜びを感じている瞬間、私たちは宇宙の中心とつながっているようだ。意識の向きを選択することも自我の役割だ。あらゆる物事にはプラスの面とマイナスの面が等しく存在する。一つの個性のプラスサイドに意識を向けたものを長所、マイナスサイドに意識を向けた結果を短所と呼ぶ。そして、意識を向けている方向に私たちの現実が展開していく。意識の焦点を合わせることもそうだ。欲求が生じたらその後ろには恐れがある。~したいという思いには、~でないと困るという思いがあるということだ。私たちの行動はほとんどが恐れから発している。よいことをしようとする時さえ。恐れを感じたら、そこに意識を集中し、感情を見つめてやる。無意識に振り回されていた想いを意識することで、そこに光が当たり、コントロールから脱することができる。感情を感じ尽すことで、その感情はエネルギーを失うのである。
2004年09月26日
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今日は小二の娘の運動会だった。そこで感じたこと。入退場門のところに「がんばれ」と書かれていた。今の価値観では、がんばることは無条件にいいこととされているんだなぁとふと思った。赤組・白組に分かれて点数を競い、勝ち負けを争うことも。自分も以前だったらなんの違和感も持たなかっただろう。面白かったのは、応援合戦。替え歌で「○組、絶対勝つぞ、優勝だー」とか皆で歌うのだが、曲がなんと『世界に一つだけの花』だった。争ったり、一番になろうとしたりしなくていいんだよというメッセージが込められたあの歌を使うとは、すごい感覚だなぁ。そうやって、子供のころから、がんばることを奨励され、相手に勝つことをよしとする考え方が染み付いていくのだ。そういう状況を自分が否定的に捉えていることも感じた。以前はそんな自分の思いになかなか気付けなかったが。今の価値観を否定的に捉えて裁くことも、自分の心の自由性を失わせ、やはり苦しみにつながる。そんなことを考えるうちに、運動会は紅白接戦となり、追いつ追われつの白熱した展開で、赤組リードのうちに勝負は最終種目のリレーにもつれ込んだ。思わず娘の赤組を応援していた。勝たせてやりたい、勝って喜ぶ娘の顔が見たいという気持ちだった。リレーが終わり得点の発表となった。わずか3点。。わずか3点で残念ながら逆転負け。喜ぶ白組と対照的に赤組はしーんとしている。娘も表情に残念さが見て取れる。勝ち負けを握るとこういう体験ができるんだなぁと思った。勝負をかけたドキドキ、勝った時の感激、負けた時の悔しさ。どれもこれも得がたい体験だ。どちらも否定する必要はない。津留さんは、エゴシートに座るという言い方をしている。物事をエゴの視点から見るのか、ハイヤーセルフの視点から見るのかで受け取り方は全然違う。それを自分で選んでいることが分かっておればよいのだ。それで苦しみさえも楽しんでしまうことができたら、人生の達人の領域に達するように思えた。
2004年09月25日
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自我とは記憶である。自分はこういう者だと思っているとおりの人格である。考え方と言い替えてもいいだろう。人に○○のような言い方をされると××のように反応する。○○⇒××の⇒が自我だ。私ってそういう人なのと言うこともよくある。だが、それは違う、本来のあなたではない。記憶である自我が、過去の記憶や経験から○○に対して××と反応しているに過ぎない。自我は入力装置とも言える。五感というセンサーを備え、外の世界に反応して感情を発し、思考を巡らす。その想いを現実化しているのが、上位自我=ハイヤーセルフである。また、自我は無力である。徹底的に無力である。新世紀においては何一つ実現する力はない。有利と判断したことをやろうとするが。この世界はパラドックスである。自我のしよう、なりたいという考えの裏には、そうではないという思いがあり、その思いの強さが実現してしまう。自我はじゃんけん一つできない。津留さんは20人以上の中からじゃんけんで誰が勝つかを前日に予想する人の話をしている。自分の意思でじゃんけんで何を出すか決めているつもりでも、マクロから見たら全て決まっている。有利なことをしようとすると言ったが、自我には有利かどうか判断する力すらない。何も分からない。塞翁が馬という中国の故事がある。名馬を飼っていた男が、殿様から金に糸目を付けずに馬を所望され、断ったら次の日に馬が逃げ、半年後に馬が子馬を連れて戻り、息子がその子馬に乗り落馬して足が不自由になり、足が不自由だったため出征せず命を落とさずにすみ、、、といった筋書きだ。男の隣人がそのたびに一喜一憂するのだが、男はそれにどうして君にそれがいいこと(または悪いこと)だと分かるのかとたずね返す。最悪のことが最善の原因となる。それがこの世界。宇宙に偏在する振動波のごくごく狭い範囲しかカバーできない五感だけで情報を得、脳細胞の95%を眠らせたままで、何とか自分を守ろう、より快適になろうと悪戦苦闘する者。それが自我。これでは救いがないと思うかもしれないが、実はそうではない。
2004年09月24日
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昨日はイチローの話題で日記を書いたら久しぶりにアクセス数が多かった。やはり、津留さんの世界は一般受けしないのだろうか?それとも、私の文章力がないゆえか?しかし、自分の整理のために書いているようなものでもあるので、気にせず参ります。これまでの話で何回か「自我」という言葉がでてきているが、大方がこの自我が活躍すると悩みや苦しみが深くなるという文脈ではなかったかと思う。すると、すぐに自我は悪者、自我をなくすにはどうしたらよいか、と考えるのだが、実はこれも自我の働き(笑)では、自我とはいったい何か、その役割とは何なのかについて考えてみたい。
2004年09月23日
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今日はちょっと趣向を変えて、今日のGood&New(毎日起きるちょっとした良い出来事を意識的に明確にする習慣)の報告です。大リーグ年間最多安打に挑戦中のマリナーズのイチローが今日の試合で5打数5安打の大活躍!今日はたまたま(いつもやってるわけではありませんよ!(笑))、職場のPCでこっそりリアルタイムの速報にアクセスしていたのですが、回が進むにつれ毎打席ヒットヒットの連続でとうとう5打数5安打となった時には、最近イチローの調子が下降気味と伝えられていただけに感動すら覚えました。おまけに、シーズン4度目の1試合5安打は1922年のタイカップらに並ぶ大リーグ記録、実に106年ぶりの単打記録更新、昨日は史上二人目の4年間安打900本達成だそうで、まさに大リーグの歴史に燦然たる名を残す堂々たる名選手ぶりです。そして、イチローが大リーグに行くのではと騒がれていた頃、日本の評論家たちがなんと言っていたかを思い出していました。曰く、「イチローは大リーグに行ったら通用しない。」「あの程度の中距離ヒッターは大リーグにはゴロゴロいる。」等々、専門家、評論家といわれる人のなかにも悲観的な意見は少なくなかったように記憶しています。もし、その意見にイチローが耳を貸して、大リーグ行きを思いとどまっていたら、今日の世界のイチローは存在していないわけです。あの時すでにイチローは、そのまま日本にいても云億円の年俸、5年連続首位打者など、十分な富と名声を手にしていました。それらをなげうってリスクをとることは、頭で考えれば決して賢明な選択ではないでしょう。しかし、イチローには自分を深く信じる心と夢を生きようという情熱があったのだと思います。イチローといえば、突出した努力とともにそのメンタルの強さが語られますが、実際、彼は今日のありたい自分の姿、自分が何者なのかを他の誰よりも「知って」いたのでしょう。私は自分が、彼のように思いの強さを信じ、この世の誰より最も自分を信じる者であることを願ってやみません。
2004年09月22日
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前回述べたように体験の世界とは、結果には意味がない世界です。そうすると、いかなる時、いかなる場所、いかなる環境にいようとも、すべてすべてあるがままを受け容れて、その体験から学ぶことが可能になります。今ここ以外のどこにもいる必要がなくなります。自分がいるべき場所はここではないとか、環境さえもっと違っていたら、自分はより幸せになれるのに、といった考え方が、今ここに存在する自分の生命エネルギーを散漫なものにしていることは容易に想像がつきます。今、目の前にあるどんな事柄も、自分自身で作り出していないものなど何一つありません。すべてを自分で選び取っていたことに気付いたとき、自分の目の前の世界、すなわち、自分にとっての全宇宙が変わります。『あなたの今いるべき場所は、常にそこであり、他のどんな場所でもありません。今いるあなたの場所が、あなたにとって意識の進化のために最善の状態なのです。今ある状態が、あなたのハイヤーセルフがあなたのためにしつらえた最高の学びのステージだと考えて下さい。』-津留晃一-
2004年09月21日
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もう一方の思考の世界は、左脳を中心とした頭で考える世界です。これは自我の領域でもあります。では、何を考えるのかというと、自分を守るため、より快適になるため、自我の判断に基づいて、どうすればよいかを常に考えます。不都合と判断することが起きた場合、自我はそこにいようとはしません。何とかして、その場所から離れようと努力します。エネルギー的に言うと、この世界の本質は体験の世界ですから、感情を味わい尽くせばエネルギーは昇華され、困ったことは力を失います。カルマの解消です。誰でも、プラスの出来事についてはこれをやっています。感動や喜びは進んで味わおう味わおうとしますから、どんなに素晴らしい出来事も段々と輝きが薄れていく経験があると思います。これもカルマの解消です。カルマの法則とは、結果としてのある出来事が次の出来事の原因となるという宇宙法則であり、善悪の別はありません。このように思考の世界にはまり込むと、体験して感じて卒業となるところを堂々巡りしてしまうのです。自我が対処しようとする外の世界、普段私たちが現実と感じている世界は、最初の内と外との反転で書いたとおり、実は空想の世界であり、現実である私たちの内面から生み出されているのです。原因と結果で言えば、想念が先で物質世界が後です。だから、物質世界への働きかけはどうみても効率が悪いのです。これは半田広宣さんが定義する「人間型ゲシュタルト」という、元々外の世界があって後からそこに自分が生まれたという、私たちが抱いているごく当たり前の世界観からの脱出でもあります。人間型ゲシュタルトにいる限り、私たちは、周囲の人や環境に左右されることから逃れられません。自分が関与できない要因によって、理不尽な扱いを受けたり事件に遭ったりすれば誰だって自分を被害者と感じると思います。昼休みに会社の休憩室に居ると、この辺りがよく分かります。聞く気がなくても耳に入る女性の話は大概そういう話題です。誰々がどうしたとか、そんな行動は信じられないとか、他人の行動次第で振り回されているように見えてしまいます。まぁ、人の振る舞いはよく目につくということであり、私自身似たようなことをしているわけで(笑)、それを教えてもらえてありがたいと思っています。それにしても、自分が気に入らない人の言動で自分の幸せが左右されるなんて、すごく癪にさわることだと思います。自分の人生をもうそんな人たちにコントロールされないと、高らかに宣言しようではありませんか。それからもう一つ思考の世界の特徴をあげておきましょう。それはもともと矛盾を内包する世界であり、頭では理解できない世界であるということです。「他人には親切にしよう」という思いで奉仕活動に奔走している人が「家族は大切に」と言われたらどうでしょう。子供の頃、「友達は大事」といいつつ、受験で争うことに矛盾を感じなかったでしょうか。人と人との争いで、双方の言い分を聞けば聞くほど、どちらももっともであるように思えることはたくさんあるでしょう。正解はないのが正解なのです。その世界で、正しいか否か決めようとし、無理に論理的に説明しようとするから葛藤が生じるのです。津留さんは、何が正しいか決める必要なんかないと言い切っています。なぜならば、「結果には意味がない」からです。言い換えると、体験の世界であって起きてくることに、よい悪い、勝ち負け、正しい間違っているなどの区別は存在しないということになります。次回はその辺の話を書きます。
2004年09月19日
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そうはいっても、反対の価値観なんて握れないというのももっともです。これまでずっと固定化された価値観に縛られて生きてきたのですから。ならばこんな考え方はどうでしょう。それは、この世界は対立する価値観を両方経験して、どっちでもいいんだという「無極」に還って行く、体験の世界であるという考え方です。すなわち、「二極を体験して無極を知る」です。ここではどんなこともそのままを受入れて、そこで生じてくる感情を味わい尽くせばよいのです。ただそうなっているだけなのですから。痛みがあったらそこにいなさいと、津留さんは言います。その痛みに意識の方向を向け、その感覚を感じつくすこと、それが意識の光で照らすこと、つまり、ハイヤーセルフのエネルギーを送ることであるのだと。それはこういうわけです。痛んでいるとき、自分はただただ痛がっているという考え方、これは普通ですね。しかし、その自分の想いを観察する人は痛がっている人ではなく別の人です。痛みとはどのようなものか知っている人です。神が体験するためにこの世界を創ったとしたら、私たちの体験を通して、そのとき生起する感情を知ろうと観察することは、神の位置に立つことと同じことです。自分の中に、痛がっている自分という一部と、それを見ている自分の二人が存在し、前者を自我、後者を大いなる我とか神とかいうのです。そういう見方に慣れてくると、痛みに対してさえも、体験させてくれてありがとうという感謝が湧いてくるといいます。するともう痛みはさきほどより確実に軽くなっているのです。それはもはや自分が痛みの被害者ではなくなっているためです。好きなスポーツでの名誉の負傷と、他人から理不尽に受けた暴力による怪我と、同じ程度の傷でもどちらが痛いか考えただけですぐわかりますよね。津留さんが紹介していた良寛和尚の言葉です。以前、初めてこの言葉を目にした時はちょっとした衝撃でした。『災いがやってきたら災いに遭いなさい、病気がやってきたら病気に罹りなさい、死がやってきたら死になさい、それが災いに遭わない最善の方法です』次回は、思考の世界をみてみましょう。
2004年09月17日
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先日、価値観を握ることが恐れにつながり、苦しみを生み出しているのだと書きました。そこで、津留さんは価値観を手放す生き方を提案しているわけですが、価値観を手放した位置がニュートラルです。価値観から行動すると、外側に意識が向きます。すなわち、ある価値観を元に起きた事を裁いたり、他人を咎めたりするということです。例えば、「人に奉仕するのはよいことだ」と思っている人がいるとします。この人は自分では出来る限り他人に奉仕しようとするでしょう。でも、それではとどまりません。そうでない人を見ると相手を咎め、そのことによって自分が苦しくなります。自分が縛られている価値観を否定されて、誰だって気分よくはいられないですよね。では、価値観を弱めるにはどうすればよいのか。それには、反対サイドから見てみることが役立ちます。反対の価値観を握ることで、違った感情や現実が現れてきます。上の例だと、「人に奉仕しなくてもいいんだ」と思ってみることです。津留さんは、価値観を平らな地面にそそり立つ峻険な山に例えています。価値観を強く握っていると稜線はカミソリの刃先のようであり、そこに立つことは不可能です。しかし、価値観を弱めてなだらかにすると、頂上に立って全体を眺めることが可能になります。相手の立場で物を見られるようになります。そして、価値観を完全に手放した状態が平らに成った状態です。元号が平成に変わったのは、そうした宇宙の方向性を現しているとのことです。偶然ではないそうです。価値観を手放すと、しなければならないことがなくなります。私たちを縛っていた固定観念=諸々の「こうあらねばならない」が消滅しますから、したいことだけをするようになります。これは子供の遊びの感覚に例えられます。なので、できてもできなくてもどちらでもよくなります。結果を比較しないので、恐れがなくなります。ゆえに、苦しみがなくなり、これを不動心というそうです。
2004年09月16日
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恐れに対処するには次の二通りの方法があります。第一はこれまでやってきたように、私たちの外側にある原因(と思っているもの)を攻撃する、あるいは、そこから逃げ出すという方法です。しかし、その原因とは自我の視点から見た誤った解釈によるものであり、決して恐れから逃げられないというのは、前回述べたとおりです。もう一つの方法が恐れに正面から向かう方法です。恐れていることが実現してもいいじゃないかと、思うようになる方法です。そんなこと思えっこないと思うかもしれませんね。しかし、試してみましたか?恐れを克服しようと外側に対処して、克服する人は少なくないことでしょう。でも、自分の内面の恐れとじっくり向き合う人は少ないように思います。それは、恐れは恐れなのだから、はなから恐ろしいものと決め付けているからではないでしょうか。その正体なんか、まじまじと見たいとは思わないのが人情ですものね。斎藤一人さんという人がいます。高額納税者、いわゆる長者番付の常連で、ツイてると言っているとツイてくるという主張に代表されるように、思いの力を大切にされている経営者の方です。自分で変な人といっているように、行動の力を信じている一般世間とはちょっと違った考え方で成功されています。経営者ですから、赤字に陥ると普通の人は困ります。給料が払えなくなること、倒産することなどを恐れます。赤字が怖いなんて、そんなこと当たり前ですよね。でも、斎藤さんは自分の内側に問いかけるそうです。赤字になると本当に困るのか、そりゃ困るわと答えが返ってきたら、もう一度問うそうです。ほんとーに困るのかと。これを何度も繰り返す内に、「あっ、困らないわ」と思える瞬間が来るそうです。人間、本当につらい時は死んだ方がましだ、と思うそうです。で、どうして困るのかと問いかけていって、給料が払えない、会社がつぶれる、関係者に迷惑をかける、お金がなくなる、住むところがなくなる、など色々あるでしょうが、究極は食べられなくなって、最後は死んでしまう、ということがその理由ではないでしょうか。ところが、死んだ方がましと思っているのですから、ある意味どうってことないですよね。最悪でもたかだか死ぬだけですから。それで、別に困らないわって思えたら、その恐れはもう力を失っているというわけです。斎藤さんは、困ったことは起こらない、と断言しています。死んだ方がましという程つらくない人でも、思い出してください、最初の「私たちは神であって神が体験するためにこの世界にやってきた」という仮説を。この考えによれば、死んでもすべてが終わるわけではありません。またやり直しがききます。だからやっぱり死んでも大丈夫ですね。この考えのよいところは、もし死後の世界がなかったら、自分が死んだ時には、意識もないのですから、仮説が間違っていたことに気付くこともありません。「しまった、死後の世界はなかったんだー、俺はなんて浅はかだったんだ」と後悔することは絶対にないわけです。(笑)逆に死後の世界があったら、あぁ自分はやっぱり正しかったと安心(?)することでしょう。ですので、生命の永遠性を信じることで今の生き方によい影響があるなら、そういう考え方を握ることは、とてもお得で合理的な行動ということになるわけです。「ほんとーに困るのか」は、私もやってみましたが、ふっと力が抜けて、なんだか安心できる瞬間がやってきました。ほんとーに困ることってそうそうないのかも、もしかしたら、全くないのかもしれませんね。
2004年09月14日
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価値観によって、一つだったものに二極が生まれました。そして、物事を成した結果も二通りに分かれ、望む結果と望まない結果が生まれました。私たちは、その内、望まない結果のほうを受け取ることを恐れるようになります。それが、苦しみの原因でした。恐れとは今の世界を形作っている根本的な動機です。津留さんは、この三次元地球は100%恐れから成り立っているとまで言い切ります。洞窟に住み火を起こし、獰猛な肉食動物から身を守る必要に迫られた太古の昔から、私たちは恐れとともに生きてきました。私たちの表面意識である自我の最優先事項が、自分の肉体を守ることである以上、恐れは肉体を維持するために役立つ必要な感情なのでしょう。人間の意識の進化が十分でない状態では。現代の我々においても、生きていくために快適な環境を得ようと、日々努力しています。より収入を増やそう、より大きくて立派な家に住もう、いい車に乗ろう、職場での立場を良くしよう、という具合に。しかし、自我は持たないことを恐れ、持ったら今度はそれを失うことを恐れます。形あるものはすぐに壊れ始めるのが宿命である以上、エゴの努力では決して恐れから逃れることはできないことが分かります。意識の観点から見ると、「自分を守ろう」という思いが攻撃する相手を作り出しているのです。ですから、恐れを抱いたままでいると望まない現実を受け取る破目に陥るのです。では、その恐れに対処するにはどのようにすればよいのでしょうか。
2004年09月12日
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でも、このごく当たり前のように思える価値観こそが多くの人にとって、苦しみの原因なのです。そんなバカな。と、思われるのももっともです。社会では、こういった「常識」をわきまえて生きるのが分別ある大人だとされているからです。これらの価値観が苦しみを生み出すプロセスはこうです。ゲームという最初の前提に戻ったとき、できごとの結果を二つに分ける必要があります。良い結果と悪い結果に。必ず同じ結果ではゲームになりませんから。悪い結果にならないよう一生懸命努力し、それでこそ良い結果を得られた時には喜びが何倍にも増幅します。そうして、神であった人は苦しみや喜びという感情をリアルに味わうことができるのです。しかし、それで終わりではありません。体験することが本来の趣旨だったのに、一度良い結果の喜びを知ってしまうと、今度は結果にこだわり、うまくいかなかった時のことを考え、それを恐れるようになります。親にほめられて嬉しくない子供はいないでしょう。でも、子供はそのうち親にほめられるため行動するようになります。そこにはほめられないことへの恐れがあります。褒美の隠れたコストという言葉があるそうです。例えば、子供がのびのびと自由に楽しんですばらしい絵を描いたとしましょう。親は子供をほめてやります。子供はそれがうれしくてどんどん絵を描きます。そして、親はそれをほめる。そして、そんなことが続くと、子供は親からの賞賛を期待するようになり、賞賛を期待して描いた絵は質が落ちることが実験で証明されているそうです。恐れから出た行動の成果が喜びから出た行動の成果より劣る。納得できる話です。このように、価値観を握ることで人間はすばらしい体験をすることができたのですが、それを握り続けることが今度は恐れを生み、苦しみを増す事態を招いているわけです。本当は苦しみすらも神が体験したかったことなのですが、いずれにせよ、このようなメカニズムに人はなかなか気づけません。蛇足ですが、津留さんは価値観を手放せと決め付けているのではありません。価値観を握って3次元体験ゲームに夢中になっていてもいいんですよと言っています。でも、価値観を握ることに慣れ過ぎていて苦しんでいる人に、自由でなくなっていますよと伝えているわけです。本当にどちらでもよいのです。
2004年09月11日
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さて、そろそろ本題に戻りましょう。始めに書いたように、神が「体験」をするために、自我という制限や物理法則といったルールを設け、地球人生ゲームを考案したのだという仮説をおいたとしましょう。そのために必要となる前提が価値観、そこから生じる固定観念です。価値観とは、人が事象を裁く因となるものであり、モノサシであり、比較の源泉でもあります。もともと一つであったものを二つに分けるのに役立つものです。。善と悪、正と邪、プラスとマイナス、偉大と卑劣、上と下。。。これらのいずれも、ある価値観をもって二つのうちの一方に振り分けられた結果です。自分の話をすると、私はよく通勤電車で人にぶつかられて腹を立てていました。なんでこんなささいなことでこれほど怒りが湧くのだろうと、自分でも不思議なほどでした。そして、それは肉体的な痛みというよりも心の痛みでした。自分のなかに「人にぶつかるのはよくないこと、敷衍すると、人に迷惑をかけてはいけない。」という価値観があり、相手の行動を悪であると裁き、そのことによって自分が被害者となり、傷つくのです。「人に迷惑をかけてはいけない」今周りの人10人に尋ねたら、その内9人はそんなの当たり前と答えるのではないでしょうか。では、これはどうでしょう。「働かないと生きていけない、働かざるもの食うべからず」「今楽しんでばかりいると、必ず後で泣きを見る」「ラクしてお金なんか儲かるはずがない」「楽しいことばかりをして生きていけない」「目的を遂げるには、それに見合った我慢や努力が必要」「何かしないと自分には価値がない」これらの固定観念はすべて「真面目に励むのはよいこと」という価値観から派生したものと考えられますが、この価値観を否定し去ってしまうのはかなり困難だと思うのです。いかがでしょうか。
2004年09月10日
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もちろん、だからといって、これまで人間が獲得した知識が役に立たないわけではありません。飛行機は飛ぶし、超高層ビルも建つ、電気のおかげで夜も昼の明るさです。こうしてみると、私たちの現実がどのようにして成り立っているかなど、日常生活にはまったく関係がないようですが、実際はそうとは思えません。外側の世界を意識と切り離した独立の存在と捉える現代の考え方が、どれだけ人間が拠って立つ精神的支柱を頼りないものとしてしまったことでしょう。生命や意識とは、物質が進化してできたひと時の幻であれば、死は永遠の沈黙です。自分や自分の愛する人たちも、死んでしまえばただの土塊に過ぎない。。そんな恐ろしい考えを真実として受け入れた人たちが、刹那的な喜びを求めたり、自分たちのことだけを考えた行動に走ったりするのは、むしろ当然という気すらしてしまいます。もちろん、たった一度の人生だから大切に生きるんだという、心ある人がいることも事実ではありますが。それにしても、現代の生活は死を忌み嫌い、まるでなきがごとく振舞い、せっかく死を実感する機会である葬儀の場でさえ、きれいにパッケージ化された無機質なお仕着せのごとく感じられます。強烈な死の実感ほど、生を際立たせ、輝かせるものはないというのに。結局、私たち現代人が、あたかも中世の人が神に対するが如く信仰している科学は、本当のところ、それが真実かどうかはよく分かりません。津留さんは、私たちのこの頭では理解できないと言っています。そして、科学万能主義が世の中や人の心にもたらす矛盾や弊害が、もはや無視できないほど大きなものになりつつある今日、そういう考えを手放し、仮説としてでもいいから、津留さんのような考え方を受け入れ、その結果生き方が楽になるのなら、それこそ合理的な考え方ではないかと思うわけです。
2004年09月09日
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それはなぜか。数学についていえば、ゲーデルの不完全性定理というものによって「数学が不完全であることが数学によって証明されている」そうです。不完全性定理については以下のページを参考にしましたが、それによると不完全性定理は数学のみならず、全ての論理体系に適用され、次のような結論が導かれるそうです。http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html「どんな理論体系にも、証明不可能な命題(パラドックス)が必ず存在する。それは、その理論体系に矛盾がないことをその理論体系の中で決して証明できないということであり、つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない。」と。このことから、私たちの論理思考が宇宙の真理を矛盾なく解き明かす理論体系を構築する日は永遠に来ないわけです。次に、物理学や化学についても、かつては素粒子という究極の粒があって、それらが集まって物質が構成されていると思われていました。しかし、量子力学というものの登場でその辺の認識はすっかり変わってしまいました。すべての物質は確固としてそこに存在しているわけではなく、観測していない時には、波のような状態で確率的にその辺りに存在しているそうです。それが、観測することによって粒子として、存在場所が確定するそうです。これは必ずしもミクロの世界の事象ではありません。「シュレディンガーの猫」という思考実験によると、ミクロの事象を猫の生死に直結させる実験装置を考えることにより、生きている猫と死んでいる猫が重なって存在するという不思議な結果となります。シュレディンガーという人はこの実験を通して、だから量子力学は間違っているのだと主張したそうですが、私はこのことが観測という意識の働きが現実を創っていることを示しているとも考えられると思っています。
2004年09月06日
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現代文明の恩恵を受ける私たちは、科学が解き明かした確固たる真実の上に自分たちの日常生活が成り立っていると思っています。しかしながら、実際はそうでもないようです。科学には正しいことは証明できないって知ってました?科学にできるのは誤っていることの証明だけだそうです。こうではないかと仮説を立てて、合致する実験結果を集めて、正しいに違いないと決めているだけなんだそうです。してみると、「例外のない法則はないという」言葉は、自然に対する人間の理解がいかに不完全であるかを物語っていると思います。私は以前、現在の科学で分からないことがあるのはそれが発展途上だからであって、物理学や数学がこの先発展していけば、いつか人類の叡智(左脳的論理思考のこと)は宇宙の秘密を全て解き明かせるだろうと考えていました。しかし、舞台を未来に移してもそのようなことは起こりそうにありません。論理的に突き詰めて考え、一つ一つ矛盾を解消していけば、いつかは真理に辿り着けるというような類のことではないのです。
2004年09月05日
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「内が現実で、外が空想」「思っている通りになる」「私は無限の存在である」私たちの常識とは正反対のこれらの考え方が、津留さんの世界観を構成する基本となるものです。正確には、と、私は思います。しかし、津留さんはこれらの考えを信じなさいと言うわけではなりません。仮説としてこういう考え方をしてみたら、生き方がどう変わるかという話をしているのです。常識を握りしめて生きてきてそれでうまくいっているならなにも問題はないでしょう。けど、そうでないと思っているのなら、試してみる価値はあるはずということです。上記の考え方に立った場合、全能であるはずの神がなぜこんなに愚かで無力なのか、あるいはそういう不完全な存在しか創造できないのか、疑問が生じると津留さんは言います。そして、以下のような推論を導いています。神とは、全てを知り、どんなことでも思っただけで可能になる、愛そのものの存在です。しかし、全てを知るがゆえに知らないとはどうことか分かりません、何でも一瞬でできてしまうがゆえにできないとはどういうことか、またそれができた時の喜びを知りません、愛ならざるものの存在なくして愛とはどういうものか実感できません。だからこそ、「体験」するために、自我という制限や物理法則といったルールを設け、地球人生ゲームを考案したのだと。自らを分割し神であったことを忘れ、脳細胞の5%しか使えないようにし、さらにゲームを難しくするため悟りを得るのは簡単ではないという思い込みまで持たせて、ゲームをスタートさせたのだと。いきなりこのように始めると、荒唐無稽な感も禁じえないのですが、実は私たちが信じている科学にしても実はかなりあやふやな点が多いこともたしかです。であれば、幸せに生きるために都合のよい考え方を選択することは、さほど非合理的なこととも思えないのです。常識的な考え方がなぜ幸せに生きられない状況を生み、最初に挙げた考え方を選択するとどうして生き方が楽になるのかについては、この先触れていきたいと思います。
2004年09月04日
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それからというもの、英光舎さんで津留さんのCDを全部揃え、MP3プレイヤーを持ち歩き、暇さえあれば何度も何度も聞き返しました。4ヶ月で延べ150時間くらいにはなったでしょう。宇宙の成り立ち、人生の意味、自分の思い通りに生きる方法、幸せになる方法、、、これまで疑問だったことが悉く明らかになりました。津留さんの教えはまさしく現代の悟りの書であると思います。私は知る必要のあることはすべて知ったと感じました。でも、別に私は悟ったというわけではありません。当たり前ですが。「道を知ることと実際に歩くことは違う。」映画マトリックスに出てくる言葉の通りです。左脳で理解するだけでは不十分で、右脳で感じることが必要です。津留さんはそのための方法も明らかにしてくれています。これから、さらに深く自分の内側と向かい合う作業を続けていくつもりです。とにかく、少し前の私は自分が得たこのすばらしい知識を多くの人に伝えたいと思っていました。しかし同時に、自分にこの精妙な考えが伝えられるだろうか疑問でもありました。津留さんの文章は読めば読むほどその度新しい気付きがあるすばらしいものです。すでに津留さんが書かれた文章があるわけですから、自分が拙い文章を書いても仕方ないのではないかと。しかし、さらに津留さんの教えを学ぶうちに、さらに考え方が自由に広がりました。津留さんはある本のなかで、ある偉い高僧の考えを「たわ言」と表現されていました。もちろん、津留さんはその高僧を批評したわけではありません。自分の考えを含めて、どんな真理の言葉も煎じ詰めればすべて「たわ言」と言ったのです。その意味はどのような道を辿っても行き着くところは同じということです。こうでなければならないことは何もないということです。ならば私が受け取ったことを私なりに書くこともそれなりに意味があるのではないかと思ったわけです。もちろん、いうまでもなく「たわ言」ですが。というわけで、明日以降、私というフィルターを通して見た、津留さんの生き方を最高に楽にしてくれるコンセプトを記してみます。
2004年08月30日
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上海から帰って抱いた疑問とは、自分は本当に何がしたいのだろうということでした。この日記のタイトルにあるように、安定を求めるあまり人生を詰まらなくしてしまった。それで、もっと自分らしく自由に生きたいと思い、人生を変えようと思った。そのためのセミナーや、本から知識を得ることだったはずです。しかし、それがいつしか「目的」がはっきりしなくなり、変わら「なければならない」、成功し「なければならない」になっていったようです。安定が窮屈になって変化を求めたが、今度はその変化に追い立てられようとは皮肉なものです。自分は本当は何がしたいのか。一言で言えば、幸せになりたいのでしょう。経済的に成功することも、若くしてリタイアすることも、実は手段に過ぎない。言葉にすれば当たり前ですね。でも、私はその当たり前のことが分からなくなりかけていたのかもしれません。そして、私の意識がそのように内側を向くきっかけは津留晃一さんの講演CDでした。成田から帰りの京成スカイライナーの車中で聴いた津留さんの言葉が心に沁みました。きっとそういう風に仕組まれていたのでしょうね。
2004年08月29日
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前回、セミナー・講演会や読書などの自己啓発的な活動を止めていたと書きましたが、より正確に言えば、外向きの活動に限ってということになります。内側に向けての活動は続けていました。では、外に向いていた意識がなぜ内向きに変わったかというと、それはやはり上海行きがきっかけになったといえます。上海の発展ぶりは噂には聞いていましたが、想像の上を行くものでした。東京以上に林立する超高層ビル群、古い街並みから近代的な都市へのダイナミックな変貌、物凄い人の数、生活の向上を求めるそれらの人たちの意気込み、というか、エネルギー。粗削りで粗野ですが、とても面白く、わくわくするものを感じました。一緒に行った人のなかには、無秩序な感じがいやだと言う感想を漏らす人もいました。一例を挙げると、人は車にかまわず道路を渡る一方、車はスピードを落とさず疾走してくるといった調子です。中国人のガイドの話だと、人が余りに横着で車がきちんと道路を走れないので、事故が起きた場合は原則人が悪いという決まりになったそうです。中国では人がたくさんいるので人の命の価値が軽いとも。たしかに、帰国したとき、いつも見慣れた近所の景色からこれまで感じたことがないほどの静けさと穏やかさを感じたものです。それは経済活動についても当てはまるように思えました。これまで縁の薄かった物質的な豊かさ、成功の可能性を目の当たりにし、とにかく上へ上へという活気というか、将来への希望や明るさ、一種のお祭り騒ぎのような印象を受けました。明治期の日本ももしかしたらそういう感じだったのかも知れません。上海での私はそういう波長に同調していました。投資用不動産物件を見に行ったのですが、ここ数年の物件価格の上昇、万博やオリンピックなどへの期待、元切上げ観測などを聞くにつけて、私の頭の中で取らぬ狸の皮算用が始まりました。上海への投資で儲けて、それを頭金に日本で収益物件をいくつか買えば、働かなくても食べていけるかな、などと考えていました。恥ずかしい話ですが。本当にやりたいことをやるために、早く経済基盤を確立したい。手段は取り敢えず二の次、今のままでは仕事に終われてじっくり考える時間もない、と自分を納得させていました。たしかに、そういう考え方、方法論もあると思います。でも、私はある疑問を持ってしまったのです。その疑問とは、自分は本当に何がしたいのだろうということでした。
2004年08月28日
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上海から帰ってからというもの、色々思うところあって、楽天日記、セミナー、読書など、仕事と家庭生活以外のいわゆる自己啓発的な活動をすべてやめてみました。自分の中で考えも整理されてきたので、2ヶ月ほど前からそろそろ楽天日記を再開しようとかと思っていました。しかし、しばらく休んでしまうと、書くこともいっぱいあるような気がするし、どんな風に書こうかと身構えてしまい、なかなか踏み切れませんでした。このままではずるずる先延ばしになりそうなので、取り敢えず再開しますとだけ宣言してしまいます。ということで、これからしばらくはこの4ヶ月を振り返って書いてみようと思います。
2004年08月25日
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上海不動産視察ツアーから先ほど帰ってきました。1日目は朝5時起きで3時間半睡眠にもかかわらず、HSBC(香港銀行)の会議室を借りて夜の8時過ぎ(日本時間9時)まで食事もとらずに勉強会でした。2日目の昨日は投資用マンションを7件見て回り、夜は夜で2晩とも夜の街に繰り出して、お洒落なバーでお酒を飲んだり中のダンスホールで踊ったりと、それはそれは充実した3日間でとても楽しめました。とはいえ、慣れない外国で気を張っていたこともあり、家に帰ってお風呂に入り、ほっとしているところです。この体験は記録のためにも詳しくまとめてみたいと思いますが、明日から仕事なので今日は早く寝るとします。
2004年04月12日
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