Laub🍃

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2014.10.02
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 私は、以前から物語→哲学、哲学→物語と読む時に何か心のスイッチが切り替わる感覚があった。
だからこそ、妹が薦める小説と父が薦める哲学書を交互に読むことに得体のしれない心理的抵抗を感じてきたのだが、その理由がやっとはっきりした。

 根本的に、物語を読む時と、哲学書を読む時は読む時の視点が異ならざるを得ない。

 物語は「多くの視点、見方」が存在し、それを表明することもそれを元にして生きることも許される。
 けれど哲学書を読む時は、「結論が多数存在する」ことは許されない。解釈する人間、語る人間は著者という一人だけに限られるのだから。


 夏にデカルトとスピノザについてレポートを書いた時の不発感も、恐らくこれが原因として大きい。

 哲学の先生に、レポートがうまく書けなかったことについて相談したのだが、
「君は賛同し解説しているが、君自身の意見が少ない」

という意見を頂き、これを克服するために何をすべきかを考えた。

 恐らく、賛同しているが反論が少ない、問題提起が少ないという欠点へは私の場合『小論文のように書いてしまった』こと、『物語の感想のように書いてしまった』ことが影響している。

 現実会話は無数に視点が存在し、争いを避ける為、また保身の為に「見方は人それぞれ」という方便が通用する。
但し逼迫した状況で二者択一の選択をせねばならない時は、見方や立場を極端にせねばならない。
 物語は無数に視点が存在するが、そこでの批難対象や、話題にすら上がらない事は、
一人の作者によって作られた世界にある限界を示してもいる。
 哲学書は視点が一つだ。他者は常に観察対象であり、著者の色眼鏡に共感してもいいが、
自分の意見を言う段になれば何か他の所から意見の根拠を得る必要がある。その世界で完結してはいけない。

 物語は、短期間の感情の為だけにある物語も赦される。
そしてある程度の二次元と三次元の壁が存在する。
哲学で言うならば、この壁に近いものは個人と衆人の間に、そして著者と読者の間に存在する。

物語の舞台は同じ時代でも近い場所でまったく違う世界なのだ。


 物語は人間と世界を書いている。哲学書は意見と世界観を書いている。
哲学書の中には、誰それがこういった結論に至ったのはこれこれこういった理由がある、と書いているものもあるが、
その場合でさえ、批判はしやすい。

 書いている人間が一人であることは作家にも言えることだが、視点があまりに多く存在し、またその中で人間が生々しく、生涯をかけて論じているため

それを否定することはその世界から弾かれてしまうことになるため、またその作品が好きであればあるほど、
その中の共通理念を否定することは、その世界観を根源的に攻撃してしまうことに繋がるため、哲学よりも更に「同意せざるを得ない」ように思う。

 そして、物語は作者が「登場人物を言い争わせる」ことがしばしばメインになっているのに対し
哲学は「言い争った後の結論」をメインにせざるを得ない。
(但し実際にあった事件簿のような本は「言い争う」ことがメインとなる。結論を置いてはならない場合が多い)


 物語を読む目で哲学書を読む、哲学書を読む目で物語を読むこと自体はいいとしても、
感想を抱くとき、自分が果たしてどちら寄りで考えているのかを私はきちんと認識したい。
そうでなければ、感想も、小論文も、レポートも、非常に読みにくいもの、
分かりにくいものになるだろうから。




■蛇足として

好きな世界を壊したくないという気持ちが、その世界にのめりこみたいと思う欲求が
敢えてそのメガネの色に染まる行為なのだと思う。
実際染まることで楽しめる時もあるのだからその行為は肯定せざるを得ない。
だが、自己表出のために見たものを表現するならば、
どこからがその対象から受けた影響によるもので
どこからが他のところで育ってきた自分によるものなのかを
区別せねばならない時がいずれ来るだろう。





私は人生経験が少ない。読んだ本も少ない。自分が多くの人と同じ考え方だと思うことなどできない。
だからこそ私は独断と偏見の塊としてこれを書く。一時的な衝動も多く含まれている。






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最終更新日  2014.10.03 14:36:07 コメントを書く


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