ヤマトが東海・北陸・関東を蚕食していったのは三世紀後半以後 三角縁神獣鏡の時代 』(岡村秀典著)に、その前提を否定するような記述があった。
「倭奴国王」の冊封から五〇年をへた一〇七年、生口一六〇人を献じて安帝に朝貢した「倭国王師升等」については、その読み方に諸説あるが、「奴」や「伊都」を盟主とする北部九州の連合体制であるこことではほぼ意見の一致をみている。しかし、その「倭国王師升等」を通説のように倭の諸国を統合した王の意味に読んだばあい、その「倭国」はどれほどの範囲をふくむものであったのかについて、漠然と北部九州圏という以上に議論されることは殆ど無かった。
≪中略≫
日本列島から出土した漢鏡5期(後一世紀後半)の計二〇〇面近い鏡が、製作からあまり時間をおかずに流入し、その地で伝世したとするなら、九州とそれ以東ではほぼ均衡した数となり、その分布する北部九州から北陸・東海におよぶひろい地域が「倭国」の範囲とみることができる。 p.110,111
『後漢書』東夷伝の記事に出てくる「倭国」は引用文にもあるように北部九州圏というのが現在でも通常の理解だろう。しかし、ここで岡村氏は漢鏡の分布状況から東海・北陸を含む範囲が倭国の範囲として想定できるとしている。
そうすると、二世紀はじめの時点ですでに東海・北陸は「倭国」として統合されていたということになり、東海・北陸が蚕食されたのは三世紀後半以降であるという前提は否定されることになる。
私は倭国の範囲に関する岡村氏の想定に関して以下の疑問を持った。
1.外国へも移動できる鏡を元に「倭国」の範囲を想定するのは問題がある。
2.漢鏡の分布が北部九州と以東で均衡としているが、密度は依然北九州が高い。
3.鏡以外の文物でもサポートされる想定か。
4.倭国大乱より前にそれだけ広範囲の国家を想定すると小国家の成長も遡るが可能か。
これらの疑問についてはいずれ調べたいが、 いまのところ東海・北陸が蚕食されるのは三世紀後半以降と想定してヤマト襲来を考えていこう。
ただし、倭国大乱以前の広範囲な「倭国」成立の可能性も頭の隅に入れておきたい。 つづく
竹沼(藤岡エリア)古墳前期土器編年 2020.02.11
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小野寺秀也さん