おぢさんの覚え書き

おぢさんの覚え書き

2015.10.09
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カテゴリ: 歴史/考古学/毛人
ヤマト襲来 日本書紀の信頼性 については検討中だが、貴重な証言である書紀の記述に従ってヤマト襲来の様子を思い描いてみたい。

初代神武天皇から第十代崇神天皇までヤマト襲来に直接関係する記事は非常に少ない。以下の表は東方進出に関係しそうな記事を抜き出したもの。
書紀ヤマト襲来1.png

神武紀では日向から吉備などを経由して幾多の戦いを経て当初からの目的の場所である大和地方を非常な執念を持って攻略したことが読み取れる。しかし大和地方を平定した後、他の地方に進出したという記述はない。その後も崇神紀の四道将軍の記事まで殆ど大和地方や河内など近場の記事ばかりで占められている。孝元紀に兄大彦命(いろねおおびこのみこと)の子孫として近江が本拠と思われる狭狭城山君や越国造・筑紫国造、孝霊紀に吉備臣、孝安紀に尾張連など東国や畿外の氏族の名が出るが系譜上の話のみである。
このころのヤマトの勢力範囲はまだ畿内に限定されていたのではないかという憶測が頭に浮かぶ。

崇神紀十年に四道将軍の記事がある。書紀の記述では崇神天皇はそれまでひたすら内政に励んでいる。にもかかわらず疫病や百姓の逃亡などもあり国内はなかなか鎮まらなかった。崇神七年十一月条に大田田根子に大物主大神を長尾市に大国魂神をそれぞれ祀らせてようやく国内が鎮まったことが記されている。
国内が安定して海外進出の余力が生じたのだろうか大彦命を北陸、武渟川別を東海、吉備津彦を西道、丹波道主命を丹波へそれぞれ派遣し、従わないものは討伐するよう詔している。

四道将軍.png

神武東征の間に九州から大和地方までの西国がヤマトの支配下に入ったように想像していたが、四道将軍の派遣先が東西両方向であることからすればこの段階ではヤマトは大和地方周辺に限定される勢力だったと理解するのが自然だろう。
崇神十年十月の四道将軍出発の記事の直後に十一年四月の戎夷平定奏上の記事があり、派遣途上での記述が一切無い。そのため約半年の遠征でどこまで行ってどのような活動をしたのか全く不明だ。ともあれ四道将軍の記事の後には丹波、出雲、筑紫などが話の中に登場するようになる。





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Last updated  2015.10.12 09:43:51 コメントを書く


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