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ごった煮底辺生活記(凍結中
無言流必殺剣 01 -千代の章-
時は江戸。将軍の名が家光のころ。
黒瓦の屋敷の中の、粗末だが味わいある池のある庭に、二人の男が向かい合ってい
る。白い着物を着た初老の男と、黒い男。双方とも、まだ抜刀せず、構えているだけ
である。
張りつめた空気の中で、今、世界は静寂の中にあった。
初夏の風が風鈴をなでる中で、にらみ合いが一刻ほど経過した時、
「だめじゃ。やはり挑戦をうけてやれん」
初老の老人が、がくりとうなだれ、刀から手を離した。
張りつめた闘いの空気は、その瞬間、消えた。
黒い男も腰の刀から手をはずした。
黒い。この浪人風の男の容姿は、すべて黒で統一されている。
だが、男の特徴をあげるなら...人はまず、その顔を上げるだろう。
黒布でぐるぐる巻きにした顔は、僅かにその隙間から両目が見えるだけで、残りの
すべては、その黒布の下に隠されている。頭頂からは黒い長髪が、背にむけて流れて
いた。
この異形の浪人の唯一の表情をしめす目は殺気だった物ではなく、むしろ、
温かみのある美しい目である。決して名誉欲で狂った浪人の目ではない。
だからこそ、老人は、勝負を受けようとしたのだが、
「すまんな。この佐々木源之新、すでに剣を捨てた身じゃった」
いざ、向かい合うと、浮かんできたのだ。美しい一人娘の姿が。
黒い浪人は、数回、首を振ると、黒布で覆われた頭をペコリと下げた。
黒い浪人は門を抜けた。
「佐々木流道場か、みつけたぜ」
木製の看板に墨で書かれた文字を読んだのは、黒い浪人ではない。
黒布の中で、両目が動いた。その目には、二人の巨漢が写っていた。
声はその二人が言ったものである。
二人の巨漢に囲まれても、佐々木流道場師範、佐々木源之新が娘、佐々木千代は、
少しも動じていなかった。
「なんですか、貴方たち! 恥を知りなさい!」
突然、この二人が道場に現れたのは、千代が一人で剣の稽古をしている時だった。
手には木刀を、長い黒髪は背中でまとめ、そのりりしい両目は、武士の娘として恥の
ない、見事な娘だ。
「へっ。威勢のいいあまだ。だからさっきから言ってんじゃねえか」
巨漢の一人が、千代の背後から言った。
反射的にそっちに振り返り、木刀をかまえる。
そこには赤い羽織を着た、でぶの浪人がいた。腰には、そうとうな長さと見える巨
刀がぶらさがっている。顔は、たとえるなら豚に近い。千代はそう思った。
「俺たちゃあ、道場破りだってよう。え? かわいいお嬢ちゃん」
いつのまにか、もう一人の巨漢が、千代の背後から言った。
その手に千代の黒髪を掴んで。
千代は反射的に背後に木刀を振って離れた。
こっちの巨漢は、赤い巨漢とは正反対、がりがりで縦にひょろ長い男だった。背丈
は千代の五つ頭分くらい上だ。青い羽織を着て、異様に細い剣を腰につけている。
さっきから、こんな状態が続いていた。
「わたしがこの道場の師範です!」
叫んだ。だが、赤青の巨漢の反応は、闘いには興味がないようだ。この二人は今、
あきらかに、千代に興味をもっている。
千代は、掛け軸の前に飾ってある直刀に手をかけた。すらりと抜くと、
「いいかげんにしなさい。さもないと切るわよ!」
本気だ。それは両巨漢にも伝わったはず、だった。しかし、
「きゃあ!」
千代の本気は、青赤の巨漢にとって、赤ん坊の本気に等しかった。
直刀は青の巨漢の細い剣によってはじき飛ばされていた。
続けて赤の巨漢が、でぶの体で千代を道場の壁へ追い詰めた。
豚似の顔が、千代に迫った。
「やめい! それでも侍か!」
千代を救ったのは、佐々木源之新その人だった。その右手には刃剥き出しの長刀が
握られている。
師範の危機に、いや、娘の危機に再び剣をとったのである。
そんな源之新を見て、赤青の巨漢は千代から離れた。
「でてきましたね。20人切りの源之新さん」
修業時代、源之新は、町の荒くれ20人を相手に大立ち回りをしたことがあった。
「きさまら、何者だ!」
青の巨漢が、細い剣を振った。空気を切る音が響く。
「俺たちは赤砂党の者だ。あんたを殺しに来たんだよ」
赤砂党。今、日本中を騒がしている凄腕浪人集団であった。
凄腕の首領、赤砂龍源が仕切る恐怖の盗賊である。
その目的は幕府を倒す事だとも噂されている。
「な...赤砂党が何故わしを殺そうとするんじゃ!」
「簡単なこと。党員以外の凄腕は邪魔者でしかないからだ。いつ敵にまわるかも
しれんしな。おかしらの命令だ」
佐々木道場の門前に、再び黒い浪人が現れた。黒い布の隙間から、鋭い視線が道場
内にすいこまれている。
黒い浪人は道場に向け走った。
道場に入ると、床の中央にできた赤い血だまりの中に倒れている佐々木源之新がい
た。かけよると、源之新はまだ息があった。
「き、君か...お願いがある...娘の千代が赤砂党に...助けてやってく...」
そこまで言うのが源之新の限界だった。
黒い浪人は立ち上がった。黒い布に隠され、顔の表情は一切、外からは見ることが
できない。が、唯一、隙間から見える両目には怒りの影が見えただろうか。
西の空が赤みをおび、東のそらには闇の影が見える。
ひとけのない森林を二つに裂く山道。その先端に、かるい起伏がある。そこから斜
面になるのか、その先は見えない。
今、この地を支配しているものは静寂だった。
「いやああ!」
痛烈な悲鳴が静寂の支配を破った。それは佐々木千代の物だった。青い巨漢が道沿
いの巨木によりかかっているが、悲鳴はその巨木の後ろから聞こえた。青の巨漢は見
張り。では、赤の巨漢は何をしているのか。佐々木源之新の娘、千代の人生は赤の巨
漢によって破滅の道に変わるのか。源之新の最後の頼みは...。
その時、青の巨漢は、山道を登ってくる奇怪な気配に気がついた。背筋が凍るよう
な、自分の死を感じずにはおけないような。
気配が漂ってくる方向に身構えると、山道の起伏の向こうから黒い浪人がやって来
るのが見える。青の巨漢は呆然としていた。黒い服のせいではなく、顔のせいだ。
黒い布をぐるぐる巻いてある顔に不気味な印象をもったが、隙間から見える両目を
見て、ほっとした。こいつは人間だ。
「なんだ、てめえは!」
叫んだが、黒い浪人は無言のまま近づいてくる。ある程度近づくと、その接近は終
わった。一枚の紙と共に。
ひらひらと中を舞う紙は、黒い浪人が放った物だ。それは、青い巨漢の足元に舞い
降りた。手に取った青い巨漢は、それに書いてある人相書きを見て、再び呆然とした。
「こ...この顔は...おかしら...赤砂龍源様...」
その言葉が終わらない内に、黒い浪人は、青い巨漢を切っていた。切り口は右肩か
ら左脇にかけて。赤い血が吹き出た。赤い噴水という表現がピタリ。が、不思議にそ
れは黒い浪人に一点の赤点もつける事ができなかった。
瞬時の怪異に青い巨漢は呆然と、吹き出る自分の血を眺めた。
「あ...?」
青い巨漢の脳裏に、一つの名前が浮かんだ。凄腕の浪人で、赤砂党員を次々と惨殺
している男の名前を。そう、その男も黒い服を着て、黒い布で顔を...
「き...きさま...無言か! 死神の無言かあ!」
無言と呼ばれた黒い浪人から、再び銀線が走った。目にも止まらぬ瞬時の斬撃は青
い巨漢の首を中に舞わせ、巨木の後への飛行を可能にした。
巨木の後ろから、でぶの巨体が現れた。赤い巨漢だ。右小脇に千代をかかえている。
あまりの体格の違いに、大人が子供をかかえているかのように見える。
千代の服は、所々はだけてはいるが、間に合ったらしい。
「あ...あなたは!」
「て...てめえは!」
二人が叫んだ。どうやら、赤い巨漢は夢中だったらしく、青い巨漢と無言との闘い
を知らなかったようだ。だが、首を見たのだ。勝負の結果はわかっている。
赤い巨漢は思いだした。黒い死神の名前を。
「その服の色に、その顔...。貴様、無言か!」
でぶの手から、千代は落下した。どさりと地に落ちるとすばやく巨木の後ろに隠れ
て戦況をうかがう。赤い巨漢は恐怖におびえている...かと思われたが違った。
「くくく。そうか、貴様、あいつを殺したのか...」
あいつとは青の巨漢の事である。そして、赤の巨漢は笑った。その笑いは山々の壁
面に反射し、やまびことなって響きわたった。無言の表情は見えない。
「貴様を殺せば、俺は赤砂党の幹部になれる。確実にな」
刀を抜いた。幅の広い、分厚い鉄一枚の刀。
「見ろや。こいつは青龍刀といってな、大陸から流れてきたもんだ。よく切れるぞう」
横に一太刀。巨木の輪郭が横にずれた。激しい音をたてて倒れる巨木の後ろで千代
がおびえている。この男...赤の巨漢は、この巨木...大人二人で抱けるかどうか、
という巨木を豆腐を切るかのような手軽さで切ってしまったのだ。
「そして、俺の体術は常人の目にはとらえられん」
消えた。赤の巨漢が。でぶの体を見逃すはずはない。だが、千代の視界には無言し
か見えないのだ。
無言がしゃがんだ。その後ろから青龍刀が現れるとは。
無言の頭あたりを狙った一撃だった。無言は前転して間合いから逃れた。
「さすがだな。でもこれで最後だ」
再び赤の巨漢が消えた。ゆっくりと立ち上がる無言の周囲に砂ぼこりがたつ。
千代はそこに悪夢としか言えない光景を見た。赤いでぶが...二人、いや四人、い
や、八人に見えたのである。超高速移動による残像...分身の術であった。
よりによって、こんなでぶがこの技の使い手とは。夢もくそもない。
八人の虚影に周囲を囲まれても、無言は一言もしゃべらない。あせっている様子も
ない。ただ、片手に日本刀をもってたたずむのみ、であった。
八人が必殺の一撃を加えようとした時、無言の右手がすうっと上がった。手には日
本刀が握られている。千代は見た。黒布の隙間の両目が閉じられるのを。
千代は再び悪夢を見た。無言の手が増えているのである。二本、四本、八本、いや、
これは...千本だ。無言の右手が千手観音のように無数に増殖したのだ。
この現象が右手を高速で動かしているため残像、つまり手の分身である事を見切っ
た者は、この場にいなかった。
千対八。勝負は見えていた。無言の千手がうなりをあげて横に一閃された時、八人
の赤い巨漢は、まさに千切りされ、地にばらばらと落ちていた。
もはや、人間の面影など残さない人間千切りを見ても、千代は救われた気持ちには
ならなかった。新たな、さらに恐ろしい怪人が現れたにすぎないのではないか。
そう思ったのである。
そして、それは間違いではなかったのかもしれない。
無言の右手が一本にもどると、顔の黒い布がはらりとほどけたのである。切れ端が
鋭利なところを見ると、どうやら、赤い巨漢の後方からの一撃。その功績か。
「あ...きゃあっ!」
悲鳴が山々に響いた。千代の悲鳴である。彼女は見たのだ。無言の素顔を。
目は、両目は色男を思わせるりりしい目だ。が、鼻が、口が、まるで溶接されたか
のようにくっついているのだ。
これが人間の顔か? かすかに鼻を思わせる穴があるが、口は恐らく開くことはあ
るまい。
彼が無言と呼ばれる原因はこれだったのか。
素晴らしい双眼をもつ顔だけに、その惨状はとてつない悲壮感と恐怖感を千代にも
たらした。思わず悲鳴をあげてしまった彼女を責めることはできまい。
無言は黒布をきつく巻き直すと、千代を見た。千代は脅えていた。
「この男はおそろしい化け物だ」
と。
だが、それは間違っていたのかもしれない。黒布の隙間の両目を見よ。これほど悲
しみをおびた目を見たことがあるか。彼は人間なのである。
人間千切りと首無し死体に頭を下げて、無言はもと来た道を戻って行った。その黒
い背中が夕日に赤く染められた時、千代は黒い浪人の後を追って走りだしていた。
彼に、せめて一言、礼を伝えるために。
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