エレファントピア

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教育と発展と


その割には政府の教育システムが整わず、その合間をNGOが埋めるような形になり、NGOにやってもらうと政府はあえてやらなかったりして、まだまだこの国の教育システムには改善の余地が有り余っているのだが、教育の大切さには、見解が一致している。

教育が大事だ。という意見は尤もで、異論はない。
でも、ほんとうにそれだけなのかな?
と思う。


スリランカでは義務教育は全部無料で、確かに地域差はあるだろうが、義務教育施設は概ね整っている。子供たちは塾にも行き、少しでも能力のある子供は本人も親もどうにかして高等教育を受けさせようとする。スリランカ人は勉強熱心だし、教育立国であると思う。

これほど人々が教育熱心なのも、最終学歴が直接就職に関わるからだ。
それはミャンマーでも同じだった。9年生までパスすれば、事務職に就ける。10年生で大学進学の試験を受け、大学に行ければ給与のいい外国NGOや国際機関に就職が可能になる。それ以下では、なかなか“まとも”な仕事に就くことが難しい。

またまたスリランカに話が戻るが、かの国は教育熱心で、それでも高等教育を受けるエリートは2%(!)と聞いた。
が、今、その彼らに職がない。
もちろん一番の理由は引き続く内乱の影響だろうが、それで優秀な人材は伝をたどって外国に流出してしまう。私のシンガポールでの元上司もスリランカ人だった。日本の大学院に留学していたという彼は、「(祖国には)帰りたいけれど、家族や子供の教育もあるし。。」と言っていた。

つまり、教育は個人が貧困から脱して豊かになるためには役立っているようだけれども、国を発展させたり、国が豊かになって、さほど優秀じゃなかった(高等教育まで行かなかった)人々が豊かになっていくことには貢献しているとは言えないのではないか。


ある政府の人は、「シンガポールや日本が発展したのは、教育があったからじゃないか。我々もがんばって教育をせねば。」と言っていて、それは是非ともがんばってください。と思ったのだったが、しかし実はそれだけじゃあ、ないでしょ~。と思った。

教育というのは、もちつきで言えば杵と臼ともち米がそろった段階である。
つまり基盤なのだ。もちを作るにはもちをつかねばならない。男は杵を振り下ろし、女はもちをひっくり返し、呼吸を合わせてぺったんぺったんやらないければいけないのである。
つまり、日本人に対して言われ尽くしていて、さらに昨今その存在が危うい「勤勉さ」が必要なのだと思う。

もちろん教育があって、勤勉なだけでも、足らない。お金とかタイミングとか戦略とかやる気とか、そもそも何を目的にしてるんだろうとか、いろいろあるだろうが、教育のその先、受け皿、つまり経済をどうにかしていかないと、流出した優秀な人材をもらった国が特をするだけでしょう。


ところで「日本人は勤勉」などと定義すると自己否定しているようで嫌なのだが、我々日本人スタッフが勤勉に(要領悪く)夜の夜中まで仕事をしている様を見ていたミャンマー人やスリランカのスタッフは一様に、「なるほどこれが日本が発展したわけなのか。。」と思ったらしい。

それで「我々もがんばらねば。。」と少しでも思ってくれたら残業のかいもあったというものである。「いいや、発展しなくても。あんなに働くくらいなら。」と思われていたりして…。


(2006年3月16日)

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