エレファントピア

エレファントピア

アチェの2年 2007年4月~12月



● 2007年4月

記録によると2007年4月3日にアチェ州アチェバラ県ムラボーに赴任しました。
赴任数週間前に靭帯を切る怪我をして、杖をつきつき赴任したら、空港から事務所に向かう車で交通事故にあったのも、今では懐かしい思い出です。。あの時はバイクの運転手が後部座席に頭から突っ込んできました。ほんとーに、たまったま、前の座席に乗っていたので、(私は)大丈夫でしたが。運転手も、出血の割りには大したことが無かったようで、よかったです。頭はたくさん血が出るのですね。いやあ、ビビった、ビビった。

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そしてこの写真は赴任後3週間経った頃の、事業地へ向かう道路の様子です。
ちょうど両側が切り立って、道路(兼、橋)のようになっていましたが、見事にどっちゃり落ちてしまいました。これ、日本国政府の供与です。あーあ、残念。この時はまだ瑕疵期間だったので、日を置かずに修復が行われたのですが、2年経った今では、残念ながら壊れるに任せている感じ。道路も橋も、壊れてみると、その弱いところや、不具合がはっきりしますね。土木工事は自然相手の工事だから、より大変なのだろうなあ、と思います。
私のスタッフの1人は、以前この道路工事の監督(Inspector)として雇われていたらしいのですが、ここを通るたびに恐縮していました。恐縮されても困るけどね。

(2009年5月22日作成)


● 2007年5月になりました。

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仕事をしています。そもそもこの2年、休暇の時以外は仕事しかしていなかったような。。当たり前といえば当たり前ですが、インドネシア語一つできていないというのは、どうなのか。。もったいなかったです。

これはアチェバラ県ウォイラ郡ルンタクヤ村での、調査の様子です。
もともと、津波・地震復興支援(で、エラく集まってしまった)募金による住宅建設・供与事業の担当として現地に派遣されたのですが、他にも住宅事業後の事業後の事業形成の任を受けていました。こういう調査と形成の段階は、全てが手探りなので、難しさもありますが、一番楽しいです。村の生活を観察し、声を聞き、また声にならず、表に表れにくいそれやこれを感知し…。
結局「ニーズ」と呼ばれるものの全てをカバーできるわけではないし、「良かれ」と思ったことの全てにプラスの結果が出るわけでもありません。それでも何かを「起す」というときには、客観的なニーズの認識や分析をしのぐ、人の「思い」(思い込み?)がまわりの人を動かしていくのだなあ、と感じました。むしろ認識や分析や理論武装というものは、その「思い」をより確実に相手に伝えるための手段なのかもしれません。
もちろん思い込みだけで浄財を何百、何千万とかけるわけではありませんが、物事が動いていくときに、ふとそんなことを感じました。

(2009年5月22日作成)


● 2007年6月4日

事業地ウォイラ郡のマーケットで火事がありました。
ウチの現場事務所もそこにあったので、至急スタッフに行ってもらいました。彼が到着した時点では、下火になっており、マーケットの住民はすべて避難した後でした。

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現場事務所隣のワークショップから出火したらしいのですが、風向きのためか、事務所にはほとんど被害はありませんでした。しかし風下にあったマーケットはほぼ全焼。およそ60世帯が焼きだされました。

しかしなんというか、写真でも、その後自分で行っても思ったのですが、奇妙なほどに人々に悲壮感がありません。だって火事ですよ?家も店も全部焼けちゃったんですよ?泣いたり、ぼーっとしている人もちらほらいたそうですが、なんか全体的に「あ~あ(想定の範疇内?)」って感じ。。まあ、この人たちは、地震と、それになんといっても紛争に長年もまれていますからね~。


Fire2


そして火が燃やすべきものをほとんど燃やし尽くした後、やってきました消防車が!(あったんだね。。)確かこれも日本からの供与だったかもしれない。。燃えてるときにはほとんどお目にかかったことがありませんが。
そして皆、嬉々として(?)ホースを握っています。写真に写っている人の中でホンモノの消防士さんは多分1-2人。消防車からホースの先まで、ずらーっと、我もわれもと男集がホースを握っています。役に立っているのかはさておき、、相互補助の美徳ですね。。


2年経った2009年時点では、マーケットは(以前よりもやや)美しく蘇っています。行き着けの食堂もとってもきれいになったのですが、ママ曰く「火事がなかったら、立て直そうなんて思わなかっただろうから、まあ、火事のおかげね」とのこと。。

(2009年5月22日作成)


● 2007年7月26日

7月になると、そろそろ第3期住宅(331軒)が完成し、完成した住宅から住民への引渡しが始まりました。写真は記念撮影を終えて、ばらばらしだしたところ。

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白い壁に赤い屋根の家です。

アチェではいろいろな団体が住宅を供与していますので、団体によって家のデザインがそれぞれ違っていて面白いです。日本はやり、機能性重視、耐震性重視、と言う感じ。
デザイン的も最もステキだったのがドイツの団体。後アメリカの団体はお金をかけていましたね~。トイレのセプティックタンク(汚水浄化槽)に9000ドルかけたとかいう話があって、ビビりました。それって家と同じ値段!?でもトイレは大切ですからね。今回住宅建設に係ってみて、いわゆる水周りの難しさと大切さを知りました。

(2009年5月25日作成)


● 2007年8月23日

8月には住宅事業終了と住民への住宅引渡し式典がありました。
在任中に開催した式典の中では、最も大きく、最もまともだった式典でした。それで、いろいろとアチェっぽいセッティングがありました。


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彼らはアチェの新郎新婦。本当のカップルではありません。コスプレ(?)。VIPがきたときに、大きな婚礼用の傘をVIPに差しかけて会場に一緒に歩いてくるのがお役目でした。その後は、式典の間中、ステージの上でかしこまって座っているのがお役目。まさに生きた飾り物。不思議だ。。


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こちらはアチェのダンスを披露してくれる子供たち。彼らは対象村落の一つ、ルンタナトー村から来てもらいましたが、それぞれの村が、それぞれのダンスチームをもっているようです。男の子一人(花婿さん役)と女の子が十名程度。衣装はそれぞれの村で(若干)違っていますが、ダンスと音楽はほぼ同じ。代々受け継がれているのでしょうか。村内の結婚式やお祝い事のイベントに呼ばれては、ダンスを披露しているそうです。


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そしてアチェ太鼓を疲労してくれる青年グループ。この時初めてアチェ太鼓を聞いたのですが、なかなかすばらしかったです。彼らの傍らに唄を朗詠するおじいさんがいて、彼の音頭と唄に拠って、太鼓が打ち鳴らされます。太鼓がドンドンかき鳴らされるのはパフォーマンスの半分くらいで、あとの半分はチームが一体となった踊り。踊りといっても、唄の内容を表したジェスチャーのようだったり、チーム全体で、生き物(ガルーダ)を模したり、その動きは様々。10名ほどの若者が太鼓の音に合わせて、一人ひとりになったり、一つになったり、、とてもダイナミックでした。


しかし最もアチェっぽかったのは、VIPが1時間半遅れてきたことです!
待たせることにも、待つことにも頓着しない人々…。慣れすぎちゃって、まずい。

(2009年5月26日作成)


● 2007年9月

確か2007年は9月にラマダンがあったはず。
ラマダンにはなぜか秋ごろ…という印象があったのですが、イスラム暦9の月に行われるラマダンは、毎年11日繰り上がっていくらしいですね。だから涼しいときのラマダンは(まだ)楽だけれど、暑いときは大変。。と言っていました。

もちろんお天道さまが空にある日中は、ものを食べることも、水を飲むことも、タバコを吸うこともできません。水も飲めないのは、あの気候で結構辛いと思います。皆慣れているから平気、と言っていましたが。同僚が看護師さんだったのですが、絶対身体にいいわけない!と言って、抵抗感があったようです。生理中の女性や病気の人は免除されますが、その分ラマダンでない時に、自己断食を行います。
しかしなんと言ってもスタッフが辛そうだったのは、禁煙ですね~。すごいチェーンスモーカーが多かったので。ラマダンが無かったら寿命が縮まっていそう。。

この時期の外国人も、いろいろと不便です。この年は、私は早々に一時帰国したのでそうでもありませんでしたが。まずお昼ご飯の確保が重大な問題。ご飯を買いに行くのにも、スタッフにちょっとバイクで行ってきて、という訳には行かず、車で行ってもらいました。バイクだと、真昼間に食べ物を持っているのを見つかると、宗教警察に捕まるらしい。


猫と一緒にはらぺこでした。

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● 2007年10月25日・29日

2007年の雨季にはたくさん雨が降りました。洪水のことをインドネシア語では「バンジール」と言います。洪水というよりも、浸水状態もまた「バンジール」。この年の10月にはこの言葉をたくさん聞きました。なにかというとバンジール。スタッフも運転手もよく「家がバンジールだ!」「道がバンジールで通れない!」と言って遅刻してきていたよなあ。。

事業地に行くにもバンジールで、これがなかなか大変でした。


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事業地への途中、両側をゴム林に挟まれた道を通るのですが、ここは土地が少し低いらしく、大雨が降るとしょっちゅうバンジールっていました。こういう状態で強行突破しようとするので、車両にいいはずはありません。必ず後で泣きを見ることになる(と、後で気付いた。。)


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すかさず遊ぶ子供たち。しかし完全に無邪気に遊んでいるわけではなく、運転手に「ここに穴がある、あそこに穴がある」と道(の穴)案内をしては、小銭を稼ぐビジネスチャイルドでもあります。ウチの運転手さんは「いらない、いらない」と追っ払っていましたが、慣れない人には必要なサービスかも。


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どこからともなく現れる渡し舟屋さん。この渡し舟は一体どこから、どうやって現れるのか?結局最後まで謎でした。2-3のグループが渡しをしていました。お金を払って乗せてもらう人もいるし、自分(のバイク)過信して、強行突破を試みる人もいます。


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家の前の即席プールで遊ぶ子供たち。この辺はもともと土地が低いので、高床式の住宅です。きっとこの子達も後で身体がかゆくなったりしたんだろうなあ。。でも今が楽しければ、それでいいよね!(?)


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写真では見えにくいかもしれませんが、中央のおじいさん、釣り糸を垂れています。
釣れるのか?!何か、この状態で!!??ここ、普段道だよ!?
と、思うのですが、いつもは林の中の沼などにいる鯰などが増水と共に出てくるので、釣れないことはないそうです。魚もどちらかというと、水とともに泳いで来たはいいが、帰り道が分からないで、トラップに嵌った感じでしょうか。大雨が降るのは困りますが、魚にありつけるというメリットもなくはない。


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日が経つにつれ、だんだん水が下流(海の方)に流れていきます。ゴム林の道に溜まった水は2-3日かけてゆっくりゆっくり周囲をバンジールにしながら海へ流れていくわけです。そこで、普段は用途自体が謎だった小船などが出現して、家族の足となります。

牧歌的な風景ですが、これは本当は政府が用水路を整えて、水の流れをコントロールしないといけないんだろうなあ。。


「バンジール」は立派な災害の一つな訳ですが、皆わーわー言いながらも状況を楽しんでいたようなのでした。

(2009年5月28日作成)


● 2007年11月1日


2007年11月の写真を確認していたら、この月には、(今はまだ…)ブログには書けないような物事が勃発していたり、その関連のあれこれが多かったのだということに気がつきました。いつか書ける時が来るのだろうか。。
そこで当たり障りなく写真をUpしておきます。


アチェ州のシムルー島に行きました。ここは非常に土地が平らで、津波の時には海岸沿いにあったほとんどの家屋が被害にあったそうです。
それでも津波の被害そのもので亡くなった人はいなかったそうです。島は100年前にも大きな津波に襲われたことがあり、その時の学びから言い伝えられてきた「海の水が遠くに引いていったら、山に逃げる」という言葉を島の人々が守ったからだと聞いています。


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本当に人の手の入っていない自然、という感じでした。津波がなかったら、まだまだもっと忘れ去られたままだったのかもなあ。。
この島にも津波後は住宅、病院、保健施設の建設などの援助が入りました。


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100年前の伝承が親から子へと伝えられ、それがまだまだ当たり前に生きているように感じられた、島でした。

(2009年5月29日)


● 2007年12月11日

この日は事業対象地の一つであるグノンランブン村に調査に行きました。
調査、調査とかれこれこの時点で8ヶ月も経っています。ただただ漫然と調査だけしていたわけではありませんが、村の人たちも、なんだろうなこの人たちは。。と思っただろうなあ。。

そろそろ活動目的も内容も固まってきたこの頃。対象候補地である村々の細かい情報をさらに集めに来ました。村の(ヒマそうな)人たちに集まってもらって、村の地図を描いてもらいつつ、話を聞きます。

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農村社会調査でよく使われる「Village Maping」と呼ばれる作業です。他にも調査手法はいろいろありますが、私はこの地図作りが、一番(簡単で)好きでした。

誰が地図を書くのか。というのを村の人たちが決定していく過程も面白い。ある村では、決して、誰もペンに触ろうとしないし、ある村では、我も我もとペンの取り合いになる。この辺で一番多かったのは、「地図を描いてもらいたいんだけど。。」と頼むと、「ちょっと待ってろ!」と言って、村で一番絵心のある人を連れてくるケース。
こちらとしては、皆さんに描いてもらって全然かまわないんだけれど、「そういうことなら、この人だ!」っていうのが、村の中であるんだろうなあ。。

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こちらは子供たちのグループ。
地図のはずだけど、なんだかいろいろ楽しいことになってるねえ。

ちなみに私が子供の頃は、小学3年か4年生の社会科で、「近所の地図を書こう」という授業がありました。あれ、大嫌いだった。上手く出来なくて。

そう思い出してみると、地図を描くことって、そう簡単じゃあないんですよね。人には気軽に頼んでしまいましたが。。

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できた地図を元に、子供たちに村を案内してもらいます。

水場から遠く離れた不便な場所に位置しているのですが、子供たちの仲がよく、本当によく遊んでいるなあ。。という印象を持った村でした。
村の中心にある集会場(ムナサ)や広場(人の家)に、人が集まりやすい構造だったのかもしれません。

(2009年6月3日作成)

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