カルトへの態度



第一に、教会が間違っていると認識すること。
    パリサイ的教会である事実を知ること。
第二は、そのところに留まっている私が間違っていることを認めること。

第三は、私はそこを立ち去らねばならない、と決断すること。
    もちろん、真理を求めてやまない恵みのあふれる教会を
    探さねばならないが、
    ここでの問題点は信者がこの第三の決断をしないことである。

 ここで述べていることは、複雑なことではない。
イエスが「私の羊は私の声に聞き従う」と言われたことに根ざしているかぎり単純明快である。
けっして牧師のことばに聞き従うのではない。
ましてや教会のリーダーたちの声に盲目的に従うのでもない。

イエスの声に聞き従うのである。
そして真理のことばは自由を私たちに与えてくれる。
新島襄は、その自由の素晴らしさを強調して
「良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)の来たらんことを」
と言った。

武士は自分の義が、自分の仕える主人の義と合い交わらないときは
毅然とした態度で反対したという。
そして命をかけて刀を握ったという。

信者が、牧師の言うなりになるときその教会は衰退することを知らねばならない。
信者が牧師をカルト的リーダーにしている責任があることも事実なのである。

教会が独善的になっているときは、常識的に見るならば
誰でもその命令的性質や律法的(レガリズム)傾向は気づくはずである。
宗教的になるときに危険なのであって
そのとき
初めにあげた三つのポイントを常に注目していただきたい。

私は個人的には、自分の教会を愛して集い共に神様の愛を
分かち合っていただくために祈り諌言(いさめる,忠告する)をしていただきたいと念じている。
それさえもできない教会にいるなら
そして、それと同時にカルト的傾向があることを判明したときは、
第三の決断をすぐにしていただくことをお勧めする。




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