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NIJIの夢
031~040
用語豆辞典
NO,031 坂上是則
朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに
吉野の里に 降れる白雪
ほのぼのと夜が明けるころ、有明の月の光かと見間違えるほどに、吉野の里に降っている白雪であることよ。
『古今集』の詞書には「大和国にまかれりける時に、雪の降りけるを見てよめる」と記されています。
吉野の里は、応神天皇や雄略天皇の離宮が営まれた事もある歴史のある土地で、桜や雪の美しい所として万葉の昔から多くの歌に詠まれてきました。
その吉野の里に泊まった明け方、作者が目を覚ますと、外が妙に明るく感じられます。
有明の月が空に輝いているのかと思いながら外を見ると、淡雪がうっすらと降り積もり、あたり一面が白く柔らかな光に包まれていました。
その光景を目にしたときの感動を、素直な言葉で詠みあげています。
私も一句。
『豪雪も 弥生の音に 静まりて 春の兆しに ちらり舞い降る』
備考
「吉野の里」という舞台設定に「朝ぼらけ」・「白雪」という素材は、歌を詠むには絶好のものであったと言えます。
その白雪の輝きを有明の月の光に見立てたことで、この歌の清らかな美しさがいっそう強調されています。
【坂上是則】
さかのうえのこれのり
平安前期の歌人。(生没年共に不明)
望城(もちき)の父。
三十六歌仙の1人。
「古今和歌集」の代表歌人の1人で、知的で清澄流麗な趣のある歌風。
叙景歌に長じた。
家集に「是則集」
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NO,032 春道列樹
山川に 風のかけたる しがらみは
流れもあへぬ 紅葉なりけり
山あいを流れる小川に風がかけたしがらみは、流れようとしても流れて行くことが出来ない紅葉なのであったよ。
この歌は『古今集』に「志賀の山越えにてよめる」と詞書して収められています。
「志賀の山越え」とは、京都の東北から比叡山と如意岳との間を通って現在の大津市北部へ出る山道の事で、この山越えで昔から多くの歌が詠まれてきました。
山あいを流れる小川に紅葉が散り落ちて、柵のように水の流れをせき止めている様子を詠んだものです。
その光景を「風のかけたるしがらみ」と、風邪を擬人化して見ているところに面白さがあります。
知的な比喩を使って表現しているあたりが、いかにも古今集好みの歌といえます。
備考
歌中の「風のかけたるしがらみ」という表現は、古くから多くの歌人や評論家たちに絶賛されてきました。
歌人としては有名ではない作者を百人一首に選び入れたのも、撰者の定家がこの歌自体を高く評価していたからでしょう。
百人一首を通して読むと、季節や風景などのつながりや対比、また、作者同士の関係などが面白く、一首一首読むのとまた違った楽しみを味わうことが出来ます。
【春道列樹】
はるみちのつらき
主税頭(一説には雅楽頭)新名宿禰の子。(?-920)
延喜10年(910年)に文章生となる。
延喜20年(920年)に壱岐守に任ぜられたが出発前に死亡したと伝えられている。
その他、詳細不詳。
歌人として目立った活躍はなく、『古今集』に3首、『後撰集』に2種の歌が残っているのみ。
◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇
NO,033 紀友則
久方の 光のどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ
日の光がのどかな春の日に、どうして落ち着いた心もなく、桜の花は慌ただしく散り急ぐのであろうか。
百人一首の中でも、特に人々に愛されている有名な歌のひとつです。
日本人は花の中でも特に桜を愛する民族ですが、これは平安時代の人も同じだったようです。
桜の花を愛で、散り行く事を惜しむ気持ちが実感として伝わってきます。
また作者は、桜の花が散っていくのを、まるでそれが花自身の意志であるかのように擬人化しています。
それを疑問に思う形で詠嘆することによって、花を惜しむ気持ちを表現しています。
ここに、知的な趣向を好んだ古今集時代の傾向が窺えます。
『古今集』巻16には、彼の死を悼む貫之の次のような歌が詠まれています。
〔あす知らぬ わが身とおもへど くれぬまの けふは人こそ 悲しかりけり〕
備考
上の句と下の句の静動を対照させ、桜の散る様をいっそう印象付けているところが見事です。
しかし、こうした解釈がなくても、ただ口ずさんでいるだけで、のどかな春の光の中を桜の花が舞い散る情景が目に浮かんできます。
作者の花に寄せる愛情が伝わってくる美しい歌です。
【紀友則】
きのとものり
平安前期の歌人。(?‐905?)
宮内権少輔有朋の子。
「古今和歌集」の撰者の1人で、三十六歌仙の1人。
格調の高い流麗な歌風。
家集に「紀友則集」
◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇
NO,034 藤原興風
誰をかも 知る人にせむ 高砂の
松も昔の 友ならなくに
年老いた私は、いったい誰をまぁ、昔からの知り合いとしようか。
残っているのは年老いたあの高砂の松ぐらいだが、それでさえも昔からの友ではないのになぁ。
昔からの知り合いは年老いて、いつのまにかみんな亡くなってしまった。
ふと気付くと自分一人だけが取り残されていて、心を許して話し合える友達は誰もいない。
この先いったい誰を共としていけばいいのか・・・・・。
おめでたいはずの松が、ここでは老いの孤独をいっそう引き立てるものとして用いられています。
昔を知っているのは今やこの高砂の松ぐらいだが、その松とて昔からの友ではなく、親しく語り合う事は出来ない・・・。
年老いた者の孤独を嘆いた見事な歌です。
備考
定家が百人一首を撰んだときは既に70歳を超えていました。
作者の心境に共感するところがあって、この歌を撰んだのかもしれません。
高砂の松は、長寿やおめでたいことの象徴であり、能や謡曲などの題材にもなっています。
【藤原興風】
ふじわらのおきかぜ
平安前期の歌人。(生没年共に不明)
下総権大掾を経て治部丞になる。
三十六歌仙の1人。
管弦にもすぐれていた。
歌は「古今和歌集」などの勅撰集に入集。
家集に「興風集」
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NO,035 紀貫之
人はいさ 心も知らず 古里は
花ぞ昔の 香ににほひける
人の心は変わりやすいので、あなたの心は昔のままかどうか、さぁ、どうだか分かりません。
しかし、昔なじみのこの里の梅の花だけは、昔のままの香りで咲き匂っていますよ。
「古今集」によると、貫之には、初瀬(奈良県の初瀬にある長谷寺)にお参りする度に泊まっていた家があった。
暫く立ち寄らない時期があって、その後に訪問した時のことだった。
その家の主人が「この通り、昔のまま変わらずに宿はあるのに」と言った。
この言葉の裏には、貫之の足が遠のいていた事に対する皮肉が含まれています。
そこで貫之は、家のかたわらに咲いていた梅の花を折って、この歌を即座に詠んだと言われている。
移ろいやすい人の心と不変の花の香りを対比させ、見事に相手に仕返しをしています。
当意即妙の対応の素晴らしさが、貫之の豊かな才能を伝えている。
備考
貫之の歌集、「紀貫集」によれば、紀貫の歌に対して、この家の主人は「花だにも同じ香ながら咲くものを植ゑたる人の心知らなむ」と返歌しています。
この宿の主人が男性であったか女性であったかは書かれていません。
仮に、主人が男性なら親しい友人同士のウエットに富んだ挨拶と取れる。
女性ならば、相手の心変わりを皮肉ったものにも取れます。(笑)
道真の歌にも、梅に関する和歌がある。
「東風(こち)吹かば 匂い寄こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
延喜元(901)年2月27日、都に発つ前、自宅で詠んだものです。
自然は移り変わって行くもので、同じ光景が違って見えるのは人間の心境によります。
「梅の香りは恋しい人を思い出させ、妻への思いを込めた」という解釈もあります。
道真には自身の運命を歎くだけではなく、家族を思いやる余裕がありました。
都を離れる日、家族と大好きな庭の梅の木に、この歌を残して京を後にしました。
【紀貫之】
きのつらゆき
平安前期の歌人。(?‐946)
紀望行の子で三十六歌仙の1人。
905年、勅撰集撰進の詔を受け、紀友則らと「古今和歌集」20巻を編纂した。
また、日本最高の歌論である「仮名序(かなじょ)」を書いた。
930年、土佐守として四国に渡り、935年に帰京。
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」の書き出しで始まる土佐日記。
「土佐日記」は、この間の旅日記で、わが国の仮名文の発達に貢献した。
歌は「古今和歌集」以下の勅撰集に計442首が収められている。
家集に「貫之集」
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NO,036 清原深養父
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを
雲のいづくに 月宿るらむ
短い夏の夜は、まだ宵のうちと思っている間にもう明けてしまったが、月はとても西の山の端まで行きつくことは出来ないだろうに、いったい雲のどのあたりに宿っているのであろうか。
夏の夜を一晩中月を眺めて過ごす平安時代の貴族たちの風流な生活が忍ばれます。
この夏の短夜を「まだ宵ながら 明けぬるを」という誇張した表現で詠んでいるのが新鮮です。
そして下の句では、空に浮かぶ雲に薄れ行く月が姿を現したのを見て、「雲のいづくに 月宿るらむ」と月を擬人化して疑問を投げかけています。
あの雲のどの辺りに宿を取ったのだろうと、月を空を行く旅人に見立てています。
月の美しさに見とれていた作者は、夜明けの訪れの早さに驚き、月が朝の光に消えていく事を残念に思ったのでしょう。
備考
この歌は、「古今集」に「月のおもしろかりける夜、あかつきがためによめる」と詞書として収められています。
ユニークな発想で、夏の短夜の月を惜しむ気持ちを巧みに表現しています。
【清原深養父】
きよはらのふかやぶ
平安前・中期の歌人。(生没年共に不明)
三十六歌仙の1人。
元輔の祖父で、清少納言の曾祖父にあたる。
歌風は平明で調和がとれている。
歌は「古今和歌集」などに採録。
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NO,037 文屋朝康
白露に 風の吹きしく 秋の野は
つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
草の葉の上に降りた白露に、風がしきりに吹きつける秋の野は、その露が散って、ちょうど緒で貫き止めていない玉が散り乱れているかのようだ。
どこまでも広がる秋の野原。
草の葉の上には、真珠のように白く光る露が一面に降りています。
そこに秋風が吹きつけると、白露が散り乱れます。
そんな光景を詠んだものです。
備考
定家はこの歌を高く評価していたようで、「近代秀歌」などの秀歌撰に度々選び入れています。
しかし、この歌は既に「寛平御時后宮歌合」に入っており、実際は醍醐天皇の1代前の宇多天皇の御代に詠んだものです。
従って、「後撰集」の「延喜の御時、歌召しければ」という詞書は誤りであると考えられています。
自賛歌として、醍醐天皇のお召しに応じて再び献じたものかも知れません。
【文屋朝康】
ふんやのあさやす
文屋朝秀(NO,22の作者)の子。(生没年共に不明)
平安前期の歌人。
六歌仙の1人。
清和・陽成両朝に仕えた下級官吏。
「古今和歌集」の序に、言葉の巧みな歌人と評されている。
◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇
NO,038 右近
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし
人の命の 惜しくもあるかな
貴方に忘れられてしまう私の身の悲しさは何とも思いません。
ただ、私への愛を神にかけて誓った貴方の命が、誓いを破ったために神罰を受けて失われてしまうのではないかと惜しまれてならないのですよ。
この歌は「拾遺集」に「題しらず」として納められています。
忘れられて捨てられても、なお自分の身よりも相手の身を案じる女性の、悲しいまでの直向きな恋心を詠んだものと解する事が出来ます。
こんな歌を貰った相手の男性は返事のしようがなかったに違いありません。
それを裏付けるように、「大和物語」の第八四段は「返しは、え聞かず」となっています。
すなわち、「男からの返歌があったかどうかは聞いていない」で終わっています。
男性だって同じような心境になる事はあります。
むしろ、男性の方が純情だったりします。
例え別れても、秘かに愛し続け、相手の幸せを祈ったりします。
備考
この歌は、前述した「大和物語」の第八四段にも載っています。
これには「同じ女(右近)、男の、忘れじと、よろづのことをかけて誓ひけれど、忘れにけるのちに、言いやりける」と記されています。
男が誰であるかについては書かれていませんが、前後の段の内容から推測すると、藤原敦忠に贈ったものではないかと思われます。
敦忠に贈ったものだとすると、相手の不実を皮肉って、歌の意味は次のようになります。
「誓いを破ったあなたが、神罰でお亡くなりになるかと思うと残念です。お気の毒さま!」
右近は恋多き女性で、藤原敦忠、師輔、源順らと恋愛関係にあったと言われています。
【右近】
うこん
平安中期の女流歌人。(生没年共に不明)
交野少将藤原季綱の娘。
醍醐天皇の中宮穏子に仕えた。
「大和物語」には幾つもの恋愛物語が残されている。
「後撰和歌集」「拾遺和歌集」「小倉百人一首」などに歌を残した。
◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇
NO,039 参議等
浅茅生の 小野の篠原 忍ぶれど
あまりてなどか 人の恋しき
丈の低い茅が生えている小野の篠原、その「しの」という言葉のように、今まで私は貴女への思いを忍びに忍んできたが、もう忍びきれない。
どうしてこんなに貴女が恋しいのだろうか。
「何故、こんなにも貴女が恋しいのだろうか」と自問する形で、相手の女性にせつない想いを伝えています。
こらえようと思っても、こらえきれない恋心をせつせつと歌っています。
なお、この歌は、古今集には「詠み人しらず」として収められています。
備考
参議等は源氏等と同一人物です。(880-951)
嵯峨天皇の曾孫で、中納言希の次男にあたる。
20歳のときに近江権少掾に任ぜられた。
その後、丹波守、山城守などの地方を歴任し、左中弁、右大弁などを経て
参議
となった。
彼の歌は「後撰集」に3首残されているだけである。
歌集などもなく、歌人としてはあまり知られていない。
【参議等】
さんぎひとし
源氏等のこと。(880-951)
中納言源希の次男。
参議 は律令制度の官職の1つ。
左右大臣・大納言を補佐した令外(りょうげ)の官。
彼の歌は「後撰集」に3首残されているだけ。
歌集などもなく、歌人としては知られていなかった。
◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇
NO,040 平兼盛
忍ぶれど 色に出でにけり 我が恋は
物や思ふと 人の問ふまで
人に知られまいと心に秘めてきたが、私の恋心はとうとう顔色に出てしまったよ。
何か物思いをしているのかと、人が尋ねるほどまでに。
この歌は学校の教材になるほど有名な歌である。
恋心が顔色に出て他人に知られてしまうほど、相手への想いがつのっているという事を、周囲の人の言葉を巧に取り込んだ歌となっている。
こんな風に想ったり想われたりするような大恋愛をしてみたいものです。
備考
この歌には、壬生忠見(NO,41)の歌との、次のようなエピソードが伝えられている。
村上天皇の時代の、960年3月30日、内裏で歌合いが開催された。
これは、後の晴儀歌合の規範とされた一二題二〇番の歌合でした。
「恋」という題で詠まれ、忠見の
「恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめかし」
の歌と組み合わせられて争った。
両者とも優れていたため、判者の左大臣・藤原実頼も優劣を決められず、補佐を務めていた大納言・源高明に判定を任せました。
ところが、高明も決着を付けかね、村上天皇の意向を伺ったところ、天皇もはっきりと判定を下さなかった。
ただ、御簾の中で天皇が
「忍ぶれど・・・」
の歌を小さく口ずさんでいたため、兼盛の勝ちとされたという事です。
平兼盛は、その日の朝から衣冠を正しくして座っていたが、自分の勝利を知ると大喜びし拝舞して歌合の席から退出したと言われています。
この一事をもっても、当時の歌人にとって歌合が、いかに重要な晴れの舞台であったかが伺えます。
【平兼盛】
たいらのかねもり
平安前期の廷臣で歌人。(?‐990)
大監物・駿河守(するがのかみ)などを歴任。
三十六歌仙の1人で、実生活に即した歌風をもつ。
歌は「拾遺和歌集」以下に見える。
家集に「兼盛集」
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041~050に進みます。
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