出演者:大野智

第九章 失意と忘却の苦悩


―――自分にとって不必要なものを忘れることは容易い事だ
     しかし、掛け替えのないものを忘れることは容易ではない
     忘れようとすればする程忘れられない・・・
     それが人間という生き物なのだ―――


彼女は俺の前から消えた。
『ごめんなさい』
という言葉を告げて――――


彼女がどうして俺の前からいなくなってしまったのかは分からない。
でも嫌な予感がした。

あいつが生きていたら・・・
あの男が生きていたら・・・

無理矢理連れ戻されたのか・・・
それとも、彼女の意志で帰ったのか・・・

そんな事を考えると虚しくなってきた。
いずれにせよ彼女は俺の元を去ったのだから――――

だとしたら俺は彼女のことを忘れた方がいいのか?
彼女のことを記憶の中から消してしまった方がいいのか?
彼女と一緒にいた日々を夢だと思い込めばいいのか?
忘れることが出来たら・・・俺は幸せになれるのか?

・・・彼女のことを忘れるなんてできなかった。
彼女と過ごした楽しい日々を消してしまう事なんてできなかった。

彼女の笑顔がこの瞳に焼き付いているから――――
彼女の温もりをこの腕で感じてしまったから――――
彼女の傷にこの指で触れてしまったから――――

もう自分を騙すことなんてできない。
彼女に逢いたいという気持ちを抑えることなんてできない――――


そう思うと俺は家を飛び出していた。

あいつの家に着くと、俺は乱暴にドアを叩いた。
「深雪さん、いるんでしょ?」
返事はなかった。
だけど俺は続けた。
「俺、深雪さんのこと忘れようとしたんだ。その方がお互いの為だって・・・。でも違うんだよ。
 俺は自分の気持ちを押し殺すなんてできなかった。深雪さんの温もりをこの体で感じてしまったから・・・。
 深雪さんの優しさをこの心で感じてしまったから・・・。深雪さんの傷をこの瞳で見てしまったから・・・」
最後の方は涙のせいでちゃんと言葉になっていなかったかもしれない。
俺は一呼吸おいてまた続けた。
「深雪さんなら俺を孤独から救ってくれるって思った。・・・深雪さん、言ってくれたじゃんか。
 俺のことを愛してくれるって・・・。ずっと俺の側にいてくれるって・・・。俺には深雪さんしかいないんだよ!」
感情が高ぶったせいで大声を上げてしまった。
俺はそれだけ言うと家路についた。


「・・・・・」
玄関のドアを開け家の中へと入って一息つくと、何故か笑えた。
「何やってんだ、俺・・・」

――これじゃあ、あいつと同じじゃねぇか――

自分の想いを一方的に投げつけて彼女の心を奪うんだ。
彼女に縋り付いてズルズルと自分の世界へ引きずり込むんだ。
そして――――


――自分の欲望の儘に縛り付けておくんだ。


俺はそんなヤツにはなりたくない。

彼女が自分で決めたことなら、彼女の意志を無視したくない。
彼女が俺に会いたくないのなら――――


――この街を出よう――

俺は街を出た。
彼女と出逢ったあの海・・・
彼女との思い出のあの場所・・・

彼女が住んでいるあの街を――――





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