遥統番外編9

右手に剣を 左手に勇気を








 夏の汗ばむ気温の中、少女は緊張した面持ちで歩いていた。
 ただそれだけならばさして違和感を覚えることはないが、軽鎧を着込み、細身の剣をしまい込んだ鞘を左腰に下げ、周囲を歩いているのは同様の格好の者ばかりだ。格好が格好で、状況が状況な分、その光景はひどく非現実感を煽ってくる。
 周りの者たちはほとんどが20台半ばから30台、上は40台後半の者もいるようだ。
 だが、少女はどう見てもまだ14、5くらいの、まだ少女に分類される年齢だろう。顔立ちとオレンジ色の髪の毛はそれなりに整っているが、栄養不足なのか身体が細く、まるで出稼ぎに出ているような印象を受ける。平民の出なのは間違いないだろう。
 行進しているのは西の王立騎士団と、西の精鋭、虎狼騎士2小隊分であり、今回の出陣の目的は国境付近まで北が兵を進めていると諜報部からの知らせがあったため、虎狼騎士の若きエース、ゼロ・アリオーシュを筆頭に約500人の兵が歩を進めていた。
 この部隊の目的は偵察と、あわよくば奇襲をかけ敵部隊を減らすというものだ。敵も数が少なければそのまま交戦になりうる可能性もあるし、諜報部の誤報かもしれない。まだ就任3ヶ月だが、現21歳という生きた伝説となりかけている現諜報部団長の就任以来、諜報部の誤報はまだ1件もないのだが。
 それでも、少女は戦わずに済むように、誤報であることを切に願って歩き続けた。



 黙々と歩き続けること4時間ほど、日も沈みかけている時間帯に部隊の歩みが止まった。
―――まさか、戦闘になっちゃうの……?
 少女の背筋が寒くなる。武者震いではなく、おびえで膝が震えていた。
 前方では何やらゼロと虎狼騎士数名、王立騎士団の代表数名が話しているようだ。出来れば、平和的方向で願いたい。
 明らかに一人だけ浮いている存在の彼女だが、好んで軍に所属しているわけではない。5人兄妹の4番目としてごくごく一般的な平民の家に生まれた彼女だ、当然軍とは無縁の人生を歩むはずだった。普通の教育を受け、卒業し、平凡な恋愛をして、平凡な男と結婚して、子どもを生んで、平凡な暮らしをし、墓に入る。そんなことを考えていたにも関わらず、彼女は今命と身体を資本とする軍に所属しているのだ。原因は、母が三男が生まれて2年後に病死したため男手一つで兄妹を育ててくれた、大黒柱であった大工の父が足を滑らせ建築中の家の屋根から落下しこの世を去り、長男が生まれつき弱い肺の病気で寝たきりになり、次男の兄が軍の任務で規律を犯し追放され、家計が危なくなったためだ。生活するために長女の姉が手先の器用さを生かし裁縫業のバイトをし、自分が一番収入の多い軍に入ったのだ。下の弟はまだ8歳で学校がある上に働ける年齢でもないので、自分と姉がガンバるしかない。幸い運動神経や反射神経だけはずば抜けた素質を持っていたため、戦闘技術も次兄から教わりある程度なら会得した。だが、そうは言っても実戦となればどこまで通用するのか分かったものではないが。
―――……お金を稼がなきゃ、お金を……。
 思い出しただけで使命感が胸を締め付ける。戦いになっても生きることだけを考えよう。逃げ回るのも、戦略の一つなのだ。
 そう心に決め、少女は次の指示を待った。

「そろそろ北との国境付近だ!」
 出撃前に指示を出していた王立騎士団の代表が声を張り上げた。そんなに大きな声を出さなくても聞こえるよ、そんな風に少女には思えるのだが。
「もしかしたら北の軍がもう大分迫っているかもしれん! 正面からぶつかっては相手の数が分からない分危険が伴う、よってここで部隊を2つに分けることにする!」
 部隊がざわめく。確かに全滅の危険性は減るが、片方だけが全滅する可能性はぐっと上がる。それが上の決定かもしれないが、少女の不安は拭えなかった。
―――ゼロ様と同じ方になりますように!
 少女はそれだけをひたすらに祈った。エルフ族最強とも謳われる虎狼騎士団第一小隊長ゼロ・アリオーシュ。“剣聖”こと現虎狼騎士団長ウォービル・アリオーシュの息子にして、眉目秀麗さと相まって人気も絶大だ。最強の彼と一緒ならば、生き残る可能性が繋がる、少女にはそんな気がしてならなかった。

 数十分後、きっかりと2つに分けられた部隊の内、少女は見事ゼロ率いる部隊に編入されていた。束の間の、心の安息だ。
「こちらの部隊を指揮するゼロ・アリオーシュだ。今回の任務は情報が不足しているためかなり危険が伴っている分、慎重に進みたいと思う。よって、今日はここで野営することにする」
 先程の騎士の声は大きすぎると思ったが、ゼロの声はゼロの声で小さ過ぎるような気もする。耳のいい彼女がギリギリ聞こえる程度だった。あれではおそらく最後列の者には聞こえまい。
 荷物を運んでいた部隊が手早く野営の準備を始める。野営の簡易テントにはそれぞれギリギリの幅で10人ほどが寝ることになる。流石に男性と女性を一緒くたにはできないため、少女も類に漏れず女性用テントに入ることになった。だが、そのテントの中でも10台の少女は彼女のみのようだ。全ての班が野営の支度を終える頃には、月が夜空高くで輝いていた。西の騎士たちは、おのおのに早い眠りにつく。敵襲の不安を抱きながら。

 思いの他簡単に眠りにつくことができた少女だったが、やはり緊張していたのか、そっとテントを出ればまだ月が輝いている時間だった。あんなに暑かった空気が、ひんやりとして寒いくらいだ。
「うわぁ……明日雨かなぁ……」
 なんだか暗くなったと思ったら、月が雲に隠れたようだ。よく見渡せば空一面雲で覆われていた。
「夜間の無断での外出は禁止されているぞ」
 背後から、無感情だが、耳に心地よい声が届いた。
 あまりの不意打ちで、少女は驚く声さえも出せなかった。
「ん? 新米?」
 振り返った先には、まだ自分とそれほど変わらなさそうな美少年が何気ない表情で少女を見ていた。その姿に彼女はテンパったようにうろたえる。
「あ、え、っと、その」
 間違えようが無い、夕刻に聞いたあの声だ。
「す、すいませんでした!」
 逃げるようにテントに戻ろうとした彼女は、足を変に交差させ転びそうになった。
「あ」
 だが、身体のバランスを崩しながらも上手い体捌きで姿勢を立て直し走り出す。
「ほぉ……」
 その彼女を、ゼロは賞賛するように見つめていた。

 翌朝。
 やはり少女の予想通り雨がちらついていた。だが、戦争に雨天中止などあるわけもなく、むしろ奇襲には絶好の機会だという風に判断された。
降りしきる雨の中簡易テントを片付けた騎士たちは、ゼロたち上位騎士の指示を仰いでいた。
「あと1時間半も歩けば北との国境だ。そこからは諜報部の4人に偵察に行ってもらい、動きを決めようと思う」
 ゼロの指示を受け、一行は再度、北の地へと歩を進め出した。

 止まない雨が地面をぬかるませ、歩きにくさが疲労を煽っていた。それでも抜群のバランス感覚で少女は至って普段と変わらずに歩き続ける。
―――そろそろかな?
昨日の経験と体内時計から、予定の時刻を歩いた気がした。予想通り、隊の足が止まる。
しばらく、雨の中待機状態が続いた。周囲から見てもまだ幼く見える少女は他の騎士たちから勧められるように大木の下で雨宿りをしている。きっとこの年齢で軍に所属する彼女の不幸に対し勝手な想像をしているのだろう。実際そう思われても仕方のない状況なのだが。

 待つこと小一時間ほど。諜報部の者が戻ってきたようだ。何やら上位騎士たちが話し合いを始めていた。だがそんな話し合いなど、下っ端中の下っ端の彼女がすればなんの価値もない。ただ従うだけ、それだけだ。
―――敵軍が見つかりませんでした、とかなんないかなぁ……。
 そんな淡い期待を抱く。戦闘の有無に関わらず、任務に属した彼女にはちゃんと報酬が払われる。戦功を上げればそれに色がつくが、高望みして死んでは元も子もない。生きて帰るために、少女は誤報による帰還を望んだ。
「前方5キロほど先に北のアイアンナイツ3000人ほどが軍を進めているらしい! 別働隊との連絡が取れない以上、敵の横腹をつく奇襲を敢行する!」
 ゼロではなく、王立騎士団の中年騎士が指示を出す。ざわっとした緊張が西の騎士たちに広がった。人数差ではあちらの10分の1にも満たないという事実が彼らを悩ませた。
「……もしこの任務を恐れ、戦いたくない者がいたら退却してもらっても構わないぞ」
 ざわめいた騎士たちの中に、凛としたゼロの言葉が響いた。あまり大きな声でもないのに、全員に響く、透き通った声。ざわめきが収まり、ゼロへと皆の視線が集まった。
「確かに生きて帰れる保証はない。そんな恐怖に怯えてる者なら、いてもいなくても同じだからな。今帰るのは、敵軍との戦力分析に基づく戦略的撤退としてあとで団長に報告してやろう」
 どうやら嘘ではないようだ。団長、ウォービルはゼロの父であるし、尚更に信憑性が増す。数分の沈黙の後、誰も帰ろうとしないのを見てゼロが頷いた。
「奇襲をかけて相手を混乱させたらすぐに撤退しろ。勝つ事よりも、相手を撤退させることの方が重要だ」
 ゼロの指示に従い、再び西の騎士たちが進みだす。彼らの目に、不安の色はなかった。

―――帰ればよかったかな……?
 雨こそ止んだが、うっすらと霧が立ち込めていた。
 先ほどのゼロの言葉通りにしておけばよかったと今さらながらすこし少女は後悔した。一人でも帰ろうとする者がいれば、必ず後続の者も出ただろうが、最初の一人になる勇気も、ゼロに見放される勇気もなかった。今はまだ王立騎士団だとしても、ゆくゆくは虎狼騎士になりたいというのが騎士たちの願いだ。虎狼騎士になれば王立騎士よりも収入が3倍はよくなる。万が一虎狼九騎将にでもなれば、一気に貴族のような生活も夢ではない。
10年かけてでも、それを目指す価値はあるだろう。
 そんなことを考えていると、何か空気が緊張しているような感じがした。どうやらそろそろ奇襲が敢行されるようだ。少女は軍の最後列の方に位置していたから、敵と刃を交えることはないかもしれないことが救いだった。
 息を潜めた西の騎士たちが、再び降り始めた雨に乗じて一斉に動きだした。
 けたたましい怒号と悲鳴が聞こえる。すでに双方合わせて何十人という騎士たちが死んだのかもしれない。
 不思議と恐怖はなかった。生きて帰れるという自信があったわけでもないが、現実感が漠然としている。どこか、戦場ではない場所にいる心地。現実逃避だ。
 新米騎士が陥りやすい典型的な症状に、少女は陥ってしまったようだ。見たこともないような光景に、聞いたこともないような声が脳を刺激し、あっけないほど人の死を身近に感じることで、感覚が麻痺するのだ。
 だからこそ、少女は大事なことに気がつかなかった。
「何をしている?!」
 不意に声をかけられ脳がパニックを起こした。
 声をかけた相手は小さく舌打ちすると同時に、少女の手を引いて走り出した。
 不思議と、足だけはちゃんと動いてくれた。


「馬鹿かお前は?」
 だいぶ距離を走った後で、手を引っ張ってくれた相手が少女に声をかけた。どうやら奇襲は失敗だったようだ。
「あ……」
 そこで初めて相手の男性が誰なのかということに気付いた。
「ゼ、ゼロ様?」
 呆けた顔で相手を見つめる。それと同時に、激しい自己嫌悪の感情が湧いてくる。自分の所為でゼロは他の騎士たちとはぐれ、自分なんかと二人きりで隠れているのだ。ここがどこかさえも分からない。
「奇襲は失敗。撤退の合図を出したのにぼさっと突っ立ってるなんて、正気の沙汰じゃないぞ? ……と、お前は昨日の?」
 呆れたようにまくし立てた後、ゼロは少女が昨日見事なバランス感覚を見せてくれた彼女と同一人物ということに気がついた。そういえば、ぬかるんだ地面にも関わらずこの少女は自分のペースについてきていた。
「あ、はい。王立騎士団所属、マチュアと申します……」
 少女、マチュアは俯くように名を名乗った。叱咤されるかと思ったのだが、予想外にもゼロは苦笑した。
「マチュア、か。いい名だな」
「あ、ありがとうございます!」
 予想外の言葉を頂き、声が震えた。
 どうやら、この状況においてもさほど慌てる様子を見せない少女に呆れたようなのだが。
 しばらく止まない雨を木陰で眺めた。
 きっと、普通の女性ならばこの状況を誰もが羨む、或いは嫉妬するだろう。状況こそ奇異だが、ゼロ・アリオーシュと同じ木の下で雨宿りをしているのだ。
「なぁ」
「あの」
 話を切り出そうと相手の顔を向いたのは二人とも同時だった。それが逆に雰囲気を気まずくする。相手のことを考え、ゼロは咳払いをしてから話を切り出した。
「昨日の夜、君の動きを見て思ったけど、かなりいいセンスしてるな」
「え?」
 まさか褒め言葉を頂けるとは予想だにしていなかった。ゼロの言葉に、マチュアの頬が少し赤く染まる。
「ま、それだけ。で?」
 この状況で話を振られてもなかなか言いにくかった。本当ならば、先程の気まずい場をなんとかするためにゼロに戦場での心の持ちようを聞こうとしただけだのだ。だが、今さらではどうも聞きにくい。
「あ、雨。や、止みませんね……」
 言ってから後悔した。当たり障りも無さ過ぎる。余りにそのまますぎる言葉だ。
 その彼女の言葉に返事はなかった。逆にそれに心なしか安心した彼女だったが、ゼロの沈黙の理由はそうではなかった。
「2方向から接近してくる気配があるな」
 ちらっとマチュアへゼロが視線を動かした。彼の言葉に緊張を走らせた彼女を見て、ゼロは小さく首を振った。
―――この子を戦力に入れるのは酷だな……。逃げるか……。
 接近してくる気配は、予想以上に速い速度で二人へ迫っていた。雨音を気にせず気を集中させ、数を探ろうとする。
「5……いえ、6人ですね」
 不意にマチュアの声が耳に届き、ゼロは意外そうな表情を見せた。目を閉じ精神を集中させたゼロと違い、どうやら耳を澄ましたようだ。雨の音を無視し、足音だけに注意を向けたということだ。
―――“ただの”新米にしては、よく出来てるな……。
「迎え撃つぞ」
 ゼロの言葉に、少女が重々しく、顔を強張らせて頷く。
 木に隠れるように立ちながら、ゼロは腰に下げている鞘から刀を抜き、マチュアもまた鞘から女性騎士が主に用いる軽めの剣を引き抜いた。お守りのように、それをぎゅっと握る。
敵がゼロたちの隠れる木のすぐ側まで接近した瞬間、ゼロが悪い足場を物ともせずに飛び出した。流れるような動作で一人の敵兵を切り倒す。腿を切られ、死にはしないもののその騎士はその場に崩れ落ちた。どこまで傷が深いのか、それは少女には分からなかった。
動きを止めることなく、ゼロは次の敵を捉えた。だがそれよりも僅かに先に敵兵がゼロへ攻撃を仕掛けようとしていた。その敵の動きに敏感に反応し、ゼロは後方に飛び退いた。敵兵の力任せに振るった剣は空を切り、踏み込んだ足が泥水を跳ねさせた。その水しぶきを器用に避け、ゼロが再度敵兵に迫る。一振りで相手の剣を弾き飛ばし、その直後即頭部へ強烈な蹴りを浴びせ、気絶させた。
あっという間に、北のアイアンナイツが二人も戦闘不能になる。
だが、蹴り終えた直後のゼロの背後から別な敵兵が剣を振り下ろさんとしているのを、マチュアははっきりと捉えていた。頭で考える前に、身体が動く。鋭く振り下ろされた剣を自分の剣で止める。片手では力負けしてしまうから、両手でだ。
剣同士がぶつかった甲高い音から彼女の動きを察したゼロはすぐさま跳躍し、彼女と敵兵を同時に飛び越え敵の背後から躊躇無く切りつけた。こればかりは間違いなく即死だろう。
「いい動きだ」
 敵の攻撃からゼロを守ったマチュアの動きに対し、彼は彼女の横を通り過ぎる際そう呟き賞賛した。その言葉を額面どおりに受け取った彼女にとって、大きな自信へと繋がった。
「はい!」
 ゼロの後ろを追いかけるようにマチュアが続く。
―――足音が、増えた……?
「ゼロ様!」
 そのことを教えようと声を上げたが、ゼロは既にその気配を察していたようだ。残り4人を相手にするというよりも、もっと多くの人数を相手にするかのように位置取りに注意を払って戦っていた。
 マチュアもそれに加勢しようと駆け出したが、行く手を一人の騎士に阻まれた。問答無用で敵兵が彼女に剣を振り下ろしてくる。先ほど止めた剣とは違う。自分を殺そうとする刃だ。
 強烈な殺気に当てられながらも、胸の不快感を押しのけ彼女はバック宙で攻撃を避けると共に一気に距離を置いた。足場のぬかるんでいて、降りしきる雨で衣服が重くなっていて、“戦場”という状況でも、着地に失敗することもなく、臨戦体勢は崩れていない。抜群、神がかり的な身体能力だ。
 開いた距離を埋めようと敵兵が彼女に接近を試みたが、幸運なことにも相手はぬからんだ地面に足を取られ、その場で転倒した。
―――殺らなきゃ、殺られるんだ!
 兄に剣を教わっている時に言われた言葉が脳裏に蘇ってきた。戦場における、絶対的な考えだと、自分でも思う。
 相手が立ち上がる前に距離を詰め、右手に持った剣を相手の背中から突き立てる。ひどく嫌な感触がした。恐る恐る剣の先を辿ると、当然のことながら切っ先が潜り込んでいる部分から鮮血が流れ出している。地面が、赤く染まる。
 返り血を浴びたわけでもないのに、自分の両手が赤く染まっている、そんな感覚がした。
「残念だったな! この北のライオンことシューマ様が来たからには、てめぇらの命運もここまでだ!」
 突如、馬鹿みたいに大きな声が響く。人を殺したということを無理矢理頭から振り払い、マチュアは顔を上げた。
「ち、厄介なのがきたな……。撤退するぞ」
 最初に追ってきていた6人を全員撃破したゼロはその声を聞くや否や露骨に嫌そうな顔をして退却を彼女へ告げた。あの馬鹿そうな男が、そんなに恐ろしいのだろうか。そんな疑問が浮かぶ。
「逃げる気か! チェール!」
 先ほどからやかましいくらいの男の声と同時に、その男の傍らに立つ女性が弓矢を放った。寸分違わず、ゼロの胸へ向かってくる。
 その動きが、彼女には見えた。
「危ない!」
 マチュアは、物凄い速度で飛来する矢を叩き落とした。敵の絶句する声が聞こえた。
「逃がしませんよ」 
 弓矢を退けると、今度はすぐさま斧を構えた男が接近してきた。この足場でもかなりの速さを出している。相当な手練だろう。
「悪いが北全軍を相手にするほど愚かじゃない」
 その男の気配を察したゼロは直感のまま鞘から刀を抜き、一閃、神速の抜刀術を見せた。迫り来る男の斧を見事に真っ二つにする。
 虚を衝かれた男を尻目に再び二人は逃げ出した。
「逃げるな!」
 虚しくシューマが叫ぶ。
「撤退も戦略だよ、シューマ」
 走りながら振り向いたゼロは、敵軍へ向かってそう言葉を投げかけた。急にシューマという男が黙り込む。
「ゼロだったのかよ……。ち、ロール。命拾いしたな……」
 シューマは呆れるような表情でして、軍を止める。ゼロともう一人の少女の姿はすぐに雨の中へ消えた。
「あれが? ……なるほど。若の言うとおり、大した腕前ですね」
 滑らかな切断面を見せる彼の斧の柄が、全てを物語っていた。



 どれくらい走ったか分からないくらい走って、二人は歩を止めた。だが、二人ともそれほど息切れをしているわけでもなかった。感覚的に国境から大分進み、西に入ってかなり、といった所だろう。二人は歩きながら話を始めた。
「ゼロ様、先ほどの男の人は、そんなに強いんですか?」
 やかましく叫んでいた男のことを思い出し、マチュアはゼロに問いかけた。彼女の中では、シューマの強さの前に撤退したのだと思い込んでいるようだ。
「さぁな」
 ぶっきらぼうだが、どこか少しだけ嬉しそうに、そう言うゼロの真意は計れなかった。彼とあの男が大親友だということなど、一生知ることもないだろう。
「それより、お前諜報部に入らないか?」
 突如切り出された話題に、少女は目を点にした。咄嗟に浮かんだのは「王立騎士団の給金<諜報部の給金」という図式だけだ。
「諜報部の現団長への取り計らいなら、俺が言えば間違いない。それに、お前のその身体能力を一騎士にしておくのは西の損失だ」
 惚けたような表情でマチュアはゼロを見つめていた。人にここまで評価されたのは、生まれて初めてかもしれない。
 だが、諜報部に入れば王立騎士以上に危険度は増す。
「知っているだろうが、諜報部は軍部で最も危険なところだ。だからこそ、そう簡単にスカウトなどしない」
 その言葉が、さらにマチュアの心を揺さぶった。
 自分が、必要とされている。この、自分が。
「私で、いいんですか?」
 そんなに長くない時間だが、ゼロと二人でいた時間が、確かに彼という存在を彼女の中に植えつけていた。この言葉は嘘ではない。紛れも無い、真実の言葉だ。
「お前が必要なんだ」
 その言葉が、決定打だった。ゼロの甘いマスクから、そのようなことを言われては落ちない女などいないだろう。そんな錯覚も覚える。
「よろしく、お願いします」
 こうして、マチュアの諜報部入りが決定した。





 彼女が諜報部に入ってから、3年半ほどの月日が経った。
「ゼロ様。他国の情勢調査の任、無事完遂致しました」
 西の王城ホールヴァインズ城の王座に座るゼロの前に、一人の細身の女性が跪き報告をしていた。オレンジ色のショートカットで、ノースリーブの黒い装束とズボンを穿いたきりっとした女性だ。引き締まった肉体を美しい、と称することもできよう。
「ご苦労、第27代諜報部団長マチュア・カトラス」
 そう。彼女こそ3年半ほど前にゼロと共に初陣を生き延び、諜報部にゼロ自身からスカウトされたマチュアに他ならなかった。本来平民の出である彼女は基本的に姓を持たない。諜報部団長に代々継がれてきたカトラス姓を名乗るのは半ば義務だからだ。それでも、彼女はその姓をだいぶ気に入っているのだが。
「おやめくださいゼロ様。団長とは言ってもまだ私は就任2ヶ月です。マリメル様のようには出来ません」
 彼女が前任の諜報部団長マリメルから団長の座、カトラス姓を引き継いで2ヶ月。若干17歳にして諜報部団長の座を渡された彼女には、まだまだ不安だらけだ。
「お前ならすぐにマリメルみたいになれるさ。なぁ、ユフィ?」
「ええ、そう思うわ。マリメルもよく言っていたもの。マチュアはすごくいい子で優秀だって」
 ゼロのすぐ隣の玉座に座る王妃ユフィも、ゼロの言葉に頷いた。それを聞き、マチュアの頬が赤く染まる。
「お、王妃まで! からかわないでください……」
「あら? 嘘ではないのだけれど」
 3人しかいないと思われていた王の間に、新しい人が入ってきた。誰もその気配に気付けなかったのだが。新しい訪問者は、メイド服に身を包んだきりっとした美女だった。
「マ、マリメル様!」
 マチュアがマリメルの方へ向いて深く頭を下げる。その光景をゼロとユフィは朗らかな気持ちで見ていた。
「私は貴方になら諜報部のことを任せられると思ってこの役を貴方に引き継いだの。情報戦で、ゼロ様のことをよろしくお願いするわ」
 彼女の言葉に、マチュアは耳まで赤くした。諜報部に入りたてのころから自分を指導してくれたのはほとんどマリメルだった。アリオーシュ家のメイドという身分でありながら、合間をぬってはそちらの仕事もこなす、クール・ビューティー。
「そうだな。マリメルにはメイド長という役もあるしな」
 マチュアに諜報部団長を引き継がせるまで、マリメルは諜報部団長と城で働くメイドたちのメイド長を務めていたのだ。半分仕事が減ったことで。だいぶ彼女の負担も減ったことだろう。
「この大役、全身全霊、このマチュア・カトラスの身命に代えましても必ず最高まで全うしたいと思います」
 マチュアのその真摯な態度が、3人にはどこか新鮮だった。
 これからの西の発展を信じて、彼女の活躍を信じて、笑い声はいつまでも響き続けた。


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