遥統番外編15

黄昏が頃に









 ゼロが執務室で何枚もの書類を片付けていく音だけが、その部屋の中には響いていた。ここ最近は親友の特権でベイトにも手伝わせていたのだが、どうやら今日は都合が悪いらしく、彼一人で片付けるしかないらしい。
「戦争が終わったら、ベイト以外にも文官を見つけないとな……」
 ぱっと頭に浮かぶ人材はまず一人。だが正直なところ、その人物がゼロに手を貸してくれる保障はないのだが。
「手を貸すか?」
 と、そこで新しい声が割ってはいる。落ち着き払った冷静な声だが、質そのものはどうも子どものもののように聞こえた。声の方へ視線を向けると、今まで誰もいなかったはずの机の正面に、一人の少女が立っていた。美しい、美しい顔立ちをしているが、どうにも存在感が稀有なのだ。
「ほんと、お前はいつも突然沸いて出るな……」
 そういえば、彼の言うことも最もであった。この部屋の扉が開く気配は全くなかったのだ。たとえ相手がどんな気配を絶つプロであろうとも、この部屋への進入口は窓とドアの2つだけだ。しかもここは王城の4階部に位置し、壁を登ろうと思っても登れるような高さではない。となれば、彼女がドアから入ってきたということになるのだが、どうにもそういった形跡はなかった。
「何時如何なる時でも、貴方が望めば私は現れるよ」
「何時如何なる時でも、お前の望む時に現れるの間違いだろうが」
「む、それは心外だな。仮にそうだとしたら、既に貴方のプライベートは全て赤裸々に明かされることになっているぞ?」
「……おい」
「とまぁ、それは冗談だ」
 ゼロは呆れ顔を浮かべているが、こんな会話を繰り広げながらも、少女の表情は入室したころから全く変わらず無表情のままだ。口調も淡々としていて、あまり面白そうではないように見える。
「ベイト・ネイロスをどうこう言う前に、貴方が働き過ぎだ」
 そこでゼロが押し黙る。
「ナターシャの末裔の消息が掴めないからといって、貴方まで躍起になることはない。西と南と北の諜報部が共同で調査しているのだ。時機に見つかるだろう」
 その彼女の言葉にゼロの表情が一層険しくなる。痛いところを突かれた。正直、ゼロ自身ナターシャの末裔、ユフィ・ナターシャが関わると少々、というかかなり冷静さを欠くという自覚はある。西王としての立場よりも、彼女の夫という立場をどうしても優先させてしまうのだ。
「アノン」
「ん?」
「そこまで言うなら、ちょっと頼まれごとをしてくれるか?」
「なんだ?」
「お前の言うとおり一端休むことにするから、その前に茶を淹れて来てくれ」
「私に淹れさせるのか?」
「ああ、お前に頼む」
「ふむ、分かった」
 声を聞く限り渋々承諾しながら、少女が部屋から出て行く。実体を消し、意識体として動けばすぐなのだが、ゼロ以外の者の前で突然姿を現せば怪しまれるだろう。ということでアノンは4階から1階の調理場まで、歩いていくのだった。
「そういや、あいつ茶の淹れ方って分かるのか?」



「全くゼロめ、たかだか茶のために私を使うとは……」
 ぶちぶち愚痴をこぼしつつも、足取りはしっかりしている。なんだかんだで、彼女はゼロのことが好きなのだ。
 そんなこんなで調理場に入る。調理場内にいた城勤めの者たちの視線が彼女に集まる。
「アノン様? いかがされましたかな?」
 不意を衝かれたからか、この場で一番偉そうな中年の男性が彼女に困惑の表情を浮かべながら尋ねた。ゼロならば、彼は料理をすることが好きだというのは周知の事実のため、分かる。だが、彼女に関してはこれといった話は聞いていない。
「ゼロ兄様が、私に紅茶を淹れてきてくれないかとお願いされたので」
 軽く微笑みを浮かべながら、アノンが答える。ゼロと話していたときや、廊下で愚痴をこぼしていたときとは大違いで、容姿とともに挙止動作まで可憐になっている。猫を被った状態なのだろうか。
「なんとまぁ、陛下も妹君に左様なことをお願いするとは、マリメル様に進言してもらわねば」
「アノン様は健気でいらっしゃいますね」
 気付くと、メイドの女性たちがわらわらとアノンの下へ集まっていた。最近になってアリオーシュ家の養子となった彼女のことはあまり知られていないため、珍しいのだろう。彼女が単純に可愛らしい、ということもあるだろうが。
「後ほど私が執務室の方へお運び致しますよ」
 メイドの一人がそう提言したのに対し、アノンはぱっと向きを変えた。
「兄様にお願いされたのは私ですから、私に淹れさせてもらえませんか?」
 そんな彼女の可愛らしい頼みを言われては、誰も反論できなかった。
「なんとお優しいお心をお持ちで……。分かりました。我々がアノン様に紅茶の淹れ方をお教え致します」



 そんなこんなで、約1時間が経過した。
「いやあ、お上手になられましたな!」
「ホントに。これからはいつでも美味しい紅茶を淹れられますね」
「うちの娘にも見習わせたいくらいです」
 などなど。すっかり調理場のアイドルとなってしまったアノンは、お姫様待遇での紅茶の淹れ方のレクチャー後もなかなか開放されず、ちやほやされていた。そんな扱いが彼女自身まんざらでもないようではある。
「ありがとうございました」
 軽く頭を下げる彼女に、一同が恐縮する。
「セシリア様にも見習ってもらいたいですなぁ」
 そんなことをもらす者もいたりするのだから、ゼロのもう一人の妹、セシリア・アリオーシュの性格が知れるだろう。
「それでは失礼します」
 そう言って二人分の紅茶とカップケーキをのせたお盆を持ち、彼女はトコトコとゼロの執務室へと戻っていった。


「ゼロ兄様?」
 お盆を床に置き、軽く扉をノックするが返事がない。仕方ないので返事が返ってくる前に部屋の中に入ると、そこには机に突っ伏してすやすやと寝息をたてるゼロの姿があった。彼女に対して安心仕切っているからこそ、こんなにも無防備に眠れるのだろう。
 アノンはくすりと笑い、お盆を持ってゼロの机に近付いた。
「こんなところで寝ていては、風邪をひいてしまいますよ?」
 ゼロの肩をゆすり、彼のことを起こす。彼がゆっくりと起き上がり、彼の寝ぼけ眼と目が合った。
「兄様、ちょっと遅くなっちゃいましたけど、紅茶淹れてきましたよ?」
 くすくす笑いながら、お盆を示す。
「ああ、そう言えばそんなことも言ったっけかな……」
 ゼロは無造作にアノンが持ってきたカップに手を伸ばし、口をつけた。ゼロが少し意外そうな顔をする。
「どうですか?」
 それを見て、少しだけ不安そうにアノンが尋ねてみる。
「美味いよ、想像以上に」
「良かった」
 ほっとしたように微笑む彼女を見て、ゼロがにやりと笑う。
「まぁ、お前の演技のほうが“上手い”けどな」
「大きなお世話だ」
 その言葉にゼロが今度は声を上げて笑う。

 太陽が傾き、西の空が赤く染まっている。
 夕日が窓からやって来て、二人の表情も一緒に赤く輝かせる。
 まるで戦争など嘘のように、最強の剣士と、最強の矛は、この至福の一時を過ごすのだった……。


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