Nonsense Story

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片岡家の災難 6


 「とりあえず、赤松は中に入れよ。もし、おばあさんが早く帰ってきてそんな姿を見られたら大変なことになる」
 ぼくは窓枠から離れることもできず、かといって、責任感から部屋に戻ることもできないで立ち往生している赤松に言った。
「でも、猫が・・・・・・」
「俺、思うんだけど、猫はこの家の中にいない方が安全なんじゃないかな。屋根の上にいるのはまずいかもしれないけど、少なくともおばあさんに捕まる心配はなさそうだし。とにかく、赤松は怪我しないうちに部屋に入っとけ」
 ぼくは半ば必死で彼女を諭した。こいつが屋根の上にいて、落ちないわけがないのだ。ぼくが見つけるまで無事だったのが不思議なくらいなのだから。
「そうかもしれないけど・・・・・・」
 赤松が未練たらしそうに猫へ視線を送る。猫は風呂のある建物に移動するのはやめたらしく、頭を背中にうずめて毛繕いをしはじめた。たんぽぽの綿毛のように風にそよぐ長く白い毛を、一生懸命に舌で撫で付けている。
「この部屋に匿ってても、いつかは連れ出さなきゃいけないんだ。このまま逃げてくれた方がいいって」
 ぼくはなかなか動こうとしない赤松にしびれを切らし、彼女の腕に手をかけた。
「たしかにきみの言うとおりかもしれないけど、でも、あの猫、ちゃんとひとりで自分の家に帰れるかな。その前に本当に飼い猫なのかな。このまま放っておいて事故にでも遭ったら可哀相だよ」
 可哀相な猫は、素知らぬ顔で毛繕いを続けている。
「大丈夫だよ。猫って帰巣本能強いって言うし。ほら、犬は人に憑くけど猫は家に憑くって言うだろ」
 このままだと、猫が事故に遭う前に、赤松が屋根から落ちるのが目に見えている。
「でも・・・・・・」
 赤松はまだ渋っている。「せっかく信用してもらったのに。あの猫を掴まえておくことがわたしの役目だったのに。このまま逃がしちゃったら、明代ちゃんや片岡君の信用を裏切るみたいで・・・・・・」
 赤松は下唇を噛みしめて俯いた。
 彼女にとってあの猫を守ることは、ぼくたちの輪の中に入る為の、一つの儀式のようなものなのかもしれない。滞りなく儀式を終えることができなければ、仲間として認めてもらえないという強迫観念のようなものが、彼女を支配しているようだった。
「大丈夫。みんな猫がおばあさんに見付かりさえしなければいいと思ってんだから、逃がしたからって怒ったりしないって」
 その前に、赤松には気の毒だが、みんな彼女ほど自分達の役目を重要視していないし、このことに関しての結束も緩い。明代ちゃんなんて、自分が怒られるかもしれないのに寄り道してんだから。もちろん、ぼくは巻き込まれたから仕方なくやっているだけだし、片岡はごたごたが嫌だから走り回っているに過ぎない。
 しかし、そんなことを言えば、赤松の米粒ほどの希望を胡麻よりも小さくしてしまいかねない。ぼくはいらないことは言わずに説得を続けた。
「とにかく、赤松が屋根の上にいるところをおばあさんに見られたら、片岡の立場も悪くなる。部屋へ戻ろう」
 片岡の立場を持ち出したのが正解だったのか、彼女は渋々頷いた。
 と、その赤松の渋顔の向こうに、転げるように自転車で滑り込んでくる片岡の姿が映りこんできた。
「片岡だ! 俺、下に行ってるから!」
 ぼくは赤松を置いて階段を駆け下りた。ぼくが玄関に辿り着くのと同時に、片岡が引き戸を開けて飛び込んでくる。
「まずい! ばあさんが帰ってきた!」
 片岡がそう言い終わらない内に、自動車のエンジン音が近づいてきた。エンジン音はこの家を少し通り過ぎたところで鳴り止んだ。どうやら家屋の建っている敷地の外に駐車場があるらしい。
「げっ! 早すぎるじゃん。どうすんだよ!?」
「どうするもこうするも、俺が障子を貼ってる間、ばあさんを頼む」
「そんなの無理だって!」
 ぼくはわめいたが、片岡はさっさと奥へ行ってしまう。途方に暮れていると、とうとうおばあさんが玄関口に立つ気配がした。ガラガラと音を立てて、ゆっくりと背後の引き戸が開けられていく。
 もう駄目だ!
 ぼくが恐る恐る振り向くと、淡い紫の着物に身を包んだ片岡のおばあさんが、厳しい目元をふっと緩めた。ほんのりと樟脳の香が漂ってくる。
「あら、篤史のお友達の・・・・・・。いらっしゃい。お久しぶりねぇ」
 篤史というのは、片岡の下の名前だ。
 ぼくも笑顔を作ってお辞儀する。
「こんにちは。お邪魔してます」
「元気にしてた? 篤史ったら、全然お友達を家に連れて来ないから」
 おばあさんが抱えていた包みをぼくが持つと、彼女は嬉しそうにお礼を言い、気さくに話しかけてきた。かなりの高齢にもかかわらず、未だに重力に逆らって吊り上っている双眸が少し緩んで見え、ぼくは自分の作り笑いが成功しているらしいと安堵した。
「篤史は何してるの? お客様を放っておいて」
「あ、篤史君は部屋にいると思います。ぼくはちょっとお手洗いを借りていたんで。今日は篤史くんに聞いて、西国三十三箇所の宝印の掛け軸を見せていただきたくてお邪魔したんです」
 安心すると、口からでまかせも滑らかに出てくる。ぼくは顔に笑みさえ浮かべて言った。その笑顔が、ぼくの目論見どおり青春ドラマの爽やか好青年のそれになっていたか、悪代官とつるむ悪徳商人の愛想笑いになっていたかは定かではないけれど。
「篤史君には後で説明しますから、よろしければ今見せていただけませんか?」
 おばあさんは願ってもないというように手を叩いて喜んだ。
「もちろんよ。うちに来たからには見てもらわなくっちゃ。篤史なんてあのありがたみがよく分からないみたいでねぇ。今時の若い人にはつまらないものかと思っていたけど、あなたみたいな子もいるのよね。篤史も少しは見習って欲しいわ。よく分からない本ばかり読むから頭でっかちになって、ちっとも信仰心がないんだから」
 本こそ読まないが、ぼくは信仰心なんてこれっぽっちも持ち合わせちゃいない。西国三十三箇所なんてのがあるなんてさっきまで知らなかったと言ったら、このおばあさんは目を剥くかもしれない。
「あ、その前に、ちょっと待っててくれる? 預かりものの様子を見てこなきゃ」
 おばあさんはそう言うと、ぼくの返事を待たずに、すたすたと奥へ歩いていってしまった。
 ぼくは白い足袋が黒光りのする廊下の角を左に曲がるのを見届けて、それがおばあさんの部屋へ向かう道筋だということに気が付いた。
「げっ」
 ぼくは慌てて後を追った。玄関マットを蹴って、決して長くはない廊下を走り出す。人んちの廊下を走るなんて、このおばあさんには減点される要素かもしれない。しかし今、あの部屋では片岡が障子の補正をしているはずだ。このまま部屋を見られたら、何の為にすぐ掛け軸を見せてくれと頼んだのか分からないじゃないか。
「おばあさん、あ、あの・・・・・・」
 ぼくが呼び止める間もなく、おばあさんは自室の前に辿り着いて襖に手をかけていた。滑るように襖が開き、おばあさんの顔に驚愕とも取れる表情が広がっていく。
「まぁ・・・・・・」
 おばあさんの呟きに、ぼくは目を瞑った。今度こそもう駄目だ!
 ――午後五時三十五分。事件発覚。


つづく



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