仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2025.09.09
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カテゴリ: 東北




明治31年(1898)、盛岡市加賀野に生まれる。旧制盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)を〔ママ、おだずま注〕入学しすぐに野球を始め、卒業後、早稲田大学に進学。2年生の秋から捕手として試合に出場し、4割3分3厘の高打率をあげ不動の評価を得る。

大学卒業後は名門野球チーム、函館太洋倶楽部(函館オーシャン)に所属、永く函館市に在住。函館では運動具店の店主として10人近くの従業員を雇う企業家でもあった。昭和6年(1931)と9年(1934)、来日したアメリカ大リーグ選抜チームとの日米野球大会のために結成された全日本チームに召〔ママ〕集され、捕手兼主将に選ばれた。昭和9年(1934)はベーブルースやゲーリックといった大リーグの伝説的な名選手に対し、若き沢村栄治やスタルヒンたちをリード。このときの全日本チームが母体となって本格的プロ野球チーム「大日本野球倶楽部」(後の東京巨人軍)が誕生する。

大日本野球倶楽部の久慈に対する評価は非常に高く、破格の待遇(三原脩や水原茂の5倍)で入団を誘われたが、久慈はその申し出を断わる。それは昭和9年(1934)3月の「函館大火」により市が壊滅的なダメージを受けており、そんな函館から離れることができなかったためである。

そして久慈はプロ野球には身を置かず、プレーしながらアマチュア野球の発展に貢献しようとした。しかしながら久慈次郎の名は東京巨人軍の初代キャプテンとしてしっかりと記録されている。

その後、函館復興に心血を注いだ久慈を政治の場にという声が上がり、積極的な選挙活動は一切行わなかったが、上位当選で函館市議となる。

昭和14年(1939)8月19日、運命の日が訪れる。選手兼任監督として札幌市円山球場での札幌倶楽部との試合に臨み、1対2とリードされて迎えた7回、フォアボールで一塁に向かう際、ホームベース上で次の打者に指示を与えようと振り向いた瞬間、飛び出した二塁走者を刺すべく投げられた相手捕手のボールが右のこめかみを直撃。久慈はホームベース上に倒れ込みそのまま動かず、2日後、ついに帰らぬ人となった。札幌から函館に向かう久慈の棺を乗せた列車は、停車駅ごとに熱烈な野球ファンが駅に詰めかけ、久慈の死を惜しんだといわれている。

久慈の死を受け、都市対抗野球では第18回大会(1947年)から、敢闘精神あふれる選手に与える賞「久慈賞」を設けた。また昭和34年(1959)に創設された野球殿堂では、正力松太郎や沢村栄治らと並び、第1回の殿堂入り選手となった。

■盛岡商工会議所『盛岡もの識り検定試験参考書 もりけん本スーパーVer.2』2012年 から





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最終更新日  2025.09.10 08:02:50
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