沖縄.com~琉球からの贈り物~

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10・10空襲


10・10空襲
アメリカ機動部隊は、レイテ作戦を前にして1944年(昭和19)10月10日、南西諸島に大空襲を敢行した。
マーク・A・ミッチャー中将の指揮するアメリカ第58機動部隊は、空母9隻、戦艦5隻、軽空母8隻、巡洋艦14隻、駆逐艦58隻からなる大部隊であった。
空襲は午前6時40分から午後4時すぎまで、5波にわたって延べ1356機の艦載機が攻撃をくりかえした。
空襲は奄美大島・徳之島・沖縄諸島・宮古島・石垣島・大東島などの飛行場と港湾施設に集中した。
特に那覇の被災は市街地の90パーセントを焼きつくすほど大きく、死傷者は軍民あわせて約1500人にのぼった。
この10・10十空襲のときの日本軍(沖縄守備軍)と住民の関係は、次のように記録されている。

「人口60万、軍隊15万程ありて、初めは軍に対して皆好意を懐(いだ)き居(お)りしも、空襲の時は1機飛び立ちたるのみにて他は皆民家の防空壕を占領し、為に島民は入るを得ず、又4時に那覇立退命令出で、25里先の山中に避難を命ぜられたるも、家は焼け食糧はなく、実に惨憺(さんたん)たる有様にて今に到るまでそのままの有様なりと。
而して焼け残りたる家は軍で徴発し、島民と雑居し、物は勝手に使用し婦女子は凌辱(りょうじょく)せらるる等、恰(あたか)も占領地に在るが如き振舞いにて、軍規は全く乱れ居(お)れり。
指揮官は長某にて、張鼓峰(ちょうこほう)の時の男なり。彼は県に対し、我々は作戦に従い戦をするも、島民は邪魔なるを以て、全部山岳地方に退去すべし、而して軍で面倒みること能わざるを以て、自活すべしと広言し居(お)る由(よし)」
この中に出てくる「長某」というのは、沖縄守備軍参謀長・長勇のことである。長勇は1930年(昭和五)に桜会に加盟し、クーデターによる国家改造をめざす陸軍青年将校の主要メンバーであった。
日中戦争の始まった1937年(昭和12)には中佐で、上海派遣軍参謀で中支那方面軍参謀を兼ね南京大虐殺を指揮した一人である。
1938年(昭和13)には連隊長として張鼓峰(ちょうこほう)事件(東部満ソ国境における日ソ両軍の衝突)の当事者となった。
沖縄戦では、積極攻撃論を主張し、持久戦論の立場をとる八原博道大佐(高級参謀)と対立した。
長勇参謀長の発言は、その後の沖縄県民の悲惨な運命を暗示していた



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