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指輪 第三話


夫をなくしてからの沙耶の顔は以前のバラ色のふっくらとした頬を思い出せないくらいだった。
「元気?久しぶりね、沙耶」
「びっくりした!来るとは知っていたけど、いつもあなたは急なのよね」
沙耶は椅子から立ちあがり、裕羽へと駆け寄った。
「今日はもう大口のクライアントは帰ったのよ、ゆっくりしていって、
義母はフレンツェの娘の所に遊びに行っていてしばらくは帰ってこないから。」
前髪をさらりとあげ、ストーヴにかけてあったポットのお湯で紅茶を入れた。

2年ぶりの再会で、積もる話も沢山あるのだが、今日はこれからまだ
寄るところがある、夜には戻ってくることを伝えた。

「来て早々で悪いのだけど、あの話は信じてイイの?」
あの話・・・この老舗レースショップを裕羽の会社が買い取るという事だ。
「ええ、もう義母にも親類にも了解は取ってあるの、主人が亡くなって
経営の事はまるっきりわからない私は、右往左往。義母はもう高齢で
お店のことは私に一切任されていて縁戚にも継ごうという人はいないわ、
でも、腕のいい職人をレイオフすることはできないし、大口の顧客も世界中に
いるし、細々とでも名前を残していきたいの・・・。」

裕羽の務めている会社のグループに入り、相談役として沙耶を置くように
上とも話をつけてきていた。資本が若干入るだけで、あとはなんら変わらない。
実際アンティーク調の緻密で繊細なデザインのレースは日本にはあまり入って
こない貴重な物。このところのアンティークブームで、日本国内の需要はだんだんと伸びてきている。
最初に話を持ちかけられたときは、純粋に友達を助けたい一心で、上司とかけあった。
しかし、とてもいい話をとってきたと、裕羽の今回の昇進の理由にされたのは、
なんとなく腑に落ちない部分も本当のことだった。むろん辞退はしたが。

「そう・・・よかった。」安堵の表情が二人に生まれる。
「私はいつも裕羽に頼ってばかり、高校のときからずっとそう・・・。」
少しぬるくなった紅茶を飲みながら言う。
「そんなことはないわ、ただフランス人の旦那を連れてきて『親になんていおう?』と相談して来た時は、
沙耶の両親をどう説得するか?ってかなり悩んだけどね」
「しっかりものの裕羽にはかないませんよ」

そう、いつだって人はそういう評価なのよね。私のこと。
頼られれば、答える為に一生懸命いつもいつも頑張ってきた。
それで相手が喜んでくれたり、その人の為になるなら、
若干自分に無理をしてまで走ってきた。
だから・・・それがどうやら、自分をうまく表現できない部分の原因に
なっている気がするのは多分事実だと思う。

今さっき、僕は成田を立った。
東京は冷たい小雨が降っていたが、パリは晴れだと
機内の聞こえにくいアナウンスが告げる。

小雨の降る日は決まって君との出会いの情景を思い出す。

きらきらとネオンがひかる夜の銀座の街を、
紫色のアネモネのようなたおやかで柔らかそうで、
でもどこか影がある女性が僕の前でつまずいたのが・・・
運命のはじまりだった。
ひどく酔っ払っていたその女性は、そのまま僕の目の前に
倒れこみお腹が痛くて動けないという。周囲に集まってきた
やじうまの中のひとりがお節介にも救急車を呼んでしまい、
僕はさっきあったばかりの「にわか付き添い」として一緒に連れて行かれた。

こうやって書くととっても迷惑な話に聞こえると思うが
あの時は本当に「迷惑」の限りだった。
明後日の原稿の〆をひかえ、うまく自己表現できない自分に
少々ナーバスになっていた僕の心は、酔っ払いの年上の女性の付き添いなんて
まったくついてないと感じていた。
しかし、今振り返ると、あの時誰かが救急車を呼んで
くれていなければ、僕達はそのまま、あの冷たい小雨のふる
都会の街ですれ違った中の一人にカウントされていたんだろう。
いや、彼女は酔っていたから、カウントどころではなかったんだろうけど。
まあ、どちらにしろ生涯「その他大勢」の役であったことには
間違いない。

病院内はとっても静かだった。
冷たく白い壁は、以前立ち寄ったことのある
フランスの片田舎の教会を思い出させる。それ以外は消毒くさい
無機質な個室そのもの。
彼女の倒れた原因は「神経的なもの」
今は、安定剤を打たれて彼女は眠っている。顔色が少々悪い気もするが、
一晩ぐっすり眠れば大丈夫だろうと当直の医者から聞いた。

静寂、また静寂。
その女性は「裕羽」というらしい
(免許証をちょっと拝見)彼女の家に電話して誰かが出たら
帰ろうかと思ったが、コールは無限だった。誰も居ない、
一人暮らし?
私物に目がいく。決していやらしい気持ちが働いたわけではないし、
「物」にいってしまうのはクセであり職業上の病気もある。
それ以前にその人の持ち物は、その人の個性や内面的なものまで窺い知れるという事は
案外知られていないことだろう。
皮製の大きい鞄は、見た感じ日本では売っていない形。
無ブランドだが、きっと何代も続いている鞄屋のモノ
だろう、丁寧な仕事がされている。
指輪はプラチナ、昔フィレンツェの片隅の工房で見かけた
アンティークに少し似ていた。どうしてそんなことを覚えているかというと
以前つきあっていた女性へのプレゼントに購入したから・・・だ。

見ず知らずの年上の女性に興味はなかったが、
彼女の容姿は実際の歳より若くみえ、
きれいに手入れのされている長い茶色っぽい髪は僕の目に
とまった。
切れ長の目は開くことを忘れ、ただ昏々とゆるやかな時の流れと
共にベッドに横たわっている、僕はじっと見つめた。
僕は・・・・・・・・。
ただ看ていなくては、という義務感が少しだけあったのは
覚えている。本当のところは、「見とれていた」だったんだろうけれど。

どれくらいの時がたったのだろうか。
彼女の端正な紅い唇から、綺麗な発音のフランス語がフッとこぼれた。
寝言?目を閉じているから寝言だろうけど、第二外国語はフランス語だったから、
少しは自信があったが、訛りが入った寝言の外国語は、僕がきちんと解釈できるはずもなく、「懺悔」という言葉と、誰かの名前を呼んでいた・・・としかわからなかった。

「お願い ここにいて お願い・・・」
途切れ途切れの嗚咽とも呼べるつぶやきと同時に
彼女の目尻から一筋の涙がこぼれていた。
もちろんそれも寝言だったのであろう、でも・・・
まるで、かなしばりにかかったように
そのか細い声で発せられた言葉によって
僕はその場から離れることはできなくなった。

誰かが重いその胸のうちを支えてあげなければ
きっとこのひとは、そのうちその重圧で潰されてしまう。
同じ症状というか十字架を背負った人たちは周りに沢山いたし、
フリーのライターというのは孤独との戦いだと言うヤツもいた。
もちろんずっとはついて居れないが、
今、今晩だけでもベットの脇に座り、手を取って過ごそうか?
そんな気持ちは決していやらしい想いからではなく、純粋に
少しでも同じ痛みを持った人間としてしてあげられるコトだと
思ったからだ。

「惹かれる」という心の揺らぎに理由は必要だろうか?
僕には未だに説明ができない。まだ人生経験も浅いし、大した経験を
している自覚もないしね、でもきっとこれは誰も答えられないと
思う。不思議で透明な感情にあぐらをかく無作法な真似をするわけでもないが、
本当に運命というやつは絶対にあると確信した。
きっとこの人は僕と同じ痛みを背負っているんじゃないかって。
誰ともわからないこの女性。でも、僕の中では
彼女の存在は少しずつでも、確実に真綿にしみこんでいく
水のように僕の心の中で大きくなっていった。
名も知らない女性と深夜の病院で二人。
ただコツコツと時計の針音以外聞こえるものは何もない。
彼女の呼吸と僕の呼吸。それとスタンドの細い灯りとあとは闇。
それらの存在の微妙さは、それぞれの位置を必要としない。
かといってそれらの一つがかけても、このバランスは
崩れ、全てが飲みこまれるであろう静かな暗闇。

現実逃避が得意な僕は、いつでも自分の世界に入りこめる。
彼女の手を握りながら、気持ちの背景には一週間前まで居た、
フランスの田舎があった。

王朝風内装の優雅なホテルをテーマに取材をする僕は、
そこに立っていた。
重厚な要塞のようなシャトーホテル。
滞在時間は限られており、早々に取材を終えるために
足早に石の回廊に足音を響かせながら進んだ。
視界がぱっと広がった先には、綺麗に手入れのされた光がまぶしすぎるくらい
あたっている庭があった。
そしてそこには、透き通った陶器のような
白い肌に日の光をあびて天を仰いでいる長い髪の女性が立っていた。

シフォン布地をうすいブルーで染めたドレスを纏い、
ミドリの中に目を閉じ、その身を太陽に奉げるかの如く
じっと動かない。

その人の顔は・・・裕羽、裕羽じゃないか?!

夢はそこで終わった。
ハッと目覚めベッドの方を見ると、頬に赤みを取り戻した彼女が
スヤスヤと寝息をたてている。
窓の外は青白くその様子を刻々と変化させている。
「さて・・・と。」
彼女と逢う前とは全く違った感覚が体中に満ちていた。
なんだか、今ならきっちりと字が埋めこまれた原稿用紙を
目の前にうずたかく積める気がする。暖かいミルクを飲んだ時の
ほっとするような感覚というか、なにしろ心が安定していることには
少々驚いた。逆に癒されたのは俺のほうじゃないのか?

そっと彼女の手を離し病院を出て、寒く凍った空気の街に出た。
僕は右脳をフル回転させ、原稿をあげることにした。
さっき夢に出てきた女性を内容に交え、どんどん白い部分を埋めていく。

花曇の午後、ゆるやかな光が窓辺にさしこんできている。
コーヒーを飲みながらあがった原稿をチェック
していると、電話が鳴った。見なれない番号だが彼女だ、違いない。
「もしもし」透明で華奢な声。
「あの・・・、裕羽さんでしょう?」

僕達の出会い。それは例えようのない偶然。
でもそれは紛れもない事実であり、夢でもなんでもない。
君の涙を見てから、僕の遠い記憶の奥底に封印してあった
ものがゆらゆらと現れてきたんだ。

裕羽といる時間が、僕の裏切られた過去、望まない過干渉の過去の
記憶、それらの漆黒の泥のような塊を消滅させていってくれた。

あいかわらず君は、僕に自分の過去を話さない。
そして、たびたび同じ寝言をつぶやきながら、涙を流している。
それを黙って見ていることにした僕は、ただの弱虫なんだろうか?
裕羽の深い傷の痛みを分かち合えるその日がくるまで、
僕は一緒にいることを出会った次の日に勝手に決めてしまっていた。あの日が来るまではね・・・。

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