日々のお気楽生活

日々のお気楽生活

其の伍 イギリスとフランス編 前編

イギリス・ロンドンとフランス・パリの旅~イギリス編

1996年7月末、大学3年生だった私は、語学の勉強をしたくて、イギリスはロンドンへホームステイをし、語学学校に通った。
当時貧乏学生をしていたので、かけ持ちで何個かアルバイトをして60万円位やっと貯めて、初めて祖国、日本を離れた。
飛行機にのるのも初めてだった。直行便ではなく、シンガポールでトランジットがある便を利用した。
ロンドンのヒースロー空港に降り立ったときは感激した。
ああ、ほんとにきちゃった。という感慨にふけった。ロンドンは早朝5時くらいで、街はまだ動きはじめたばかりといった感じだった。 
朝早すぎるため、とりあえず時間をつぶしつつ、地下鉄で市の中心部へ向かい、10時を過ぎたらホストマザーに電話をし、「これから伺うがいいか?」と尋ねた。マザーは「いいわよ。いらして」と言ったので、また地下鉄を乗り継いで市の郊外のホストマザー宅へ向かった。重いスーツケースを引きずり、住所を辿りながらやっとの思いでたどりついた。ホストマザーは70代のおばあちゃん。快く私を迎えてくれた。
その日は時差ぼけなどでとても疲れていて、紅茶をいただいてからすぐ眠らせてもらった。

翌日から学校へ。初日はマザーが付き添ってくれた。
この学校は2005年7月のロンドン・同時多発テロの現場近くにあった。
最初は能力テストみたいなのをやって、クラスの振り分けをした。
私は初心者クラス。そこは日本人や韓国人がほとんど。ブラジル人やポーランド人、イタリア人も1人ずついた。
毎日朝9時から午後は2時くらいまでのクラス。

毎日クラスが終わってからは、大英博物館へ行って展示物をみたり、デパートに行ってウィンドーショッピングや買い物をしたりして過ごしていた。
びっくりしたのはハロッズのトイレ!1ポンド(200円位)もとられた!だけど、中はトイレと思えないほどゴージャス!色んなブランドの香水とかも「どうぞご自由に」と言わんばかりにおいてあったし。
あとパブにも行った。中ジョッキよりもおおきな”パウント”というサイズのジョッキで黒ビールを飲んだり。

家に帰るとマザーと一緒に夕食の準備をした。マザーはシェパーズ・パイ(子牛のひき肉の上にマッシュしたポテト、チーズを乗せて焼いたもの)やチキン・ヌードル(ユダヤ人が良く食べるそう。エッグパスタ、みじん切りの人参・玉ねぎ、鶏肉などが入ったスープ)、フィッシュ&チップス(白身魚をフライする時に小麦粉にビールを入れていたのはびっくりした)、ヨークシャープディングとローストビーフなどイギリス料理を作ってくれた。
どれも美味しかった。
食べ終えて洗い物を手伝う時、洗剤で洗ってそのままふきんで拭いていたのはちょっとイヤだったが。外国って洗剤を流さずにふきんで拭きとるみたい。

週末に私は、イングランドの北の「ハワースと言うところに行く」と言って家を出た。ホストファミリーはハワースを知らなかった。
ハワースは英国文学史上有名な、ブロンテ姉妹の故郷だ。
シャーロット、エミリー、アンの三姉妹。中でもシャーロットは「ジェーン・エア」という作品、エミリーは「嵐ヶ丘」という作品で有名だ。
キングスクロス駅で往復切符を買い、列車に乗った。途中乗り換えが必要だった。一応間違いないとは思うが、初めてなので果たしてこれでいいのか自信がない。そこでアジア系の女性がいたので一応英語でこの列車が北へ行くのか尋ねた。すると日本語で「行きますよ」と返事があった。彼女は日本人だった。彼女も私と同じくハワースに行く所だったようだ。そこで彼女と一緒にハワースへ行く事になった。
途中、おなかがすいたので、マザーが作ってくれたサンドイッチを食べた。沢山あったので彼女にも分けてあげた。やっと目的の駅に到着したが、今度はバスに乗らなくては行けなかった。バスですこし揺られて、今度こそやっと目的地についた。
そこは観光化されているらしく、お土産店やらB&B(Bed&Breakfast)やらが連なっている通りもあった。まず目的のブロンテ姉妹の生家へ行った。そこはブロンテ資料館のになっていた。ブロンテ姉妹ゆかりの品々の展示を見た。
その後、生家の裏の荒野を少し歩いた。ヒースという小さな赤紫色の花が咲き乱れていた。わたしはいくつか摘み取って押し花にした。荒野を眺めていると、ここだからこそブロンテ姉妹の「ジェーン・エア」や「嵐ヶ丘」が生まれたんだろうなとしみじみ思えた。
あっという間に夕方になってしまった。ロンドンまでは片道3時間もかかるのでもう帰らなくてはいけない。
名残惜しくも、私は途中で出会った彼女と、そしてハワースに別れを告げた。
帰り道は少し孤独だった。マザーのサンドイッチがまだ残っていたので私はそれを食べた。そして眠った。

夜8時くらいにキングスクロス駅についてそこから地下鉄に乗り換え。ところが乗り換えた電車に途中で誰かが身投げをしたため、地下鉄から降りるようアナウンスがあった。
ハイベリー&イスリントンという駅。私はその先の終点の駅までホストファミリーに車で迎えにきてもらう事になっていたのにどうしよう!と思ったが、とりあえずマザーに電話した。そうしたら迎えにきてくれるリチャード(マザーの息子)がもう家を出てしまったという。とりあえずリチャードから連絡がきたらそこに行くように伝えると言われたので私はひたすら待っていた。
当時は携帯も普及してなかったので、仕方ない。
が、待てど暮らせど来ず。途中で変な酔っ払いみたいのに絡まれたりして、凄く怖かったのだが追い払い、リチャードを待ち続けた。リチャードが到着したのはかなり遅かった。多分夜の11時か12時くらいだった。
私はロンドンの地理が詳しければタクシーなどを使い、別の駅に行き別の路線で帰る事ができたのだろうが、とにかく頭がパニクっていたのでそういう考えも働かなかった。

2週間学校に通って、ロンドンでのホームステイを終えた。とても楽しい日々だった。ホストファミリーとの生活も、学校生活も。
私はその足でフランスのパリへ行った。ホントはお金があればユーロスターで行きたかったが、お金もないし、ドーバービーチ(ドーバー海峡のイギリス側にある)のホワイトクリフ(岸壁が白い石灰岩(?)でできている。反対のフランス側も同じく白い岸壁になっている。これはフランスとイギリスがかつて陸続きだった事を示している)が見たいというのも手伝って、バスに乗ってバスごとフェリーでフランスに渡った。

ドーバービーチは有名な詩があって、それに憧れていたのだ。
想像どおり、白い岸壁。
憧れの地を見られて感激した。
フェリーは静かにイギリスを離れ、ドーバービーチの白い岸壁も次第に遠ざかっていった。


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