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東京大衆歌謡楽団昭和初期の歌謡曲を演奏し、歌い続けていますね。とても素晴らしい楽団です。動画サイトで思い切りご覧になれます。昭和29年にヒットした岡本敦郎さんの高原列車は行く てっきり草軽電車をモチーフにしたものと思っていたのですが、福島県の沼尻鉄道を詠った曲だったのですね。昭和の初期は、硫黄を運搬する高原列車は各地で走っていたのですね。大正6年~昭和36年迄日本一の避暑地 軽井沢と日本一の温泉地 草津 を結んで草軽電車は 全長55.5㎞ の距離を往復していました。深い山の中を走る電車なのですがトンネルが皆無でした。なので 急曲線やスイッチバックがいくつもありけたたましいブレーキ音を響かせながら時速20kmで走行していました。走っている電車に飛び乗ることも出来ましたし車窓から昆虫採集も可能だったのです。カブト虫電車の正面です。パンタグラフがこんなに雄大なのでそう呼ばれていました。昭和34年の第7号台風で、鉄橋が落下しそのきっかけもあり、世の動向による経営不振もあり高原列車として、惜しまれつつ、親しまれながら引退したのでした。
2021.06.24
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写真プリントの店にフィルムを持って行き現像をお願いするのが 当たり前の昭和でした。後半になると写真店は、スピード仕上げの熾烈な競い合いになっていきました。即刻化されていない昭和では、人々は貴重な記録媒体が仕上がるまでのワクワク感は 殊の外 だったのです。6時に銀の鈴で待ち合わせ時間に遅れようものなら 相手に謝るのがふつうでした。今は携帯がアシストしてくれるので、それほどうしろめたさを覚えないでしょうけど。だけれど 待っている時間は、想像力を掻き立て待つ ことに集中でき、幸せだったのでしょう。アナログの黒電話 重厚で、威厳もあり受話器が重過ぎて長話など出来ない感がありました。話したい相手に直接繋がりません。電話口に出た方に、呼びに行ってもらうのです。その待ち時間が長ければ長いほど ワクワクし美声で話しがたいため、軽く咳払いし電話口に相手が現れるのを待ったのでした。
2021.06.11
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田舎の人が都会に出た状況形態を 漫談とパフォーマンスて゛笑わせてくれた 東京ぼん太さん 唐草模様をブランドにさせた方ですね。 昭和ではその唐草模様を見ただけで笑ってしまったものでした。 お上りさん は 東京見物に行くと必ずや上野公園の西郷像の前で 記念スナップをとったのです。 上野は地方から上京し、働いている人の聖地なのです。 昭和30~40年代若者は 自分が田舎者ということにある程度コンプレックスを持っていたのです。 だから、カムフラージュで服装は勿論、 しぐさなどに最善の注意をしていた方 多かったのです。 お上りさん というのは田舎から出てきた人が自分より後に出てきた人に対して 優越感を持っていう分類語なのです。 上の図の長髪のお兄さん、そういう顏していませんか? 都会の人は 田舎から出てきた人に侮蔑の感は抱きはしないのです。 むしろ田舎にあこがれのイメージを持っているのです。 都会と田舎の格差がほとんど無くなった現代 お上りさん は死語になりました。
2021.06.02
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