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(▲4月21日~5月1日に行ったクロアチア。)去年の今頃、私は、これまでの人生の中で一番、健康だと思っていた。それが、5月27日(日)夕方4時ごろから、またもや、吐き気や嘔吐(おうと)、冷や汗を伴うめまい。■めまい■■先月クロアチア■に行っていた時にも、発症した・・・。大丈夫か私・・・。来年はどうなっているのか、不安な毎日。めまいを知らない時は、悩みを聞いても無関心だったのに、同じめまいを持病に持つと聞くと、なんだか、前よりも親しみがわく。私の知っているめまいの知識を全部教えてあげたくなる。■2018年5月見た映画■*君の名前で僕を呼んで*I,TONYA アイ,トーニャ*モリのいる場所*マルクス・エンゲルス*オール・ザット・ジャズ*ピーターラビット■書き残したネタ■*「おらおらでひとりいぐも」*会話力*広島弁の「アホバカ」*妄想古民家カフェ「くるり」*大阪市営地下鉄の民営化*森友学園問題*漆の木*白樺の籠*中之島の橋*いらっとする言葉。*葛井寺*江戸の人口と明治の人口と移民問題*スモーキング フリー*瀬田川洪水の原因と対策・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.31
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■ピーターラビット■♪音が出ます!!ケンカするほど、好きになる。豊かな自然に囲まれたイギリスの湖水地方。青いジャケットを着たいたずら好きなうさぎ・ピーターと自然を愛する心優しい女性ビア(ローズ・バーン)が暮らすお隣に、大都会ロンドンから神経質そうな男性トーマス・マグレガー(ドーナル・グリーソン)が越してくる。両親を亡くしたピーターにとってビアは心を許せるたった一人の女性だったが、マグレガーも美しいビアに次第に惹かれていく。ピーターはライバルとなったマグレガーを都会に追い返そうと様々ないたずらを仕掛け、マグレガーも大人げない行動で反撃する。ビアはそんな二人を暖かく見守っていたが、あるアクシデントをきっかけにマグレガーがロンドンに戻ることになり、ピーターの心に変化が訪れる。(▲湖水地方、ヒルトップにて。)絵本でお馴染みのマグレガーさんが心臓発作で急死。親戚でロンドンの老舗百貨店のハロッズに努めるトーマスがやってくる。ウサギにとっては、トーマスは邪魔もの。トーマスにとっても、ウサギは、家を荒らすもの。野生動物と人間の対立をユーモラスに描いている。元々の作品とは、まったく違う内容だが、これはこれでありかも。 そうそう、女優、エマ・トンプソンが「ピーターラビットのもうひとつのお話」というのを書いている。 なんだかつまらない気分のピーターは、どこかへ行きたいと思っていました。いつものように、レタスでも食べようとマグレガーさんの畑にしのびこんだピーターでしたが、そこには、もっともっとすばらしいことが待っていたのです。まず、おいしいサンドイッチがはいったバスケットを見つけました。そして、気がついたら―いたずらウサギ、ピーターの新しい冒険の舞台はスコットランド。原作者B・ポターの世界そのままにエマ・トンプソン(アカデミー賞脚本賞・女優賞)が贈る、心うるおう物語。写真は■湖水地方のヒルトップとその畑■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.29
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■オール・ザット・ジャズ■「さぁショータイムだ!」まばゆいイルミネーション輝くショービジネス界の頂点、ニューヨークのブロードウェイ。ベテラン演出家ジョー・ギデオン(ロイ・シャイダー)は、新作ミュージカルの舞台稽古、酒と女とヘビースモーキングに明け暮れる日々を送っていた。だがあまりのハードワークと不摂生がたたり、過労で倒れたジョーは生死の境をさ迷うことに。それまでの人生が走馬灯のようによぎる夢と幻想の中に、美しい天使(ジェシカ・ラング)が現れて―。 舞台と映画版『シカゴ』の生みの親である演出家・振付師、ボブ・フォッシーの自伝的作品。ブロードウェイの舞台演出家の仕事中毒の日々、さまざまな女との出会いと別れ、それら人生のすべてを圧倒的なダンス・シーンを交えて描く。アカデミー賞では音楽(編曲・歌曲)賞ほか美術、衣装デザイン、編集の計4部門を受賞した。 監督ボブ・フォッシーは、十代からショービジネス界入りし、その後50年以上にわたるダンサー、振付師、舞台演出家としての半生をこの作品に託した。映画監督としてのデビューは『スイート・チャリティ』(68)で、同作はイタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニの『カビリアの夜』(57)を原作としており、本作『オール・ザット・ジャズ』も敬愛するフェリーニの『8 1/2』(63)を下敷きにした、現実と幻想が交錯する構成となっている。晩年のボブ・フォッシーが死期が近いと宣告されて、執念をかけて完成させた作品。当初ギデオン役は制作側がリチャード・ドレイファス主演で制作する予定だったが、フォッシーはそれを拒否しドレファスとジョーズで競演したロイ・シャイダー主演を懇願して実現した。 舞台の上に立つ、沢山のダンサー。群舞を見て、光るものを持っているダンサーだけが残るという、オーディション風景を描く。「コーラスライン」とよく似ている。 ベテラン演出家は、踊りも歌も、トップではない女性をひとり選ぶ。みんなに反対されても、彼女がいいという。彼女をダンサーとしてではなく、女性として見て、愛人関係になる。映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインもを思い出した。ハーヴェイ・ワインスタインは、プロデューサーという地位を利用して多くの女性に性的暴行を加えたとして大問題となっている。性的暴行を受けた女性が「#ME too」とセクハラ被害の告発をSNSで発信、今大問題になっている。この映画の主人公の活躍した時代は、1970年代で、セクハラを受けた女性はそんな声を上げることができなかったのだろう。だから、女をとっかえひっかえしても当たり前のような顔の主人公。実話をもとにした1979年の作品だが、つくづく時代だなと感じた。★アカデミー音楽(編曲・歌曲)賞、★美術監督・装置賞、★衣装デザイン賞、★編集賞受賞。■午前十時の映画祭■一度、スクリーンで見たかった。もう一度、スクリーンで見たかった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.28
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■マルクス・エンゲルス■♪音が出ます!あの時僕らは、世界と手をつないだ・・・。若きマルクスとエンゲルスの友情は世界の未来を大きく変えた 。永遠の名著『共産党宣言』(1848)が誕生するまでの激烈な日々を描く歴史的感動作。1840年代のヨーロッパでは、産業革命が生んだ社会のひずみが格差をもたらし、貧困の嵐が吹き荒れ、人々は人間の尊厳を奪われて、不当な労働が強いられていた。20代半ばのカール・マルクスは、搾取と不平等な世界に対抗すべく独自に政治批判を展開するが、それによってドイツを追われ、フランスへと辿りつく。パリで彼はフリードリヒ・エンゲルスと運命の再会を果たし、エンゲルスの経済論に着目したマルクスは彼と深い友情をはぐくんでゆく。激しく揺れ動く時代、資本家と労働者の対立が拡大し、人々に革新的理論が待望されるなか、二人はかけがえのない同志である妻たちとともに、時代を超えて読み継がれてゆく『共産党宣言』の執筆に打ち込んでゆく――。 若き頃のカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの活躍を描く伝記映画。その過激な言動によりドイツを追われた26歳のマルクスは、パリで労働階級について研究するエンゲルスと出会う。2人は政治的暴動や動乱をかいくぐり、新しい労働運動を生み出す。監督は、「ルムンバの叫び」のラウル・ペック。出演は、「汚れたダイヤモンド」のアウグスト・ディール。 マルクスとエンゲルスの運動はやがて、ウィリアム・モリスなどにも影響を与える。「マルクスとエンゲルス」とセットのようにいわれるふたりは、年も近く、生まれも同じプロイセン。性格は、マルクスが喧嘩早くて気が強く、エンゲルスが、まあ、まあというタイプと見た。★カール・マルクス(1818-1883)1818年5月5日プロイセン、トリーア生まれ。ユダヤ人家庭で育つ。1835年にボン大学に入学。★フリードリヒ・エンゲルス(1820-1895)1820年11月28日、紡績工場を営む父の下、プロイセンのバルメン(現:ヴッパータール)に生まれる。1837年、ギムナジウム(日本における高等学校の位置づけ)を中退。運命的な出会いのふたりだが、この他に運命的な出会いのふたりといえばフィデル・カストロ(1926年生まれ)とチェ・ゲバラ(1928年生まれ)。マルクスは、ドイツ語で生まれ育ち、パリに行けばフランス語で生活。エンゲルスも英語はもちろん、フランス語をドイツ語を話す。国際人だな・・・と思っていたら、この映画を作ったラウル・ペック監督は、もっとすごい!! 監督・脚本・製作ハイチに生まれ、コンゴ、アメリカ、フランスで育つ。ベルリン工科大学で経済工学を修め、西ドイツ初の映画学校、ドイツ映画テレビアカデミーベルリンに進んだ。1996~97年にはハイチの文化大臣に就任、2010年からはパリのフランス国立映画学校FEMISの学長に。2001年にはアイリーン・ダイヤモンド(アメリカのタレントスカウト)と並び人権NGO、ヒューマン・ライツ・ウォッチから特別功労賞を受賞。2012年カンヌ国際映画祭や2002年ベルリン国際映画祭では審査員を務めた。代表作に『ルムンバの叫び』(00年)、『私はあなたのニグロではない』(16年)などがある。 脚本が、英語、フランス語、ドイツ語なのは、この監督が育った環境がなせる業。■ラウル・ペック監督のコメント■今、世界が一連の未曾有の経済危機を経験する中で、カール・マルクスに再び注目が集まり、予想外の関心が高まっている。ここ数年、世界の有力誌――『TIME』『ニューズウィーク』『Forbes』『フィナンシャル・タイムズ』はもとより『Der Spiegel』までも――の表紙にマルクスが登場している。遡って1999年のBBC世論調査では、マルクスが20世紀のもっとも偉大な思想家として、2位のアルバート・アインシュタインを抑えて首位にランクされている。2014年には、フランスの経済学者トマ・ピケティの『21世紀の資本』が45万部を売り上げ、カール・マルクスの理論が大いに脚光を浴びることとなった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.27
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あたたかな春の陽ざしの中、たぶん、3歳か4歳の私は、この小さな(サイズを表すためレモンをそばに置いた。)かごを持って、家の周りを散歩していた。この直径12センチほどの小さなかごの中には、家で作ったアラレを炒ったものが入っていた。アラレの他に、大豆を炒ったのが入っている時もあった。「はるなちゃん、いいフゴを持っとるんじゃなぁ」と大人たちが声を掛けてくれる。「ふん」と答えて自慢げに、フゴを声かけてくれた大人に見せる幼い私。フゴというのは、竹や藁でつくったかごのことをそうよんだ。3歳くらいの私が、当時のことを詳しく覚えているはずはないのに、何度も父や母からその頃の様子を聞いているうちに、今見ているように、当時を思い描くことが出来るようになった。今でこそ、色あせている、この小さなフゴ。買った当時は、濃い赤や緑の色鮮やかなものだった。これは、今から40年ほど前、小さかった私の娘たちに私の父と母が買ったもの。孫に買いながら、父と母は、私の幼かった頃を思い出していたのではないだろうか・・・。岡山県の山間部の小さな村の小さな家、小さな私、見守る父、母、村の人たち・・・。これが私の原風景だ。このフゴが「花籠」とよばれると知ったのは、ずいぶん後というか、ここ数年前だ。 ネットで湯かごを見つけた。花籠とサイズがよく似ている。花籠も湯かごとして使えるかも。(^-^*) ■どこかで見た花籠の写真と文章■この直径12cmほどの小さな手提げ籠は、かつて春のこの季節に花籠と呼ばれ、子供たちが野遊びに行くときに持って行った子供用の籠でした。 当館が開館した昭和49年頃には、春先になると、この花籠を自転車の荷台いっぱいに積んで売り歩く、行商人の姿があり、風物詩のひとつでした。 子供たちは買ってもらった花籠にアラレやお菓子を入れ、野原や田んぼに野遊びに出かけたのです。この花籠は当館から北東約20kmほどの西脇市水尾という農村で作られましたが、明治42年生まれの作者が亡くなると後継者もなく、姿を消しました。 子どもたちが野遊びに使う小さな籠は全国各地にあります。 当館は滋賀県水口、兵庫県西脇、香川県観音寺、福岡県柳川などで作られた花籠を所蔵しています。なかでも水口は麦藁、観音寺のは経木が使われ、編み方や形、色あいなどに特色があります。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.26
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■モリのいる場所■♪音が出ます!こんなにも人生は、豊かで愛おしい。洋画家・熊谷守一(山崎努)の自宅の庭には草木が生い茂り、彼の描く絵のモデルになるたくさんの虫や猫などが住み着いていた。守一は30年以上、じっとその庭の生命たちを眺めるのを日課にしている。守一は妻の秀子(樹木希林)と二人で暮らしているが、毎日のように来客が訪れる。守一を撮ることに情熱を燃やす若い写真家の藤田(加瀬亮)、守一に看板を描いてもらいたい温泉旅館の主人、隣人の佐伯さん夫婦、郵便屋さんや画商や近所の人々、そして得体の知れない男も……。今日も守一と彼を愛する人々のおかしくて温かな一日が始まる。「祈りの幕が下りる時」の山崎努と「あん」の樹木希林が洋画家・熊谷守一夫妻を演じるヒューマンドラマ。監督・脚本は、「モヒカン故郷に帰る」の沖田修一。出演は、「3月のライオン」前・後編の加瀬亮、「谷崎潤一郎原案/TANIZAKI TRIBUTE『悪魔』」の吉村界人。 着物のモリとその妻、畳の部屋、縁側、黒電話・・・。鼻歌は、ジュリーこと沢田研二の「危険なふたり」、ドリフターズの話題に頭から金盥とくれば、嗚呼、懐かしや1970年代、ザ・昭和!! 今回はじめて知ったのだが、熊谷守一は、「画壇の仙人」と呼ばれるほど、本当に清貧にして豊かな生活をしていたのだそうだ。 あの白洲正子とも交友関係にあったというから、私が知らないだけで、有名だったのだろう。■白洲正子■ 縁側に座る老夫婦のチラシを見ながら、■人生フルーツ■みたいなのかな?と思っていたが、こちらは、大いに笑った。妻、秀子役の樹木希林は、いつもながら上手い。秀子さんは、たぶん、こんな人だったのだろうと思った。庭が家庭菜園とか、花とかを植えないで雑木林というのがツボ!私と同世代か上の世代と思われる客層に納得。■熊谷守一■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.24
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■端建蔵橋(はたてくらばし)■江戸時代の中之島には諸藩の蔵屋敷が建ち並んでおり、中之島の西端にも蔵が建てられていたため、端建蔵という地名が生まれたとされている。ただし、1843年(天保14年)に建てられた西条藩の蔵屋敷が中之島で最も西にあった蔵屋敷だが、中之島の西端というような場所には位置しておらず、民家の土蔵に由来するとの説もある。享保年間に湊橋町(当時の町名)の西端に新築地ができ、年中裸足で過ごすような倹約家が土蔵を建てたことから「はだし蔵」とも呼ばれていた。(▲アーチは、昭和橋)■端建蔵橋(はたてくらばし):土佐堀川■橋長:111.95m幅員:24.00m形式:桁橋完成:大正10年(昭和38年嵩上げ)行政区:北区、西区河川名:土佐堀川アクセス:OsakaMetro中央線・千日前線 阿波座駅 10番出口 およそ600m 徒歩10分 大阪シティバス「船津橋」 「川口一丁目」■土佐堀川に架かる橋■■天神橋■■難波橋■■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋■錦橋(にしきばし)■ - 歩行者専用の橋■肥後橋(ひごばし)■ - 四つ橋筋の橋■築前橋(ちくぜんばし)■■常安橋(じょうあんばし)■ - なにわ筋の橋■越中橋(えっちゅうばし)■ - 歩行者専用の橋■土佐堀橋(とさぼりばし)■ - あみだ池筋の橋湊橋(みなとばし) - 新なにわ筋の橋端建蔵橋(はたてくらばし)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.23
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■湊橋 (土佐堀川)■湊橋(みなとばし)は、大阪市北区中之島6丁目と大阪市西区土佐堀3丁目を結ぶ、土佐堀川(旧淀川)に架かる新なにわ筋の橋。昭和15年に架け替えられた際、橋の位置は、上船津橋と直線でつながるように決められた。橋の形式は三径間のゲルバー式鋼鈑桁で、橋長は88.5メートル、幅員は11.2メートルであった。現在の橋は、都市計画道路尼崎堺線の拡幅工事によって、昭和57年に湊橋が架け替えられた。新しい橋は、幅員約17mの橋が両側に架かり、中央に阪神高速道路大阪神戸線が高架で通っており、橋の基礎は一体で造られている。「泥の河」の石碑。堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川がまじわる所に三つの橋がかかっていた。昭和橋と端建蔵橋、それに船津橋である。藁や板きれや腐った果実を浮かべてゆるやかに流れるこの黄土色の川を見おろしながら、古びた市電がのろのろ渡っている。「泥の河」の冒頭。湊橋の南詰めには作家、宮本輝のデビュー作、「泥の河」の一節が刻まれている石碑がある。かつて橋のたもとには宮本の父親が営んでいた中華料理店があり、宮本も9歳まで同地で過ごした。 「泥の河」はその時の体験を元に書かれたもので、物語の中には「湊橋」の地名も登場する。■「泥の河記念碑建立■■泥の河■(▲地名をあらわす標識がもうすぐ海だといっている。)■カキ船■ならぬカキ小屋。■湊橋■橋長:84.50m幅員:17.35m形式:桁橋(連続桁)完成:昭和57年行政区:西区、中央区河川名:土佐堀川アクセス:大阪市営地下鉄千日前線 阿波座駅 10番出口 およそ500m 徒歩8分 大阪市営バス「船津橋」「土佐堀三丁目」■土佐堀川に架かる橋■■天神橋■■難波橋■■栴檀木橋(せんだんのきばし)■■淀屋橋(よどやばし)■ - 御堂筋(国道25号)の橋■錦橋(にしきばし)■ - 歩行者専用の橋■肥後橋(ひごばし)■ - 四つ橋筋の橋■築前橋(ちくぜんばし)■■常安橋(じょうあんばし)■ - なにわ筋の橋■越中橋(えっちゅうばし)■ - 歩行者専用の橋■土佐堀橋(とさぼりばし)■ - あみだ池筋の橋湊橋(みなとばし) - 新なにわ筋の橋端建蔵橋(はたてくらばし)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.22
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(▲ドブロブニク:クロアチ)■2018.4.30(月)~5.1(火)「ドボロユートロ!」 「おはよう」というスロベニア語。クロアチアも同じ言葉。4.30(月)の朝、ホテルをバスで出発。■スロベニア■から、一部だけ除いて、ずっと運転してくれたバスの運転手さん。彼は、ドブロブニク出身だそうだ。スロベニアもクロアチアも彼にとっては、同じ国なのかもしれない。以前は、どちらも、ユーゴスラビアという国だったのだから。(▲ドブロブニク:クロアチ)イタリア語の挨拶を何度も聞いたし、ガイドさんがイタリア語で説明して、イタリア語の出来る、添乗員さんが日本語に訳すという体験もした。また、アドリア海を挟んで、イタリアがこんなに身近に感じられるというのも驚いた。(▲ドブロブニク:クロアチ)旧ユーゴスラビアの国の一つ、スロベニア共和国の首都も美しく、本当に行ってよかったと思う。(▲ヘルシンキ)はじめてのスロベニア、クロアチア、はじめてのアドリア海、はじめてのトリュフ・・・。はじめてのことが多かった今回の旅行は、いろんなことを知ることができた旅だった。マルコ・ポーロがクロアチア出身ということも、トランプ氏の奥さんが、スロベニア出身だということも今回で知った。他人事のように思っていた、内戦もその傷あとを目の当たりにして、実際にあったんだという思いでいっぱいになった。旅行から帰ったら、後かたずけ、blogに写真をアップすること。大変だけど、これをしなかったら、写真の管理が出来ない。blogをやっていない人は、写真の整理をどうするのか、他人事ながら気になる。遅い昼食は、ヘルシンキの空港で。これは二人分。■2018.4.21(土)~5月1日(火)スロベニア&クロアチア■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.21
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■2018.4.29(日)■城壁■ドブロブニクに行ったら絶対に行きたいのが城壁と聞いてきた。ここから階段を登ると城壁の上に行ける。 塀の上から■オノフリオの大噴水■を見る。城壁の上からは、オレンジ色の屋根瓦と蒼いアドリア海が一望できる絶景を眺めることができます。ここからの景色を見る・見ないでドブロブニクの印象も大きく異なってきます。▲洗濯物のひるがえる家もある。この先のカフェで一休み。▲1834年に作られたのかな?カフェの近くの門にあった数字。▲城壁の上にあるカフェ。▲ここは、兵士のいる所なのだろう。▲戦う気満々の大砲。▲ここから弓矢や銃で戦う。 鳩よ! 鳩よ!! 鳩よ!!!写真を撮ったりカフェで休んだりしながら約1時間あまり城壁の上にいた。オレンジ色の屋根瓦の中には、落ち着いた色の屋根も多く見える。何百年という時が色を変えたのだろう。しかし、やけに鮮やかな色の屋根も見られる。この街は、世界遺産を取り消されそうになるくらいに内戦で傷つけられた。しかし、奇跡的に昔のとおりに復活したという。▲海と城壁に守られたドブロブニク旧市街地。2018.4.29(日)■ホテル■ADRIA(アドリア)■2018.4.21(土)~5月1日(火)スロベニア&クロアチア■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.19
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■2018.4.29(日)■ドブロブニク旧市街■城壁に囲まれたドブロブニク旧市街は街そのものがひとつの観光スポットのようなもの。ドブロブニク旧市街内は原則的に車両の乗り入れができないためすべて徒歩での観光となりますが、小さな町なので迷うことなく心の赴くままに散策を楽しむことができます。 このように、地図やガイドブックを持たなくてもぶらぶらと歩いて観光を楽しめるのがドブロブニクの魅力のひとつ!ですが「街歩きに熱中し過ぎて、うっかりあの観光スポットを見逃して帰ってきてしまった」なんてことにならないよう、やはり事前にドブロブニクの名所をチェックしておきましょう!■スルジ山・山頂■城壁に続くドブロブニクの必見観光スポットと言えばスルジ山の山頂からの眺め。山頂にはドブロブニク旧市街全体とアドリア海全体を一望できる絶景があなたを待っています!スルジ山の山頂に行く行き方はケーブルカー(ロープウェー)・タクシー・徒歩の3通り。旅行者にはケーブルカーを利用してのアクセスが人気です。旧市街から麓のケーブルカー乗り場までは徒歩約10分~15分。そこからケーブルカーに乗り一気に山頂まで登ります。▲スルジ山の頂上に、こんなんありました。よく見ると、電気に関係ある絵が・・・。▲ちちゃいけど、太陽光発電?■オノフリオの大噴水■ピレ門をくぐり、旧市街に入るとすぐ右手に見えてくるオノフリオの大噴水。上から見ると16角形をしたユニークこの噴水は、1438年にイタリアから呼ばれた職人によって建造されたました。昔、ドブロブニクには十分な飲料水がなく住民は困っていたそうですが、12km離れた水源から水を届けてくれるこの噴水のおかげで、多くの市民の喉を潤すことができるようになったのだとか。水道管からはいつも水がチョロチョロと流れ出ておりは、飲料水として今も人々の喉の渇きを癒してくれます。■マラ・ブラーチャ薬局(フランシスコ会修道院)■ピレ門から入ってすぐの左脇、オノフリノの噴水のすぐ前に位置するフランシスコ会修道院。14世紀に建てられたロマネスク様式の美しい回廊を持つ修道院ですが、特に有名なのがこの修道院に併設するマラ・ブラーチャ薬局。1317年に開業したこの薬局はクロアチアで最も古く、現在も営業している薬局の中では世界で3番目に古いものと言われています。マラ・ブラーチャ薬局のコスメは、中世から受け継がれるレシピに基づき作られ秘伝コスメ!ここでしか手に入らないので、どうぞお見逃しなく! 修道院の回廊の奥には博物館があり、中世にこの薬局で使われていた薬壷や秤など、当時使われていた様々な器具、修道院に伝わる宝飾品や聖遺物が展示されています。■Ljekarna Mala Braca(マラ・ブラーチャ薬局) 住所:Placa ulica 2 TEL:020-321-411営業時間:平日7:00~19:30、土曜7:30~14:00定休日:日曜■海から見るドブロブニク■ボートで海から見るドブロブニク。かつて、この街は島だった。耕作地がないので、橋をかけ、隣町で耕作させてもらったという。その後、埋め立て陸続きに。■コルチェラ島■と同じだ。昼から自由時間。ランチは、路地のレストランに入った。この二皿をふたりで分けた。午後に続く。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.18
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■2018.4.28(土)■マルコ・ポーロ■の生家のある島、魚の骨のように路地が広がるコルチェラ島を後に フェリーに乗った。向かうは、ドブロブニクだが、船を降りて、1時間ほど行くと、途中、ストンという小さな町でバスを降りて30分ほど町を散策。■ストン■は、塩田から採れる塩で発展してきた町で、背後の山には城壁が築かれています。ストンとマリ・ストンの2つの町を結ぶもので、イギリスのハドリアヌス城壁に次ぐヨーロッパ第二位の長さを誇ります。ストンは古来より塩田があって塩作りが盛んで、その塩を守るために城壁が築かれたそうです。■ストン■そして、最終目的地、ドブロブニクに着いたのであった。ちゃん♪ちゃん♪となるはずだが、この日、ランチが終わって、急に、体調が悪くなった。バスに乗って、船が出て・・・気分はますます悪くなり・・・。めまい、キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! 途中、ワインのお店で、とうとう嘔吐。このお店は、海底に2年間寝かせた珍しいワインを売るお店だったのに、と残念。この後、ストンでみんなが散策している間も、座って待っていた。その後、バスの中でも激しく嘔吐。薬を何回も飲むも、全部出てしまう。ドブロブニクのホテルにフラフラになってたどり着き、ベッドに倒れこむ。薬が効いたのか、すぐ眠ってしまった。ひとねむりすると回復。添乗員さんが夕食を食べに行った夫に、私の分の夕食を持たせてくれたので、部屋でそれを食べた。移動中のめまいだったし、嘔吐にそなえて、対策を打っていたのが、不幸中の幸いといえる。■2018.4.28(土)■コルチェラ島■2018.4.28(土)■ホテル■ADRIA(アドリア)■2018.4.21(土)~5月1日(火)スロベニア&クロアチア■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.17
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■大河ドラマ「西郷どん」■を見ている。5月13日(日)は、西郷が奄美大島に流されるというストーリー。絶望の中、奇声を発しながら暴れる菊池源吾(名前をかくしている)を島の人たちは「大和からのフリムン」と言って恐れていたそうです。■西郷役、鈴木亮平氏ブログ■また、大和(やまと)から奄美大島に流人が来た場合、村の娘を「現地妻」として差し出すという。その娘のことを「アンゴ」という。「フリムン」に「アンゴ」!!!★フリムンは、アホバカ言葉の一種。これは、本土の言葉で、「ホレモン」(アホ、バカの意味)から変化していると思う。沖縄では、プリムヌという。 「ほ」が「ふ」になり「ぷ」と変化したのだ。狂人の意味もあったようだ。■沖縄:うちなーぐち■★アンゴは、アホバカの言葉の一種。■方言:あほう■大和からの流人の現地妻になった島の女性は、「アンゴ(バカ)」と蔑まれていたのかもしれない。 そんな島で暮らす西郷さんを見れば、なんと前帯ではないか!!西郷の現地妻となる女性も前帯。■前帯の西郷■かつて、日本では、女性が結婚すると、帯を前に結ぶという習慣があった。★結婚すると女は帯を前で結ぶ。これを「前帯」という。 江戸その他、地方に依ってはその用い方は少なく、京阪地方には広く用いられたもので、その風は大正初年にも及んでいる。■あきない世傳(せいでん)金と銀2■ 大和では、結婚した女だけが前帯だったのに対して、奄美大島では、男も女も前帯。これからの「西郷どん」も、そんな目線で見れば2倍楽しめる。(^-^*) (▲沖縄にて。2018.1月)■質問■琉球の婦人の服装について。帯は四季を問わず普段着も前で結んでいたのか。■「帯を前結にせしが日清役の前後一般人民多く断髪をなし帯を後結いに改めたり。」(帯を前結びにしていたが、日清戦争前後、一般人の多くは、断髪にし、帯は後ろ結びに改めた。)再放送は土曜日。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.16
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■2018.4.28(土)(▲Tシャツに「コルチェラ」の文字。) およそ15,000人の住民が暮らすコルチュラ島は、276㎡と小さい島ながらも、20,000年以上の歴史があります。コルチュラ旧市街は中心を南北にメインストリート、東西に路地が何本も走ってます。 まるで魚の骨みたいです。夏は西から、冬は東から風が吹くので町の通気を良くするためとのことです。なお、コルチュラ島は東方見聞録で有名なマルコ・ポーロの生誕の地とされてます。マルコ・ポーロの生家とされる、マルコ・ポーロの塔があります。ただ真偽のほどは定かではありません。(▲旧市街地は、狭く建て増しが出来なかった。そのため、家族が増えた家は隣の家を買い、二階も行き来できるよう、にした。)(▲二階の通路の分、部屋も広がる。)(▲石段は、滑らないように、ノミで細工をしている。)(▲ベランダを作ろうとして、近所の人に、教会が見えなくなると反対され、作れなくなった家。)(▲自由時間に、ここでお茶した。)▲下にキラキラ光るアドリア海が広がる。ここには、かつて高い塀があって、街が守られていた。平和になったので、塀は低くなって塀の石材は、個人の家の材料になった。▲大砲が置かれていて、当時の様子がしのばれる。海水浴にはまだ早いが、女性がひとり泳いでいた。(▲街の中心、聖マルコ大聖堂。)(▲聖マルコ大聖堂の下でしゃがむ?アダムとイヴのアダム。アダムよ、イヴよ、なぜしゃがむ?)(▲街の中心、聖マルコ大聖堂の前の広場にある囚人の晒し場。ここに手をしばって、晒した。)▲階段ではない路地は、1本か2本とのこと。酔っぱらった人が使うとか。(島の海に近い所にあるカエルの水場。(・∀・)イイネ!!)(▲市街地のレストランでランチ。)(▲魚を捕るための道具。日本のモジと似ている。)2018.4.28(土)■ホテル■ADRIA(アドリア)■2018.4.21(土)~5月1日(火)スロベニア&クロアチア■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.15
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■2018.4.27(金)蒼く輝くアドリア海に、千を超える島を抱えるクロアチア。その中に、かの有名なマルコ・ポーロの伝説が残る美しい島が存在します。その島の名は「コルチュラ島」。クロアチアを代表する観光都市、■スプリット■とドブロブニクのちょうど中間に位置するペリェシャッツ半島の先に浮かぶコルチュラ島。 オリーブオイルや ワインの生産が盛んな長閑な島で、かつてはヴェネチア帝国の一部であったことでも知られています。そんな島にフェリーで渡る。フェリーの出発するオレビッチ(Cの上にレのような印でチェと発音)は、スプリットまで、途中、■ボスニア・ヘルツェゴビナ■を通って、4時間半かかる。途中、木が真っ黒になった山が続いている所があった。後で聞いた話だが、数年前に4日間燃え続ける山火事があったという。「自然発火したのかもしれませんね。あちこちで、地球温暖化で、異常気象が発生していますから・・・。」と添乗員さんの言葉。だいたい、こんな時、そういうが私は、その度に怒っている。私たち人間が、誰でもこんな遠くまで旅行するんだから、気候もおかしくなるわ!!ヽ(`Д´)ノフェリーを待つ間、アドリア海に足をつけてみようと波打ち際に行ってみた。フェリーに乗って15分ほどで、コルチェラ島に着いた。島は魚の骨で表されるのでTシャツに魚の骨が!!夕食は、ホテルで。2018.4.27■アカペラの聞こえる世界遺産の街、スプリット■2018.4.27■ボスニア・ヘルツェゴヴィナをバスで通る。■2018.4.27(金)■ホテル■LIBuRNA(リブルナ)■2018.4.21(土)~5月1日(火)スロベニア&クロアチア■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.14
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大正2(1913)年、大阪・岸和田の呉服店の長女として生まれた小原糸子(尾野真千子)。幼い頃からだんじり祭りが大好きで、いつか大工方になってだんじりの屋根に乗ろうと心に決めていた糸子だったが、初めて見た洋服に一目惚れし、さらにミシンとも運命的な出会いを果たす。もはや糸子の頭の中はミシンのことでいっぱい。やがて彼女は周囲の反対を押し切り、ミシンとともに人生を歩むことを決意するのだが・・・。(2011年初放送・全151回) 「“朝ドラ”史上最高傑作」といわれた「カーネーション」の再放送を楽しみに見ている。もちろん、旅行中も、録画して見た。改めて見て、渡辺あや氏の脚本、最高と思う!!主役、尾野真千子は、糸子が憑依しているようなはまり役。お祖母ちゃんを演じる、庄司照枝もいいわ!出演:尾野真千子、麻生裕未、正司照枝、栗山千明、小林 薫 ほか。 しっかり見ていたはずなのに、こんなシーンがあったのかと思うのがあった。それは、糸子の父親がお灸屋をするシーン。「小原呉服店」が在庫の呉服を売却して、ミシンを買ったため、売るものがなく、父親は、お灸屋を始めたのだ。しかも枇杷の葉灸。2013年3月13日に■癌で亡くなった親友■も、枇杷の葉灸をしていた。うちに、枇杷の木があるので、私は、せっせと葉っぱを千葉の彼女宛に郵送した。 糸子が恋する紳士服職人・周防龍一役の綾野剛。綾野剛は、このドラマで全国区になった。私の友人も電話で、「ええなあ、あの周防さん・・・。」と言っていた。その友人も■2016年9月5日■亡くなった。 今回、このドラマの事を書こうと思ったのは、「カーネーション」というタイトルについて、発見があったからだ。この「カーネーション」というタイトルは、デザイナーのコシノジュンコ、コシノヒロコ、コシノミチコの母親なので母親のシンボル的な花は、カーネーションだからタイトルもそうなると思っていた。しかし、今回、分かったのだが、糸子の一番好きな花がカーネーション。日持ちしてたくましいと糸子が語るシーンがあった。「ごっつう、根性あるで」って、言ってたけど、主人公、糸子にそっくり。新しい発見が楽しみな毎日だ。■「カーネーションのお椀■2012.1.21■「カーネーション」のミシン■■「カーネーション」の火鉢■■カーネーションのここがすごい!■■「カーネーション」まとめ■ 今日は母の日、カーネーションの切り花や植木鉢が目に留まる。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.13
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■2018.4.27(金)クロアチアの街からクロアチアの違う街に行くには、ボスニア・ヘルツェゴビナを通らなければならないということを今回の旅行で初めて知った。スプリットから南に行くとボスニア・ヘルツェゴビナの国境がある。クロアチアは、細長くアドリア海に面した国だが、その一部にボスニアヘルツェゴビナが入り込んでいるのだ。*ボスニア紛争 *旧ユーゴスラビアからボスニア・ヘルツェゴビナが1992年に独立を宣言したことを契機に、ボスニア人、クロアチア人と独立に反対するセルビア人の内戦に突入。やがてボスニア人とクロアチア人の間でも対立が深まり、三つどもえの紛争となった。3民族はスラブ系だが、セルビア人はセルビア正教、ボスニア人はイスラム教、クロアチア人はカトリックを主に信仰している。95年に和平合意に調印。紛争で20万人以上が殺害され、約250万人が難民・避難民となった。■1990年代に起きたユーゴスラビアの内戦■は、バブル真っ最中の私たち日本人には遠い国のできごととして、ピンとこない戦争でした。しかしヨーロッパでは、第二次世界大戦以来ヨーロッパで起きたもっとも深刻な戦争で、避難民が自国に続々とやってくるという身近なできごとでした。 そのため各国で多くの映画が作られました。私は当時、その惨状を映画で知ったほどです(新聞では知っていましたが、実感のないものでした)。スプリットから南に行く途中、ほんの短い距離だけ、ボスニア・ヘルツェゴビナを通過する。 バスは、国境の青い建物、検問所(ボスニア・ヘルツェゴビナのイミグレーション)に近づい行く。検査官がバスの中に乗り込んできて、パスポートを集めた。ボスニア・ヘルツェゴビナへ入国。ネウム(NEUM)と言う町のスーパーでトイレ休憩。このスーパーでお土産に塩を買った。(また買うんかい!) 通貨はマルカ。この後、マルカを使う予定はないので、カード払いとす。このスーパーでは、いかにも中欧、東欧といったカップが・・・。鍋もポップ♪上はカフェになっていて、休憩がでる。▲この車は、スロベニアかな?▲これはクロアチアだ。▲ドイツの車だと思う。スーパーの駐車場には、いろんな国も車が・・・。大陸やな・・・。スーパーマーケットを後に、ちょっと行くと、今度は、ボスニアヘルツェゴビナを出国し、再びクロアチアに入る。■プリトヴィッツェ湖群国立公園■へ滝を見に行く途中にバスの中から■野外戦争博物館■を見た。廻りの家もことごとく銃弾のあとが残っていてまさに「戦争の傷跡」という感じだった。■ブリトビチェ湖群国立公園■1991年3月にはクロアチア紛争の最初の武力衝突であったプリトヴィツェ湖群事件(Plitvice Lakes incident)の舞台となった。公園はクロアチア内で独立を宣言していたクライナ・セルビア人共和国(Republic of Serbian Krajina)の軍隊が占領し、ホテルや周辺施設をバラックとして使用した。この過程で一帯はいくらかの損害を蒙った。1995年8月になって、クロアチア紛争を終結に導いた嵐作戦(Operation Storm)の際にクロアチア軍が一帯を奪還した。この戦争に伴って、ユネスコはプリトヴィツェ湖群国立公園を危機遺産リストに登録した。クロアチア政府はこの国立公園の観光地収入の大きさに鑑みて、一帯の地雷撤去を最優先課題のひとつとして取り組んだ。ユネスコは1997年12月に地雷の撤去が進んでいることと、セルビア人分離独立派の占領からも解放されていることから危機遺産リストからの除去を決定した。今日のプリトヴィツェ湖群国立公園は、クロアチアでも最大級の観光地となっている。1997年には国立公園の範囲が100.2km2拡大され、それを受けて世界遺産の登録範囲も2000年に拡大された。18.4.27(金)■ホテル■LIBuRNA(リブルナ)【クロアチア】・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.12
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■2018.4.27(金)尼僧服の人が似あう町、スプリット。もちろん、世界遺産の街。■過去と現在が交差する 不思議の街スプリット■ローマ皇帝ディオクレティアヌスの宮殿が街の起源となったスプリット旧市街。この宮殿は今から約1700年前に、ディオクレティアヌス皇帝が晩年を静かに過ごすための宮殿として建設され、皇帝はここで6年を過ごしました。(▲昔はこの道も海だった。)ディオクレティアヌス宮殿壁。 現在もその姿を残すローマ時代の壁。この壁に囲まれるようにディオクレティアヌス宮殿は築かれた。しかし、皇帝の死後、ローマ帝国の衰退に伴いこの宮殿は数百年に渡って廃墟となります。ところが7世紀頃になると人々が置き去りにされていた宮殿内に住み始めます。(▲自由時間にここでお茶した。)(▲カフェのトイレも、壁はいつの時代か分からない。)残された石材などを再利用して自分たちの家を建てたのです。これが現在のスプリットの街の起源です。宮殿の敷地は南北が約215m、東西に約180mの長方形。そして宮殿の周りを高さ20mの壁囲っており、宮殿内やその周辺には見所がぎっしりと詰まっています。古代ローマ遺跡の中に現代の人々が暮らすこの街には古代、中世、現代が複雑に絡み合う独特の雰囲気が漂います。南側の4本の柱に支えられた建物は、かつて皇帝の住居の玄関でした。天井がぽっかりと開いた円形の空間が広がりますが、ここは前庭で皇帝の玄関の役割を果たしていました。穴が開いた天井はかつて美しいモザイクで覆われ、壁にあるくぼみには彫像などが飾られていたそうです。ドーム形でよく音が反響するため、現在はよくここでクラッパの合唱が行われています。(クラッパとはダルマチア地方に伝わる、無形文化遺産にも登録されている伝統的な男性アカペラ合唱のことです。)ここで彼らの歌声を聞いた後、CDを売っていたのでお土産に買った。宮殿の北側、金の門の正面に立つ巨大な銅像「グルグールの像」を訪れるのもお忘れなく。グルグール・ニンスキ司教は10世紀に実在した人物で、それまでラテン語のみで行われていたミサにクロアチア語を導入し、スラブ言語の保護に貢献したとされるクロアチアの英雄のひとり。金色にピカピカ輝く、彼の左足の親指に触れると幸運が訪れると言われています。金の門周辺の散策が終わったら、「リヴァ」と呼ばれる城壁の南側を走る広い通りへ。(▲この日は、お祭りで民族服の少女がいた。)やしの木がずらっと並ぶ通りには無数のカフェのテラスが立ち並び、いつもおしゃべりに花を咲かせる人たちで賑わっています。散策に疲れたらお気に入りのカフェでコーヒーとケーキ、アイスクリームでリフレッシュ。▲ゴミ箱も、まちに溶け込むようにデザインされている。クロアチアは、ネクタイ発祥の国ということを、今回初めて知った。正面の奥、左がネクタイの店、右が銀行。銀行で両替した。ランチは、パシュティツァーダ。ダルマチア風ビーフ煮込み。デザートの形を見て、この地方の産物、石材が思い浮かんだ。2018.4.27(金)■ホテル■LIBuRNA(リブルナ)【クロアチア】■2018.4.21(土)~5月1日(火)スロベニア&クロアチア■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.11
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■2018.4.26(木)■シベニク■からバスで1時間、トロギールへ向かう。ここも、世界遺産の町だ。■世界遺産:トロギール■スプリットの西25kmに位置する世界遺産の街、トロギール。スプリットからの日帰り観光地としても人気の美しい古都です。 その起源はギリシャ時代まで遡り、城壁に囲まれた小島の中には入り組んだ石畳の路地が張り巡らされ、民家や教会、宮殿などがひしめき合っています。小島に築かれた世界遺産の古都 トロギール。周囲を堅固な城壁でぐるっと囲また島は、短い石橋で本土と繋がれています。 中世に入ってからローマ時代の街の上に築かれたトロギールは、まるで島全体の時が中世で止まってしまったかのよう。ロマネスク様式、ルネッサンス様式、バロック 様式など、様々な様式の建物がひしめいています。町一番の見所は旧市街の中心、イヴァナ・パヴラ広場にそびえる聖ロヴロ大聖堂。13世紀~15世紀にかけて建てられたもので、鐘楼をはじめ内部に 至るまで、さまざまな時代の建築様式が組み合わさっているのが特徴的です。また、アダムとイヴの像が両端に彫られている重厚で美しい大聖堂の入り口の門 は、クロアチアを代表するロマネスク美術の傑作と称えられています。▲ヤシの葉(?)を持っている。▲「コンズム」というスーパーをよく見かけた。ここにもチェーン店があった。中に入って見ると、果物や野菜が色とりどりで綺麗だった。「コンズム」のすぐそばにこんなお屋敷風の緑があった。中に入ってみると、なんだ、なんだ・・・。なにか書いてあるが、分からん。石像の首がとれて、倒れている。誰もいない・・・。井戸も3つあった。屋敷の入り口だったのだろうか・・・?結局分からずじまい。この後、バスで約45分。夜は、スプリットという町の、このレストランで魚の煮込み。2018.4.26(木)■ホテル■KATARINA(カタリナ)【クロアチア】■2018.4.21(土)~5月1日(火)スロベニア&クロアチア■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.10
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■2018.4.26(木)(▲バスからの景色)■世界遺産プリトビッチェ湖群国立公園■からバスで3時間、シベニクへ。車窓の景色は綺麗だった。■シベニク■クロアチア中部に位置し、クルカ川河口の天然の良港として栄えたアドリア海東岸の最古の町で、11世紀に築かれて後、中世クロアチア王国、ハンガリー支配、15世紀初めから数百年間ベネツイア共和国領だった。(1649年のペスト蔓延により人口が1/4に激減する時期もあった)ヴェネツィア崩壊後は、パプスブルグ帝国領となり、第2次大戦後ユーゴスラビアへ統合。■シベニクを訪れたら絶対に見逃せないスポット■シベニクを訪れたら絶対に見逃せないスポットといえば、世界遺産にも登録されている聖ヤコブ大聖堂!古くから町の中心地であった共和国広場の南側に建つ大聖堂で、1431年から1536年頃までにかけて、約100年もの歳月をかけて建設工事が行われた。特徴的なのは、大聖堂の壁に施されている71もの人の頭部の彫刻。これは大聖堂が建設された当時のシベニク市民をモデルにしていると言われている彫刻なのですが、キリスト教施設に飾るのは聖人しか許されなかった時代、俗世間の一般市民の顔が大聖堂に彫りこまれるということは、実に画期的な出来事だったのだとか。▲門の扉は銃弾の跡が。▲2匹のライオンが狛犬のよう。(^-^*) もちろん内部も必見!緻密な計算を用いて設計された大聖堂は、美しい曲線を描く大きなドーム型の天井や内部の柱、壁すべてが石のみで建てられているというのだから驚きです!木やレンガの補助を一切使用せずに建てられた石造建築の教会としては世界で一番大きいものとしても知られています。▲美しい洗礼室の天井。中世の街並みを色濃く残す古い港町のシベニクは、細い路地が入り組んでいて迷宮のよう!▲この細い路地が日陰を作り、暑い夏の日よけになる。夏は、この路地に白い幕をはって、スクリーンにし、映画を上映するとガイドさんの話。狭い路地の階段を少し登るだけで、アドリア海が見下ろせます。▲猫の水飲み場。▲こちらは、犬用。昔から雨のほとんど降らないアドリア海で「犬と猫の為に作られた水飲み場」▲入口横の2本の印はメジャーとして使われたもの。印は二つあって、ガイドさんは、左の長い方がベネチア人用と言っていた。フリータイムの時、この前のカフェでお茶。ランチはここの1階で。2018.4.26(木)■ホテル■KATARINA(カタリナ)【クロアチア】■2018.4.21(土)~5月1日(火)スロベニア&クロアチア■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.10
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■I,TONYA アイ,トーニャ■♪音が出ます!!彼女は世界中から愛され、一瞬にして世界中から憎まれた。貧しい家庭に生まれたトーニャ・ハーディング(マーゴット・ロビー)は、幼少の頃から厳しく育てられた。幼くしてスケートを始めた彼女は、天賦の才と努力により、1991年に女子選手として伊藤みどりに続き史上2人目となるトリプルアクセルに成功。1992年のアルベールビルオリンピック代表選手に選出された。1994年1月6日、リレハンメルオリンピック選考会となる全米選手権を前に、練習を終えたナンシー・ケリガンが何者かに襲撃される事件が発生。膝を殴打され負傷したナンシーは全米選手権欠場を余儀なくされる。トーニャの元夫ジェフ・ギルーリー(セバスチャン・スタン)の指示による犯行と判明し、トーニャ自身にも疑惑の目が向けられた。一度は栄光を掴みアメリカ中から愛された彼女のスケート人生は、この事件を境に一変し、転落していく。 1994年のリレハンメルオリンピックへの出場権を巡って、元夫らにライバル襲撃を命じたと疑われ、一躍時の人となったフィギュアスケート選手、トーニャ・ハーディング。彼女に多大な影響を与えたと言われる母親との関係や衝撃的な事件の経緯などを追った人間ドラマ。『スーサイド・スクワッド』のマーゴット・ロビーがトーニャを演じる。 フィギア・スケーター、トーニャ・ハーディングがライバルを殴打したという事件、本当にショックだったわ・・・。そのショッキングな事件を、トーニャと元夫の目線から語る映画。 「絵に描いたような幸せ」という言葉があるが、トーニャの場合、「絵にかいたような不幸」。父親と母親の離婚、貧困、母親の虐待、夫の暴力・・・。中でも、母親はひどい。子どもへの虐待は、よくぞ警察沙汰にならなかったと思う。母親から逃げたいという思いもあって、結婚するも夫も暴力をふるう。そんな生い立ちから、優雅さのかけらもなく、優雅さを求められるフィギアスケートとは、相いれないパフォーマンスをする。白鳥に対しての、黒鳥、童話の王女に対しての、魔女といったところか。しかし、「トリプルアクセル」という武器でオリンピックの出場権を手に入れる。トーニャ・ハーディングは才能には恵まれたが、彼女を取り巻く人間に恵まれなかった。トーニャがもし、もっと裕福な家庭に生まれていたら、愛情を受けて育っていたら、彼女は、オリンピックで名前を残しただろう。■第90回アカデミー賞■■主演女優賞■マーゴット・ロビー 『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』■助演女優賞■アリソン・ジャネイ『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』■編集賞■ノミネート。■フィギアねた■■超カワイイ島田高四郎■■羽生結弦アイドル論■■ゆづ(羽生結弦)が二位でよかった。■■ポスト羽生:宇野昌磨■■フィギア・GPF会場は、プーさんカラー? ■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.09
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■2018.4.25(水)■滝を見に行く■@クロアチ。16の湖と92の滝が 標高差150mのところに段々畑のように連なって形成されてるブリトビチェ湖群国立公園。ここは、世界自然遺産。湖岸の遊歩道からは魚もたくさん見る事ができるほど水が澄んでいた。公園内をエコバス、観光船なども利用して思いっきり自然満喫!プリトビチェの国立公園から歩いてすぐのホテル「イェゼロ」に宿泊しました。国立公園内は広いので、入口からエコバスを利用。途中から観光船で湖の対岸へ。約10キロ、しかもアップダウンの悪路を歩いて、4時前にホテルに帰った。▲このように湖面がだんだんになって続いているので、落差が滝になっている。この日のランチのメインディッシュは、クロアチアの伝統料理、仔牛のベカ(鉄の窯で蒸した料理)■2018.4.25(水)■ホテル■JEZERO(イエゼロ)【クロアチア】夕食はホテルでビュッフェスタイル。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.08
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■君の名前で僕を呼んで■何ひとつ忘れない。1983年の夏。17歳のエリオ(ティモシー・シャラメ)は、例年のように両親と一緒に北イタリアを訪れ、母が相続した歴史あるヴィラで過ごしていた。父パールマン(マイケル・スタールバーグ)は、アメリカで教鞭を取るギリシア=ローマの美術史学専門の大学教授で、母のアネラ(アミラ・カサール)は翻訳家。自然に恵まれた環境の中で、エリオに高い教養に身に付けさせたいという両親の考えにより、クラシック音楽を編曲したり、ピアノやギターを演奏したり、読書をしたり……。その一方で、時には夜遊びをしたり、近くに住むフランス人のマルシア(エステール・ガレル)とふざけ合ったりするのが、エリオの夏の過ごし方だった。そんな彼の前に、アメリカからやってきた24歳の大学院生オリヴァー(アーミー・ハマー)が現れる。エリオの父は毎年、研究を手伝ってくれるインターンをヴィラに連れてくるのだが、オリヴァーはそのインターンだった。エリオの隣の部屋に泊まることになったオリヴァーは、これまでのインターンよりも知的で、振る舞いも自信に溢れているように見えた。そしてある日、マルシアやキアラ(ヴィクトワール・デュボワ)らと共にバレーボールをしている最中、冗談半分のようにオリヴァーがエリオの裸の肩に触れる。これを機に、互いの存在を意識するようになる2人。 名匠ジェームズ・アイヴォリーが脚色を手がけ、第90回アカデミー賞で脚色賞に輝いた青春ドラマ。1983年の北イタリアを舞台に、大学教授の父親の助手として一緒に暮らすことになった24歳の大学院生に思いを寄せる17歳の少年のひと夏の恋が描かれる。主人公の少年を演じたティモシー・シャラメはアカデミー賞主演男優賞候補にもなった。★「日の名残り」★「眺めのいい部屋」★「ハワーズ・エンド」。これら大好きな映画は、全部ジェームズ・アイボリー監督の作品6月には「モーリス」も公開予定だし、嬉しい♪と思いながら「君の名前で僕を呼んで」を見に行った。これまでの作品は、20世紀初頭が多かったけど、今回は1983年。まだ、ケイタイもスマホもメールもない時代の話。お互いに好きなのに、お互いを気ずかって、なかなか進まない。これが、今の時代だとこんなにのんびりとした進展にはならないだろう。アカデミー賞■作品賞■主演男優賞■脚色賞■歌曲賞■ノミネート。エリオ役ティモシー・シャラメ22歳。エリオあっての映画と思うほど、彼は美しい。映画の中では17歳を演じていたが、そう見えた。今だけの美しさ、「時分の花」。オリヴァーと別れ、傷心のエリオに父親が語り掛ける言葉が深い。この言葉を書いたのは、ジェームズ・アイヴォリー氏だ。豊かな心を持った人だなと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.08
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■2018.4.24(火)■ロヴィーニ■から47キロ、バスで約1時間のところに、モトブンはある。モトブンに入る前に小高い丘の上にバスが止まって、写真タイム。ここからだと、まちの全景が入るのだ。バスが入れないのでシャトルバスに乗り込み途中まで登る。中ほどで、道はさらに狭くなり、一般車両は通行止め、ただし、住民の車は、車止めの前まで来ると・・・・自動センサーで車止め解除、狭い石畳を通行可能となる。私たちは、歩いて坂道を登る。■天空の街モトブン■「天空の街」と謳われるクロアチアの「モトブン」。小高い丘の上に建つモトブン。頂上に近づくに連れ、街の端からは周辺に広がる畑や連なる丘、そしてずっと向こうにはアドリア海をも望むことができるのです。日本ではあまり知られていますが、トリュフの名産地でもあるクロアチア。モトブン周辺には「トリュフの森」と呼ばれる土地が広がっており、毎年良質なトリュフが豊富に採れます。 そんなモトブンでは、様々なトリュフ製品を扱うトリュフ専門店もいくつかあり、街中のレストランではトリュフをふんだんに使った贅沢なお料理を堪能することができます。ぶどう畑が広がる、なだらかな土地に突如現れる、小高い丘の上に築かれた「天空の町」モトブン。中世の面影を濃く残しているモトブンは、静かな石畳の小道を歩けば何百年も前にタイムスリップしたかのような気分に。モトブンが「天空の町」と称される所以 は、丘の上という立地条件だけではありません。それは早朝、辺り一帯が真っ白な霧に包まれ、まるで町が空に浮かんでいるように見えるため。幻想的なその様子は、ジブリの「天空の城ラピュタ」のモデルになったという噂も……。 モトヴンは中世の時代にヴェネチア共和国の支配下となり、城塞都市として生まれ変わった町並みが現在に残ります。ヴェネチア傘下の証が、城門に掲げられた聖マルコの象徴「有翼の獅子」です。「モトブン」は海沿いの港町が多いイストラ半島の中では珍しい観光スポットで、内陸に位置する小さな村だ。住民は1,000人以下だとされる。わずかな住宅は丘の周囲、城壁の内外に点在している。緑に囲まれた小高い丘は古く堅牢な城壁でグルグルと囲まれている。城壁は現在遊歩道やカフェのオープンスペースとなっているが、城門にはモトヴンを支配してきた勢力の紋章や墓碑が残されている。モトブンの見どころは、この小さな村全て。道も石の壁を持つ住宅も、石の城壁も全てが古代ローマ時代から大きくは変わっていない村の生活を想像させる。(ランチはトリュフのパスタ。)そして、モトブンでの楽しみとして忘れてはいけないのが「トリュフ」。モトヴンの森は世界的にも有数なトリュフの産地なのだ。貴重な黒・白トリュフを使った料理は村のレストランやカフェで楽しめる。お土産に、トリュフ塩5個とトリュフの入ったオリーブオイル2本を買った。あと、ポルチーニ茸も買った。▲ランチ。バスで4時間、この日のホテル「イエゼロ」へ。■アドリア海に突き出たイストラ半島■2018.4.24(火)■ホテル■JEZERO(イエゼロ)【クロアチア】・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.07
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■2018.4.24(火)■ロヴィニ(Rovinj)■「ヨーロッパで最もロマンチックな街」と称されるクロアチアの小さな港町、ロヴィニ(Rovinj)は、美しいアドリア海を望む、小高い丘の上に建てられた町。迷路のように入り組んだ石畳の路地。裏路地にひしめく隠れ家チックなカフェやレストラン・・・。旧市街を歩いていると、まるでロマンチックな映画の世界に迷い込んだような気分に浸れることでしょう。 約600年間ヴェネチアに支配されていた歴史をもつロヴィニ。海の上にカラフルな家が立つ街は、どこかヴェネチアに似た雰囲気が漂っています。ところで、クロアチアにはジブリ映画の風景のモデルになったと噂される場所がいくつかありますが、実はロヴィニもそのひとつ。「海に浮かぶ町である」「町の頂上に鐘楼が立っている」という点から 「まるで『魔女の宅急便』に登場する町みたい!」と言われているのです。ロヴィニがジブリ映画のモデルになったというのは、あくまでも噂ですが、どこを切り取っても絵画のような街並みは、たしかにジブリ映画に登場しそうな美しさです。■アドリア海に突き出たイストラ半島■アドリア海の最北部、美しい海に突き出たハート型のイストラ半島。今では半島の大部分がクロアチアに属し、スロベニア、特にイタリアに属している部分はほんの一部ですが、古くはローマ帝国やベネチア共和国に支配されていた歴史をもちます。イストラ半島がクロアチアの一部になったのはつい最近で、第二次世界地戦後のこと(当時クロアチアは旧ユーゴスラビアでした)。それまでイストラ半島はイタリアに属していました。そのため古代ローマの遺跡がたくさん残っており、街もどこかしらイタリアを彷彿とさせる雰囲気が漂っていたり、イタリアの影響を強く受けた地方です。そのためイストラ地方(クロアチア領のイストラ半島)ではクロアチア語、英語の他にもイタリア語が比較的よく通じます。■2018.4.21(土)~5月1日(火)スロベニア&クロアチア■■2018.4.23(月)■イストラ半島・ポレチェ■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.06
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■2018.4.23(月)■アドリア海に突き出たイストラ半島■今では半島の大部分がクロアチアに属し、スロベニア、特にイタリアに属している部分はほんの一部ですが、古くはローマ帝国やベネチア共和国に支配されていた歴史をもちます。イストラ半島がクロアチアの一部になったのはつい最近で、第二次世界地戦後のこと(当時クロアチアは旧ユーゴスラビアでした)。それまでイストラ半島はイタリアに属していました。そのため古代ローマの遺跡がたくさん残っており、街もどこかしらイタリアを彷彿とさせる雰囲気が漂っていたり、イタリアの影響を強く受けた地方です。そのためイストラ地方(クロアチア領のイストラ半島)ではクロアチア語、英語の他にもイタリア語が比較的よく通じます。(▲建物は、海からの入国手続き所。イタリアが近いので海からの入国が多いのだそうだ。「C」の上にに「レ」点がついて「チェ」の発音だそうだ。)クロアチアのイストラ半島に位置する、小さな港町ポレチュ(Poreč)。世界遺産「エウフラシウス大聖堂」がある町として有名なポレチュ。 4世紀の礼拝堂の跡地に、6世紀初期に建設されたビザンティン様式のこの聖堂は、初期ビザンツ様式の特徴を残す貴重な建築物です。ここで必見なのが、聖堂内にある6世紀に創られたモザイク画(↑↑上の写真)。8世紀、ビザンツ帝国の皇帝によって発布された「聖像禁止令」によりヨーロッパの多くの教会のモザイク画が破壊された中、エウフラシウス大聖堂のモザイク画は奇跡的に破壊を免れました。現在ヨーロッパにあるキリスト教のモザイク画の多くが後世に修復されたものであるのに対し、創られた当時のままの姿を現代に伝えるここのモザイク画は非常に貴重な存在とされています。夕食はイストラ半島の名産の生ハムとチーズの前菜、シーフードリゾット&クロアチア産ワイン一杯。2018.4.23(月)■ホテル■AGAVAアガバ【クロアチア】■2018.4.21(土)~5月1日(火)スロベニア&クロアチア■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.06
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ポストイナ鍾乳洞の入口部分の存在は13世紀頃から知られていたが、大部分は、1818年、当時皇太子であったフェルディナント1世の訪問に備え準備をしていた際に、地元のルカ・チェッチによって発見された。■発見と沿革■そして翌1819年8月17日のフェルディナント1世の訪問により、広く知られることになる。以後、世界各地から王/皇族らの訪問があり、日本からは有栖川宮威仁親王夫妻(1889.12.24)、小松宮依仁親王夫妻(1894.4.3)、高松宮宣仁親王夫妻(1930.12.31)が訪れている。 美人で有名な、エリーザベト后妃も来ていた写真があった。■鍾乳洞の概要■鍾乳洞の入口の上には、ラテン語で"Immensum ad antrum aditus!"と書かれている。これは「旅行者よ、広大な洞窟に入れ」という意味である。現在の観光コースは約5kmある。そのうち3.7kmを電車が走っていて、この部分では観光客は電車から鍾乳洞を観覧する。この電車の軌道は1872年に単軌道で敷設されたもので、当初は人力で2人乗りの客車を動かしていた。1924年に蒸気機関車の運行が開始され、1957年に電化。1964年に二線軌道化された。現在の全線が開通したのは1968年であった■スロベニアに鍾乳洞が多い理由■鍾乳洞の元は石灰岩。これが何万年もの歳月のうちに地下水などによってゆっくりと溶かされ、洞窟になります。スロベニアは、「カルスト台地」といって、国土のゆうに半分が石灰岩で覆われていました。ランチは、鍾乳洞の近くにあるレストランで。あたりの緑の美しいこと!!ランチの後、バスに乗って、スロベニアとクロアチアの国境を目指す。国境のラインでバスは一時停止。みんな、パスポートを手にバスから降りる。パスポートを係員に見せて、スロベニアの出国スタンプをポンと押してもらい、次の係員のところに行く。そこで、今度はクロアチアの入国スタンプをもらう。私たちは、歩いて国境を越え、10メートルほど先でバスを待つ。バスが来て私たちをピックup。無時、国境を越えた。スーパーで見たキャベツいろいろ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.05
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■あきない世傳金と銀(五) 転流篇■大坂天満の呉服商、五鈴屋の六代目店主の女房となった主人公、幸。三兄弟に嫁す、という数奇な運命を受け容れた彼女に、お家さんの富久は五鈴屋の将来を託して息を引き取った。「女名前禁止」の掟のある大坂で、幸は、夫・智蔵の理解のもと、奉公人らと心をひとつにして商いを広げていく。だが、そんな幸たちの前に新たな試練が待ち受けていた。果たして幸は、そして五鈴屋は、あきない戦国時代を勝ち進んでいくことができるのか。話題沸騰の大人気シリーズ待望の第五弾!■あきない世傳(せいでん)金と銀 (1)■■あきない世傳(せいでん)金と銀 (2)■■あきない世傳(せいでん)金と銀 (3)■■あきない世傳(せいでん)金と銀 (4)■2か月まって、やっと借ることが出来た。気になる部分を書きぬいた。●は、私のコメント。 「・・・宜しおますな・・・(略)」と月行事が一同を見回す。・・・二十人ほどがいっせいに帯に挟んでいた扇子を手にとった。そして、各々が、それを開いて自分の前に置いた。・・・。閉じたままの扇子は、心が動かないことを表す。開く度合いの分だけ気持ちが向いているのだが、だからと言って全開したのでは「もう先がない」の意味になる。●「イエス、ノー」だけでなく、どの程度イエスなのかまであらわすこの評決の仕方は、スマートだと思う。 門前の茶屋が昆布を油で揚げているのか、香ばしい匂いが周囲に漂い始めた。●昔から昆布を使っていたので、出汁をとった後の昆布を油で揚げて食べるというのは、やってみたい。 「文遣い(ふみづかい)やのうて、飛脚なんか?」・・・通常、文は文遣いに託す。少しばかり刻(とき)はかかるが、手渡ししてくれるし、安価で使い勝手が良いのだ。「わざわざ飛脚便を立てるて、そない大層な。」●手紙は、飛脚が届けるものだとばかり思っていた。 商家は浮沈が多いため、大坂には「合力(ごうりょく)」という独特の親族扶養制度がある。即ち、食べられなくなった者に対して、その親類縁者が、米なり銀なり相当の扶持を与えたり(扶持方合力)、身寄りを失くした者を引き取って扶養すべし(引取合力)との定めがあった。後者の引取合力の義務のある者を中には、姉婿も含まれる。そのため、仮に智蔵からの申し出がなくても、結の方から引取を訴えることもできる。合力は、それほどまでに強力な決まりだった。●合力をいう言葉を初めて聞いた。 死産や生まれて間もない赤子が亡くなった場合、速やかに神仏のもとへ返すために弔いはせず、荼毘にも付さず、亡骸(なきがら)を川に流したり、庭や軒に埋めることが多いと聞いている。●乳幼児死亡率が高く、多くの赤子がなくなった時代、「7歳までは神のうち」といわれていた。 絹織は呉服商、木綿は太物(ふともの)商が扱う。●同じ反物でも絹と木綿は別々のお店で扱うことをこのシリーズで知った。これで最後かと思いきや、まだまだ続くので楽しみだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村
2018.05.05
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■4月22日(日)■【日本人が知らない穴場】スロベニアの首都リュブリャナを訪れるべき7つの理由■突然ですが「リュブリャナ」という名前の町を聞いたことがありますか?「聞いたこともない」あるいは「聞いたことはあるけれど、どこにあるのか知らない」「どんな町なのか想像がつかない」という方がほとんどではないでしょうか。 リュブリャナは中欧の小さな国、スロベニアの小さな首都。日本ではまだまだ知名度が低いですが、魅力満載の素敵な町なのです!(▲ケーブルカーに乗って城まで登る。)リュブリャナの象徴ともいえるリュブリャナ城は丘の上に建っていて、そこは旧市街が一望できる、とても見晴らしがいい場所です。人口27万人。一国の首都としては小さい。だが、この小ささが心地よい。歩いてみるとその理由が分かる。見上げれば丘の上にリュブリャーナ城、街の中心にはリュブリャニツァ川が流れ、通りの両側にはルネッサンス、バロック、アールヌーヴォー様式の建築が小さなエリアに点在する。赤い屋根の旧市街の街並みを縫って足を運べば、いつしか現在と過去がないまぜになって、ここだけの世界に浸れる。そんな街がリュブリャナだ。◆1年中、賑やかで楽しい。◆リュブリャナ旧市街内は車の乗り入れが禁止されているため、歩行者天国!騒音や排気ガスとも無縁で、のんびりとして街歩きや、カフェのテラス席でのひとときを楽しめます。◆比較的安く旅が楽しめる◆リュブリャナは見所がコンパクトにまとまっているため、市内観光のために基本的に交通費がかからないのも節約派の方には嬉しいポイントです! ■リュブリャニツァ川(Ljubljanica)■は、スロベニアを流れる川である。全長は41kmで、そのうち20kmは洞窟内などを通る地下河川となっている。リュブリャニツァ川はスロベニア首都のリュブリャナ中心地を流れている。川に架かる橋で有名なものに三本橋と竜の橋がある。町のシンボルはリュブリャナドラゴンで、ドラゴンは力や勇気、大きさの象徴である。竜の橋はしばしば、ウィーン分離派が生み出した橋の中ではもっとも美しい橋と見なされている。1895年にリュブリャナはマグニチュード6.1の震災に見舞われた1895年リュブリャナ地震(英語版)。当時の人口は31,000人で、10%にあたる1,400の建物が破壊され大きな被害をもたらしている。震災後は再建がウィーン分離派様式により各地区で再建が行われた。 1888年 1903年1898年。いずれも、ウィーン分離派様式(アールヌーボー)の時代の建物。実はリュブリャナにあるリュブリャナ大学には日本の大学との交換留学のプログラムがあります。案内をしてくれるのは、18年前、交換留学生として、この地に来、ここでスロベニア人と結婚、2児の母親の女性だ。ガイドの終わりに、夫氏が二人の息子さんを連れて、彼女を迎えに来た。男の子2人は、将来、イケメン間違いなし!!もちろん、日本語もペラペラだ。ガイドさんは、日本語、英語、スロベニア語がペラペラ。夕食は、市街地のレストランでスロベニア名物のソーセージ。2018.4.22(日)■ホテル■オーストリア・トレンド・リュブリャナリュブリャナ【スロベニア】連泊。■2018.4.21(土)~5月1日(火)スロベニア&クロアチア■■2018.4.21(土)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.04
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(▲ブレッド城から見た聖マリア教会)■4月22日(日)船で■聖マリア教会■から帰って、バスで、ブレッド城のふもとまで行く。ブレッド湖の湖面から約130mの切り立った崖の上に建つブレッド城。スロベニア最古のお城のひとつと言われており、11世紀初頭にその名が初めて文献に記されている。湖超し、左にブレッド城を見る。ブレッド城の後ろに見える山は、ヨーロッパ・アルプスの東南端「ユリアン・アルプス」。昔ながらの印刷機を使って印刷する印刷所。ここで刷ったものをお土産に買うことも可能。ブレッド城ではワインを醸造している。自分で樽詰め、コルクをして、蝋で密封、自分でハンコ押して封印するワインがお土産に大盛況。城の下には、緑が美しい場所があって、のんびりできた。ギザギザのない葉っぱのタンポポを見つけた!! スミレも沢山♪■ブレッド湖■ランチは、レストランでマス料理を食す。■ホテル■オーストリア・トレンド・リュブリャナリュブリャナ【スロベニア】連泊。■2018.4.21(土)~5月1日(火)スロベニア&クロアチア■■2018.4.21(土)■■4.22(日)「ブレッド島」■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.03
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■4月22日(日)「ドボロユートロ!」「おはよう」というスロベニア語。帰国するまで、使った言葉。ちなみに、クロアチアも同じ。朝から、ブレッド湖へ。「アルプスの瞳」「アルプスの真珠」など、様々な美しい言葉で称えられるブレッドは、まさにおとぎ話の世界からそっくりと抜け出してきたかのよう。伝統のプレトナ・ボートに乗ってブレッド島に。環境に配慮して、手漕ぎボートを使っている。環境に配慮といえば、このあたりで、やってはいけないことをあらわしている看板が。どこから撮っても、インスタ映えするわー!!って、インスタやってないけど・・・。 オーストリアとの国境に近い場所にある「ブレッド湖」に、浮かぶ小島「ブレッド島」。湖から島に登る階段は、99段。登りきると小さな広場があり、鐘楼のある、かわいい聖マリア教会が。■ブレッド湖■ブレッド湖(スロベニア語: Blejsko jezero、ドイツ語: Veldeser See)はスロベニア北西部ユリアン・アルプスに位置する氷河湖で、ブレッドに隣接する。リュブリャナ空港から55km、首都リュブリャナからは35kmの場所に位置する。この地域一帯はスロベニアを代表する観光地である。風光明媚なこの湖の畔には、ユーゴスラビアの■チトー大統領■の夏を過ごしたヴィラがあるチトー大統領の父親のフラニョはクロアチア人で、母親のマリヤはスロベニア人だったそうだ。ブレッド湖は長さ2,120m、幅1,380mで最も深い箇所で30.6mある。ブレッド湖周辺は風光明媚な環境で、山並や城の景色が広がる。湖北岸には中世のブレッド城があり、湖にはブレッド島が浮かぶ。この島はスロベニアでは唯一の自然の島。スロベニアは、アドリア海に一応面しているが、四国ぐらいの大きさしかない小さな国なので、「島」は2つだけ。このブレッド島がその一つ!!ブレッド島には、いくつかある建物のうちメインとなるのは、聖マリア教会(Cerkev Marijinega vnebovzetja)で15世紀に建てられた。52mの塔と99段の階段がある。また、教会では定期的に結婚式も行われている。(▲広場にて。)(▲広場の水道は、竜の飾り。)(▲薪小屋の瓦がかわいい♪)■ホテル■オーストリア・トレンド・リュブリャナリュブリャナ【スロベニア】連泊。■2018.4.21(土)~5月1日(火)スロベニア&クロアチア■■2018.4.21(土)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.02
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■4月21日(土)大阪から、飛んで、飛んで、飛んで・・・。たどり着かないのかと思った頃にやっと着いた、ヘルシンキ。飛行時間、10時間ちょっと。ここで終わりではなく、乗り換えて、2時間40分。♪はるばる来たぜ、スロベニア~スロベニアの首都、リュブリナには、13時間ほどかかって到着。もちろん、乗り継ぎなどを入れていない。長い飛行機の中では、楽しみは、機内食。しかも、マリメッコのデザインの紙コップ、紙ナプキン付き♪飛行場からホテルに向かう途中で、雪の積もった山並みが見える。現地のガイド氏がいうには、先週まで、冬のような天気だったそうだ。関空で買ったおにぎりをホテルで食べて、夕食とす。■スロベニア■スロベニアは、アルプス山脈の南端、スロベニア・アルプスの山々の麓に位置する山岳国である。登山や山岳スキーに世界中から観光客がやってくるスロベニア・アルプスはオーストリアとの国境ともなっている。スロベニア共和国:スロベニア語、通称スロベニア、スロヴェニアは、中央ヨーロッパに位置する国で 、主要なヨーロッパの文化や交易の交差路である。*公用語:スロベニア語 *首都:リュブリャナ *独立 - ユーゴスラビア社会主義連邦共和国より*通貨ユーロ (€) (EUR) ■ホテル■オーストリア・トレンド・リュブリャナリュブリャナ【スロベニア】・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.01
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先進国でありながら外国語に弱い日本。しかし、そんな弱点をカバーしてくれる画期的なアイテムが発売され、ネット上で話題となっている。その名は『ili(イリー)』だ。ご存知の方もいるかと思うが、「ili(イリー)」は新型の音声翻訳機。日本では2017年12月6日に2018台限定で先行発売され、わずか1時間で完売したという人気の製品である。・小型軽量でネット接続不要翻訳可能なのは日本語から英・中・韓のみ、つまり一方向翻訳という点である。4月21日(土)から、5月1日(火)の11日間、クロアチア、スロベニアに行って、今日帰ってきた。今回、ネット接続不要音声翻訳機:ili(イリー)を持って行った。年々、持っていくものが増える・・・。_| ̄|○■レイのイギリス■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.05.01
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