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寒い、寒い・・・。寒い冬が来た。昨年の冬は、寒いと言いながら、戦禍のウクライナの人たちを心配していた。そして、ちょっとでも暖かくなればと、カイロを送る運動にカンパした。もう少しで戦争も終わるだろうと思って・・・。しかし、戦争は長引いて今も続いている。そればかりか、イスラエルとパレスチナの間でも戦争・・・。あちこちで起こったり長引いたりすると、戦争って日常になる。戦争が日常になると、皆の関心も薄くなる。 すさまじい洪水の記憶が残りノアの箱船の伝説が生まれたのだろうけど善良な者たちだけが選ばれて積まれた船であったのに子々孫々のていたらくを見れば、この言い伝えもいたって怪しい。■2023.11月に見た映画■*人生に詰んだ元アイドルは・・・*私がやりました*さよなら ほやマン■書き残したネタ■*旅行ネタ*長堀川と橋*うさぎネタ*八幡大菩薩について*アフリカで日本の古着が環境破壊!?*トグサ(研ぐさ)*「篩(ふるい)」と「とおし」*レッドオーシャン、ブルーオーシャン*高師浜*読書ネタ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.30
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■2019年11月■紅葉*一葉の紅葉のごとく句友逝く*広げたる弁当の上紅葉落つ*日は短か夜は長くして初紅葉*川端の椋の実熟れて秋深し*野分去り椋の実黒く落ちにけり■2020年11月■晩秋*秋深しコロナの年の旅の宿*蒼天や誇らしげなる鉢の菊*瀬戸内は波静かなり秋ゆやけ*都構想決着するや秋の暮*晩秋や地図で旅する温泉地■2021年11月■紅葉(伊豆・富士旅行で欠席)■2022年11月■冬隣り*秋深し娘に白髪あるを知る*下積みの長き芸人秋深し*庭古(ふ)りて柿の木高き夫(つま)の生家(いえ)*自販機の熱き茶選ぶ冬隣り*雄鹿の眼(まなこ)真すぐに我を見る そのあまりにも有名なキャッチコピー「NO MUSIC, NO LIFE?」"音楽があることで気持ちや生活が豊かになる"という事。で、私もNO俳句NOライフというタイトルを考えたけど、語呂が悪いので辞めた。2019年の2月から月一回、句会に参加しているがまとめておこう。■2019~2022年1月■■2019~2022年2月■■2019~2022年3月■■2019~2022年4月■■2019~2022年5月■■2019~2022年6月■■2019~2022年7月■■2019~2022年8月■■2019~2022年9月■■2019~2022年10月■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.28
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■2023.11.16今治→大三島の後、しまなみ海道を通って江戸時代前期に塩や酒づくりで栄えた重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)の広島県・竹原市に行った。▲今は、カフェやホテルになって古民家が続く町並み。▼▲こんなモダンな建物も。▲「地割」跡。江戸時代の区画整理と排水を兼ねたものもあちこちに残っていた。<塩>竹原は、塩づくりで栄えたまち。かつては、町中に塩田(えんでん)が広がっていました。塩は北前船で全国の市場へ送り出され、大きな経済効果を竹原にもたらしました。それに携わった人々によっていまの美しい町並みが形成されたんです!▲鶴竹酒造は、朝ドラ「マッサン」主人公の実家。<酒>竹原の酒づくりは、塩づくりよりも前に始められ、第1回全国清酒品評会では、竹原の酒が日本一を勝ち取りました。今でも、竹鶴酒造、藤井酒造、中尾醸造の3蔵がしのぎを削っている。 竹原は、NHK連続テレビ小説「マッサン」のモデルにもなった、ニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝氏のふるさと。▲マッサン夫妻の像が立つのは、竹原歴史民俗資料館の庭。もうひとり竹原の有名人が頼山陽。 川中島鞭声粛粛 夜河を過る曉に見る千兵の 大牙を擁するを遺恨なり十年 一剣を磨き流星光底 長蛇を逸すべんせいしゅくしゅく よるかわをわたるあかつきにみるせんぺいの たいがをようするをいこんなりじゅうねん いっけんをみがきりゅうせいこうてい ちょうだをいっす詩の意味(上杉謙信の軍は)鞭の音もたてないように静かに、夜に乗じて川を渡った。明け方、武田信玄方は、上杉の数千の大軍が大将の旗を立てて、突然面前に現れたのを見て、大いに驚いた。しかし、まことに残念なことには、この十数年来、一剣を磨きに磨いてきたのに、打ち下ろす刃(やいば)がキラッと光る一瞬のうちに、あの憎い信玄を打ちもらしてしまった。川沿いに頼山陽を記念して小さな広場があった。その囲いにタケノコが!!町の中には、竹に関するものが沢山見られる。竹原ですから~( ´艸`) 竹原産の酒「竹鶴」。▲工事場に立てる三角コーンはタケノコ!▲マンホールのデザインは、竹と姫、「かぐや姫」。▲住所表記は竹に。▲「竹」の名の看板▼▲これって犬やらい?▲漆喰で描いた竹。何をする建物だろう。第三水曜日は、竹原のガイドさんの定休日で説明が聞けなかったのが残念・・・。●11953歩●11月13日(月)~14日(火)■オレンジフェリーで四国・愛媛県・「東洋のマチュピチュ」別子銅山。■●11月15日-1(水)■愛媛県:築城の名手・藤堂高虎の今治城■●11月15日-2(水)■愛知県:大三島・大山祇(おおやまづみ)神社■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.27
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■2023.11.15-2今治城を見た後、今治→大島→伯方島→大三島と橋が島を繋いでいる。その橋を渡って、大三島に着いた。この日2人目のガイドさんの案内で、大山祇(おおやまづみ)神社へ。▲二の鳥居。一の鳥居は、船で参拝に来る人が多かったので、海の近くにあるそうだ。斎田(神田) - 御田植祭・抜穂祭時に神事が行われる。●無形文化財:一人角力●毎年春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂祭(旧暦9月9日)において、大山祇神社の御淺敷殿と神饌田の間に設けられた土俵で行われる相撲神事である。 「稲の精霊」と「一力山」による三本勝負で行われ、稲の精霊が2勝1敗で勝つ。「すもう」は一般に「相撲」の字を当てるが、ここでは、相撲を含めた広義の力くらべである「角力」の文字を用いて一般の相撲とは違うこと、神との力くらべを表すとされる。●御棧敷殿(おさじきでん)●素木造で入母屋造銅板葺。斎田前に建てられ、御田植祭・抜穂祭時に神輿が渡御する。りっぱな山門を入ると広い空間が広がる。「ここで何をしていたと思いますか?」とガイドさんがクイズを出してきた。「流鏑馬(やぶさめ)ですか?」と私。「そうです!」とガイドさん。 疾走する馬に乗りながら鏑矢(かぶらや)で的を射る、技術であり儀式であり競技[である流鏑馬。この空間は、流鏑馬にぴったりだ。もちろん、その当時はここは石畳ではなかったのだろう。大山祇(おおやまづみ)神社の歴史は古い。どれだけ古いかというと、ここの神主さんは、白村江(はくそんこう)の戦いに行ったという。 ■白村江(はくそんこう)の戦■663年8月,韓国南西部の白村江下流で唐・新羅(しらぎ)軍と百済(くだら)・日本軍との間で戦われた戦争。この戦は,東北アジアに唐を中心とする国際秩序を構築しようとする唐と,百済との歴年の友好関係をもとに百済を従属させたかたちで国際的地位を主張する日本の対戦であった。敗戦の結果,4世紀以来の日本と百済との連盟は消滅し,日本は朝鮮での足場を失うこととなった。その後,日本国内では対外防備用の山城が多く築かれ,また律令国家への歩みが本格化した。 その時、お供をした額田王(ぬかたのおおきみ)が、途中の伊予の熟田津で詠んだ歌が有名。熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 額田王この歌の詠まれた頃、ここの神主さんは、熱田津にいたのかと思うと教科書に出てくる白村江の戦いが現実味を覚えてくる。▲大三島の特産物は蜜柑。この後、橋を渡って広島県へ。四国と本州は、橋に寄って繋がっているので、船には乗らない。●11月13日(月)~14日(火)■オレンジフェリーで四国・愛媛県・「東洋のマチュピチュ」別子銅山。■●11月15日-1(水)■愛媛県:築城の名手・藤堂高虎の今治城■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.25
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■2023.11.15-1この日は、今治城をガイドさんの案内で見てきた。今治城は、関ヶ原の戦いでの戦功により伊予半国20万石を領した藤堂高虎が、瀬戸内海に面した海岸に築いた大規模な平城です。〇慶長5年(1600) 藤堂高虎、関ヶ原の戦いで東軍に属する〇戦後、伊予半国領主として20万石を領する〇慶長7年(1602) 今治城の起工〇慶長9年(1604) 今治城の普請(土木工事)完成〇慶長13年(1608) この頃、今治城がすべて完成か。高虎、伊勢・伊賀へ転封藤堂高虎は、黒田孝高、加藤清正と並び、「築城三名人の一人と称される。数多くの築城の縄張りを担当し、層塔式天守を考案。高石垣の技術をはじめ、石垣上には多聞櫓を巡らす築城の巧みさは、その第一人者といっても過言ではない。構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっている。日本三大水城の一つに数えられている。この堀には、海の魚、クロダイ(チヌ)が泳いでいる。幼少の頃より人並み外れた体格で、壮年の乳母の乳では足らず、数人の女性の乳を貰ったとされる。性格も荒く、3歳の頃には餅を5つ、6つ食べることもざらで、ケガをしても痛いと言ったことがないと伝わる。13歳の時には、兄の高則よりも背が高く、筋骨逞しい身体であった。兄の戦死後、若くして家督を継いだ。堀の石垣の下が、「犬走(いぬばしり)」になっている。海に近く弱い地盤の上にある城の石垣の修理を考えて「犬走」を造ったとガイドさん。そこで私は、犬走のある城の石垣をハタと思い出した。去年行った■丹波篠山城■だ。丹波篠山城も、城の名手藤堂高虎が手がけた。この城は、堀の石垣の下に犬走(いぬばしり)という部分がある。これは、堀を掘った時に出た土を積んだところだという。また、ここに石垣の材を置くのに使ったともいう。(ガイド氏の説明)藤堂高虎は、あちこちに城を造っているが、移動手段が限られていた時代にあちこちに行くってさすが、日本一の築城の名人!!今治の地名は、「今張」、「今針」。また吹上城、美須賀城とよばれたことも。「須賀」とは、砂浜という意味で、「横須賀」などがある。静岡県にもあったが、関東の言葉だと思っていた。その後、車で、出発。今治IC~しまなみ海道から次の目的地・大三島へ向かう。●11月13日(月)~14日(火)■オレンジフェリーで四国・愛媛県・「東洋のマチュピチュ」別子銅山。■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.24
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■2023.11.132023年11月13日(月)~20日(月)まで、瀬戸内海をぐるりと周ってきた。大阪南港からオレンジフェリーで四国・愛媛県の東予港へ。船内でテレビをみたり、大浴場に入ったりと船の旅は快適。●1694歩◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■2023.11.14■今年5月、四国を旅行した時は、帰り■東予港→大阪南港。今回は、反対に大阪南港を夜10時に出発し、朝6時に東予港に着いた。朝6時だとどこも開いていないので、早朝から開いていた「ガスト」で朝食をとりながら、時間つぶし。別子銅山の跡へ。別子銅山(べっしどうざん)は、愛媛県新居浜市にあった銅山。総産銅量は日本第2位の約65万トン。日本三大銅山の一つ。「東洋のマチュピチュ」とよばれる場所には、バスで行き、ガイドさんの案内で見て回った。▲「東平(とうなる)」地区には、炭鉱で働く人や家族の家が連なっていた。そのため、資材や生活用品を背負って運搬する人を「仲持(なかもち)」といった。「仲持(なかもち)」たちは、男は45キロ、女は30キロ背負って山を登っていた。▲利用者が、かごのようだということから「かご電車」とよんだ人員の輸送車。▼▲真ん中の車両が「かご電車」で観光客の乗ることができる。▼▲「東平」と書いて「とうなる」と読む。同じ愛媛県の松山城は■「長者平」=「ちょうじゃなる」■と読む。▲胴を作る過程で出来た「からみ=廃棄物」で作ったレンガ。ものすごく重い。▼▲住友家は代々「泉屋」の商号で銅銀商を営んでいた。井桁マークは「泉屋」から。元禄4年(1691年)の開坑から1973年(昭和48年)の閉山まで283年間、一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。 1900年(明治33年)の銅山川鉱毒事件や製錬所の煙による煙害など、複数回公害問題が発生している。銅精錬排ガスによる公害が発生。水稲が多大な被害を受けた。▲四阪島から移築した「日暮邸」そこで新精錬所の候補地を20キロ離れたの四阪島に決定。迎賓洋館を四阪島の製錬所を見渡せる高い場所に建設した。それは当主の煙害克服に対する強い関心の現れであったといわれている。その後、四阪島製錬所の設計技師たちが日の暮れるまで同館で煙害をなくする構想を練っていたことから日暮別邸と呼ばれるようになった。●9485歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.23
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★江戸の満腹力★★「金太郎蕎麦」★池波正太郎蕎麦屋をはじめた女性の覚悟。★「小田原鰹」★乙川優三郎初鰹★「宇田川小三郎」★小泉武夫きき酒 ★「蜜柑庄屋・金十郎」★澤田ふじ子蜜柑栽培に人生を懸けた庄屋の苦悩。 ★「千姫と乳酪(バター)」★竹田真砂子千姫の好物。*「鶴亀、鶴亀」。邪を祓う呪(まじな)いの言葉。★「お勢殺し」★宮部みゆき蕪汁が解く殺人事件の謎。★「慶長大食漢」★山田風太郎徳川家康と三代目・茶屋四郎次郎。美食が動かす日本の歴史。★「長い串」★山本一力おでんが結んだ武士の友情…。以下、「長い串」より。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆*公儀は、武家諸法度で二十万石以上百万石までの大名は、ニ十騎以下の行列(参勤交代の)と定めていた。しかし見栄を競う大名に法度を守る家はなく、加賀藩にいたっては四千名の大行列を構えていた。*藩士若手のなかから馬乗りに長けた者を十人選り抜き、先乗り手配りを命じた。(大名行列の露払い的な役目)*江戸から大坂までは陸路百三十里。大坂湊から土佐甲ノ浦(かんのうら)までが海里七十里で、さらに甲ノ浦(かんのうら)から土佐城下までは陸路三十二里だ。*(土佐)藩からの時献上は蜜柑に和紙、それに鰹節だ。なかでも土佐の鰹節は将軍家にも大いに喜ばれており、正月、六月、八月、寒中と年に四度も貢いでいた。*川越人足は川会所の小頭が島田在の十二歳のこどものなかから、目利きをして三年間の見習いを採る。十五歳になると、見込みのある者を会所の年行司に推挙した。七十人の見習いから人足になれるのは、毎年わずか五、六人。ひとの命を預かる人足には、宿場のだれもが一目を置いた。武家の川越を手伝うのは、さらに選り抜かれた侍川越である。*「(略)わしらには「しばてん」がついておる」しばてんというのは、土佐に住むと言い伝えられる河童に似た妖怪である。ひとを見ると相撲を挑むというが見た者はいない。 *このたびの帰国は大坂からは海を渡らず、(兵庫県)室津から瀬戸内海の海越えで丸亀に向かう道程だった。丸亀からも伊予川之江までは船路で、そののち山越えで土佐に入る。 池波正太郎から山本一力まで、八人の人気作家が腕によりをかけた逸品が勢揃い。美味しい時代小説を、次から次へと丸かじり。これが「江戸の満腹力」だ。美食家も大食漢も大満足の傑作短編集。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.22
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■ハグとナガラ■どこでもいい。いつでもいい。一緒に行こう。旅に出よう。人生を、もっと足掻こうーー。恋も仕事も失い、絶望していたハグ。突然「一緒に旅に出よう」と大学時代の親友ナガラからメールが届いた。以来、ふたりは季節ごとに旅に出ることに。ともに秘湯に入り、名物を堪能し、花や月を愛でに日本全国駆け巡る、女ふたりの気ままな旅。気がつけば、四十路になり、五十代も始まり……。人生の成功者になれなくても、自分らしく人生の寄り道を楽しむのもいい。心に灯がともる六つの旅物語。文庫オリジナル短編集です!(解説・阿川佐和子)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ●はタイトル、*は、内容のメモ●「旅をあきらめた友と、その母への手紙」*友・ナガラが急に行けなくなったので、ハグは、女ひとりで修善寺へと旅に出た。ハグとは、波口善美、ナガラは、長良妙子のニックネーム。●「寄り道」*ハグとナガラの東北の旅。*世界遺産・白神山地にも行く。■おしゃれ手紙:世界遺産・白神山地■●「波打ち際のふたり」*兵庫県・播州赤穂へ二人で。■おしゃれ手紙:桜の花を待ちながら・・・播州赤穂岬にて■●「笑う家」*ハグの母親が認知症になり旅行にいけない二人。そんな時、思い出したのが、岡山県倉敷市の大原美術館。美術にそんなに興味のないナガラが喰いついたのが、笑っているように見える家。小さな蓋つきの容器の入れ物で青い家の描いてあるもの。ナガラにはその家が笑っているように見えたという話。それは、バーナード・リーチの作品だそうだ。旅の思い出の話だった。●「遠く近く」*広島県福山市・鞆の浦。ナガラが「遠く 近く 宿」で検索して見つけたのが鞆の浦の宿。この宿でハグは55歳の誕生日を迎えた。●「あおぞら」*ナガラは、香川県こんぴらさんに一人旅。なぜ、一人で行くの?なぜ誘ってくれないのと思い悩むハグ。二人に少しの距離感を感じる。*ハグは一人、JR大阪駅から高速バスで小田原に向かう。これは旅なのか?いや、移動だとハグは思う。そして・・・。●解説 阿川佐和子*「私は今日、美術館に行きたいんだけど」「私は買いたいものがあるからブランド街に行く。じょ、夕方、ホテルで落ち合おう」旅は知識や教養を深めるためだけのものではない。まして同伴者と意見を同じくする必要もない。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆6つの短編からなるこの本は、読み終えると、ひとつの長い小説になっている。物語を作る時には、「入り」と「出」を考えなければいけないといくことをかつて、市民講座でならった。■「旅をあきらめた友と、その母への手紙」で「入り」=物語に入り。■「あおぞら」で「出」=物語から出る=つまり、終わる。流石!!!最期は、涙がとまらなかった。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■私もよく友人と日帰りの旅をした■真夜中にメール。「明日、京都に行ける?」「うん、いいよ。」「何時に待ち合わす?」「8時に家を出るわ。何時に大阪に着くか知らせるから」・・・。こんな会話をメールでやりとりした後、「じゃ、明日ね、おやすみ」とメールを切ったのが真夜中の2時。目指すは、新聞で見た、幸福の寺「大日山法華経寺」の初公開の庭。関西の私鉄と地下鉄ならどこでも使える5特別なパス、「スルっとKANSAI3dayチケット」を使って行く京都。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆思い出はしっかり残っている。■原田マハ リーチ先生■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.20
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8月の終わりにピアノを処分。次は、骨とう品を処分しようと私は、ネットで調べて買い取り業者に家に来てもらった。古い者が好きで、もらったり拾ったり、たまに買ったりと高価なものではないが、骨とう品?(といえるかどうか)古道具を持っている。それらを好きだけれど、手放すことに。 20代の若い男性がうちに来てくれて、見てくれた。見ている最中に、「欠けがあるものも、対象になるんですか?」と私は聞いた。男性職員「???」そこで私は、口の部分が少し欠けている片口を示しながら「金継ぎなんかして、商品にするのかと思って・・・」と言うと「金継ぎってなんですか?」と若い男性職員。古物を見に来ていて、「金継ぎ」を知らないって・・・と私はびっくりした。改めて金継ぎについて調べてみたらいろんなことが分かったので、ここにメモする。 金継ぎ(きんつぎ)は金継ぎ師によって陶磁器の破損部分を漆を用いて修繕する技法であり、古来から行われる日本の伝統工芸の一つである。古くは金繕い(きんつくろい)とも言われた。金継ぎを高く評価し、その知見を拡めた人物として千利休が挙げられ、当時金継ぎにて修繕された陶磁器は、黄泉の国より蘇った物として特別な評価を与えられたとされる。このような金継ぎの評価や、豪華絢爛さより情緒を重んじた侘び寂びを求め作為的な物より不完全な物の中に美を見出そうと取り組んでいた千利休の思想をとっても、当時禅の思想が政治や茶の湯を含めた文化、また、金継ぎが特別視されていた認識に大きく影響していたと考えられている。●逸話●豊臣秀吉が愛玩していた大井戸茶碗(銘『筒井筒』戦国の武将「筒井順慶」が興福寺の寺侍・井戸氏から譲り受け、所有したことからこの名前がついている)を小姓が割ってしまい、罰せられかけたところを、その場に居合わせた武将にして歌人の細川幽斎が「筒井筒 五つにわれし井戸茶碗 咎(とが)をば我に負ひにけらしな」と詠み、その後金継ぎを行い命を救ったと言われている。その大井戸茶碗は昭和25年に重要文化財に指定され、現在は金沢県の嵯峨家(元・侯爵家)の個人蔵となっている。 近年では、エコロジー、SDGsの観点から日本の文化・思想の一つとして、海外を中心に高く注目されており、その流れを組んだビジネス化、あるいはデジタル情報化社会の影響によって、簡易金継ぎなどの一般人による金継ぎが盛んに行われている。 うちに買い付けに来てくれた会社は、古物・骨董より指輪、貴金属などをメインに扱っているそうで、買い取りは古い腕時計のみだった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.18
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■食う寝るふたり住むふたり■交際10年、同棲8年目。恋人以上、夫婦未満、三十路カップルを男女両方向の視点から描く恋愛ザッピングストーリー。 図書館で偶然見つけた「食う寝るふたり 住むふたり」という漫画。タイトルも内容も、日暮(ひぐらし)キノコという作家の名前もまったく知らなかったがピンと来て5冊借りてきた。心優しき男、のんちゃんと気の強い女、リツコは、高校時代から付き合っている。10年近く同棲しているのに、結婚していない。結婚しないといけない理由が見当たらないからだ。そんなふたりは、よくぶつかる。そんな話を男女の視点から、いやリツコとのんちゃんの目線で描かれている。 ★例えば、夜遅く帰ってきたリツコ。ビール缶を2缶飲んで酔っているのんちゃんを見て、リツコの説教。「350(の缶ビール)を2缶飲むより、500のを1缶にしないと、不経済だよ」と注意する。★(彼氏)のんちゃんは、買い物に行ってビールを2缶買ってくる。1つは自分用、もう一つは、リツコ用に・・・。しかしリツコを待ちくたびれて2缶とも飲んでしまう。リツコに怒られても、2缶を買った理由を言わない。カップルの双方からの思いを描くというアイデアが素晴らしい。10年くらい前の作品だけど、まったく違和感がない。 続編が出ているのは、うなずける。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.16
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「塞王(さいおう)の盾(たて)」幼い頃、落城によって家族を喪った石工の匡介。彼は「絶対に破られない石垣」を造れば、世から戦を無くせると考えていた。一方、戦で父を喪った鉄砲職人の彦九郎は「どんな城も落とす砲」で人を殺し、その恐怖を天下に知らしめれば、戦をする者はいなくなると考えていた。秀吉が死に、戦乱の気配が近づく中、琵琶湖畔にある大津城の城主・京極高次は、匡介に石垣造りを頼む。攻め手の石田三成は、彦九郎に鉄砲作りを依頼した。大軍に囲まれ絶体絶命の大津城を舞台に、信念をかけた職人の対決が幕を開ける。ぶつかり合う、矛楯した想い。答えは戦火の果てにー。「最強の楯」と「至高の矛」の対決を描く、圧倒的戦国小説!琵琶湖の面積は滋賀県の実は6分の1である、とは「滋賀県あるある」のひとつ。とはいえ琵琶湖ぬきにこの県は語れない。戦国武将がここで権力闘争をくり広げたのも、琵琶湖を、あるいは近江を制する者が天下を制するとされたからだ。そんな歴史・時代小説の中でも最近の話題作は今村翔吾の直木賞受賞作「塞王の盾」(2021年集英社)だろう。かたや比叡山麓の坂本(大津市)に拠点をおく石垣技能集団・穴太衆(あのうしゅう)。かたや湖北の国友(長浜市)で鉄砲鍛冶の技を磨く国友衆。究極の盾(石垣)と矛(鉄砲)。名だたる武将を後背に押しやり、戦を憎む若き職人によりそう物語は、新しい時代小説の誕生を感じさせる。ブームは当分続きそうだ。~旅する文学・滋賀編~朝日新聞2023.1.7★秀吉亡き後の戦乱の時代。★主人公は城の石垣を造る職人・匡介。落とされない石垣を造れば戦は無くなるという信念の持ち主だ。★他方、鉄砲職人の彦九郎は、この武器の恐怖を知らしめれば戦は無くなると考えている。つまり矛と盾。この二人が琵琶の湖畔にある大津城で対決する。★いわゆる戦国の小説だと武将同士の戦いだが、本作は、戦を陰で支える職人にスポットを当てた。●読書メモ● ◎は私のコメント●「名は」「匡介(きょうすけ)」「きょうすけ・・・どのような字だ」(略)「きょうはコの字の反対に王。介は介添えの・・・」(略)「良い名だ」(略)「王を守っている」●穴太衆の技と聞いて世間は石を積むことだけを連想する。しかし実際はそうではなく、大きく三つの技によって成り立っている。まず山方。これは石垣の材となる石を切り出すことを担っている。(略)二つ目は荷方。切り出した石を石積みの現場まで運ぶ役目である。●穴太衆は紙に一切の記録を残さない。穴太衆は石積みだけでなく、依頼主から*縄張り*の相談に乗る。(略)城の縄張りは重要機密であるため、穴太衆は紙に一切の記録を残さず、全て頭の中に図面を引いて行う。(略)積み方の技術も同様である。一子相伝(いっしそうでん)、しかも全て口伝(くでん)である。こうして穴太衆は技術の漏洩を防ぎ、依頼主の信用を勝ち取ってきた。◎城用語で「縄張」とは、城の設計のことを指します。本丸をどこに置くか、二の丸・三の丸などの曲輪はどう配置するか、防御のための堀や土塁はどうめぐらせるかなど、城の全体像の設計(=グランドプラン)が「縄張」です。モノや範囲ではなく、城を設計すること、そして城の構造そのものを意味しているわけです。●人には乗り越えようという高さと、諦める高さが存在するという。その境界こそ八尺から九尺だと源斎は長年の経験により弾き出している。●石積みの現場において(略)実際に積むの者はその時々に雇う百姓たちである。中でも分家しても、猫の額ほどの田畑しかない次男三男が主であった。彼らにとっても日銭を稼ぐことは、暮らしの助けになる。(略)また百姓らが石積みを覚えることは、自らの本業にも役立つ。山の斜面など田を作るには向かない土地に、石を積み上げて棚田を作り上げるのだ。故に城が一つ建つと、その周辺で飛躍的に棚田が増えるということが起きる。◎これは目からウロコだった・・・。●鉄砲の巨大産地であった根来が、秀吉に攻められ壊滅して以降、この国の鉄砲の生産量は三位に日野、二位に堺、一位に国友となっている。●石積みの技が全国遍く(あまねく)広がり、庶民の暮らしを守る盾となればよいというのが穴太衆の共通の考えである。◎そのための二つの条件。*五年に一度は必ず穴太を訪れ師匠や後輩に技を見せる。*紙に書き残さない。●湖賊とは、読んで字の如く湖で船を襲う賊のこと。古くから琵琶の湖には湖賊がいたのだ。 ◎「湖賊」という言葉を聞いたのは初めて。「湖賊の風」という小説がある。都への入口となる琵琶湖は室町中期、膨大な水運利権を巡る闘いの舞台であった。中でも堅田関の船道衆は「湖賊」と呼ばれ人々に恐れられていた。天才的な操船術で関を破る青年魚鱗は、一人、湖国の王を目指す。蓮如をして「地獄へ落ちても他力にすがらぬ」と言わしめ、湖に自由を求め闘い続けた男の壮烈な生涯。◎気持ちのよい終わり方でほっとした。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.14
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★新橋 - 御堂筋大阪市第1次都市計画事業における御堂筋の拡幅・新設に伴って1934年(昭和9年)に架橋された。1径間のラーメン式鋼鈑桁橋で、橋長は約28.0m、幅員は約43.6m(24間)。右岸(北岸)の橋台が大きく川へ張り出していた。 拡幅以前の御堂筋は幅員約6m(3.3間)ほどの狭い道路で、長堀川には架橋されていなかった。なお、御堂筋自体が現在の淡路町3交差点で屈折しており、淡路町通以北は淀屋橋筋と名称も異なっていた。長堀川右岸(北岸)の末吉橋通を走っていた大阪市電東西線も橋のない拡幅以前の御堂筋には駅を設置せず、一筋東の心斎橋北詰に心斎橋駅(大阪市電)、一筋西の佐野屋橋北詰に佐野屋橋駅を設置していた。御堂筋の地下を走る地下鉄一号線開通にあわせて新橋の地下に駅が設置されることとなったが、駅名は知名度の高い心斎橋から採られることとなった(現在の地下鉄心斎橋駅)。1964年(昭和39年)に長堀川の上流部が埋め立てられた際に新橋も撤去され、わずか30年の短命に終わった。▲鰻谷の名称は、御堂筋にもあった。▲春の緑のイチョウ並木、秋の黄色いイチョウ並木は御堂筋の名物だが、工事をしている。イチョウの根が見えているとこともあったが心配だ。▼(▲水色の横のラインが長堀川のあったところ)長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。長堀川は江戸時代初期の元和8年に完成したと伝えられている。沿岸にはさまざまな産業が立地し、長堀川は輸送の大動脈であった。埋め立て後は長堀通の一部区間となっている。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。長堀川は、船場と島之内の境界をなしていた。上流から(右=東)から◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆★■■安綿橋 - 交差点名は「末吉橋西詰」(長堀川可動堰)■2.板屋橋■■3.長堀橋(公儀橋)■■4藤中橋■■5中橋■■6三休橋■■7心斎橋■●8新橋 - 御堂筋●佐野屋橋●炭屋橋(以降、通称西長堀川)●吉野屋橋●西長堀橋 - 四つ橋筋。交差点名は「四ツ橋」●宇和島橋●西大橋 - なにわ筋●富田屋橋●問屋橋●白髪橋 - あみだ池筋●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」●鰹座橋●玉造橋●洲崎橋(埋め立てられたおもな堀川) 1.天満堀川 2.長堀川 3.高津入堀川 4.難波新川 5.西横堀川 6.江戸堀川 7.京町堀川 8.海部堀川 9.阿波(座)堀川 10.立売堀川 11.薩摩堀川 12.堀江川 13.いたち川 14.十三間川 15.曽根崎川・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.13
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■さよなら ほやマン■ぼろっぼろだけど最高の愛。宮城県のとある離島で暮らすアキラは、夏はホヤ漁をしながら一人前の漁師を目指している。生まれつき障がいを抱え、船に乗ることのできない弟のシゲルと共に、島民たちの助けを借りながらなんとか暮らしていたが、行方をくらました両親と莫大な借金に苦しめられていた。そんななか、都会からやってきたワケありの漫画家、美晴が兄弟の住む家を売ってほしいと訪ねてくる。 ホヤ漁が盛んな宮城県の離島を舞台に、人生の大ピンチを迎えた兄弟とワケあり漫画家の奇妙な共同生活を描いたヒューマンドラマ。バンド「MOROHA」のMC、アフロが主人公のアキラ、「大病院占拠」の呉城久美が東京からやってきた漫画家の美晴、NHK連続テレビ小説「ブキウギ」の黒崎煌代がアキラの弟シゲルをそれぞれ演じる。長編デビューとなる庄司輝秋が監督と脚本を担当する。 私は、ほやというものを食べたことがないどころか、存在もしらなかった。「ホヤ」は、成長過程で変態する動物として知られ、幼生はオタマジャクシ様の形態を示し遊泳する。漢字による表記では、古くには「老海鼠」、「富也」、「保夜」などの表記も見られる。ホヤの名は、「ランプシェードに当たる火屋(ほや)にかたちが似ている」から、または「ヤドリギ(ほや)にそのかたちが似ている」から。またマボヤはその形状から「海のパイナップル」と呼ばれることもある。なお、俗称でホヤガイ(海鞘貝、ホヤ貝)と呼ばれることがあるが、軟体動物の一群に別けられる貝類とは全く分類が異なっている。 頭が少し弱い弟役に「ブギウギ」の六郎(スズ子の弟)役の黒崎煌代が出ていた。彼は、「ブギウギ」でも演技を絶賛されているが、この映画でも、役になりきっていた。この映画は、東日本大震災の12年後を描いている。もし、震災で家族を亡くして人が見たらつらいだろうなと思った。 漫画家、美晴は、子どもの頃、親に暴力を受けていたのではないだろうか?と感じた。それがトラウマとなっているから、人に暴力を振るったり、暴言を吐いたりする。親を亡くした兄弟と親から暴力を受けていた女性と・・・。この映画は、そんな三人に再生の物語だった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.11
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■私がやりました■この犯罪は、誰のもの?有名映画プロデューサー殺害の容疑者として連行されたのは新人女優のマドレーヌだった。正当防衛を主張する彼女は、親友の新米弁護士ポーリーヌと共に法廷へ上がる。鮮やかな弁論と感動的なスピーチによって裁判官や大衆の心をつかみ、無罪を勝ち取ることに成功したマドレーヌ。「悲劇のヒロイン」として一躍時の人となったマドレーヌの前に、自身が事件の真犯人だと主張する、かつての大女優オデットが現れる。 有名プロデューサー殺人事件の“犯人の座”を巡り、3人の女性が駆け引きを繰り広げる姿をユーモアを交えて描きだすクライムミステリー。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ アールヌーボーやアールデコという装飾スタイルが大好きで、「私がやりました」の予告編を見てから見ようと思っていた。 舞台は1935年、パリ、アールデコスタイルの真っただ中。新進女優・マドレーヌ、彼女の親友・新米弁護士ポーリーヌという登場人物の女性たちの普段着は、アールデコ満載ということではなかった。しかし弁護士・ポーリーヌの法衣姿は、美しくて・・・。劇中劇は、舞台装置、衣装、音楽が、思いっきりアールデコで満足。気軽に楽しめるコメディ映画だった。 新進女優・マドレーヌ、彼女の親友・新米弁護士ポーリーヌは、貧しいからルーム・シェアしているのかと思いきや、裕福になっても一つ屋根の下で・・・。これは同性愛を暗示しているのかなと思った。監督のフランソワ・オゾンが同性愛者(ゲイ)と公表しているので・・・。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆下の写真は、アールデコの町、ニュージーランド、■ネイピア■■ネイピア2■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.09
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★心斎橋 - 心斎橋筋心斎橋は元々長堀川に架かっていた橋の名前である。1622年(元和8年)に長堀川の開削と同時に架けられたというのが有力な説であり、「心斎系譜」によると長堀川を開削した4名のうちの1人、岡田心斎が長堀川の両岸を町域とした長堀心斎町の往来の便のため、南北に橋を架けたことが名前の由来になっている。当時の心斎橋は、長さ18間(約35m)、幅2間半(約4m)の木橋だった。人通りの多い地域にあった木橋で傷みやすく、洪水や火災の被害も受けるなど維持管理に多くの資金が費やされたという。その後、1873年(明治6年)に本木昌造の設計によって鉄橋に生まれ変わる。ドイツ製で、大阪で2番目、日本で5番目の鉄橋だった。当時の人にとって鉄橋は非常に珍しく、大阪の人の間で話題となり、錦絵にも描かれた。この鉄橋は鶴見緑地公園の緑地西橋として現存する。1908年(明治41年)に心斎橋としての役割を終え撤去された後、境川運河の境川橋、1928年(昭和3年)に大和田川の新千船橋(大阪市西淀川区)と移設を重ね、1973年(昭和48年)に鶴見緑地にすずかけ橋として保存され、1989年に現在地に移ったもの。日本現存最古の鉄橋と言われている。1909年(明治42年)には野口孫市の設計によって石造橋に架け替えられ、壮大な渡り初めが行われた。愛媛県今治市沖の大島産の花崗岩が用いられた。また心斎橋と佐野屋橋との間には石屋が立ち並び、摂津の御影石、播磨の立山石、泉州の和泉石、京都の白川石、紀伊の大崎石、近江の木戸石など、全国各地の名石が集積し、名工たちの手によって鳥居や橋、灯篭、手水鉢、道標、石仏、石臼など様々な商品に姿を変えていきました。ただの石が彫刻されて姿形を変えていく有様は、まるで魔法のような光景で浪花名所として非常に有名でした。その石浜を模したモニュメントがクリスタ長堀東端にあります。▲この石の橋も石浜の石を使ったのだろうか?▼▲船場側の商店街のアーケード。▼▲何の模様だろう?▼▲街灯▼(▲水色の横のラインが長堀川のあったところ)長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。長堀川は江戸時代初期の元和8年に完成したと伝えられている。沿岸にはさまざまな産業が立地し、長堀川は輸送の大動脈であった。埋め立て後は長堀通の一部区間となっている。東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。長堀川は、船場と島之内の境界をなしていた。上流から(右=東)から◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆★■■安綿橋 - 交差点名は「末吉橋西詰」(長堀川可動堰)■2.板屋橋■■3.長堀橋(公儀橋)■■4藤中橋■■5中橋■■6三休橋■●心斎橋 - 心斎橋筋●新橋 - 御堂筋●佐野屋橋●炭屋橋(以降、通称西長堀川)●吉野屋橋●西長堀橋 - 四つ橋筋。交差点名は「四ツ橋」●宇和島橋●西大橋 - なにわ筋●富田屋橋●問屋橋●白髪橋 - あみだ池筋●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」●鰹座橋●玉造橋●洲崎橋(埋め立てられたおもな堀川) 1.天満堀川 2.長堀川 3.高津入堀川 4.難波新川 5.西横堀川 6.江戸堀川 7.京町堀川 8.海部堀川 9.阿波(座)堀川 10.立売堀川 11.薩摩堀川 12.堀江川 13.いたち川 14.十三間川 15.曽根崎川・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.08
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■人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした■幸せになりたい。芸能界を引退した元アイドルの安希子は、幸せをつかもうと一般企業で働き、夜は恋活に精を出す日々を送っていた。しかしある日、駅で突然足が動かなくなり、仕事へ行こうとしても体が拒否するようになってしまう。仕事を辞めたことで収入が途絶えた彼女は、56歳のサラリーマン、ササポンの暮らす一軒家に居候することを決意。2人の一風変わった同居生活が幕を開ける。アラサーを迎えた元アイドルと、中年サラリーマンの奇妙な同居生活を綴った元SDN48、大木亜希子の同名小説を実写映画化。乃木坂46の元メンバーで、『パンとバスと2度目のハツコイ』の深川麻衣が主人公の安希子、『アンダーカレント』の井浦新が安希子のルームシェア相手となるサラリーマンのササポンを演じる。恋愛や将来の不安を綴った悩める女子物語。「あ、人生に詰んだ」ある日、駅で突然、亜希子の足が動かなくなった。仕事へ行こうとすると体が拒否する。彼女は元アイドル。芸能界で挫折後、新たな幸せを摑むため、一般企業に就職し、夜は恋活に励んでいた。収入も途絶えた亜希子は、五十六歳のバツイチ会社員「ササポン」が住む一軒家に居候することを決断するーー。★映画を見ながら、私だったらどう生きるかといつも考える。元アイドルで仕事もなくなった主人公・亜希子の残高は、10万円。私だったらどうするか?私だったら、まずホステスになる。もちろん、一年までの期限付き。ホステスは、元アイドルだったというからそこそこの可愛らしさがあって、人気も出るのではと思う。そこで、100万円くらい蓄えてから、ライターの仕事につく。ホステスという経験を書けば、ライターとしての仕事も増えるのではないかと思うんだけどどうなんだろう?★もう一つ、亜希子に言いたいのは、明確な目標を持てということ。「幸せになりたい!!」と思いながら、明確な目標を持たずに生きているから、幸せを逃すのではないのか?その点、元タレントの彼女の友人は、地味な結婚をした。相手は、金持ちでもイケメンでもないがなにより心の平穏を得た。美女の友人は、自分から男性に結婚を申し込んだそうだ。明確な目標が彼女を幸せな結婚に導いたといえる。★この映画の中には、名言が多い。「死にたい」と友人に電話した亜希子に友人の女社長は「ハワイに行きたいみたいな感じで死にたいってゆうな」という。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.06
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今年5月16日、徳島県の出羽島(でばじま)という島に行った。■出羽島(でばじま)■現在は沿岸漁業を中心に、約70人ほどの人が暮らしている小さな島。島の家と家の間をこの地方独特のいい方で「あわえ」という。「あわえ」という言い方をするというのを島に行く前に知っていた私は、「!!」と気が付いた。高校時代に習った「平家物語」に次のような一文がある。 矢ごろ少し遠かりければ、海へ一段(いつたん)ばかりうち入れたれども、なほ扇の*あはひ*七段ばかりはあるらんとこそ見えたりけれ。**(現代語訳)**矢を射るには少し遠かったため、与一は馬を海へ一段ばかり乗り入れたが、それでもまだ七段ほどあるだろうと見えた。この「平家物語」の中にある「扇の*あはひ*」は、沖の船の扇の的との「間」という意味。**********徳島県の出羽島(でばじま)では、「家と家の間の通路」という意味で使われている。また「あわい」が縮まって「あい」という言葉になる。上の写真は、「あいかき」=「間掻き」という道具。(徳島県)「間」=あい。「あい」は、大阪では「あいさ」という言い方で古老が言うのを聞いたことがある。他の地域でも言っていた。●「あいさ」で始まる方言●あいさ (群馬の方言)隙間。 椅子持ってぐからあいさに入れて(椅子を持っていくから二人の座席の隙間に入れて)●あいさ (埼玉の方言)合間。 勤めのあいさに桑切りしたんさ(勤めをしている合間に桑切りもしたのさ)●あいさに (奈良の方言)たまに。時々。 あいさにわしとこへも遊びにきとくんなはれ(時々、私のところにも遊びに来てください。古い言葉は、京都で出来て、カタツムリのような遅さ(速さ)で移動して、最後は島など移動ができないところで止まるというが、納得だ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.04
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■満願寺稲架木(はさぎ)並木■ 稲架木は、稲架場にたも木やハンノキを植えて、稲の乾燥に利用する新潟県特有のものです。 満願寺の稲架木並木は、昭和18(1943)年から20(1945)年にかけて同地区の水田約250ヘクタ-ルを区画整理したときに26軒の関係農家が協力して各地の稲架木をこの農道へ移植したものです。 農業の機械化が進み、籾(もみ)の機械乾燥が広く普及して県内各地の稲架場が次々と姿を消していく中で、同地区は種籾採取の指定を受け、良質の種籾を取るために自然乾燥に必要な稲架場として残されました。 指定が解除された後も、所有者と農家組合が協力して稲架木の保存に努め、新津の風物詩として今日にいたっています。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「街道をゆく24 近江・奈良散歩」より 司馬遼太郎。(略)どの田のあぜにも、榛(はん)の冬木がならんでいる。稲架けをするために田のあぜにうえられた榛の木の風景は越後の春名山城のふもとの野で見られるし、昔は日本の各地でそうだったように思われるが、いまは近江特有の水田風景だといっていい。ときに榛の木々が腰を雪にうずめたようにならんでいる。しかし、列車が野洲(やす)の野に三角錐をなす三上山(みかみやま)が見えるあたりまでくると、うそのように雪がなくなり、鎮守の森などのクスノキの葉がキラキラと陽に光っている。近江という一カ国のうちに北国と南国がある。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ■はざぎ(はさき)とは、■ 刈り取った稲を乾燥させるために田んぼに沿って植えられている木のこと。秋になると刈り取ったばかりの稲が、このはさ木に干され、夕日に照らされ黄金色に輝きます。秋の越後平野には、今なお、こうした昔懐かしい日本の風景が残っています。(みどり学講座)■おしゃれ手紙:はざぎ 失われた農の風景■ 今から、30年ほど前に■みどり学講座■という講座を受け、はざぎという言葉を初めて知った。気になっていたけれど、その後、聞いたことがなかった。先日、司馬遼太郎の「街道をゆく24」に滋賀県にある(今はなくなったかも)ということを知り、改めて はざぎについて調べたら、なんと新潟県にある「はざぎ」の並木の写真があった。 昔の人は、この木の下の陰で弁当を食べ、落ち葉を田んぼの肥料としたのだ。まだ残っているのだろうか。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.02
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【ウサギの数え方】 ウサギは、ノウサギ類とアナウサギ類に大別されます。長い耳、短い尾、大きな目が愛らしい上、人に慣れやすくて鳴き声が小さいことから、江戸時代にはペットとしても愛されるようになりました。ペットはアナウサギを家畜化したものです。 一方、ノウサギは狩猟の対象でもあり、食用にも用いられてきました。 昔からウサギを「羽」と数えますが、これは、仏教で四足の動物を食べることを禁じられていたため鳥として扱ったから、獲物の耳を束ねて持ち歩くことから「一把、二把」となり「一羽、二羽」に転じた、などの説があります。 現在は、生きたウサギは「匹」、食肉は「羽」、ペットは「頭」「匹」と使い分ける場合が多いようです。■卯は跳ねる■■雪ウサギ■■うさぎ神社■■三月ウサギ■■イースターはなぜうさぎ?■■「兎と亀」の続編「負け兎」■■しろいうさぎとくろいうさぎ■■うさぎ小屋と動画■■世界一有名なウサギ・ピーター・ラビット■■「待ちぼうけ」/株を守りて兎を待つ■■月に兎が住むのはなぜ?■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2023.11.01
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