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両親が亡くなって放っておいた実家の登記をやっと2月のはじめに終えた。昨年9月からなんやかんやあってやっと。司法書士さんとの連絡やなんかも始めてで、私の今年最大の出来事。私的には、ことしのビッグニュースだ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 2月にマーガレットとタチアオイを植えた。育て方をメモ。●マーガレット●*水やりは、夏期には朝か夕方に与える。表面が乾いたらたっぷり。*管理:アブラムシが発生したら薬剤で駆除。●タチアオイ●*寒さ暑さに強い。*水やりは、植え付け時と極端に乾燥した時だけ。■2024年2月に見た映画■*コット、はじまりの夏*ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人*リバー・ランズ・スルー・イット*身代わり忠臣蔵*ニューヨーク・オールド・アパートメント*スケアクロウ*カラーパープル■書き残したネタ■*能登の町が復興する時、考えて欲しい町づくりについて。*ダウンタウン松本氏のスキャンダルについて*M12023について。*淀殿について*長堀川と橋*アフリカで日本の古着が環境破壊!?*トグサ(研ぐさ)*「篩(ふるい)」と「とおし」*レッドオーシャン、ブルーオーシャン*高師浜*読書ネタ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.29
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■都々逸読本■「美人を表す言葉」として、これ以上ないくらい、しかも誰でも知っているという有名な文句に、「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花」があります。実はこれ、七・七・七・五の「都々逸(ドドイツ)」なのです。都々逸とは、七・七・七・五の26文字で表される唄のこと。「ざんぎり頭を 叩いてみれば 文明開化の 音がする」これは、みなさんもご存知でしょう? 教科書にも載っている有名な都々逸です。名前は知らないけれど、誰もがみんな知っている。日本人のDNAに深く刻まれた、都々逸の世界をもっと知ってほしい。そんな思いで書いた一冊です。人生の機微が乙に洒脱に表されており、そのエッセンスは現代を生きる私たちも深く共感し、うなずいてしまうものばかり。古典と言われる名作から、オリジナルの新作まで、「人生に役立つ」都々逸をご紹介します! 2月の句会の帰りに寄った図書館で出会った本。俳句は、五・七・五で短歌は、五・七・五・七・七。都々逸は、七・七・七・五というのをこの本を読んで知った。●読書メモ●●都々逸(どどいつ)とは、江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年-1852年)という寄席芸人によって大成された、有名なものとして。●お前百まで わしゃ九十九まで 共に白髪の 生えるまで●親の意見と なすびの花は 千にひとつの 無駄もない●恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす●立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花(作者不詳)という有名な都々逸があるが、これの返しがある。(アンサー)立てば芍薬 座れば牡丹 今じゃ寝たきり ボケの花●あとがつくほど つねっておくれ あとでのろけの 種にする(アンサー)あとがつくほど つねってみたが 色が黒くて わかりゃせぬ●七・七・七・五の音数律に従うのが基本だが、五字冠りと呼ばれる五・七・七・七・五という形式もある。●(例)世の人は 我を何とも笑わば笑え 我なす事は 我のみぞ知る(坂本龍馬)●全国民謡の80%が七・七・七・五で都々逸と同じ。*(例)ニシン来たかと 鴎に問えば わたしゃ立つ鳥 波に聞け*めでためでたの 若松様よ 枝も栄えて 葉も茂*会津磐梯山は 宝の山よ 笹に黄金が なりさがる*佐渡へ佐渡へと 草木もなびく 佐渡は居よいか 住みよいか●現代の歌謡曲も。*稽古不足を 幕は待たない 恋はいつでも 初舞台 「夢芝居」梅沢富美男*赤い夕陽が 校舎をそめて ニレの木陰に 弾む声「高校三年生」舟木一夫*恋の花咲く ロマンの都 女ばかりに 気もそぞろ 夢もほころぶ 小意気なジルバ 君と銀座の キャフェテラス 「東京シャッフル」サザンオールスターズ●近年の邦楽の衰退と共に、定席の寄席でも一日に一度も都々逸が歌われないことも珍しくなくなったが、少なくとも昭和の中頃までは、寄席では欠かせないものであった。即興の文句で節回しも比較的自由に歌われることも多い。俳句も和歌も川柳も好きな私は、都々逸が衰退したことが残念だ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.27
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現在20歳の孫が1歳10か月の時のこと。うちのキッチンで、孫は、レンジや調理台のボタンを押す格好をしながら言う。「ピッ!ピッ!ピッ!・・・」。うちのキッチンは、電気。「ピッ!」と押すだけで、煮炊きができる。私の子どもの頃、今から65年以上前、火の周りには、色々なものがあり、色々な音がした。★マッチ。マッチは大箱と小箱があり、家にあるのは大箱マッチ。小箱マッチは、タバコを吸う大人の男が、ポケットに入れて携帯していた。★火箸火箸も2種類あった。上のは、煮炊きをするときや風呂を沸かすとき、使った。↑の火箸は、火鉢に置いてあって、燠(おき)を挟むのに使った。★火吹き竹竹を2節ほど使って、節に穴を空ける。火に向かって吹くと火が勢いよく燃える。今は、鉄製のものを売っていて、キャンプなどで使うシーンを見るが、当時は、竹を切って各家で作っていた。コンロの火おこしは、うちわを使った。★せんば(じゅうのう)。スコップのような形でせんばとよばれているものがどこの家にもあった。灰をすくったり、カッカと熾っている火を乗せたり・・・。せんばにも大小があった。大きいのは、クドで使っていたし、小さいのは、火鉢で使っていた。今、せんばをみるのは、溝掃除の時くらいだ。うちには無い。★昔は、火鉢、コンロなど、毎日使っていたのにいつの間にかなくなった。今、私の家では、暖を取るために石油ストーブを使っている。しかし、子どもの頃、石油ストーブは、どこの家にも無かった。★火鉢やコンロで使っていた、鉄きゅうとよんでいた餅アミも見なくなった。暖をとるためにあちこちで見られた焚火も今は無くなった。今、焚火を見ようとするとキャンプにいかなければならない。★消壺というものがあった。裏庭においてあって、真っ赤に燃えた熾き(おき)をセンバにいれて消壺に入れて蓋をすると酸素が無くなって火が消える。それは、炭になって消し炭とよばれた。コンロなどで使う。 ●裏口のすぐそばに、畳半分くらいの焚き物を置く場所があった。焚き付けといって、マッチをすって大きな炎になるまでの細い木の枝や枝豆をとった後のマメガラとよばれるもの、松の落ち葉=マツゴなど置いてあった。それらは、それぞれの音がして、火を焚く音は豊かだった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.26
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■カラーパープル■運命の出会いが今、彼女を立ち上がらせる。優しい母を亡くし横暴な父の言いなりとなったセリーは、父の決めた相手と結婚し、自由のない生活を送っていた。さらに、唯一の心の支えだった最愛の妹ネティとも生き別れてしまう。そんな中、セリーは自立した強い女性ソフィアと、歌手になる夢を叶えたシュグと出会う。彼女たちの生き方に心を動かされたセリーは、少しずつ自分を愛し未来を変えていこうとする。そして遂に、セリーは家を出る決意をし、運命が大きく動き出す──。アリス・ウォーカーの小説を原作にしたスティーヴン・スピルバーグの同名映画をミュージカルとしてリメイク。ブロードウェイ版でも主人公セリーを演じたファンテイジア・バリーノが同役で主演を務める。★映画メモ★★スティーヴン・スピルバーグの映画「カラーパープル」を見ていなかったが、充分楽しめた。でもスピルバーグ監督版「カラーパープル」も見たい。午前十時の映画祭でやってくれないかな・・・。★ミュージカルだから歌って踊ってが楽しい。特に、仕事をしながら踊るシーンが良かった。尾藤イサオの■ーク・ソング Work Song(1966年)■を思い出した。★20世紀初頭の黒人の扱いは、どんなものだったのだろうか。学校など行けたのだろうかと思うが、セリーの妹のネティは、綺麗なワンピースを着ていて、学校に行っていた。20世紀初頭の南部の黒人女性は、綿摘みをする姿しか思い浮かばない私には、ちょっと信じられない。★ツッコミを入れながら見た。関西人のサガか、どんな映画にもツッコミを入れながら見る。今回も。●町の通りで大勢が歌い踊るシーンに「■フラッシュモブか!!■●歌手・シュグが頭に真赤な飾りをつけて歌うシーンでは、■美空ひばりか!!■●映画を見た翌日、スポーツジムに行ったら紫色の人がいて「カラーパープルか!!」とツッコんだ。安心してください、心の中で言っているので!!((´∀`))ケラケラ★パッチワーク・キルト●20世紀初頭:ベッドカバーには、パッチワーク・キルトがかけられていた。1940年代(?):ラストの野外パーティーのテーブルにも様々な模様のキルトが!!エンドロールのキルトも、芸術の域。 物語は、20世紀初頭から始まり裾の長いスカートの女性たち。1920年代は、アールデコの様式のバックだったり、女性の姿も当時の流行りが・・・。1940年代、ついに女性にズボンが!!男性のものだったズボンをはく女性というところで、女性の地位を描いていると思った。「The Color Purple(ザ・カラー・パープル)」とは、直訳すると、紫色との意味。劇中で、紫の花が咲く中を歩きながら、「紫の美しさを感じなければ神も寂しがる」というセリフがあった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.24
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司馬遼太郎は、坂本龍馬ら幕末の志士たちが土佐から伊予へと脱藩した道筋を辿る旅に出る。最初の晩、高知市内で檮原出身の女主人がいるスナックを訪れ、土佐の脱藩者たちが身分の自由を求めたことを考える。翌日、向かった佐川町では、青山文庫を訪れ、その収集をした田中光顕を思いながら、酒造業の古い街並みを歩く。東津野村(現・津野町)に入ると、室町時代、義堂周信と絶海中津という五山文学の雄が輩出した高い文化をもつ地であったことを思いつつ、茶畑や高野の茶堂に立ち寄る。檮原町では町長らの出迎えを受け、神在居の「千枚田」や六志士の墓に参る。かつて檮原への道は別の山を通っていたと教えられ、坂本龍馬を思う。夜は三嶋神社の拝殿で津野山神楽を見学する。翌日は宮野々の番所や、海津見神社を訪れたあと、県境の姫鶴平で高知の人々と別れて、松山へと向かう。■街道をゆく 梼原(ゆすはら)街道■●梼原のみち●●ところが日本語(古語)でいう、「ユス」というのは樹木の名前なのである。むろんユズ(柚)のことではない。堅い木らしい。1603年に日本イエズス会の長崎学林が出した辞書である【日葡辞書(にっぽじしょ)】に木の名前として「yusu」が出ていることをみると、むかしは暮らしの中でよく使われる木だったらし。●正岡子規の外叔父・加藤拓川について明治9年、江藤新平の司法卿時代に創立された司法省法学校(東大法学部の前身)に入学。薩摩系の校長への反発と、賄(まかない)のわるさにふんがいしてストライキをおこす。そのまま退学。明治16年、25歳のとき:旧藩主の世継ぎがフランスに留学することがきまったとき、随行するこちになった。甥の子規が上京する直前のことだ。 その4年後、同郷の陸軍騎兵大尉・秋山好古(よしふる)が、騎兵研究のためパリにやってくるという前後関係。パリ滞在3年目に日本政府に公使館で勤めるよう勧められた。49歳で不意に辞めた。晩年、貴族院議員になったりした。●土佐ではいまでも県下のひとたちは高知市に敬称をつけて、「お町」とよぶ。(略)いうまでもなく、お城下のころからの伝統である。■街道をゆく 北のまほろば (夏)■■街道をゆく:北のまほろば(冬)■■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.23
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■スケアクロウ■寒風すさぶカリフォルニアの路上で二人の男は出会った。6年の刑期を終え、刑務所から出所したばかりのマックス(ジーン・ハックマン)と、5年の船員生活から足を洗ったライオン(アル・パチーノ)は、見た目も性格も正反対だがなぜか意気投合、一緒に旅をすることに。二人は、マックスが洗車屋を開業するというピッツバーグに向かうが、その途中、ライオンが長らく会っていなかった妻アニーと子供が住むデトロイトに寄り道することに。 “スケアクロウ”とは“かかし”の意。カンヌ映画祭グランプリを受賞し、カメラマン出身のジェリー・シャッツバーグ監督の代表作となったアメリカン・ニューシネマの名篇。喧嘩っ早く、どこか神経質なマックス。陽気で人なつっこいライオン。正反対の二人がふとしたきっかけで意気投合し、道中を共にしていくことになる。 アメリカン・ニューシネマとは、1960年代後半から1970年代半ばにかけてアメリカにおける映画のムーブメントである。多くの場合、社会や政治に対する反体制的なメッセージや批判的な視点を取り入れている。この時代のアメリカは、ベトナム戦争や公民権運動、カウンターカルチャーなど、多くの社会的・政治的変動が起こっていたため、その影響は映画にも反映された。 1967年「俺たちに明日はない」、1969年「イージーライダー」、「明日に向かって撃て」、「真夜中のカウボーイ」。ニューシネマの分類に入る「スケアクロウ」は、遅れて1973年の作品。大男と小柄な主人公は、「真夜中のカウボーイ」にも似ているということで評価が下がったのかもとチラシにあったが、アル・パチーノは、ダスティン・ホフマンと顔が同じ系統だ。 「スケアクロウ」の主人公二人は、不運が続く。まあ、私は、これを不運と思わず、自業自得と思う。★大男・喧嘩っ早く、どこか神経質なマックス。何かというと相手を殴るんだから、一生刑務所にいればいいと思った。★小柄・陽気で人なつっこいライオン。妻を残して蒸発して、送金していたと言っても、妻にしてみれば裏切られた感があって許せない。因果応報!!!★原題:Scarecrow★製作年:1973年★製作国:アメリカ★上映時間:112分・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.21
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■ニューヨーク・オールド・アパートメント■ぼくらは懸命に恋をした・・・「透明人間」だった、この街で。幸せを掴むために祖国ペルーを捨て、ニューヨークの片隅で不法に暮らすデュラン一家。母ラファエラはウェイトレスをしながら二人の息子を女手一つで育て、息子のポールとティトも語学学校に通う傍ら、配達員をしながら家計を支えていた。不法滞在者である彼らにとって現実はあまりにも厳しく、お金の問題に加えて見つかれば国外追放されてしまうという恐怖が常に付きまとっている。市民権もなく何の力もない自分たちを「透明人間」と呼び、息をひそめて生きていた。二人はある日学校で、神秘的な魅力を放つ美女・クリスティンと出会い、恋に落ちる。しかしクリスティンはコールガールという一面を隠し持っていた。一方、母ラファエラは、ウェイトレスの生活に疲れ果てた時、客の白人男性に声をかけられる。恋なんて葬り去っていたラファエラだが、安定を約束するという口車にはまってしまい、自分たちのアパートを提供して男と一緒にチキンフード店を開業する。それぞれが恋に落ち、辟易していた毎日に<希望>を見出したかのように思えたのだが…。NYという大都会で出会う人々の欲望と心の闇が次々と露になり、母子3人は最も恐れていた事態に直面し、引き裂かれてしまう。仕事を抱えながら息子たちを必死に探すラファエラ。果たして、母子3人は再会することができるのか?★双子の兄弟・ポールとティト。南米ペルーの全国オーディションで選ばれたシンデレラボーイは〝本当の双子″。大学でアドリアーノは医学、マルセロはシステム工学を専攻。LOS MORDOSというロックバンドで兄弟で活動する中、本作が2人にとって映画デビュー作となった。ポールとティトの役を演じるために初めての基本的な演技指導を受けたのだが、監督は生の彼らの表情が作品の価値を高めることを確信していた。実際にお芝居未経験ならではのピュアな表情が、二人の虜にさせる。★謎の美女・クリスティンアメリカ・ヨーロッパ映画界注目の若手女優「タラ・サラー」。2019年に大手テレビ局HBOの『SUCCESS』に出演。一躍実力派女優として認められる。英語ドイツ語フランス語のバイリンガル。本作ではポールとティトの双子を虜にするミステリアスな美女を好演した。★ペルーって国を捨ててまで逃げてくるようなひどい国なのだろうか?北朝鮮や戦争中の国だと国を捨てるのはわかるけど、少なくとも安全は国にいるなら、危険を冒してまでニューヨークに行く理由があるのだろうか?主人公親子は、肉を運ぶトラックに隠れてアメリカに入国したというけれど、見つかれば即刻送り返される。「透明人間」のようにいないことになっている彼らは、きちんと就職したくても、できない。若くて健康だからいいけれど歳をとったら医者にも行けないのにどうするのだろうと心配した。★謎の美女が美しすぎて、双子の兄弟・ポールとティトが同時に好きになるのは分かる。けれど、美女がナイフを出したら危険を感じて離れて欲しい。★双子の母親は、若い息子のいるアパートに男を連れてきて、それが生きるためと分かっていても、それならなぜニューヨークに来たのだと腹立たしい。それに、長くニューヨークに住んでいるのに、英語が片言(息子たちは上手い)のは。そんな人が不法侵入してもいい暮らしが出来っこない!!!★双子の兄弟・ポールとティトが可愛らしい顔で、純粋でいい子過ぎて・・・。幸せになって欲しい。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.19
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■身代わり忠臣蔵■命を懸けた三文芝居江戸城内にて、嫌われ者の旗本である吉良上野介が恨みを募らせた赤穂藩主に斬りつけられる。赤穂藩主は当然切腹だか、斬られた上野介も瀕死の状態だった。逃げて死んだとなれば武士の恥でお家取りつぶしの危機となってしまう。吉良家家臣は彼にそっくりな弟の孝証を身代わりにして幕府をだまそうと作戦を立てる。一方、切腹した赤穂藩主の部下である大石内蔵助は、仇討ちの機会を伺っているような動きを見せる。「超高速!!参勤交代」シリーズなどのコメディ時代劇で知られる土橋章宏の同名小説を映画化。江戸を舞台に絶対にバレてはならない身代わりミッションが始まる。監督は「かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜」シリーズの河合勇人。主人公の吉良孝証と兄の上野介の2役を『マイ・ダディ』のムロツヨシが演じ、大石内蔵助役の永山瑛太のほか、川口春奈、林遣都、北村一輝、柄本明らが出演する。近年、時代劇のドラマが少なくなったと言われる。そんな中、数年前に公開され、日本アカデミー賞の最優秀脚本賞を受賞した『超高速!参勤交代』は、奇想天外な発想で時代劇映画としては異例の大ヒットを飛ばしていた。『身代わり忠臣蔵』(土橋章宏/幻冬舎時代小説文庫)は、『超高速!参勤交代』の原作を書いた土橋章宏の最新映画化作品だ。ムロツヨシ主演で、偽物の吉良と、討ち入りしたくない大石内蔵助が描かれる。●出演者が若くて、軽~~い感じの「忠臣蔵」で笑った。●見すぼらしい坊主姿の吉良孝証(吉良上野介の弟)に塩飴を渡す赤穂の家老・大石内蔵助。二人の出会いはこんなシーンから。そんな偶然が重なって親しくなる敵同士。吉良孝証(吉良上野介の弟)は、兄に化ける。人のいい大石が仲のいい孝証(吉良上野介の弟)を斬ることができるのか・・・。●吉良家内でも随一の剣客の清水一学。血気盛んで刀を抜かずにはいられない性分。この人誰??と気になって仕方がなかったが後で調べたら、佐藤浩市の息子・寛一郎だった!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.17
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「因幡の白兎」の神話で知られる白兎海岸や万葉歌人・大伴家持のゆかりの地など、古代文化が息づく鳥取地方を歩く「因幡、伯耆のみち」。因幡・伯耆のみち(安住先生の穴/源流の村/家持の歌/鳥取のこころ ほか)●メモ●●共同作業のことを、村のひとは「ソウゴト」と、よんでいる。室町の乱で、村落が自衛しはじめたとき、その自治組織のことを「惣(そう)」といった。そうごとは「惣」の事ということで、古語が生きている。●日本古来の瓦は水が沁みやすく、寒冷地でつかうと、内部に入った水が凍って瓦を割ってしまうため、石見瓦を用いざるをえない。■鳥取砂丘■ ●ヨコ16キロ、タテ2キロにもおよぶこの砂丘は、敗戦まで、鳥取歩兵第四十連隊の演習場としてつかわれ、歩々(ほほ)靴を没する砂地は、兵隊さん泣かせといわれた。「馬の背」とよばれる高さ48メートルの台地からの展望はすばらしい。*明治9年生まれの祖父も、鳥取砂丘で演習をしたという。帰りは吉井川を高瀬舟に乗って岡山県の実家に帰ったそうだ。●(千刃・せんば、は)元禄時代(1688~1704)に発明され、伯耆の倉吉において製造された。(略)(回転式脱穀機)これは大正時代に出現する(略)*明治45年生まれの父は、「回転式の脱穀機を貸す商売があった」と言っていた。●当時、織田信長は四方に功伐軍を出している。丹波の平定には明智日向野守(ひゅうがのかみ)光秀、播州には羽柴筑前守(ちくぜんのかみ)秀吉というぐあいだった。ついでながら、信長の最終目的は九州にあり、光秀、秀吉の官称にまでその配慮があらわれていることに注目したい。光秀には日向(宮崎県)守、秀吉には筑前(福岡県)守を名乗らせている。将来の九州入りのときに、この二人を総司令官にし、その官称によって地元の者たちに親しみをもたせるためだったようである。(略)日向守も筑前守も、それぞれ私称ではない。信長が天正三年(1575)、執奏して正式にもらったものである。●いまの日本語のハヒフヘホはH音だが、奈良朝のころはF音であり、それ以前はP音であったことは定説になっている。*伯耆の国の国名は、「ホウキ」というがかつては「ハハキ」(箒)であったと思う(筆者)。もっと以前、古代人は「パパキ」とよんでいたであろう。*樺太の白浦地方では樹皮をオピウ(opiw)とも呼び、「オヒョウ」の名称はこれに由来す。■オヒョウ■2019.7.8 ●漁師は殺生をするため極楽へは行けないという恐怖が当時あって、極楽ゆきを保証してくれる時宗(じしゅう・教祖は一遍・いっぺん)に入信するものが多かった。■街道をゆく 北のまほろば (夏)■■街道をゆく:北のまほろば(冬)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.16
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■リバー・ランズ・スルー・イット■人生は川の流れのように、時に優しく、時に厳しく僕たちの思い出を包み込む・・・。年老いたノーマン・マクリーン(アーノルド・リチャードソン)は、故郷の川でフライフィッシングをしながら、若き日を回想していた。舞台は1910 - 1920年代のアメリカ合衆国モンタナ州ミズーラ。第30代大統領クーリッジ(在位1923年~1929年)、T型フォード全盛の時代である。スコットランド出身で厳格な父のマクリーン牧師、真面目で秀才の兄ノーマン、陽気な弟ポール。三人に共通する趣味はフライ・フィッシングだった。ノーマンはやがてマサチューセッツ州ダートマスの大学に進学して街を離れる。ポールはモンタナ州の州都ヘレナで新聞記者をしつつ、ポーカー賭博にのめり込んでいた。大学を出て街に戻ってきたノーマンは独立記念日にジェシーと知り合い、二人は付き合うようになる。やがてノーマンにシカゴ大学から英文学の教員の採用通知が届き、ノーマンはジェシーに求婚する。ノーマンが就職のためにシカゴに向かう直前、ノーマンとポールは父親とともにブラックフット川に釣りに出かけ、ポールは大物を釣り上げる。だが翌朝、警察から連絡があり、ポールが何者かに殺されたことをノーマンは知らされる。1920年代のモンタナを舞台に、フライフィッシングで結ばれた兄弟と父親の家族の絆を描く人間ドラマ。ジェイク・ノーマン・マクリーンの自伝的小説『マクリーンの川』(集英社)をもとに、「愛の選択」のリチャード・フリーデンバーグが脚本を執筆。製作年:1992年 第65回アカデミー撮影賞受賞。監督・製作は「ミラグロ 奇蹟の地」のロバート・レッドフォード。主演のブラッド・ピットは若手俳優としての地位を確立した。 前々から見たいと思っていた「リバー・ランズ・スルー・イット」を午前十時の映画祭でやっと見ることができた。 「川は流れる」中曽根美樹 「川の流れのように」美空ひばり「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」の「方丈記」鴨長明 などなど昔から人生は川の流れに例えられる。そして文学や歌の主題になる。 人々の人生は様々でいろいろな事があるが、そんな時の流れのなかで、川は変わらぬ姿で流れ続ける・・・「A River Runs Through It」というタイトルの意味がそこにある。 兄弟が釣りをしているシーンが川の景色と共に美しく映画かれていた。■動画:リバー・ランズ・スルー・イット■「故郷の川は思い出と共に流れ去ってゆく」「一番近くにいたものが一番遠くに行ってしまうのを僕は知らなかった・・・」というナレーションが泣かせる・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.14
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■月島慕情他短編集■恋する男に身請けされることが決まった吉原の女が、真実を知って選んだ道とは…。表題作ほか、ワンマン社長とガード下の靴磨きの老人の生き様を描いた傑作「シューシャインボーイ」など、市井に生きる人々の優しさ、矜持を描いた珠玉の短篇集。著者自身が創作秘話を語った貴重な「自作解説」も収録。■目次(「BOOK」データベースより)■月島慕情/供物/雪鰻/インセクト/冬の星座/めぐりあい/シューシャインボーイ■著者情報(「BOOK」データベースより)■浅田次郎(アサダジロウ)1951(昭和26)年、東京生まれ。著書に「地下鉄(メトロ)に乗って」(第16回吉川英治文学新人賞)「鉄道員(ぽっぽや)」(第117回直木賞)「壬生義士伝」(第13回紫田錬三郎賞)「お腹召しませ」(第1回中央公論文芸賞、第10回司馬遼太郎賞)「中原の虹」(第42回吉川英治文学賞)などがある。 浅田次郎の作品を読むのははじめて。齢三十を越えてようやく「人間になれた」と泣くミノ「月島慕情」。六十年胸に抱いてきた言葉を涙とともに零したワンマン社長、「シューシャインボーイ」。悲しいとも嬉しいとも言い難い万感の涙がつまっている「平成の泣かせ屋」の異名をとる著者の面目躍如の1冊。 ●読書メモ●■月島慕情■★「まがいものの幸せはいらない。ばかやろうでいいです。」「あたし、あんたのおかげで、やっとこさ人間になれらよ。」★親からもらったミノという名は、好きではなかった。明治二十六年の巳(み)年生まれだからミノと名付けられた。ふるさとの村には同い齢のミノが何人もいたが、一回り上にも大勢いたはずの同じ名前の娘たちは、ミノが物心ついたときにはみんな姿を消していた。ひとつ齢上のタツも、ふたつ齢上のウノの場合もそれは同様だから、世代を超えた同じなの娘はいなかった。雪がとけること何人もの人絵画やってきて、小学校をおえた娘たちをつれてゆくのだった。行先のほとんどは上州か諏訪の製糸工場だったが、とりわけ器量の良い娘は東京へ買われていった。そういう娘たちは値がちがうから、果報だと噂された。★「はい、よござんしょう。おかめひょっとこ金銀小判、夫婦円満、商売繁盛、ガキも産れりゃ蔵も建つってえ代物だ。三円と五十銭!」*酉の市の熊手売りの口上。★「(略)あすこはね、あたしが子供の時分には影も形もなかったんだよ。海を埋め立てて、大きな島をこしらえたのが明治二十五年。だから最初は、築地のツキの築島だった。」*この時、大正10年を過ぎていた頃★蒸気船は器用に舳先(へさき)を回して、佃島と月島に挟まれた掘割に滑りこんだ。*2020年、東京に行った時の写真。■佃島■★商店街の中ほどの辻に、洒落た石造りの交番があった。■月島■*これも月島にて。☝*「月島慕情」ドラマにならないかな・・・。■雪鰻■★「もし。こちら裏門分哨長、〇〇三曹。(略)・・・あー、了解、もし」*受話器を持ったこのやりとりだが、「もしもし」ではなく「もし」。「もし」という電話の受け答えがあったのかと探したが分からなかった。*浅田次郎は、昭和40年代に自衛隊にいたが、その頃の話だと作者自身が語っている。■インセクト■★差し出された手拭と葉書の意味がわからなかった。*同じアパートに越してきた人が手拭と葉書を配ったというが、この習慣は初めて知った。■シューシャインボーイ■この作品は、ちょっとミステリーぽかった。*「シューシャインボーイ」は、主人公・塚田の勤める社長の馬の名前だけれどなぜその名になったのか?*持ち馬が勝ったその足で、靴を磨きに行った社長。*靴磨き名人の老人の正体は?どんどん謎が解明して、そして最後が泣かせる。2010年にドラマ化されていた。■シューシャインボーイ■■解説■★浅田:大芸術家には、ヒエラルキーの高いところで生まれ育った人が圧倒的に多いんですよ。志賀直哉、太宰、谷崎、芥川、三島・・・みんないいとこの子だ、早い話が(笑)。この人たちの審美眼にはかなわないし、そしてやっぱり文章は美しい。*志賀直哉:学習院に通う。*武者小路実篤:華族出身。(志賀直哉は、学習院中等科時代)落第の結果、2歳年下の武者小路実篤と2度目の6年時に同級となる。途中、文学上の言い争いから直哉が武者小路に絶縁状をたたきつける事件はあったものの、直哉と武者小路は生涯にわたって親交を結ぶことになる。*太宰治:青森県下有数の大地主である父津島源右衛門と母たね(夕子)の六男として生まれた。*谷崎潤一郎:祖父の代で没落。学費未納により東大中退。*三島由紀夫:家には女中6人書生や下男がいた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.12
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■女文士■もっと幸せになりたい。もっと認められたい。もっともっと、愛されたい。男を、結婚を、名声を、執拗に求め続けた女、眞杉静枝。最初の結婚からは自ら逃げ出した。愛人・武者小路実篤はついに応えてくれなかった。若い恋人・中村地平は逃げ、夫となった中山義秀も最後には背を向けた。死の間際まで艶聞にまみれたスキャンダラスな女流作家。こんなにも狂おしく哀しい女がいたーー。 なにげなく図書館から借りてきたがこれが、大正解の作品だった。林真理子が脂の乗り切った40代に書いた作品で本作品と「白蓮れんれん」「ミカドの淑女」で評伝三部作。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆1章から14章まである章は、すべて食べ物になっていて多くの有名人が出てくる。◆読書メモ◆●やはりあの脳下垂体のせいだろうかと私はぼんやりと考えた。(真杉静枝の)左の太ももの奥に小さな傷跡がある。それは牛のホルモンを手術で埋め込んだところだ。戦後の一時期、若返りの方法としてそんなことが流行ったことがあった。それを真杉は実行しているのだ。●(高雄から)神戸行きの船は月に十便出ている。(大正時代)*植民地だったので日本との定期便があった。*高雄以外から出発する船もあったのだろう。●新聞記者というからにはりゅうとした背広姿を想像したのであるが、彼ら何人かは着流し姿である。中には矢立を持ち歩く者さえいて新聞をつくっている者とは思えないほどの旧態依然とした恰好である。大将11年に堂島に新社屋が完成した折、「これだけ建物がモダンになったのだから、社員は洋服を着なければいかん」と社長が怒鳴ったというのは有名な話であるが、それでもまだ洋服よりも和服のほうがはるかに多い。●「看護婦ゆうたら、あばずれか流れ者の女がやるもんやと思っとったわ。」*当時の看護婦の職業的な地位は低かった。●松子は三百年続く船場の木綿問屋の若御寮はんである。(略)たいていの女が地味な縞ものを着ている中で、松子だけが晴れ着のような友禅をまとっているのだ。帯留めも大粒のダイヤが燦然と輝いている。(略)「そら、根津さんのおうちときたら、いくらお金があるかわからへんもの。」「旦那さんがお金によりをかけてあの人をお人形のように着飾らせてるんやわ。今日着てはったおべべも、伊東深水やらに描かせたいう話やもん」*この根津松子こそ、後に谷崎潤一郎の妻になった松子だ。谷崎潤一郎の「細雪」のモデルになった人。●大阪にくらしているうちに、静枝は船場がいかに特殊な町かつくづく思い知らされていた。船場と口にするときの大阪人の表情は違う。大阪市の中心にあり、東西の横堀川、土佐堀川に隔離されたこの町は、富豪の商店が立ち並ぶいわば「商人の貴族」が住むところである。この中でも、一、二を争う老舗から、運転手つきの車で集まりにやってくる松子に、静枝はつい不躾な視線を向けてしまう。これほど豪奢で華やかな女をそれまで見たことがなかった。*谷崎潤一郎の妻となった松子のことである。*松子は清水谷高女を退学させられた。●武者小路の毎月の多額の稿料と印税は、ほとんど「新しき村」に消えていくというのはあまりにも有名であるが、彼は個人の富や才能も、多くの人々と共有してこそ価値を持つものだと本気で思っている。*静枝は、新聞社のアルバイトとして、奈良に住む、武者小路に近づき、愛人となった。●(静枝の夫となった)義秀の傍らには仲人である青山二郎が座っている。*青山二郎は、白洲正子と仲が良かった人だ!!●鎌倉文庫はついに飢えをはっきりと表明し始めた鎌倉文士たちが、四カ月前に始めた貸本屋である。大佛次郎、高見順、川端康成、義秀といった十人が当番となり本を提供した。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆愛されたい、認められたい、という「自己顕示欲」の塊のようなイタイ女・真杉静江・・・。彼女の53年の人生を若き秘書・洋子の目から描いている。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.10
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■ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人■「彼女と共にいたい。日が昇る時も。日が沈む時も。それだけだ。」貧しいお針子の私生児として生まれたジャンヌは、類稀なる美貌と知性によって貴族の男たちを虜にし、社交界の階段を駆け上がっていく。ついにヴェルサイユ宮殿に足を踏み入れた彼女は、時の国王ルイ15世と対面し、瞬く間に恋に落ちる。国王の公式の愛人、公妾となったジャンヌだったが、王太子妃のマリー・アントワネットが嫁いできたことで、彼女の立場は弱まってしまう。 ルイ15世の最後の公妾となったデュ・バリー夫人ことジャンヌ・デュ・バリーの生涯を描くエンタテインメント。『モン・ロワ 愛を巡るそれぞれの理由』のマイウェンが監督、脚本、そして主人公のジャンヌ・デュ・バリーを演じ、「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズのジョニー・デップがルイ15世に扮する。共演は『デリシュ!』のバンジャマン・ラベルネ、『トルテュ島の遭難者たち』のピエール・リシャールら。★フランスの王様を虜にした美貌というから、どんな美しい人がヒロイン、ジャンヌを演じるのかと思っていたら、残念・・・。王が一目見て恋に落ちるというには、あまりに説得力がない容姿と年齢。監督自らが演じている。もっと若くて、この人ならという人でなくてはこの物語は成立しないと思うのだけれど・・・。■ジャンヌ・デュ・バリー■本作のドレスやジュエリーは、シャネルが提供している。シャネルといえば、創始者・ココ・シャネルは、ジャンヌと境遇がよく似ている。シャネルも幼いころ、貧しくて、孤児院で育った。金持ちの愛人から高価な邸宅や美術品、宝石などを受け、セレブにのし上がった。もちろん、才能もあってのことだけれど、その豊かな才能も似ている。第二次世界大戦、ドイツのスパイとも関係のあったシャネルは、1944年9月のパリ解放の2週間後、シャネルはホテル・リッツで逮捕されフランスの粛清委員会に尋問された。しかし数時間でシャネルは解放された。これほど早く解放された理由は「極めて有力な人物のコネ」があったからであると考えられる。■ココ・シャネル■ジャンヌは、ルイ15世の死後、幽閉され、その後自由に。しかし、最後は、マリー・アントワネットと同じように、処刑された。もうひとり、似た人生にデヴィ夫人がいる。彼女も貧しく、10代から高級クラブで働いていた。1959年(昭和34年)、19歳のとき、インドネシアへの開発援助に伴い、東日貿易の秘書という名目で、インドネシア建国の父であるスカルノ初代大統領のもとに送り込まれた。スカルノの愛人ということだ。4人の夫人のうちの第3夫人になる。「社交界の華」とも呼ばれたその容姿で多くの要人らと関係をもった。■デヴィ夫人■ フランス国王史上一の美男にして問題児、“最愛王”の異名をもつルイ15世をジョニー・デップが自身初の全編フランス語で挑んだことも話題となっている。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.08
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■コット、はじまりの夏■やっと見つけた、わたしの居場所1981年、アイルランドの田舎町。大家族の中でひとり静かに暮らす9歳の少女コット(キャサリン・クリンチ)は、夏休みを親戚夫婦のもとで過ごすことに。寡黙なコットを優しく迎え入れるショーン(アンドリュー・ベネット)とアイリン(キャリー・クロウリー)夫妻。アイリンに髪を梳かしてもらったり、ショーンと一緒に子牛の世話をしたり、2人の温かな愛情をたっぷりと受けるコット。そんな生活を重ねてゆくなか、当初は戸惑っていたコットの心境にも変化が訪れる。緑豊かな農場で、本当の家族のようにかけがえのない時間を過ごすコットはこれまで経験したことのなかった生きる喜びを実感し、やがて自分の居場所を見つけてゆく……。 第95回アカデミー賞国際長編映画賞ノミネートなど、世界の映画祭で注目されたアイルランド作品。大家族の中でひとり静かに暮らす9歳の少女コットは、夏休みを親戚夫婦の家で過ごすことに。2人の温かな愛情を受けながら、やがて少女は自分の居場所を見つけてゆく。本作で鮮烈デビューを果たしたコット役のキャサリン・クリンチは、史上最年少の12歳でIFTA賞主演女優賞を獲得。数々のドキュメンタリー作品を手がけてきたコルム・バレードによる長編劇映画初監督作。第95回アカデミー賞国際長編映画賞ノミネート アイルランド独自の言語であるゲール語の映画ってはじめて見たと思う。アイルランドは、英語の国だと思っていたからビックリした。 うちの子供たちも、幼い時から、夏休みや冬休みになると私の両親のところで過ごした。小さい子の面倒を見ながら働いていた私は、その間ほっとできた。そして子どもたちも、両親から離れてほっとしているところがあったのではないかと思う。夏休みといえども、学童保育に行って、ピアノに練習して宿題して・・・。子どものそんな毎日から解放されていたと思う。次女のレイなど「レイちゃん、おばあちゃんとこから小学校に行く」と言ってたくらいだから・・・。私の両親と、娘たちは、おしゃべりで陽気な性格。 映画の中では、叔父叔母も辛い過去があり、コットも非常に内向的な性格で両者とも言葉数は少なかった。けれど髪を梳かすシーンなどに愛がこもっていて心にしみる映画だった。コットにかけっこをさせる叔父。それは感動的な最後のシーンにつながる伏線だった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.06
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「災害は忘れた頃にやってくる」と、しばしば弟子たちに語っていたという物理学者の寺田寅彦。しかし彼は、次のようにも語っている。(天災を)忘れているおかげで今日を楽しむことができるのだという人があるかもしれないのであるが、それは個人めいめいの哲学に任せるとして、少なくとも一国の為政の枢機に参与する人々だけは、この健忘症に対する診療を常々怠らないようにしてもらいたいと思う次第である。」*能登地震からはや、一か月以上たつ。*大地震で能登が揺れた後も、自民党が金銭問題で揺れに揺れているという悲劇・・・。■天災と日本人■内容紹介(出版社より)地震列島日本に暮らす我々は、どのように自然と向き合うべきかーー。災害に対する備えの大切さ、科学と政治の役割、日本人の自然観など、今なお多くの示唆を与える、寺田寅彦の名随筆を編んだ傑作選。●内容紹介(「BOOK」データベースより)●長い時を経て日本列島に築かれた文明の本質を、自然科学と人文学の両面から明らかにした寺田寅彦。その鋭い考察は、地震列島に生きる私たちへ、今なお新鮮な衝撃を与え続けている。日本固有の自然風土と科学技術のあり方を問う「日本人の自然観」、災害に対する備えの大切さを説く「天災と国防」、科学を政治の血肉にしなければ日本の発展はないと訴える「政治と科学」ほか、日本人への深い提言が詰まった傑作選。●目次(「BOOK」データベースより)●天災と国防/津浪と人間/流言蜚語/政治と科学/何故泣くか/震災日記より/颱風雑俎/災難雑考/日本人の自然観 「災害は忘れた頃にやってくる」と、しばしば弟子たちに語っていたという物理学者の寺田寅彦。彼ほど災害について考えぬいた科学者は同時代に例をみない。彼の災害観のエッセンスがつまった随筆集が「天災と日本人」。文明が進歩すればするほど災害による被害は甚大になるという洞察をもつことができたのは、科学者でありながら夏目漱石門下の文人だったことも大きい。災害に向き合うためには、日本人が古来からもっている自然観をもう一度見つめることで、人間と自然との「つながり」を根底から考え直す必要があると寺田はいう。★寺田寅彦の本2022年末くらいに読んだ。興味深い箇所がいっぱいあって、一度に書ききれない。とりあえず、メモしておく。●寺田は、文明が進歩すればするほど災害による被害は甚大になるという洞察を持っていたという。実は、この考え方、この本を読む前に私も思っていた。●(略)寺田寅彦は物理学を学んだ地震学者だった。尺八の音響学的研究をはじめ、電気花火、ガラスの割れ目、金平糖の生成などの現象を独自の視点から分析し、その好奇心はとどまるところを知らなかった。夏目漱石を師と仰いで科学随筆の分野にも新たな境地をひらき、俳諧のジャンルにも一家言を持つ人間的な幅の広さを持っていた。一個独立した専門家でありながら、同時にその専門の枠をのりこえる感性豊かな複眼思考の科学者だったといっていいだろう。 著者情報(「BOOK」データベースより)★寺田寅彦(テラダトラヒコ)著★1878~1935年。東京生まれ(高知県出身)。東京帝国大学物理学科卒業。理学博士。東京帝国大学教授、帝国学士院会員などを歴任。東京帝国大学地震研究所、理化学研究所の研究員としても活躍。物理学者、随筆家、俳人・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.05
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女優、吉高由里子が紫式部(役柄名・まひろ)役で主演するNHK大河ドラマ「光る君へ」を見ている。■動画:かしまし歴史チャンネル■の解説も毎回見ている。28日に第4回「五節の舞姫」が放送され、まひろが舞を踊るシーンが登場した。まひろは倫子(黒木華)からの依頼で、花山天皇の前で五節の舞(未婚の舞姫たちが舞をささげる神事)を披露することになる。気楽に引き受けてしまったまひろだが、慣れない舞に悪戦苦闘。そんな稽古の甲斐あり、本番では笏拍子(しゃくびょうし)の音に合わせ、そつなく舞を披露することができた。月明かりのもと、華やかな衣装を着たまひろや姫たちが優雅に踊るシーンは約2分間にわたって放送された。 「五節の舞」五節舞、五節の舞(ごせちのまい)とは、日本の雅楽では唯一、女性が演じる舞。大嘗祭や新嘗祭に行われる豊明節会で、大歌所の別当の指示の下、大歌所の人が歌う大歌に合わせて、4 - 5人の舞姫によって舞われる(大嘗祭では5人)。五節舞の情景を描写した、「天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」の和歌が有名で、百人一首にも採られている。この歌は、六歌仙および三十六歌仙の一人遍昭(へんじょう/僧正遍昭とも)によって詠まれたものです。 陰暦11月中旬に行われる新嘗祭(にいなめさい)の翌日に、器量のよい未婚の娘たちが「五節の舞」を披露しました。ここで舞う姫たちを天女に例えて詠んだものです。「美しい女性(天女)の舞をもっと見ていたい、だから天へ帰れないように天への路を閉じておくれ」と、自身の感情をストレートに表現した歌です。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.03
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今年は辰年。辰=龍の話を。■「臥龍梅がりょうばい」命名の謂れ■「臥龍」という言葉は古く、その出典は中国四大奇書のひとつに数えられる長編歴史小説、「三国志演義」であります。 「臥龍」は寝ている龍、まだ雲雨を得ないため天にのぼれず、地にひそみ隠れている龍のことで、転じて、まだ志をのばす機会を得ないで民間にひそみ隠れている英雄、「諸葛孔明」の例えであります。さて、処はわが国に移り、時代は下って戦国時代末期のことです。後に徳川幕府を開設した徳川家康は、幼少の一時期、今川家の人質として「清見寺 せいけんじ」という禅寺に暮らしていました。■清見寺■そして家康は、寺の庭の一隅に一枝の梅を接木したと伝えられています。「諸葛孔明」の故事どおり、「清見寺」にあった頃の家康は地にひそみ隠れておりましたが、その後、龍が天にのぼるがごとく天下人となりました。 家康の植えた梅は三百年の月日を経て大木に成長し、今も、毎年春三月には凛とした風情で花を咲かせております。さながら龍が臥したような見事な枝振りもあいまってか、この梅は何時の頃からか「臥龍梅」と呼ばれるようになりました。 もうすぐ梅が咲く頃。■辰巳は天井■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.02.01
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