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終活のため、本は買わないと決めてから、図書館を積極的に使っている。先日、図書館に行くと、「ガチャガチャを引いてください」と係りの人。引いて中に入っていた紙を渡すと、「おめでとうございます。しおりが当たりました」と大声で言われた((´∀`*))私「ああ、ありがとうございます~。今、しおりを頂きました。こんなもん、なんぼあってもいいですからね~」とミルクボーイのネタで答えた私。●10/3:コロナとインフルエンザの予防注射をした。■2024.10月にみた映画■*ロール・ザ・ドラム!*侍タイムスリッパー■書き残したネタ■*国内旅行*能登の町が復興する時、考えて欲しい町づくりについて。*ダウンタウン松本氏のスキャンダルについて*M12023について。*淀殿について*長堀川と橋*アフリカで日本の古着が環境破壊!?*トグサ(研ぐさ)*「篩(ふるい)」と「とおし」*レッドオーシャン、ブルーオーシャン*高師浜*読書ネタ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.31
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■播州揖保川・室津みち■『播磨灘物語』の主人公・黒田官兵衛が一時居城としていた山崎を訪れたいと考えた司馬さんは、西播州の生まれで少年時代をこの地で過ごした歌人の安田章生氏とともに揖保川沿いに車を進める。古代稲作民について思索を巡らせながら伊和神社の境内を歩き、安田氏の母校・山崎小学校で山崎城のわずかな名残を見る。 龍野では三木露風を心に浮かべる。揖保川を下り、奈良朝以来の港である室津に宿をとった司馬さんは、現在のものさびた町並みを前に、中世、外洋を航海した船のことや、四国に流される途上でこの地に立ち寄った法然上人に思いをはせる。●読書メモ●●山崎という地名は、京都府の山崎もそうだが、おそらく山なみの先端という地勢から出たものに相違ない。●江戸初期には一時期、城がこわされて畑になったこともある。寛文十二(1672)年、脇坂氏が入るにおよんで、ふたたび造営された。幕府に遠慮しつつ造った小規模なもので、天守閣は、つくらなかった。徳川書記は幕府がさかんに豊臣系の大名の取りつぶしをやったときで、秀吉の小姓あがりの脇坂安治を祖とする脇坂氏などはおっかなびっくりだったのであろう。城が小さすぎるために、代々の城主はべつの一角に屋敷をつくって、住んでいた。●「露風は、どういうわけか龍野中学を中途退学して、岡山県の私立中学閑谷こうへ行っています。」「露風は明治三十六年に、「県立龍野中学校の入学試験に主席で合格」寄宿舎に入舎。●古風な門の前に出た。門柱に「竜野県庁」と、板も筆のあとも古びてしまっている表札が出ている。いわゆる版籍奉還のあと、大藩も小藩も、一時そのまま県と称された・・・(略)●湾の小ささが、室津の風情をいっそう濃くしている。古くは遣唐使船の船泊になり、平安末期には西海へ落ちてゆく平家の船団の一部を休ませ、室町期には京都商人をのせた遣明船がここで風を待ち、江戸期にはさらに殷賑をきわめ、西国大名の参勤交代の船の寄港地になったというが・・・(略)●遣唐使船は、大阪湾の三津浦から出た。(今は)大阪市南区の繁華街で、そこが、奈良朝、平安朝のむかし海港であったなどという実感はまったくおこらない。大阪湾を出て瀬戸内海をゆく遣唐使船が、ほぼ決まったように室津に寄港したことは、まちがいないかと思える。遣唐使船は最初は二艘だったが、のちに四艘になった。一隻に、多い時は二百人以上乗っていた。使節団はべつとして、操船者たちはその頃から存在したかと思える室津の遊女とあそんだのではないかと思われる。■動画:播州揖保川・室津みち■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■高野山みち■空海の開創した高野山をめざす司馬遼太郎一行は、車で大阪から紀見峠を南へ越えて麓の九度山に入る。真田父子の悲運に思いをいたし、慈尊院で空海の母を思う。九度山から高野山へ登る町石道は当時荒れ果てて廃道同様になっていた。その入り口で、司馬遼太郎は鬱然とした樹々の木下闇に、深山幽谷に引き込まれていくような畏れを感じた。高野聖たちが空海と浄土信仰を結びつけたことを思い、その晩遅くに山内へ上がる。翌日、旧知の西南院住職の案内で、奥の谷に入り、修行僧たちが念仏を専修する真別処を訪ねる。森閑とした域内に佇む沙羅双樹の木を見て、司馬遼太郎はインド仏教の原思想とそれを移入した日本文化との関係に思いを巡らせる。●読書メモ●●高野聖は僧形をしている。しかし正規の僧ではない。正規の僧というのは、律令以来、国家がその資格を認定し、国家が扶持する得度者をいう。奈良朝のころは正規の僧になるのは、明治後の高等官試験や司法試験よりもむずかしかったかもしれない。そのかわり、律師、僧都、僧正といったような僧位、僧階があたえられて国家から宗共感として礼遇された。●江戸末期まで、高野山にあっては、学りょ方、行人方(ぎょうにんがた)、聖方という三つの機能があり、それぞれ仲が悪かった。学りょ僧は奈良・平安の官僧およびその候補者といってよく、これに対し、行人は叡山などの僧兵にあたるであろう。本来、高野山の雑役夫で便宜上僧形だった者が、しだいに一山(いっさん)で勢力を得、学りょと対抗するまでになった。かれた行人はおなじ私度僧ながら聖と異なり、高野山に常住して旅に出ない。これに対し、荒野聖は、回国が専門である。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■信州佐久平みち■旅の前、司馬さんは信濃の地図を眺めて、信濃には更級や蓼科など「科(級)」のつく地名が多いことに気付き、その意味を考える。また桜井や海野などという地名から、桜井氏や海野氏など、中世信濃武士団の興亡を思う。旅の起点はJR長野駅。最初の宿泊地・別所温泉に行く途中、上田市の商店街の街灯に真田六文銭のマークがあるのを見て、上田が「真田氏の町」であることを実感する。別所温泉では、この地を訪れた捨聖・一遍の、すべてを捨てて求道をつらぬいた生を考える。翌朝、常楽寺、安楽寺を訪ね、午後は臼田の佐久総合病院に入院中の知人(詩人のぬやま・ひろし)を見舞う。南軽井沢に泊まった翌日、旧中山道沿いの望月宿をめざした。その途中、昼食を食べるために立ち寄った岩村田の蕎麦屋のテレビで田中角栄前首相の逮捕を知る。望月は平安朝の御牧のあった所。信州の騎馬が木曾義仲の軍事の要だったこと、清少納言『枕草子』の望月宿の記述へ思いをはせ、旅を終える。●信濃には科(しな級)のつく地名がじつに多い。埴科(はにしな)、更科、蓼科、立科、穂科、倉科といったぐあいで、信濃の国も、「日本書紀」に「科野国(しなのにくに)という文字を当てている。●奈良朝という律令国家は、全国を公田にしてそこからあがってくる米その他を都に運ばせるため、道路を必要とした。●(軽井沢は)「枯れ沢が訛ったのではないか」というのは、吉田東伍の説である。(略)「沢」という地名は西日本にはまれで、東日本に多く、とくに信州と東北に多い。(略)「現在のサワは、だいたい、東日本では渓谷を、西では沼沢を指す」。■街道をゆく 北のまほろば (夏)■■街道をゆく:北のまほろば(冬)■■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■■街道をゆく7:甲賀と伊賀のみち■■街道をゆく3:肥薩のみち■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.29
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●なんば●島田陽子なにわの難波昔は畑ナンバ畑やナンバの*とれどこ* 難波長ネギ青い葱鴨と炊いたら鴨なんば なにわでナンバ祭でこうたナンバ一本なんぼでこうたナンバトウキビナンバキビこんがり焼いたナンバはうまい*とれどこ*沢山とれるところ、産地。*ナンバトウモロコシ●30年ほど前に、この人の講演会を聞きにいって、本を買った。その時は、昔の遊び唄を集めたものだったが、この本は、創作した大阪弁の歌集。●ナンバと片仮名表記したのは、食べ物。■作者・島田 陽子■(しまだ ようこ、1929年6月7日 - 2011年4月18日は、日本の詩人。東京府出身であるが、11歳から大阪府に在住した。豊中高等女学校(現大阪府立桜塚高等学校)卒業。「文章倶楽部」などで小説を書いた後、1960年頃から童謡や児童詩の創作を始める。大阪弁を使った親しみやすい作風の詩で知られる。1981年、日本童謡賞受賞。また、合唱曲や歌謡曲などの作詞も多数あり、ザ・ワイルドワンズのヒット曲『花のヤングタウン』、 1970年の大阪万博のテーマソング「世界の国からこんにちは」の作詞も行っている。日本文藝家協会、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、日本童謡協会、詩と音楽の会、関西詩人協会会員。日本現代詩歌文学館評議員。1993年には、第28回大阪市民表彰(文化功労)を受賞。また、2003年まで帝塚山学院大学で講師を務めた。2011年4月18日、すい臓がんのため大阪府豊中市の病院で死去した。81歳没。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.28
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今から65年以上前、岡山県の田舎で小学生として来る日も来る日も遊んでいた。いろんな遊びがあったが、女の子は、母が下着やズボンなどに使うゴムを借りてよく遊んだ。ゴム跳びには、何種類かあって、ただ高さを飛ぶのもあったが、曲に合わせて歌いながら跳ぶのが私は好きだった。ゴム跳びの歌があって、曲ごとに、それぞれの跳び方があった。当時のゴム跳びの歌は、以下の通り。♪鐘の鳴る丘(とんがり帽子)緑の丘の赤い屋根とんがり帽子の時計台鐘が鳴りますチンコンカン・・・メーメー子山羊も鳴いてます風はそよそよ丘の上白いお窓はおいらの家よ■鐘の鳴る丘(とんがり帽子)■♪桃太郎桃太郎さん桃太郎さんお腰につけたキビ団子ひとつ私に下さいな。■桃太郎■♪花火ドンとなった花火だきれいだな空いっぱいに広がったしだれ柳も広がった♪船頭さん村の渡しの船頭さんは今年60のお爺さん歳はとってもお舟を漕ぐ時は元気いっぱい櫓がしなるそれギッチラギッチラギッチラコ■船頭さん■♪ミカンの花咲く丘ミカンの花が咲いている思い出の道丘の道はるかに見える青い海お船がとおく霞んでる■ミカンの花咲く丘■♪お猿のかごやエッサエッサエッサホイサッサお猿の駕篭屋だホイサッサ日暮れの山道細い道小田原提灯ぶら下げてソレヤットコドッコイホイサッサホーイホイホイホイサッサ■お猿のかごや■♪証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子證(しょ) 證(しょう) 證城寺 證城寺の庭はツ ツ 月夜だ 皆(みんな)出て 來い來い來いおいらの友だちゃあポンポコポンのポン負けるな負けるな和尚さんに負けるな来い来い来い来いみんな出て来い来い来い■証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子■ 「鐘の鳴る丘(とんがり帽子)」は、空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと知り合い、やがて信州の山里で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描く。これ以外は、明治、大正、昭和の戦前や戦中の歌。 何度も何度も歌いながら、跳びはねたから、今でも、それぞれの跳び方を覚えている。小さかったので意味もよく分からず、「船頭さん」の「村の渡しの船頭さんは・・・」を「村の私の・・・」と思っていた。 ゴム跳び以外にもお手玉や毬つき・・・私の子供の頃は、歌があふれていた。歌があって、運動量のあるこの子どもの遊びが、いつの間に無くなったのだろう・・・。今は残っていないのは、なぜだろう・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.26
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■手掘り日本史■■内容紹介(「BOOK」データベースより)■歴史というものは、手ざわりで感じていかなければいけないところがあるー。いまここに息づいているかのような存在感にあふれる司馬文学の登場人物。彼らはどのような思索と経験から生まれたのか。取材手法、史料との向き合い方、自身の精神風土について。創作の裏側を縦横無尽に語る。作家の肉声や書斎の風景が、いきいきと甦るかのような語り下ろしエッセイを、読みやすい大きな字でお届けする。■目次(「BOOK」データベースより)■私の歴史小説(庶民の風土/生活史への興味 ほか)/歴史のなかの日常(トシさんが歩いている/歴史を見る目 ほか)/歴史のなかの人間(見える目と見える場/義経という人気者 ほか)/日本史と日本人(日本的正義感/藩というイメージ ほか)/わが小説のはじまり●読書メモ● *私のコメント●(司馬遼太郎の)祖父は、惣八といいます。惣八の生まれたのは、播州・姫路の海岸よりにある「広」という村で・・・。(明治初年に20歳くらいだった)●今の難波、高島屋の裏側あたりですが、難波村の新川というところに居を定めて、宗右衛門町の芸者屋に餅をとどけたり、道頓堀の芝居小屋におカキをおろしたりして、わりあい繁盛していました。惣八は日露戦争の終わるころまで、チョンまげを結っていたそうです。●(略)惣八は息子に、絶対に小学校教育をつけさせない。そのころ、大阪にはまだ寺子屋があったのです。代数、英語、漢文・・・と、専門ごとにあった。町のことばでは寺屋といっていましたが、父は学齢に達すると、他の子どもたちは小学校に通っているのに、その寺屋に習いに行ったんです。*与謝野晶子幼少時代、学校に行くとき、「お寺行きましょう~」と誘われていたという。●明治になって、百姓にも姓をつくらなければならなくなって、三木、三木と言っていく。播州の人間は、三木になるわけです。自分の先祖も三木城で戦った、ということから、三木という姓になる。三木露風、三木清も、みんなそうですね私の家も三木にしょうと思ったらしいんです。が、祖父の惣八は米相場で、親類に金を借りて返さなかったり、不義理をかさねていますから、お前のところは三木にさせないぞと、宣告された。*楽天の社長は先祖が播州・三木で「三木屋」という屋号で商売をしていた。三木屋(みきや)→三木谷(みきや)→三木谷(みきたに)になったという話を聞いたことがある。*夫の母の旧姓は三木で、播州出身。●大阪の歴史的特質と言えば、日本全国のなかでここだけが封建体制をより軽く体験した、ということです。武士は、東西の町部g当社の士が管理者としているだけで、あとは町人に行政を委託していた。町は三区あって、北組、南組、天満組という、組はいまの区です。区ごとに、それぞれ町年寄が選ばれて、そこから大坂全体の総町年寄が互選で出されます。選挙権を持っているのは、自前の家屋をもつ者で、運上金を納めている海藻です。裏長屋の住人たち、八さん熊さんには選挙権がない。しかし、彼らも一生懸命働いて、表通りに出て家邸をもつことができれば、選挙権をもつことができる。士の数は、東西の町奉行所の与力・同心を合わせて二百人ぐらいですから、これが七十万の人口のなかにはいれば、ほとんど、どこにいるのかもわからない。●井伊掃部頭(かもんのかみ)と酒井雅樂頭(うたのかみ)の二軒だけが徳川初期から末期まで、大老になる資格をもちつづけている。特別な名誉と機能が与えられている。その他の家は、どんな譜代藩であっても、老中にまでしかなれない。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.24
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5月26日、■鎌倉市:鶴岡八幡宮■に行った。行く前に、「街道をゆく・三浦半島」を読んで鶴岡八幡宮についてをメモしていたので、ここに残しておく。司馬遼太郎の旅の拠点は、三浦半島の付け根部分にあたる横浜・磯子のホテル。ここから<毎日勤め人のように>半島に通い、鎌倉幕府出現の背景を考える。司馬さんは、源頼朝の挙兵成功の理由を、三浦、房総、伊豆の3半島の連動にあったと思い至る。それぞれの半島の勢力が海路を使って連携したのだ、と。大楠山の山頂から3半島の位置を改めて確認し、衣笠山では、頼朝を助けた三浦大介義明に思いを馳せる。そして、若宮大路、鶴岡八幡宮、極楽寺坂、朝比奈切通しなど、頼朝や義経、新田義貞らの足跡を辿る。半島を下り、横須賀で考えたのは、「スマートであれ」が教育方針だった旧海軍のこと。日露戦争で活躍した連合艦隊旗艦「三笠」を訪ねて、かつて出会った品のいい元海軍士官の紳士たちを思い出すのだった。●(鶴岡八幡宮を造営するにあたり)第一、宮大工がいなかった。このあたり、まだ関東の文化は、心もとなかった。頼朝が構想するような巨大構造物を建てる棟梁がいなかった。ところが、「武州(武蔵)の浅草にいます」といった者がいる。武蔵は、一様に草深かった。そういう状態を、普通名詞では「深草(ふかくさ)」という。その対語が、浅草かと思える。町屋があつまり、小規模ながら町であるというさまから、浅草が地名になったのではないか。浅草は、浅草寺の門前町である。大きな伽藍のそばには、それを修復する宮大工が住んでいるものだが、浅草にもそういう人物がいた。その匠が、いそぎ鎌倉によばれた。●若宮大路の路幅は、じつにひろい。その大路の中軸に(両側ではなく)、石塁を積みあげて、その塁上を歩行できるように造られている。段葛のながさは、五百メートルほどで、むかしはもっと長かったらしい。(略)工事するにあたって、頼朝自身、血相を変えるような勢いで現場を指揮しているのである。北条時政も土石を運んだ。(略)日本の場合、たとえば戦国時代から江戸初期にかけて、築城においては城主みずからがもっこをかつぎ、城主夫人がたきだしをした。伊予宇和島白の場合での藤堂高虎、 加賀の築城にあたっての前田利家、土佐高知城での山内一豊などそうであった。そういう先例は、ひっとすると若宮大路と段葛を工事した頼朝や時政だったのかもしれない。●「段葛」石を積んだ堤を並行して二列つくり、その二列の間に礫石や土などをいれて突きかため、細い道にしたもの。鎌倉時代、単に置き石の道とか、作道(つくりみち)」などともよばれていた。●「神のほかは、段葛を通るのは、将軍かその後の北条執権かにかぎられていました」と鶴岡八幡宮の国宝館三浦館長はいう。「街道をゆく42:三浦半島より」■動画:街道をゆく・三浦半島■■街道をゆく 北のまほろば (夏)■■街道をゆく:北のまほろば(冬)■■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■■街道をゆく7:甲賀と伊賀のみち■■街道をゆく3:肥薩のみち■■街道をゆく:湖西のみち/竹ノ内街道/葛城みち■■街道をゆく10:(羽州街道)佐渡のみち■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.23
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龍飛崎(たっぴざき)は、青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜にある津軽海峡に突き出た岬。津軽半島の最北端に位置する。津軽国定公園の一部。■青森県:竜飛岬■竜飛岬はアイヌ語のタム・パ(tam-pa 刀の上端)からの転訛(てんか)で、「突き出た地」の意味だという説があり、タムパを"龍が飛ぶ"と当て字したといわれている。表記には「竜/龍」及び「崎/埼/岬」という揺らぎがあり、竜飛埼、龍飛岬(たっぴみさき)など 竜飛岬といえば、石川さゆりのヒット曲「津軽海峡冬景色」に出てくる。♪ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと見知らぬ人が指をさす息でくもる窓のガラスふいてみたけどはるかにかすみ見えるだけさよならあなた 私は帰ります風の音が胸をゆする泣けとばかりにああ 津軽海峡 冬景色タイトルが先に決まっており、三木たかしが作曲したメロディに阿久悠が作詞をした。いわゆる、曲を先に作って歌詞を合わせる、「曲先(きょくせん)」だったのだ。その際に阿久側から「津軽海峡冬景色」のフレーズで終わるように要望があった。歌詞の内容は、東京を発って本州最北端の青森県にたどり着き、津軽海峡をこえて北海道に渡る人々を描いた叙事詩である。●源頼朝に追われた義経らは、竜飛岬の三厩(みんまや)から津軽海峡をわたろうとしたが、海が荒れて術がなく、やむなく稔侍する観音に祈願した。満願の暁、夢に白髪の翁が立ち、竜馬を三頭あたえよう、という。目がさめてみると、三頭の竜馬がつながれていた。それに乗って、供の弁慶、亀井六郎と海峡をわたったという。 たつ年ですから1■辰巳は天井■2■臥龍梅■3■龍天に昇る■4■釈迦の誕生と龍の関係■5■登竜門と鯉の滝登り■6■リュブリャナのドラゴン橋■7■竜血樹■8■戊辰戦争■9■龍笛(りゅうてき)■10■天龍寺船■10-2■画竜点睛■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.21
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●上方(かみがた)では、葬式には造花の花輪を用いず、シキミの盛大な枝葉を形づけて葬家を荘厳(しょうごん)する。●原始仏教は花が好きであった。(略)長安では、いつも手軽に花が採取できるわではない。日本もそうである。シキミをもって花に代用したのであろうか。■街道をゆく26:嵯峨散歩■シキミって、そういう歴史があったのか。私の子どもの頃には、*シキミを花枝といっていた。*シキミを養う。*シキミをシキビと言っていた。日本語ではバ行音とマ行音の交替はよく見られる現象で(たとえば「けぶり→けむり」など)、「さびしい」→「さみしい」「しきび」→「しきみ」もその一つだろう。 「バ行」→「マ行」の例「ひむがしの野にかぎろいのたつ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ」■かたぶきぬ→かたむきぬ■ 「ほっかぶり」→「ほっかむり」「ひぼ」→「ひも(紐)」。 「さぶい」→「さむい」。■こぶらがえり→こむらがえり■■こぶらがえり1■■気になる言葉:~させていただきます■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.19
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■春情蛸の足■●内容紹介●「熱、つつ、つ」。偶然たどりついた店で出会った、いとしのお好み焼き。初恋の相手に連れて行かれた理想のおでん。彼女の食べる姿に惚れたきつねうどんにたこやき。妻が味を再現できないすきやき。そして離婚相手と一緒に味わうてっちり……。読むと幸せになれる、食と恋の短編集。笑って恋して腹がすく。●目次●春情蛸の足/慕情きつねうどん/人情すきやき譚/お好み焼き無情/薄情くじら/たこやき多情/当世てっちり事情/味噌と同情●解説●「春情」、「慕情」、「人情」、「無情」、「薄情」、「多情」、「事情」、「同情」。タイトル八編に全て「情」がついている。食べ物のある所には、人間だけに許された喜怒哀楽、笑いや涙がある。「あー、美味しかった。ごちそうさまでした。」--小川糸(解説より)●読書メモ●●この小説の会話は、大阪弁。●ぐいち・・・いきちがい。*よく使う言葉。●「関東煮(かんとだき)」*最近は、おでんが主流となった。●・・・亡母の口癖で「キンキンモウモウ」・・・ギンギラギンのこと。派手な化粧やアクセサリーをしている女性に「キンキンモウモウ・・・」。●大阪弁は、「炊く」というのである。*関西は、大阪以外にもすべて「炊く」。「なすびのたいたん」、「なんきんのたいたん」・・・。●…ついで綿入れの「でんち」に仕立て・・・*袖無羽織で,〈ちゃんちゃん〉〈でんち〉〈さるこ〉などともいう。名は江戸時代,鉦を叩き飴を売り歩いた清国人の服装に由来するという。*「でんち」は初めて聞いた言葉。●・・・通俗歴史書によれば、そんな江戸で一年に一日だけ、鯨汁を食べる日があったと書いてある。なぜか12月13日の師走の煤払いのあと、鯨汁で夕飯を*したためる*習慣だったそうである。皮鯨の味噌汁でもあったのだろうか、「鯨汁食ってしまえばいとまごひ」「「鯨汁四五日鍋のやかましさ」「鯨汁椀を重ねて叱られる」*江戸の女は鯨の臭いを嫌い鍋や椀を徹底的に洗わないと気がすまなかったらしい。*したためる*食事をするの意味。●「寒いよって、このおみいで暖(ぬく)まっとくなはれ」(略)おみい、というのは雑炊の大阪弁である。*かつて岡山県でも使っていた。朝ドラで三重県の女性(設定)のセリフにもあった気がする。●小体(こてい)な店・・・こじんまりした店。●著者情報●田辺聖子(タナベセイコ)1928年大阪府生まれ。樟陰女子専門学校国文科卒。’64年『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』で第50回芥川賞、’87年『花衣ぬぐやまつわる…』で第26回女流文学賞、’93年『ひねくれ一茶』で第27回吉川英治文学賞、’94年第42回菊池寛賞’98年『道頓堀の雨に別れて以来なり』で第50回読売文学賞、第26回泉鏡花文学賞、第3回井原西鶴賞を受賞。’95年紫綬褒章、2000年文化功労者に選ばれ、’08年には文化勲章を受章。小説をはじめ古典や評伝、エッセイ等著書多数。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.18
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■ニューヨーク散歩■司馬遼太郎は、タクシーで、かつてインディアンが住んでいたマンハッタン島北端にあるインウッド・ヒルズを訪ねた。そこで貝塚を目にし、翌日アメリカン・インディアン博物館とセントラル・パークを訪ねる。ブルックリン区では、19世紀にブルックリン橋をつくったローブリング親子の命がけの大事業を思いながら橋をわたり、この土地を舞台にした映画『ソフィーの選択』のなかのブルックリン橋のシーンを思い出す。連想は写真家マーガレット・バーク=ホワイトとアメリカの機械文明にまで広がってゆく。続いてプロスペクト・パーク、ウィリアムズバーグのユダヤ人居住区へ向かった司馬さんは、正統派のユダヤ人について考える。さらにグリーンウッド共同墓地では、幕末の日本に派遣された米国公使タウンゼント・ハリスの墓を探しながら、その業績の大きさを思う。日本学が盛んなコロンビア大学ではドナルド・キーン教授の定年退官を祝う晩餐会に出席し、自身も「日本仏教小論」の講演を行った。また、この大学の日本学の祖、角田柳作先生の生涯に思いをはせる。最後に司馬さんは、コニー・アイランドとブライトン・ビーチを訪れ、人間の思想やアイデンティティーについて考える。同国の歴史を変えた「9・11」に先立つこと約9年の旅だった。■動画:ニューヨーク散歩 (司馬遼太郎「街道をゆく」)■■目次(「BOOK」データベースより)■マンハッタン考古学/平川英二氏の二十二年/ブルックリン橋/橋をわたりつつ/ウィリアムズバーグの街角/ハリスの墓/コロンビア大学/ドナルド・キーン教授/角田柳作先生/御伽草子/ハドソン川のほとり/学風/日本語/奈良絵本/ホテルと漱石山房/さまざまな人達■著者情報(「BOOK」データベースより)■司馬遼太郎(シバリョウタロウ)1923年、大阪府生まれ。大阪外事専門学校(現・大阪大学外国語学部)蒙古科卒業。60年、『梟の城』で直木賞受賞。75年、芸術院恩賜賞受賞。93年、文化勲章受章。96年、死去。72歳。主な作品に『国盗り物語』(菊池寛賞)、『世に棲む日日』(吉川英治文学賞)、『ひとびとの跫音』(読売文学賞)、『韃靼疾風録』(大佛次郎賞)などがある。「街道をゆく」を読んでいる。沢山あるので、行ったところから読んでいる。NYには、81年(?)、95年(?)、2003年~2004年の一週間(年末年始)の3回だ。81年は、自由の女神も、混んでいなくて、すいすい登れた。95年は、檄込み。2003年に至っては、9.11という大きな事件の後なので、登れなかった。●読書メモ●●両側を川にはさまれて都心を形成しているという点ではパリのシテ島や大阪の中之島や堂島に似ているが、それらが川の中州であるのに対して、こちらはハンマーで叩いても容易に割れそうにない岩盤でできているという点がちがう。マンハッタンとはインディアン語だそうである。「丘からなる島」という意味だという。●故ジョン・スタインベックは「アメリカとアメリカ人」のなかで、新規にやってきた移民(民族)がきらわれ者の役をひきうける、といった。たとえばアイルランド人がきらわれていたが、イタリア人がやってくると緩和された。●(中国の殷が)ほろんだのは、紀元前1050年ぐらいらしい。「殷」というのはあとにかわった周王朝のひとびとがそうよんだので、殷人たちは、自分の王朝や「民族」のことを「商(しょう)」とよんでいた。「商」という文字は、地形からきている。高台のことである。とくに「平原のなかに隆起するあかるい高地」という意味で、げんに殷の時代、ひとびとは高台にしゅう落をつくる慣わしをもっていた。後世の商売の商という意味はなかった。(略)かれらの一部が、ジプシー化し、行商をしたから、商うひとたちのことを、世間では「商人」とよぶようになった。●それも、古い江戸前の発音が舌に残っている。たとえば私どもは、手拭をテヌグイを仮名表記どうりに野暮ったく発音するが、小林さんは、「テノゴイ」だった。(略)お汁粉→オショロコ*私もこんな言葉を老人から聞いたことがある。狸をタノキうさぎをオサギむじなをウジナ●途中、足もとが悪いために袴のももだちをとった。■YouTube:股立をとるとは■●黒人がアメリカ文化にジャズ音楽を加えたように、アイリッシュは(略)アイルランドの土俗のハロウィーンという子どもの祭を持ちこみ、やがてアメリカの年中行事のひとつになった。●枕カバーを袋にして家々をまわり、袋がいっぱいになるまでキャンデイをあつめてきて、宝物のように大切に一年じゅう蓄えておくのです。 この取材に同行した安野光雅の本も読んでみたい。■街道をゆく 北のまほろば (夏)■■街道をゆく:北のまほろば(冬)■■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■■街道をゆく7:甲賀と伊賀のみち■■街道をゆく3:肥薩のみち■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.16
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「宮参り」とは赤ちゃんが無事生まれた報告と、今後の健やかな成長とご加護をその土地の氏神様に祈る行事。関西では、男子赤子の額に「大」、女子赤子の額に「小」の文字を赤い色で書く風習がある。大阪で暮らすようになってから知ったことだ。なぜ、このように「大」の文字を書くのかを何度か調べたが、納得いく答えがなかった。ところが、先日、「清張さんと司馬さん」という本を読んだとき、はたと気が付いた。■古代史家としての清張さん■新説には、たとえば「男子は大小と無く皆 鯨面文身(げいめんぶんしん)す」と「魏志」にあります。従来の説では、「大小」を大人も子供も顔や身体にイレズミをする、ということでした。清張さんは大笑いするのです。どんな未開社会だって子供にイレズミをするところがあるものか。鯨面文身は、成人になったしるしに決まっている。ここは「大人も下戸も」と解釈すべきなのである。上層の人もイレズミをしている。ただし、その紋様には尊卑貴賤の区別はあったであろうが、というわけです。「鯨面」とは顔面のタトゥー、「文身」は身体のタトゥーを意味する。 わかりやすくいうと「魏志」にある「男子は大小と無く皆 鯨面文身(げいめんぶんしん)す」の解釈。「大」も「小」も顔や身体にイレズミをしている。この「大」は、身分の高いもの、「小」は、身分の低い者という意味で、決して、大人も子供のではないと清張は言った。おおまかにいうとそんな感じ。 そこで私は、ピンときた!!お宮参りの際に、赤子に「大」や「小」を書く理由を。今と違って昔は、乳児死亡率の高かった時代の宮参りの際、「この子は、もう、大きくなっています。ほら、額に「大」の字があるでしょう。だから乳児ではありません。ですから、神様、この子の命は、とらないで下さい」ということで、額に大人の印「大」を書いたのではないだろうか・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.14
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■侍タイムスリッパー■それがし、「斬られ役」にござる。時は幕末、京の夜。会津藩士高坂新左衛門は暗闇に身を潜めていた。「長州藩士を討て」と家老じきじきの密命である。名乗り合い両者が刃を交えた刹那、落雷が轟いた。やがて眼を覚ますと、そこは現代の時代劇撮影所。新左衛門は行く先々で騒ぎを起こしながら、守ろうとした江戸幕府がとうの昔に滅んだと知り愕然となる。一度は死を覚悟したものの心優しい人々に助けられ少しずつ元気を取り戻していく。やがて「我が身を立てられるのはこれのみ」と刀を握り締め、新左衛門は磨き上げた剣の腕だけを頼りに「斬られ役」として生きていくため撮影所の門を叩くのであった。「自主映画で時代劇を撮る」と言う無謀。コロナ下、資金集めもままならず諦めかけた監督に、「脚本がオモロいから、なんとかしてやりたい」と救いの手を差し伸べたのは他ならぬ東映京都撮影所だった。10名たらずの自主映画のロケ隊が時代劇の本家、東映京都で撮影を敢行する前代未聞の事態。半年に及ぶすったもんだの製作期間を経てなんとか映画は完成。2023年10月京都国際映画祭で初披露された際、客席からの大きな笑い声、エンドロールでの自然発生的な万雷の拍手に関係者は胸を撫でおろしたのであった。初号完成時の監督の銀行預貯金は7000円と少し。「地獄を見た」と語った。★映画メモ★★面白かった。チラシを持っていなかったので、気が付くのが遅くなってしまったけれど、見られてよかった。チラシがないのは、自主映画で製作費が限られていて、宣伝に回すお金がなかったからか・・・。★経費節減のため、出演者は、知らない人ばかりだったけれど、内容がいいので、観客も沢山来ていて、関係者ではないけれど、ホッとしている。★幕末のシーンで、斬りあいをしている最中に雷が・・・。そして現代に・・・。時代劇の撮影所にワープする。時代劇の撮影所というところがミソ!!★雷がなってワープする時、「侍タイムスリッパー」の文字が効果的に表れる。よく見ると、「侍」の点の部分が刀の鍔(つば)になっているのを発見した!!★映画のジャンルは、コメディ、 時代劇、 SF。★ワープした時、雷に撃たれたのは、一人ではなかった・・・( ̄ー ̄)ニヤリ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.12
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辰年ですからと辰=龍にちなんだことを毎月メモしている。●画龍点睛(がりょうてんせい)●意味:最後に加える重要な仕上げ。 この四字熟語は有名な故事がありますよね。多分、学校でも習った気がする。 中国六朝時代に安楽寺に四頭の龍の絵を描いた人がいたんですが、その人は龍の瞳を描かなかったんですよね。どうしてかというと龍の絵に瞳を描き込むと龍が飛んでいってしまうと。でも世間の人は信じなかったので、二頭にの龍にしぶしぶ瞳を入れたら実際に龍が飛んでいってしまいます。そして瞳を描かなかった残りの二頭はそのままだった。 世間一般的には「画竜点睛を欠く」という言葉の方が知られてる気がしますが、ようは「大事な仕上げが出来てない」って意味の言葉ですね。 たつ年ですから1■辰巳は天井■2■臥龍梅■3■龍天に昇る■4■釈迦の誕生と龍の関係■5■登竜門と鯉の滝登り■6■リュブリャナのドラゴン橋■7■竜血樹■8■戊辰戦争■9■龍笛(りゅうてき)■10■天龍寺船■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.11
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■ロール・ザ・ドラム!■鳴り響け!1970年、スイス・ヴァレー州の小さな村、モンシュ。ワイン醸造家のアロイスは地元のブラスバンドの指揮者で、村で開かれる音楽祭のオーディション通過を目指して日々練習に励んでいる。しかし、アロイスの指導力を疑問視する楽団のメンバーが、村出身でプロの音楽家として活躍するピエールをこっそりパリから呼び寄せてしまう!伝統を重んじるアロイスと違い、才能ある女性や移民を次々と楽団のメンバーに加えるピエール。それぞれを指揮者に立てた2つの楽団が出来上がり、楽団の対立は村全体を巻き込んだ大騒動へと発展していく…。 監督は、スイスで多くの映画やTVシリーズを手掛けているフランソワ=クリストフ・マルザール。ヴァレー州で実際にあった出来事をベースに、伝統と革新がぶつかり合う地元のブラスバンドの対立を、ユーモアとウィットに満ちたタッチで描いた。スイスで最も権威あるスイス映画賞の撮影部門で審査員特別賞を受賞したほか、アロイスの妻マリー=テレーズ役のザビーネ・ティモテオは最優秀女優賞にノミネートされた。★登場人物★★アロイスワイン醸造家で、地元のブラスバンドの指揮者。★ピエール村出身のプロの音楽家。この二人と家族を巡る作品。★映画メモ★★ピエールは、オートバイに乗って登場する。オートバイにサイドカー、サイドカーに犬が乗っている。「サイドカーに犬」★映画は1970年。この時代って、50年以上前になるんだな・・・。だから、今と比べるといろいろ違いがある。★家の中に陶器のストーブのようなものがあった。■ニュージーランドのオアマルの古い宿■に泊まった時にもあった。★女性の参政権が話題になっていた。調べてみたら、スイスで国政選挙に女性が参加できるようになったのは1971年のことだそうだ。国政では1971年、地方を含めた全土で実現したのは何と1990年のことだった。★スイスでは各市町村にブラスバンドのグループがあるほど、ブラスバンドにかける人々の熱い思いは格別なのだそうだ。★主人公がワイン生産者。ブドウの収穫を手伝うために、イタリア移民が働いていた。イタリアから国境を越えて働きに来るのかと思いきや、移民だという。★映画はフランス語だったが、たまにイタリア語も。スイスの公用語は、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロマンシュ語の4つが公用語。サンモリッツあたりは、イタリアに近く、公用語はイタリア語。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.09
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■街道をゆく10:佐渡のみち■司馬さん一行は、新潟空港経由、プロペラ機で佐渡に入った。両津の佐渡空港で地元の郷土史家の山本修之助氏らの出迎えを受け、熱串彦神社に寄る。恋ケ浦で宿泊、翌日、旧本陣であった山本家で資料を見せてもらった後、南の小木に向かう。蓮華峰寺では、廉直な役人が追いつめられて立てこもった「小比叡騒動」に思いを馳せ、小木港では海に出て、佐渡の玄関口だった近世の景観を想像した。宿を取った真野の恋ケ浦では、当時小説を準備していた司馬凌海の取材をした。翌日は相川に向かい、金山に送り込まれた無宿人たちについて思いを巡らす。道中、金山開発に功績があった大久保長安や、幕末の佐渡奉行・川路聖謨についても考える。●目次(「BOOK」データベースより)●佐渡のみち(王朝人と佐渡/大佐渡・小佐渡/あつくしの神/真野の海へ/倉谷の大わらじ ほか)●内容紹介(「BOOK」データベースより)●「佐渡のみち」では、江戸初期の佐渡でおきた「小比叡事件」の主人公、辻藤左衛門が登場する。歴史的にはそれほど有名ではないが、いじめぬかれ、最期は名誉を賭けて戦った男への深い同情を感じさせる。●(新潟空港から佐渡まで)プロペラ機で20分。●来いと言(ゆ)たとて行かりょか佐渡へ佐渡は四十九里波の上という唄がある。●鶯や十戸の村の能舞台 大町桂月十戸ほどの小さな村でも能舞台をもっているということらしい。●「ここは倉谷の集落の入り口ですが、入り口の電柱にこういう大わらじを掛けておくと、悪い者が怖れてむらに入ってきません」「道切(みちきり)というあれでしょうか」(略)村の入り口にある樹木などに注連縄を張り、その下に巨大なわらじをぶらさげて、・・・この村には、こんな大わらじを穿く大男の荒神がいるぞ。ということを誇示しておく呪術なのである。●「流(る)」というのは、律令の刑罰の一つで、奈良朝以来、明治初年まで用いられた。死罪に次ぐ重罪である。ただし流してしまえばその地で自由に暮らせたらしい。江戸幕府では、流という言葉はあまり使わず、公用語は遠島であった。■街道をゆく 北のまほろば (夏)■■街道をゆく:北のまほろば(冬)■■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■■街道をゆく7:甲賀と伊賀のみち■■街道をゆく3:肥薩のみち■■湖西のみち/竹ノ内街道/葛城みち■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.07
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自然を残すというのは、「文明」が持ちはじめたあたらしい意志である。●(マンハッタンの最北は)三方が河水にかこまれている。ニューヨーク湾の満潮のときは、海同然になるにちがいなかった。「ようこそ、インウッド・ヒルズに」という、ニューヨーク市がたてた立札が路傍にあった。このあたりの地名がインウッドで、起伏する丘がことごとく自然のままの公園になっていた。自然を残すというのは、「文明」が持ちはじめたあたらしい意志である。「街道をゆく39 ニューヨーク散歩」司馬遼太郎 ●インウッド・ヒルズ●マンハッタン北端に広がる公園。自然がよく残され、島の岩盤が露出しているところなどがある。かつてインディアンが住んでいた。 司馬遼太郎が、ニューヨークに行き、マンハッタン島の最北の部分に立った時の文章だ。日本では、「開発」という名もと、自然が破壊されるのをよく聞く。■神宮外苑の再開発という名の自然破壊■市民から反対の声が上がっているのに、無視をして、3000本もの樹木を伐採しようとしている東京都。(2023年)そんな東京・明治神宮外苑の再開発に対して「遺産危機警告(ヘリテージアラート)」を出したイコモスの専門家らが9月15日、記者会見を開き問題点を語った。公園に高層ビルを建てるという計画=「開発」=進歩的という日本の常識は、世界から見れば大きく間違った非常識なことだといえる。 日本の「開発」好きな首長たちよ、自然を残すというのは、「文明」が持ちはじめたあたらしい意志であることがわからないのか!!■神宮外苑1000本の樹木を切らないで~再開発計画は見直しを!■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.05
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■街道をゆく(1):湖西のみち■『街道をゆく』の旅で司馬遼太郎が最初に訪れたのは「楽浪の志賀」と呼ばれた湖西であった。日本人の祖形を求める司馬さんは、車で湖西のみちを北上しながら、「楽浪」は朝鮮半島(新羅)の楽浪と関係があるのか、繋がりの痕跡をさがす。古い漁港の北小松は「高麗津」、近江最古の神社である白鬚神社は「新羅神社」ではないか。安曇川町の集落では、水辺を好んで居住してきた安曇族に思いをはせる。朽木谷へ入ると、この長大な渓谷を退却した織田信長の凄みに心を奪われた。信長を助けた松永弾正と朽木元綱にも話は及ぶ。朽木氏の館があった野尻、さらに市場という集落を抜け、岩瀬の曹洞宗興聖寺、境内に残る足利義晴の庭園跡を再訪した司馬さんは、かつて見た情景を語る。●日本には小松という地名が無数にあるが、周防大島の漁港小松が高麗津であったように、ここもあるいは高麗津だったのかもしれない。●水走りの傾斜面に田畑がひろがっているのだが、ところがこの付近の川は目に見えない。この村のなかの溝をのぞいてはみな暗渠になっているのである。この地方のことばではこの田園の暗渠をショウズヌキという。●白鬚神社●近江最古の神社で、祭神は猿田彦。琵琶湖中に立つ大鳥居が印象的。本殿は国の重要文化財。●(略)最近、白髭は新羅のことだという説もあった・・・(略)。●河海に面した砂地のことを、「スカ」と古くはよばれた。後世、須賀の字をあてたりする。蜂須賀、横須賀などの須賀がその好例だが、それとシカ(志賀)は関係があるのか。●朽木渓谷●越前朝倉攻めの折、織田信長が京への退却の途についた山道「鯖街道」が通る。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■街道をゆく(1):竹ノ内街道■古代の倭王権についての興味を胸に、若き日本語学者、ロジャ・メイチン君を道連れにして石上神宮を訪れた。うっそうとした「布留の森」を歩き、崇神天皇の時代に思いを馳せる。次に、山辺道に沿って南下して大神神社でも森を歩き、その御神体である三輪山と古代王権について考えた。大阪への帰り道は、そこから奈良盆地を横断し竹内峠を越えることにした。叔父のことなどを思い出しながら、司馬さんの母方の実家があった竹内集落を抜けたところで車が故障し、止まってしまう。筆はそこで留められている。■街道をゆく(1):葛城みち■葛城地方の古代に思いを馳せながら葛城古道を南下した。笛吹部の先祖・笛吹連を祀る笛吹神社から、葛城氏の先祖・一言主神を祀る一言主神社へと進みながら、一言主神と雄略天皇、鴨氏の一族とされる役行者(役小角)などを思い起こし、葛城の古代氏族と倭王権の関係を考える。さらに鴨氏の先祖を祀る高鴨神社へ至り、その周辺の景観は古代から変わっていないのではないかと思う。●大和石上(いそのかみ)へ●明治になって皇居が東京にうつるにおよび、いまでいう皇居警察が諸門を警備したが、最初のうちのの採用資格は、薩長土(薩摩、長州、土佐)の三藩の出身者とこの戸津川出身者にかぎるとされていた。●葛城坐一言主神社●延喜式に載る古社。「葛城の神」一言主神を祀る。「一言さん」と呼ばれ広く親しまれている。奈良県御所市森脇432■ひとこと はがきの名文コンクール■■動画:街道をゆく:竹内街道・葛城みち(司馬遼太郎「街道をゆく」)■■街道をゆく 北のまほろば (夏)■■街道をゆく:北のまほろば(冬)■■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■■街道をゆく7:甲賀と伊賀のみち■■街道をゆく3:肥薩のみち■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.03
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辰年ですからと、毎月、辰=龍にまつわる話を書いている。●天龍寺船とは● 天竜寺造営の費用を調達するため元(げん)に派遣された船。1341年(興国2・暦応4)12月、足利直義(あしかがただよし)は京都・天竜寺の夢窓疎石(むそうそせき)に対し、二隻の貿易船の派遣を免許し、翌年の秋に出航できるよう準備を進めさせた。直義はそのうちまず一隻を渡航させることにし、疎石は博多商人・至本を綱司に推挙した。至本は貿易の利益のいかんにかかわらず、帰国後に5000貫文を寺に納めることを約束した。他方幕府はこの船を当時瀬戸内海地方に横行していた海賊などから保護する責任を負った。 角倉家と嵯峨の天龍寺との縁はふかい。天龍寺の僧のかかりつけの医者(角倉家の家業のひとつが医者)だったという時代もある。(略)(保頭川の水運をひらき、高瀬川を開削した)角倉了以の父親も天龍寺船に乗って明に行ったことがある。天龍寺船はいわば一航海きりの会社のようなものだから、角倉一族は当然、資本も出し、利潤の配分にもあずかったであろう(略)「街道をゆく26:嵯峨散歩」 角倉一族は、民間人ではあるけれど、大きな視点を持つことが出来たのは、こういう国家的な事業にも関わっていたからだろう。 たつ年ですから1■辰巳は天井■2■臥龍梅■3■龍天に昇る■4■釈迦の誕生と龍の関係■5■登竜門と鯉の滝登り■6■リュブリャナのドラゴン橋■7■竜血樹■8■戊辰戦争■9■龍笛(りゅうてき)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.01
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