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■4月18日(木)この日は帰国するが、午前中は、アテネ市内を観光した。アクロポリスの丘の後、バスで移動。バスの窓からも古代の建物の遺跡が見えた。道は相変わらず混んでいる。アテネは、坂道があるからか自転車ではなく、オートバイが多かった。使い込んだオートバイを取られないように、厳重に繋いである。■パナシナイコスタジアムは■ギリシャのアテネにある競技場。1896年の第1回近代オリンピックが初めて開かれた場所でもある。古代オリンピックにならい、トラック(1周330m)の直線が極端に長く、コーナーはヘアピンカーブ。総大理石造りのスタンドは4~5万人収容。 2004年の第28回大会では、男女マラソンのゴール地点とアーチェリーの会場に使われた。▲周りには、古代オリンピックを思わす像が・・・。▼バスの中から、美しい建物が見えた。高いところにある二つの像のうち、左が、アテネの守り神、アテーナの像。この他、丘の上からみたアクロポリスの丘。丘に登る途中には、アカンサスがたくさん生えていた。アザミに似た形の葉は古代ギリシア以来、建築物や内装などの装飾のモチーフとされる。特にギリシア建築のオーダーの一種、コリント式オーダーはアカンサスを意匠化した柱頭を特色としている。ギリシアの国花。 古代ギリシア文化がこの装飾の起源であり、渦を巻く葉の先端はローマ人によって磨きをかけられた。 アカンサスのデザインの人気は、ビザンティン、ロマネスク、ゴシック建築の時期まで続き、ルネサンス期に復興、現在まで支持され続けている。 ■中ノ島ダイビルの柱を飾るアカンサス模様■ ウィリアム・モリスも壁紙にアカンサスをデザインしている。アテネ市内でランチ。今回の旅行最後の食事。イエミスタ(トマトのライス詰め)。この後、帰国の途に。エーゲ海イカロスのごと飛び立ちぬ はるな■ギリシャ神話イカロス■イーカロスは、ギリシア神話に登場する人物の1人である。蝋で固めた翼によって自由自在に飛翔する能力を得るが、太陽に接近し過ぎたことで蝋が溶けて翼がなくなり、墜落して死を迎えた。イーカロスの物語は人間の傲慢さやテクノロジーを批判する神話として有名である。イーカロスの神話は、テクノロジー批判神話の一種であり、人間の傲慢さが自らの破滅を導くという戒めの意味もあった。 しかし、楽曲「勇気一つを友にして」のように、本来の教訓とは逆に、自らの手で翼を作り飛び立ったイーカロスを勇気の象徴として表している例もある。 ■ホテルの前にあったイカロス像■■楽曲「勇気一つを友にして」■昔ギリシャのイカロスはロウでかためた鳥の羽根(はね)両手に持って飛びたった雲より高くまだ遠く勇気一つを友にして赤く燃(も)えたつ太陽にロウでかためた鳥の羽根みるみるとけて舞い散った翼(つばさ)奪(うば)われイカロスは墜(お)ちて生命(いのち)を失った(▲サントリーニ島の夕日)期待以上に楽しめたギリシャ。行きは、ドバイまで10時間30分。待ち時間5時間。ドバイからアテネまで5時間10分。帰りはアテネ~ドバイ 4時間30分ドバイ~大阪 9時間15分。 お土産は、ドライトマト。4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館 世界遺産:デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス4月14日(日)世界遺産:メティオラ修道院4月15日(月)クレタ島4月16日(火)サントリーニ島。4月17日(水)サントリーニ島からアテネに4月18日(木)アテネ市内観光。帰国。4月19日(金)関空着・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.27
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■4月18日(木)この日、帰国するが午前中は、ギリシャ人のガイド氏の日本語でアテネ市内を観光した。まず行ったのが、アクロポリスの丘。■アクロポリスの丘■紀元前8世紀ごろのギリシアには多くのポリスと呼ばれる都市国家が成立した。アクロポリスとは、このポリスの中心部に作られた外敵を見張ることのできる丘のことで、「高い丘の上の都市」という意味。だから、ここは、本当のいい方は「アテネのアクロポリス」。アテネのアクロポリスは海抜150mの岩山の上にそびえる守護神をまつる聖域として、また市民が立てこもる要塞として2000年以上にわたってアテネの街を見守ってきました。◎足場が悪いので雨の日は、危険だから観光できないそうだ。■パルテノン神殿■アクロポリスの中心となるのは、アテネの守護神・女神アテーナをまつるパルテノン神殿です。この神殿は紀元前488年にペルシャとのマラトンの戦いに勝ったのを記念して作り始めましたが、紀元前480年にペルシャにより破壊されてしまいました。ドーリア式の神殿は、合計46本の立派な円柱が支えており、その表面に施された装飾彫刻には完成までに15年もの歳月を要した芸術作品だったと言われています。残念ながら現在残るのはそのごく一部。レリーフや破風(※)の像の一部は、アクロポリス博物館や大英博物館に保存されています。◎女神アテーナのシンボルは、オリーブの木。アクロポリスの丘の周りにいっぱいあった。◎ユネスコのシンボルマークは、パルテノン神殿を図案化したものです。重厚なパルテノン神殿に対して北側には6体の女神像が屋根を支えるカリアティディス柱廊がイオニア様式の気品と優雅さを感じさせるエレクティオン神殿を見ることができます。こちらはレプリカですが、かつての様子を忠実に伝えてくれています。オリジナルのうち4体は仔牛を担ぐ男像などとともにアクロポリス博物館に収蔵されており、1体は大英博物館に収蔵されています。アテナ・ニケ神殿は他の壮大な遺跡と比べると小さな神殿ですが、真っ白な神殿は鳥かごのような可憐さを感じさせてくれ、青空によく映えています。神殿には勝利の女神ニケが祀られており紀元前424年に建設されました。現在の神殿は20世紀に再建されたもので、以前の神殿は1687年のヴェネツィア郡との戦いでオスマン帝国が防衛施設を建設するために破壊してしまったと言われています。 女神ニケは、翼のある勝利の女神。ギリシャのサモトラケ島で発見され、ルーブル美術館にある「サモトラケのニケ」が有名。 スポーツメーカーのNIKE(ナイキ)は、英語読みでニケ。シンボルマークは、翼。アクロポリスの麓ではギリシア最古の大型野外劇場であるディオニソス劇場も見ることができます。石造りの劇場は紀元前325年に建設され、14000人〜17000人もの観客を収容することが可能でした。その後はローマ式の劇場に改築されています。さすが、世界有数の観光地。係りの人が「止まらないでください」と叫び続けていた。ガイド氏は、冗談が上手で、パルテノン神殿の大事な宝物をイギリスやフランスが持って行ったということを「大英博物館に見に行ってください」と冗談半分、皮肉半分に言っていた。4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館 世界遺産:デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス4月14日(日)世界遺産:メティオラ修道院4月15日(月)クレタ島4月16日(火)サントリーニ島。4月17日(水)サントリーニ島からアテネに・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.25
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■4月17日(水)この日、朝9時過ぎに、バスに乗って、島の真ん中あたりにあるフィラという町に行った。(▲バスの中から見た並木道の木が白く塗られているのは、防虫のためだとか。)公共バス(一人、1.8ユーロ)で、一駅のバス停で降りて、街中散策。フィラは海抜300mで断崖の上に立つ島の中心の町です。バス交通網はすべてフィラが起点となっていて、港や空港からのバスもこのフィラに着きますので、ほとんどの旅行者は、この町を訪れることになります。テラスからエーゲ海の素晴らしい風景が見えるようになっている真っ白な可愛いホテルやペンション、ブティック、ジュエリーショップ、ギャラリー、レストラン、カフェ、お土産店などが並んでいて、いつもこの辺りは人々で賑わっています。眼下に広がる青い海と白い家並みが見事に調和しています。船から来て、この急峻な崖を昇るのは、ゴンドラとロバ・・・。かわいそう・・・。サントリーニ島にはギリシャ正教の教会がたくさんありますが、その総本山がフィラの南端にある大聖堂です。広いアーチ型の回廊と鐘楼に特徴があります。フィラには映画館もある。▲博物館もある。 ■亥年ですから??■イノシシも。サントリーニ島にイノシシがいたのか?この海は、大昔の火山の噴火で出来た。■この海に落ち込んだ巨大なクレーターができたのは、紀元前1600年代。■ここで未曾有の火山大爆発があり、島の中央部分が吹き飛んでしまったのです。その時、島に人がいたとしても助かったものは誰もいなかったでしょう。この時の衝撃は広く地中海世界に影響し、人々の間で語り継がれたはずです。そしてこのサントリーニの火山の爆発が、アトランティス伝説の元になったのではないかという説があるのです。アトランティスは、古代ギリシャの哲学者プラトンが記述した伝説の大陸です。ここのホテルにも「アトランティス」という名前が・・・。ランチは海の見えるお店。ランチ後にも町なかを歩く。時間があったので、みんなは、お土産に皿やスカーフなどを買っていた。お土産は、食べ物と決めている私は、スーパーで、ドライトマトを見つけて買った。14:40集合。帰りも、公共バスで、ホテルに戻る。町の景色。(▲細い路地)(▲一番上の通りには、時々、門のようなものがあって、カフェやレストランの入り口だった。)(▲通りも白と黒の石で美しく模様が描かれていた。▼)▲所々に、「アート」が▼▲ギョギョ!!雨量が少ないからか、サボテン系の植え込みを見かけた。道の端っこに、イチジクが生えていた。ど根性、イチジク!!サントリーニ島から飛行機で45分。アテネに。ホテルで夕食。STANLEY(スタンレー ホテル)4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館 世界遺産:デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス4月14日(日)世界遺産:メティオラ修道院4月15日(月)クレタ島4月16日(火)サントリーニ島。イアへ夕日。4月17日(水)サントリーニ島・フィラ。飛行機でアテネに。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.24
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■4月15日(月)島の北に位置するサントリーニ島のイアは、夕日が有名。サントリーニ島のパンフレットやポスター、写真集などの多くの写真の撮影地となっているのがイアの町。 イアの町から見る伝統的なキクラデス建築の白い家々。青いドームの教会が印象的な風景が広がる。イアの町で有名なのが夕日の美しい絶景スポット。エーゲ海に沈む夕日と薄暗くなったイアの街並みのコントラストは素晴らしい。ただし、あまりに有名で夕日の時間になると身動きができなくなるほど混み合うため、早めに場所を確保することをおすすめする。イアの夕日を見るには、この建物のある広場を目指しましょう!「Ekklisia Agios Onoufrios」と呼ばれる教会が目印になっていて、ここで写真を撮ったり、夕日を見た後の集合場所になっている。イアの町は、多くの観光客が美しい景観を楽しみに訪れるので、カフェやレストラン、ギフトショップなど軒をを連ね賑やかな街になっています。家々が崖にへばりつくように建てられており、屋根の上が道になっていたりしてわかりにくい。夕日を見に行く前に、夕食。これも、オプショナルとして、ツアーと別料金で日本で支払い済。シーフードが今回も食べきれない。エビなんか、お正月でもこんなに食べない・・・。もったいない・・・。旅行中は、財布と体と環境に悪い食事だ。今回の旅行で、オプショナルツアーとして、「夕日のまち・イアでのサンセット鑑賞」というのがあって参加した。しかし、なんとも解せないのだ。このサントリーニ島の一番の売りは、「イアの夕日」。みんなが、見たい、見るべき所がオプショナル・ツアーって、おかしいのでは・・・。▼日が落ちる前のイアの町は、燃えるようだった。▼スフィンクスも見る夕焼け。4月も半ばだというのに、この日は寒くて、ダウンジャケットを着ていてもふるえた。アルバトロス4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館 世界遺産:デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス4月14日(日)世界遺産:メティオラ修道院4月15日(日)クレタ島へ入港。遺跡見る。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.23
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■4月16日(火)遺跡を見た後、食事をするために行ったのは、風車を利用したレストラン。サントリーニ島では、風車があるのは、知っていたが、ランチのレストランが風車を利用したものとは知らなかった。レストランの紙ナプキンにも風車が!ツアーのランチは、去年行った■クロアチア・スロベニア■でも豪華だったが、今回も豪華で、食べきれない。もったいない!!ランチの後、海辺に行った。この辺りの浜辺が黒いのは、火山の影響。時間があったので、海岸近くの町を散歩していたら、籠をいっぱい積んで売りに行く人を発見。顔の色が黒かったので、難民なのか・・・。▲映画館があるらしい。映画館、見つけた!!小さな島なのに、映画館があるってびっくり。野外で見る映画もあるらしい。早めにホテルに入って休憩するのは、この日の夕方から、イアという町に夕日を見に行くから。ベッドで休憩したり、水を買いにスーパーに行ったりして、夕方を待つ。4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館 世界遺産:デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス4月14日(日)世界遺産:メティオラ修道院4月15日(月)クレタ島・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.20
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■4月16日(火)クレタ島の港から高速ジェット船でサントリーニ島に向かう。スーツケースを預け、船室へ。(▲クレタ島)約2時間弱の船旅。天候は回復したが、空気は冷たく、風も強かった。ギリシャは、暑いだろうと半袖を持ってきたが、一度も着る機会がなし。10:45サントリーニ島の港に着く。サントリーニ島 (もしくは ティーラ島)は、エーゲ海のキクラデス諸島南部に位置するギリシャ領の島。かつて大爆発を起こした火山が形成したカルデラ地形(サントリーニ・カルデラ)の一部で、その外輪山にあたる。「サントリーニ島」の名はカルデラ全体、すなわち本島を含めた5つの島々(サントリーニ諸島)の総称としても用いられる。 カルデラ湾を望む断崖の上に白壁の家々が密集する景観でも知られており、エーゲ海の著名な観光地の1つである。一方で、サントリーニ・カルデラ内では現在も活な火山活動がある。港に待っていたバスに乗り込み、出発。バスの窓から広がるのは、砂漠のような土地。サントリーニ島は雨の量が少なく日差しが強い。ここで育つブドウは、降雨では必要な水分を確保できず、海風に含まれる湿気を頼りに育っているとか。島の家が白いのは、強すぎる日差しをはね返すため。アクロティリ遺跡をガイド付きで見学。▲この遺跡は、建物で囲まれているので、天候に左右される事なく見学が可能。▼(▲遺跡の模型)アクロティリ遺跡は、大噴火によって3500年前に突然消えた町の遺構。同じく火山の爆発で火山灰に埋もれ一夜にして無くなったイタリアのポンペイに比べられ、「エーゲ海のポンペイ」と言われている。アクロティリ遺跡は、3500年前のもの。ポンペイは、2000年弱。その差、1500年というから、この遺跡がいかに古いかわかる。ちなみに、日本の邪馬台国は1800年位前だそうだ。もうひとつのポンペイとの違いがある。それは、ポンペイでは、多くの人が亡くなったこと。それが、ここアクロティリでは、亡くなった形跡がない。地震などの予兆があって、事前に避難できる余裕があったのではないかと推測される。この遺跡は、まだ10%程しか発掘が進んでいない。このような遺跡から、サントリーニ島とクレタ島を中心とした大陸、アトランティス大陸があったとする説もある。■エーゲ海文明■4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館 世界遺産:デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス4月14日(日)世界遺産:メティオラ修道院・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.17
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■4月15日(月)アテネから船に乗って、船で一泊、クレタ島イラクリオン港に着いた。船中で簡単な朝ごはん。クレタ島は、ギリシャ共和国南方の地中海に浮かぶ同国最大の島。古代ミノア文明が栄えた土地で、クノッソス宮殿をはじめとする多くの遺跡を持つ。また、温暖な気候や自然景観から地中海の代表的な観光地でもある。 (▲ベネチア時代の要塞)クレタ島はヨーロッパにおける最初の文明のひとつであるミノア文明が栄えた。当時の社会については、伝えられるべき文字が遺されなかったため、遺構から類推するよりほかないが、平和で開放的であったと考えられている。ミノア期の遺跡には、壮麗な石の建築物や複数階の宮殿があり、排水設備や、(▲考古学博物館にて)女王のための浴場、水洗式のトイレがあった。水力を動力とする仕組みに関する技術者の知識はとても高度なものであった。エジプトなどとの交易によってもたらされた遺物から、ミノア文明は、紀元前3000年頃からクノッソスが衰退した紀元前1400年頃ごろまで栄えたと考えられている。 その当時クレタ島で使われていた言語はミノア語であると考えられている。(▲写真は、サントリーニ島のスーパーマーケットで。)オリーブオイルの世界一年間個人消費量の多いギリシアの中でも消費量が多く。東南部のクリッツァ村は、年間個人消費量が50リットルもある。クレタ島は、地中海と北アフリカの気候区にまたがっている。 クレタは神秘的な歴史をもつ島だ。エーゲ海の南の端にあるこの島には、4000年も前にすでにクレタ文明が栄えていた。しかし、彼らクレタ人がどこからやってきたかは、いまだに謎であるし、彼らが使っていた線文字も解読されていない。そして、文明が最盛期を迎えた3500年前に地震によって大被害を受け、そのまま地下に眠ってしまったのである。しかし、その文明はミケーネ文明を経て、ギリシア文明へ受け継がれ、現代までも脈々と流れている。 東西に細長いこの島はエーゲ海の島のなかでいちばん大きい。(島内には飛行場が3か所。)島内には4つの山脈があり、2000m級の山はざら。自然の変化に富んだクレタ島は実に魅力にあふれている。(▲儀式などをする場所)(▼上の場所を模型で現わしたもので、考古学博物館にあった。)■島の中心はイラクリオン■ クレタ島の中心地というとイラクリオンIraklion。有名なクノッソスの遺跡のあるこの町が、クレタ島観光の拠点には最適だ。 泊まったホテルは、島の中心地にあって、近くには、映画館もあった。アストリア・カプシス4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館世界遺産:デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス4月14日(日)世界遺産:メティオラ修道院・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.16
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4月14日(日) ■世界遺産メテオラ修道院観光■の後、アテネに350キロ、6時間のバス移動。 ここでも目立つのは、一面のオリーブの木と黄色い菜の花。 バスの運転手は、決まった時間を走ると休憩しなければならないという規則があるので 移動中ランチ。 ランチは「ムサカ」(ナスとひき肉の重ね焼き)など。アテネに入ると、落書きや壊れたビルが目に付く。 明らかに、色の黒い人が多くて、所在投げにしていた。 後で聞いたのだが、ユーロ圏内にいったんはいれば、他の国から流れてきて居着くのだそうだ。 治安が悪そうだ。 アテネ市内の道路は慢性的に混雑していて、その対策として、奇数、偶数のナンバーで乗り入れを規制している(一部、例外があり)。 ギリシャの主な産業は、造船業と観光で、昨年、造船を押さえて観光が第一位になったという。 夕食は、海の目の前の店。 海を見ながらの夕食。 なんでこんなに大きな魚を出すのだろう!!! 食べきれない!!! もったいない!!! 食後、港に移動。 21時発のフェリーでクレタ島に。 船内で一泊する。4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館 デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス修道院4月14日(日)世界遺産:メテオラ修道院 アテネに移動して船でクレタ島に(船内泊)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.13
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4月14日(日) メテオラは、ギリシア北西部、セサリア(テッサリア)地方北端の奇岩群とその上に建設された修道院共同体、いわゆるメテオラ修道院群の総称である。 その地形及びギリシア正教の修道院文化の価値からユネスコ世界遺産(文化・自然複合遺産)に指定されている。 その名はギリシア語で「中空の」を意味する「メテオロス」という言葉に由来している。6つの修道院のうちの最大のメガロ・メテオロン修道院に行った。この崖の上にどうして修道院を作れたのか謎だ。昔は、いったんここに入った修道士は、出ることができなかったようだ。▲どうしても用事で出るときは、この部分から滑車と縄梯子を使って、30分かけて登っていた。▼安全点検はされていなくて、縄が切れたら替えるという具合だった。▲1922年に出来た116段の階段で歩いて昇ることができるようになった。▼メテオラの険しい地形は、俗世との関わりを断ち祈りと瞑想に生きるキリスト教の修道士にとっては理想の環境と見なされ、9世紀には既に、この奇岩群に穿たれた洞穴や岩の裂け目に修道士が住み着いていた。この時代の修道士は現在のような修道院共同体を形成することはなく、単独で修行する隠修士が主流であった。 メテオラに修道院共同体が成立したのは、14世紀、セルビア王国がセサリア地方に勢力を拡大してくる時代であるといわれる。2012年現在、6つの修道院が活動中である。女性はスカートでないと入れないので、巻きスカートを借りて腰に巻く。修道院の観光客用のトイレは、クラッシックな形。 6千万年前に海底で堆積した砂岩が隆起し、浸食されて今の地形となった。 メテオラの風景には、ツアー客はビックリ!! 「世界には、いろんなところがあるな・・・!! 今のうちに行っとかな、アカンわ。 いつ、世界でどんなことが起きるか分からんから行けんようになるかもしれんから・・・。」 次の日、世界遺産:ノートルダム寺院の火事を知った。 4月10日(水)関空 4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河 4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策 4月13日(土)デルフィ博物館 デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス修道院・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.08
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4月13日(土)■デルフィの遺跡■を見た後、バスの中から雪をかぶった山を見ながら、進んだ。山にへばりついている町を通り過ぎ、 世界遺産・ オシオス・ルカス修道院に行った。 (▲オシオス・ルカス修道院) オシオス・ルカス修道院は、ギリシャ共和国中央ギリシャ地方ヴィオティア県ディストモ(デルフィ近郊)のヘリコン山の麓にある、ギリシャ正教:正教会の修道院である。 10世紀に設立され、中期ビザンティン建築の傑作と言われる聖堂と、11世紀に作成されたモザイクが残る。 1990年、他の2つの修道院とともにユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院」)。 オシオス・ルカスは、克肖者ルカスによって10世紀前半に設立された修道院である。 ルカスは953年に死んだが、生前に東ローマ帝国の皇帝「ロマノス」によるクレタ島の征服を予言した。 彼の予言はロマノス1世レカペノスを指したようであるが、クレタ島の征服は961年にロマノス2世によって行われ、これによってルカスへの崇敬が高まることになった。 クレタ島制圧は、東ローマ帝国にとってエーゲ海制海権の奪回という重要な意味を持っており、バルカン半島沿岸地域におけるアラブ人の影響は、これによって著しく改善された。この日のランチは、スプラキ(肉の串焼き)。 オシオスルカス修道院を見た後、この日のホテルにバスで移動、3時間半。移動中、バスの窓から黄色の花があちこちで目に付いた。菜の花?!菜の花で油を作るのでは・・・という人がいた。いやー、オリーブの木がいたるところにあるのに、菜の花で油をとる?観光のためという人。レンゲのように土地を肥やすためという人。アブラナではなくマスタードの花で、食べるのだそうだ。最近、日本では見かけない菜の花畑をギリシャで、あちこちで見ることができた。▲ホテルから岩山が見える。▼その岩山の上に建物が!次の日に行く、世界遺産のメテオラ修道院の一つセント・ステファン修道院。 4月10日(水)関空 4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河 4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策 4月13日(土)デルフィ博物館 デルフィの遺跡 ORFEAS(オルフェアス)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.07
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4月13日(土)デルフィ博物館の後、世界遺産・デルフィの遺跡にバスで移動。デルフィとはギリシア中部パルナッソス山麓にあったポリス(都市国家)のことです。紀元前8~前6年ごろは全世界の中心と呼ばれ、古くから予言の神アポロンが崇拝されています。かつては宗教の中心として栄え様々な宗教儀式が行われ、芸術やスポーツ競技の中心地でもありました。古代デルフィの遺跡は1987年、「デルフィの考古遺跡」という名称でギリシャの世界遺産に登録されました。神託を求めて人々が訪れたデルフィ遺跡。渓谷の急斜面にしがみつく様にして残る遺跡。紀元前12年ごろはアポロンが信託を授ける神となり、全盛期にはギリシア国内はもちろん黒海沿岸やイスパニア方面からも巡礼者が訪れ、アドリアヌス皇帝と共に繁栄しました。アポロンのお告げをもとに、国家の指導者も国の大事なことをこの地で決定していました。(▲カスタリアの泉 バスの中から撮影)お告げを受ける者は、カスタリアの泉で体を清める。巫女や神託を聞きに来た人々が最初に訪れ、身を清めた場所です。この泉の名前の由来は、アポロンが一目惚れしたニンフのカスタリアが追いかけるアポロンから身を隠したことに由来しています。アポロンに捧げる、いけにえのウサギ、豚、鶏などを持って、この道を登る。多くの人が待つ、アポロンの神殿で順番を待つ。順番が来たら、聞く。例えば、「生まれてくる子供は、男の子か、女の子か?」「BOY or GIRL?」すると、「 BOY NOT GIRL 」という神のお告げ。帰って、男の子が生まれると、「BOY! NOT GIRL」女の子が生まれると、「BOY NOT GIRL!」と受け取る。戦争に勝つか負けるかなども、このような答え方なので、お告げは当たったという。このように、戦争など政治もここの占いによって行われ、そのお礼に沢山の貢ぎ物がされ、デルフィは大いに栄えた。 紀元後、土砂が崩れ街のすべてが埋まってしまい、長い眠りに就きました。その後、発掘が始まったのは1829年のことでした。この遺跡は、アポロン神殿を中心とする神域と都市遺構から構成されています。この遺跡を見ると古代の人々がどれほど神託の力を信じていたかが見えてきます。現代の文明の力を使っても巨大な石を使い建設するのが難しそうな渓谷の急斜面にしがみつくように建つ遺跡はとても印象的です。 ■4月10日(水)関空 ■4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河■4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策■4月13日(土)デルフィ博物館 ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.06
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■4月13日(土)デルフィの町の近くにあるデルフィ博物館の見学をした。古代ギリシアでは神の神託(お告げ)をもとに国家の大事が決定されていましたが、最高神であるアポロンの神託が行われていたのがデルフィ。長い間、土に埋もれていた、デルフィの遺跡をこの博物館に展示している。紀元前570~560年頃ナクソスから奉納されたスフィンクス像。12.1m高の柱のイオニア式柱頭の上に置かれていた。スフィンクス自身の高さは2.32m。 紀元前570年頃に作られたと言われアルカイックスマイルという神秘的な微笑みが特徴のスフィンクス像。 大理石で作られたこの像はアポロン聖域の柱の上に乗っており 神託守護のシンボルでもありました。 スフィンクスは謎めいた女性の顔、ライオンの胴と足そして鳥の翼を持っている。 アルゴスの兄弟クレオビスとビトンの像。左足を出した足に特徴がある。 博物館の最後にある青銅製の「御者の像」です。 青銅製の馬車や馬の一部と一緒に発見されましたが、馬車の手綱を握ったポーズのこの人物像は、左手を除くとほとんど完全な形で残っており、その強い視線と長いまつげ、鼻筋の通った端正な顔立ち、巻き毛の髪の繊細さ、裸足の足のリアルさ、衣服のひだなど、ため息が出るほど美しく、何世紀を経てもすたれない美しさを保っています。 この像は、紀元前5世紀に、ピュティア競技会で優勝したポリザロスが奉納したものと考えられています。 「厳格様式(厳しい表情、骨格や筋肉組織の表現も正確な、厳格さを特徴とする様式)」で作られ、制作者は、サモス島出身のピサゴラスと考えられています。 古代ローマのハドリアヌス帝の寵愛を受けたと言う美少年アンティノウスの像。 アンティノウスはナイル川で溺死する。 ハドリアヌス帝はその死を悼み、アンティノウスを神格化し、ギリシャの町々に彼の像を建てたと言う。 ●ギリシャとローマ● アウグストゥスは内戦によって疲弊したギリシャ復興のために、穀物分配や各都市に貨幣造幣の特権を認めるといった政策を採った。 また新しい都市を建設し、ローマ市民や周辺住民の移住を促した。 ギリシャ人の中にもローマ市民権を得るものも現れた。 ギリシャ文化を愛するローマ皇帝(特にネロ、ハドリアヌス)アテナイの都市整備の援助を行ったり、建造物や神殿の整備や修理を行った。 ハドリアヌスをはじめ、多くのローマ人がギリシャを訪れ、ギリシャ諸都市は一種の文化観光都市となった。 4月10日(水)関空 4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河 4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策 ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.03
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■4月12日(金) 「オドントス登山鉄道」に乗れなかったので、宿泊地のデルフィには、早く着きデルフィの町を散策した。 デルフィの町は、デルフィ遺跡から少し離れたところにある。町は坂が多く、ホテルなどの建物は斜面に沿って建てられています。デルフィ(Delphi)は、古代ギリシャの時代には「世界の中心」とされて賑わいをみせたが、 現在は遺跡観光に訪れる観光客を迎えるホテルやレストランが立ち並ぶこじんまりとした集落になっています。 デルフィ遺跡とは、アポロンの神殿を中心とする聖域で、アテナ女神の聖域も近くにある。紀元前8世紀より神託所や神殿と共に開発され、紀元前6世紀頃には、「アポロンの神託」の名声が高まる。 紀元後、土砂が崩れ街のすべてが埋まってしまい、長い眠りに就きました。その後、発掘が始まったのは1829年のことでした。 この日、泊まった村は、発掘が始まるまでは、遺跡の上にあった。 村中でこの地に引っ越したというわけだ。 下のお土産のように、山にへばりつくように町が広がっている。まさに、天空の町、デルフィ!!▲町のカフェ。寒いからストーブをたいて、オープンカフェを楽しんでいた。▼▲町がこの地に移ったころに作られた水場。▼▲道の端に、キリストを祀っている小さな祠?のようなものがあるが、日本のお地蔵さんみたいなものか▼町はずれには、花がきれいだった。 4月10日(水)関空 4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河 4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 ▲宿の玄関の像に蛇。蛇は、医療のシンボル。 HERMES(ヘルメス)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.01
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■4月12日(金)この日のメインは「オドントス登山鉄道」に乗ること。「オドントス登山鉄道」は、カラヴリタ〜ディアコフト間の登山電車。時間は片道約22km、約1時間ほど。しかし、雨で落石があり、鉄道は不通。 そのことは、バスに乗るとすぐ聞いていたけれど、とりあえず駅に行った。 列車が止まっていて残念な気持ちでいっぱいで列車の写真を撮った。 バスに乗って移動中、今度はバスの後方のドアが開いた。 運転手さんがドアをドアをロープで縛って応急処置。 なんとも運の悪い私たちだ。いや、落石が乗っていたら、列車に当たっていたかもしれないし、バスに当たらなかっただけラッキーだったのかも・・・。 海辺の町、ナフパクトスでランチ。電車に乗れなかったので、食後この町を散策した。 ナフパクトスは、ギリシャ共和国西ギリシャ地方エトリア=アカルナニア県にある都市。コリンティアコス湾の湾口を抑えるこの都市は、レパント(イタリア語・スペイン語: Lepanto)の名でも知られる。1571年にはこの近海でレパントの海戦が戦われた。 ミゲル・デ・セルバンテス(小説『ドン・キホーテ』作者)がその戦いに従軍したため、セルバンテスの銅像がある。 4月10日(水)関空発4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.04.24
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4月10日(水)から4月19日(金)の10日間、ギリシャに行ってきた。■4月10日(水)夜11時過ぎというか12時前に関空出発。■ギリシャは、南ヨーロッパに位置する国。■日本語による公式名称はギリシャ共和国で通称はギリシャまたはギリシア。2011年国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人、面積は日本の約1/3である。首都はアテネ。ギリシャの地理はヨーロッパの南東端にありアジア及びアフリカの交差点という戦略的立地にある。だから、飛行機は、エミレイツ航空でドバイ経由。ギリシャの豊富な遺産は17件の世界遺産数にも反映され、ヨーロッパ及び世界有数である。数多くの資格や許認可が政治家に委ねられている構造を背景に賄賂や汚職、脱税が横行しており、汚職指数はヨーロッパの国家の中でもイタリアと並び高いレベルにある。ギリシャ危機に象徴される根深い経済問題に悩む。 国際連合原加盟国であり、欧州連合の前身である欧州諸共同体の10番目の加盟国で、2001年以来ユーロ圏の一部である。ギリシャは世界有数の海運国及び観光立国であり、バルカン半島最大の経済規模を有し、重要な地域投資国である。■4月11日(木)4月10日(水)の夜遅く関空を出た飛行機は、約10時間半の飛行でドバイ空港に着いた。ドバイからアテネまで約5時間10分。日本からだと15時間以上飛行機で飛んでやっと、4月11日(木)の15時にアテネに着いた。アテネからバスでコリントス運河を見に行く。■コリントス運河は、■ギリシャのコリントス郊外にある運河。ペロポネソス半島の根元にあるコリントス地峡に開削されたもので、エーゲ海とコリンティアコス湾を結び、1893年に完成した。 全長6343m、運河の幅は水面部で24.6m、河底部で21m、深さは8m、運河の途中に鉄道橋と道路橋があり桁下は52mとなっている。丘の高いところでは標高約79mほどもあり、丘の区間では両側に高く切り立った崖がせまる細い水路を船が通過する。鉄道橋があるところでは標高60m のところに開口部に長さ約33mほどの鉄橋がかかっている。大きな船はタグボートに曳航されて水路を通る。 (▲赤の航路がが緑の航路に短縮された。)この運河の開通で、従来のペロポネソス半島を大きく迂回するルートに比べて航路が400kmあまり短縮された。しかし、幅が狭いため大型貨物船の通航はできず、現在では主に観光船の通航に利用されている。年間11,000隻あまりの船がこの運河を往来する。 ■歴史■コリントス地峡に運河を掘る考えは古くからあり、古代ギリシア時代、紀元前7世紀末頃のコリントスの統治者ペリアンドロスもその1人だった。その後も幾度か運河開削の構想がおこっていた。紀元前3世紀ごろ、マケドニア王デメトリオス1世ポリオルケテスが建設を試み挫折している。古代ローマ時代にもカエサルやカリグラ帝も関心をもった。 ネロ帝の時代になると、実際に大規模な開削が試みられた。67年にネロ帝は6000人の奴隷を動員して運河の開削を行い、3.3kmあまりを掘ったが、途中、ローマでガルバらの反乱が起こりネロは自殺、彼の死後、帝位についたガルバ帝によって工事は中断された。ネロの時代に計画された運河は現在のコリントス運河があるルートと同じところにあり、古代ローマの土木建設技術の高さがうかがわれる。 時代が下って、1869年にエジプトでスエズ運河が開通すると、これに触発されてギリシアでもコリントス運河建設の機運が高まった。1869年に運河建設のための法律が整備されフランスと工事を契約した。その後、しばらく工事が行われないまま時間が過ぎたが、1881年にハンガリーの Stefan Tyrr らに事業が引き継がれ、1882年4月に本格的に工事がはじまった。途中、出資元のフランスの企業が倒産する災難も起こったが、ギリシアの会社に引き継がれて工事は継続され、1893年に完成にこぎつけ、同年7月25日に開通式が行われた。 コリントス地峡の岩盤はもろいため岩盤が崩落することもあり、大規模な崩落の復旧のため運河が長い間閉鎖されることもあった。また、第二次世界大戦中にはドイツ軍が運河を利用するのを阻止するため、1944年には意図的に運河を破壊せざるを得ないこともあった。この復旧には5年あまりかかった。コリントス運河からバスで2時間ほど行ったところのカラブリタという小さな町で一泊。 ■機中泊&FILOXENIA&SPA(フィロクセニア&スパ)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.04.23
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■2018.7.17(火) ロンドンからヒースローへ7:30~8:00、朝食。11日から今日まで、一週間、同じものを食べたけど、今日で終わり。10時前チェックアウト。(チェックアウトが10時だから、ぎりぎりまでホテルにいた。)前日頼んでいた、タクシーの手配、ホテルのスタッフが、タクシー会社に電話して呼ぶのでなく、ホテル前を通るタクシーに手を挙げて停める・・・。ヴィクトリア・コーチステーションまでという距離が超短いこともあってとまってくれない。やっと停めたタクシーも近いから嫌がっていたが、タクシーよりも高く出せば乗せるという。「行先は歩けるのに・・・」と言われた。「荷物が多いから・・・」というと「知ったことじゃない!!」という。あまり、英語は得意ではないけれど、幸か不幸か、嫌みくらいわかる。歩いても10分はかからないところを渋滞だから運転手は機嫌が悪い。20分ほどでやっと着いた。チップを渡すと、途端に、荷物を下ろすのを手伝ってくれたりと手のひらを返したように愛想もよくなった。10:20には、コーチステーションで「お茶」しながら、コーチの発射時間待ち。11:00すぎ、コーチが出発。11:55ごろ、ヒースロー空港に着いた。ここで、(ターミナル4)まで、移動するのに、ガイドブックにあった「無料のシャトルバス」を探すが、誰に聞いても知らない・・・という。結局、コーチステーションから乗ってきた「ナショナルエクスプレス」バスで、無料で、(ターミナル4)まで、行けることがわかり、それに乗る。13:00「プレミア・イン・ヒースローエアポートターミナル4」に着き、チェックインタイム(14:00)前だったが、13:20、部屋に入れた。しばらく休憩。そのあと、16:00~、食事に行く。軽食で済ませ、空港内をぶらぶら。夕食の食材を買う。◎プレミアインヒースローT47月18日の朝食は久しぶりのフルブレック・ファースト。■2018.7.18(水)~■2018.7.19(木)ヒースローからオランダ経由で関空へ。▲飛行場でランチ。▼今回は、機内食が美味しかった。いつもほとんど食べられないが今回は食べることが出来た。余ったコインは、飛行場で寄付。日本で暑いので疲れた。荷物のうちスーツケース2つは、空港から自宅まで配送してもらった。その日のうちに届いた。6月11日(月)から7月19日(木)の39日間の英国旅行は、無事に終わった。◎自宅*書き残したネタ。*天蓋ベッド。*古い建物はイギリスに残っているが日本にはない。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.25
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■2018.7.16(月)■コヴェント・ガーデン■、■ハロッズ、リバティ■といった後、地下鉄でチャリングクロスに出て、遅めのランチのためレストランへ。「残ったら持って帰れますか?」と聞くと「箱をあげます。」と言ってくれたので、ピザを注文。夫は、野菜とチキンサラダ。食べた後、外に黒い電話ボックスを発見!!隣には赤もあった。ナショナル・ギャラリー(英: National Gallery)は、イギリスのロンドン、トラファルガー広場に位置する美術館。日本語では国立美術館とも訳される。1824年に設立され、13世紀半ばから1900年までの作品2,300点以上を所蔵している。『ひまわり』 (1888年 フィンセント・ファン・ゴッホ)『女性大水浴図』 (1894年 - 1905年 ポール・セザンヌ)『アニエールの水浴』 (1884年 ジョルジュ・スーラ)■馬車で歩いて渡れるフォード■の絵があった。■フォード■に激しく反応するようになった。床もモザイクで美しく飾られていた。帰りにヴィクトリア駅でオイスターカードに残った残高を現金に換えてもらった。7月10日に30£と5£の保証金を入金。その後、20£追加したが10£以上残った。明日は、ロンドンからヒースローまでの移動。◎エンリコホテル◎・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.24
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(▲リバティ百貨店)■2018.7.16(月)ハロッズ (Harrods) は、ロンドン中心部のナイツブリッジ地区ブロンプトン・ロードに面するイギリス最大の老舗高級百貨店。 ハロッズの創業者チャールズ・ヘンリー・ハロッドは1824年、25歳の時に起業した。順調に成長してきた店の運命は1883年12月初めの火事によって苦難の時を迎える。この苦難に際して、チャールズ・ハロッドは顧客にクリスマスの配達を実施して、同年は記録的な利益を上げた。即座に同じ場所に新しい店舗が建てられ、オスカー・ワイルド、リリー・ラントリー、エレン・テリー、チャールズ・チャップリン、ノエル・カワード、ガートルード・ローレンス、ローレンス・オリヴィエ、ヴィヴィアン・リー、ジークムント・フロイト、A・A・ミルン等の著名人、さらには英国王室の人々を得意客とするまでに発展し、より名声を高めた。 2010年8月、デイリー・テレグラフ紙に寄せられた書簡の中で、アルファイドは一度は受けていたハロッズの王室御用達の指定を2000年に破棄していたことを明らかにした。ハロッズは1910年以来、王室御用達の指定を受けている。アルファイドはこの御用達について"curse"(呪い)と記述しており、破棄後は業績が3倍に伸びたと主張した。エディンバラ公とは1956年から取引関係が続いていたが、2000年1月をもって破棄され、同年12月には他の王室メンバーからの御用達もアルファイドによりハロッズ側から全て破棄された。これにはアルファイドの息子ドディとダイアナ妃の事故が関係していると指摘された。■プーと大人になった僕■クマのプーさん - プーさんはハロッズで買われ、クリストファー・ロビンの1歳の誕生日にプレゼントされたという設定。阪急百貨店 - HankyuのロゴはHarrodsを模したもの。▲ハロッズの前にあるザラのビルも素敵♪◆リバティ百貨店◆現在のはリバティ百貨店は、グレート・マルボロ・ストリートに面しており、テューダー・リバイバル様式のアーツ・アンド・クラフツの建築物としては、ロンドンで最も代表的なものの一つである。イギリスの第2種指定建造物 (Grade II listed building) に指定されている。エドウィン・T・ホールとその息子エドウィン・S・ホールの設計で1924年に建てられたもので、その材木はイギリス海軍の2隻の軍艦「インプレグナブル」「ヒンダスタン」に使われていたものを流用している。有名なリバティプリントのパッチワークがずらりと飾られている。▲店内。▼リバティ百貨店は、吊り天井や会社名が記された調度品といった、当時の大型百貨店での流行を取り入れなかったことで、外装だけでなく店内も本来のテューダー・リバイバル風の装飾を固持した(ただし一部に1930年代の典型的な手法も)。内部は、窓のないアトリウム(中央大広間)を囲むように比較的小さな部屋が配置されており、それらはガラスの天井と木製のバルコニーから光を取り入れている。エスカレーターはなく、代わりに階段と装飾が施されたリフトが設置されている。リバティでお茶を。この後、地下鉄で、ナショナル・ギャラリーへ。◎エンリコホテル◎・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.23
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■2018.7.16(月)9時ごろホテルを出て、コヴェント・ガーデンへ。中世にはこの地区はウェストミンスター大修道院 (アベイAbbeyまたはコンヴェントConvent) の食料を賄う野菜畑 (Garden)として利用されていた。(▲駅前のディスプレイ)それから数世紀は修道院のみならずロンドンの住人が食べる野菜類はこのコンヴェント・ガーデンで作られていた。 (▲コヴェント・ガーデンの敷地内のディスプレイ)1960年代になると周辺の道路における交通渋滞が堪え難いほどになり、市場へ商品を運び込むことが難しくなってきた。1973年に内務大臣のロバート・カーは市場周辺の建物を指定建造物 (listed building) に指定し、過度の開発を食い止めようとした。しかし翌年市場は3マイルほど南、テムズの南岸に位置するナイン・エルムズへと移転することを決定し、ニュー・コヴェント・ガーデンをそこに建設すると発表した。1980年にコヴェント・ガーデンは大改装を受け観光客を対象としたショッピングセンターへと生まれ変わった。マーケット・ビルディング内のマーケットとして有名なのがアップル・マーケット。*月曜日はアンティークの日なので、この日に来た。*「老前整理」でモノは買わない、♪見てるだけ・・・。 ミュージカル『マイ・フェア・レディ』ではオードリー・ヘプバーン演じる主人公はコヴェント・ガーデンで野菜を手に取り歌っている。 16世紀から1974年に至までは野菜や果物の卸売市場が置かれていた。私が初めてコヴェント・ガーデンに行ったのが1972年だったので、ここは、市場だった。映画『マイ・フェア・レディ』を見ていたので、ここがその舞台かと見に行った。「ローアー グランド フロア―(吹き抜け地下)」では、クラシックやオペラなどの質の高い音楽を楽しむことができます。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.21
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■2018.7.15(日)「リージェント運河クルーズ(カナル・ボート)の後どこに行く?」夫の質問に「セント・ジョーンズウッドに行く」と私。■ドライブ旅行■は夫が、ロンドンでの行先は私が担当していたのだ。セント・ジョーンズウッドは、今から45年ほど前に私が数か月暮らしていたところ。そこを見に行きたいと思った。「セント・ジョーンズウッドって自分(私のこと)が、住んでたというだけのとこやろ?」と夫。「そうや。」と私。「どこでも、誰かが住んでいた所や。」というわけでセント・ジョーンズウッド駅に着いた。地下鉄の階段は、深いので降りる時は足が震える。昔は、この足元の階段部分が木でできていたが、金属に変わっていた。私には「???」なことがあった。それは、セント・ジョーンズウッドがジュビリー線にあること。おかしい。セント・ジョーンズウッドは、ベーカルー線のはずだ。何回も乗ったから忘れたことはないのに、ジュビリー線って・・・。私の頭がおかしくなったのかな・・・。帰ってから調べた。ベーカールー線スタンモア支線が1979年にジュビリー線の一部となったため、当駅もジュビリー線の駅となった。もう40年ほど前から変わっていたのだ! またはビートルズゆかりのアビー・ロード・スタジオの最寄り駅であり、 当駅でビートルズの土産物が売られているということも後でわかった。 結局、私が住んでいた家は、分からなかった。地下鉄ベーカー・ストリートで降りてリージェントパークへ。付録のようにリージェントパークに来ているけど暑くなかったら半日くらいゆっくりと公園都市、ロンドンを楽しみたい。▲ヴィクトリア・コーチ・ステーション。ビクトリアコーチステーションから、ヒースロー空港へのチケットを買う。そこで、軽食を摂る。 スーパーに寄ってから、歩いて5時半ごろ、エンリコホテルに戻る。◎エンリコホテル◎・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.19
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■2018.7.15(日)朝9時、暑くなりそうな日射しの中、リージェント運河クルーズ(カナル・ボート)に乗るためリトルベニスを目指す。暑いので、なるべく歩き回るのを避けたいという思いだ。ビクトリア駅から地下鉄を乗り継いで、パディントン駅へ。パディントン駅は鉄道と地下鉄の両方があり、ヒースロー空港へとつながっている。■映画:パディントン2■マイケル・ボンドの児童文学作品のキャラクター「くまのパディントン」の名は、彼がパディントン駅で見つけられたことに由来する。現在、駅構内には「くまのパディントン」の銅像がある。駅にあった建物に獅子とユニコーン。■ライオンとユニコーン■の紋所である。■産業革命の申し子ともいうべきイギリスの運河は、■18世紀後半から各地にどしどし造られていったそうです。しかし産業革命が進むにつれ、鉄道の敷設が促進され、運河は時代遅れな存在となり、いつしか忘れられてしまったといいます。リトル・ベニスに流れるグランド・ユニオン・カナルは19世紀の初頭に開かれたそうですので、運河としては新しい部類に入るのでしょうか。「リトル・ベニス」という名は、第二次対戦後につけられたとのことです。かつては石炭を運んだ(今も運んでいるかもしれませんが)働き者の運河を、今は遊覧船や船旅をするナロウ・ボートがゆったりと航行しています。思い思いにペインティングされ、花をいっぱい飾ったボートは、見ているだけで気分を浮き立たせてくれます。リトル・ベニスは遊覧船の発着所の名前でもあり、ここからロンドン動物園やカムデン・ロックまで、ささやかな船旅が楽しめます。運河に沿って■馬が牽引したトウ・パスという牽引路があり、■今は散歩するのにちょうどいい具合になっているのです。ロンドンにある運河、1820年に完成したRegent's Canal(リージェンツ運河)は、その運河沿いを歩く散歩にピッタリ。運河で遊ぶ子どもたち。大人も遊ぶ。白鳥も泳ぐ。こんな風に日本の川も使えたらいいのにと思う。ホテルの近くの風景。◎エンリコホテル◎・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.17
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■2018.7.14(土)ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館は、現代美術・各国の古美術・工芸・デザインなど多岐にわたる400万点の膨大なコレクションを中心にした国立博物館でロンドンのケンジントンにある。ヴィクトリア女王(1819年 - 1901年)と夫アルバート公(1819年 - 1861年)が基礎を築いた。略称「V&A」。 最寄り駅はサウス・ケンジントン駅。この日は暑かったので、中庭の池では子どもが水遊びしていた。館内にはホールをそのまま流用したカフェテリアがあり、ケーキと紅茶やコーヒーが楽しむことができる。 「ヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)」(以下V&Aと表記)は、ファッションや装飾品など世界中から収集されたものが集まる玉手箱のような博物館。そのコレクション数は500万点で、展示品の数は常時4万点もあり世界でも貴重な博物館です。▲イギリスコレクション:1500~1700年代の王室コレクション。ウエアの大ベッドは横幅が3mもある巨大ベッド。■V&A■▲鉄細工装飾品のギャラリー。植物や動物のモチーフが多い。▼ウィリアム・モリスが手掛けた部屋で食事をしたかったけど、ホテルに帰って洗濯に行かないといけないので残念・・・。2階建ての赤いバスでホテルに帰ってから歩いて、何度も聞きながら30分以上かかってコインランドリーに。WiFiがないのでこんな時不便。今回の旅行で5度目の洗濯、これが最後になる。近くになかったり、あっても時間がなかったり、お祭りで通れなかったり、日曜日でしまっていたり・・・。仕方がないので手洗いしたり・・・。今回の旅行は、洗濯で困った。1週間以上の旅行の時は、ホテルの近くにコインランドリーがあるところを考えた方がいい。7時洗濯完了。帰りは迷わないから20分、7時20分にホテル着。コインランドリーの近くにあったフィッシュ&チップスの店でテイクアウト。◎エンリコホテル◎・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.15
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■2018.7.14(土)ロンドン中心部から地下鉄で北東に約20分、落ち着いた雰囲気の街、ウォルサムストウ(Walthamstow)にウィリアム・モリス・ギャラリー(William Morris Gallery)はあります。(地下鉄ヴィクトリアラインの終点・ウォルサムストウからバス)近くの建物には、モリスの顔の絵と有名な柳の葉っぱのデザインが。モリスが住んでいたという印のブルー・プラークが!階段は2つあって、▲この家の主人家族や客が使うのと▼使用人が使うのに分かれていた。「モダンデザインの父」と称されるモリスが、1848年から1856年までの多感な青年時代を過ごした家で、1950年に美術館としてオープン。2013年にはイギリスの「ミュージアム・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたこのギャラリーは、なんと入場無料!モリスをよく知らない人にも分かりやすいディスプレイや、息抜きできるカフェも併設された、とても充実した美術館です。館内には、モリスの人物紹介コーナーの他、自身がデザインした壁紙、生地、タペストリー、家具の実物が200点以上もディスプレイされており、超間近で素晴らしい作品を見ることが出来ます。▲トイレはウィリアム・モリス、デザイン!▲トイレの内側。▼▼床も!ウィリアム・モリスのデザインはどれも職人の技術と情熱が感じられる、味わい深いものばかり。どことなく、わびさびも感じられ、日本人にはとても馴染み易いのです。そして、普通の美術館と違う点は、写真のような分かり易い展示。左側は、モリスが生きたヴィクトリア朝時代の典型的な大量生産型のインテリアで、一見高価に見えますが、よく見ると質が粗悪。一方、右はモリスが提案したデザイン。一見素朴ですが、実はとても手が込んでいるのです。隣り合わせて比較すると、モリスのデザインの特徴が一目瞭然。今から150年も前に、大量生産・大量消費社会に警鐘を鳴らし、モノづくりの原点を教えてくれたウィリアム・モリス。その思想やデザインは、現代のモダン・デザインや、20世紀日本の「民芸運動」の重要なルーツとも言われています。近年、日本の全国各地でもウィリアム・モリス展が開催され、モリスのタイムレスな魅力を物語っています。ロンドンに来られた際は、是非、ウィリアム・モリス・ギャラリーで、モリスの世界に浸ってみて下さい。(▲お土産に買ったギフトに付けるタグ。6枚あったので、娘たちと2枚づつ分け、しおりにする。)美術館のギフトショップには、そんな素敵なデザインのグッズがたくさん。大人テイストのお土産としても素敵ですし、自分用にも色々買いたくなると思います。どれも、きっと使えば使う程、愛着が湧いてくることでしょう。10時から開館だと思って早く出てきたのに、12時まで待たされた。(この日は、特別なおまつりが近くの公園であって、通り道になっているので、12時までまった。ゆっくりお茶でもしたかったけど、2時間のロスだったので慌ててバスで地下鉄の駅へ。そこからヴィクトリア&アルバート館へ・・・。◎エンリコホテル◎・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.13
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■2018.7.13(金)ウィリアム・モリスのの新婚時代の家、レッドハウスからチャーリングクロスに着いたときにオイスターカードのチャージをしたのが3時前。それから■「ウォレスコレクション」■へ。ロンドン市内にある美術館「ウォーレス コレション(The Wallace Collection)」は、ロンドンでは珍しい昔の貴族の館がそのまま利用されている、ゴージャスで優雅な美術館。15世紀から19世紀にかけての世界的に有名な美術作品、装飾美術作品の数々、および、18世紀フランスの広範囲にわたる絵画作品、家具、武具、甲冑、磁器、そしてオールド・マスターの絵画作品を25室のギャラリーに展示している。 設立は1897年。1900年、美術館はマンチェスター・スクウェアのハーフォートハウスにて一般公開され、現在もそのままの状態にある。コレクションを持ちだすことは許されておらず、外部の展示会に貸し出されることもない。入場は無料。非省公共団体である。「豪華な屋敷」で思い浮かべる光景がそのまま現実になったようなこの建物は、もともと貴族の一家が住んでいたもの。中庭のカフェがいい雰囲気だったけど寄れなかったのが残念。タイトル「恋に落ちたライオン」。羊飼いの美しさにメロメロになってしまったライオン。フランスの詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌの「寓話(イソップ物語を基にした詩集)」からとられた題材だ。このライオン、羊飼いにメロメロになり、羊飼いの父親の「娘を傷つけないように爪と牙を切らせてくれ」という要望を吞んでしまう。この作品は娘がライオンの爪を切っている場面だ。そしていざ丸腰になった途端、猟犬たちに襲われてしまったのだ。後ろに見える、武器を持った農民たちが、ライオンの行く末を示唆している。帰りにカフェに寄って一休み。ホテルに帰って一息つくと雨が勢いよく降り、雷もなった。イギリスに来て30日以上たってやっと降った雨。1時間ほど降ってやんだが、一晩中降ればいいのにと思った。◎エンリコホテル◎・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.11
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■2018.7.13(金)この日は、ウィリアム・モリス(1834 - 1896年)の新婚時代の家、レッドハウスに行く。ウィリアム・モリスはイギリスのヴィクトリア朝末期に生まれ、インテリア、特に壁紙やインテリアファブリックスの内装デザインで活躍した人物。アーツ&クラフツ運動の提唱者として有名。「役に立たないものや、美しいとは思わないものを家に置いてはならない」という有名な言葉を残したウィリアム・モリスの家は、本などで何度も見ていたが実際に行くのは初めて。ホテルを9時頃出て、ヴィクトリア駅→チャリングクロス駅。そこから鉄道で約30分のところにあるBexleyheathが最寄り駅。ロンドンのプリペイドのオイスターカードでも行ける。住宅街にあり、標識は2度程見たが、ナビを持たないので何度も聞いてやっと着いた。カンタベリーでもだったが、ここでもみんな親切に教えてくれる。その名のとおり赤レンガの建物は、装飾が少ない素っ気ない外観。(ブルー・プラークと呼ばれる青いプレートが壁に埋め込まれていて、ウェッブがモリスのために建てたと書いてある。)モリス自身が住まいのラフプランを起こし(実際の設計は友人の建築家ウェッブが担当)、建物に合わせて家具や内装をデザインした。サセックス・チェアーは、サセックス地方の伝統的な椅子をもとにデザインが採られているモリス商会の代表的な商品。ガイド氏の案内でツアーという形で邸内を廻る。「この棚には、扉がついていました」とガイド氏。「扉は、とってしまい、今は美術館にあります」とガイド氏がすまして言ったのでみんな笑った。後でネットで調べたら■ロセティが書いた■とあってびっくりした。ガイド氏「これはクジャクからヒントを得たデザインです。」なるほど・・・。▲モリスの妻、ジェーンの手になる刺繍。美しいものばかりなのに、このレッドハウスで暮らしたのは、たった5年。「モリスはどうして、この家から引っ越したのですか?」と邸内のツアーの客がガイド氏に聞いた。「ロンドンまで遠かったので・・・。それに、友人のロセッティと妻のジェーンの不倫がありましたから。」と言ったので皆笑った。井戸も庭のアクセントになっている。レッドハウスは、ナショナルトラストが管理している。モリスがレッドハウスを手放してから、人手に渡り、変わった部分は、ナショナルトラストが復元している。カフェやモリスの物品、花の苗なども売っている。帰りは、日本人と結婚しているという人イギリス人女性が途中まで送ってくれた。■ウィリアム・モリスの家・ケルムスコットマナー■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.07
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■2018.7.12(木)ロンドンの二階建ての観光バスに乗って市内の案内を聞いていた。「このあたりは、ナイツブリッジという所です。このあたりには、昔、川が流れていて、橋がかかっていました。騎士が通りかかって、『自分の方が強い。』とお互いに言い合い、決闘したのです。それが【ナイツブリッジ】の地名になりました。」と案内があった。ナイツ(騎士)の橋(ブリッジ)。ナイツブリッジ。へえ~、へえ~!!そういえば、先日、観光バスに乗った時、「このあたりは、浅い川がありました。」と言っていたのはこのことだったのだ。(▲オイスターカード。ロンドン市内の地下鉄やバスに乗れる、プリペイド・カード。)その日、ホテルでロンドンの地下鉄の地図を広げた。ピカデリー線のナイツブリッジから探してみるとあった、それも沢山!!●Woodford(ウッドフォード)●SouthWoodford(サウスウッドフォード)●Redbridge(レッドブリッジ)●Liverpool Street(リバプール・ストリート)●Stratford(スタートフォード)●Oxford Circus(オックスフォード サーカス)太字が川に関係のある言葉で■フォードは、(歩いて渡れる)浅瀬。■この名前は全て川に関係する名前ばかりで偶然なのかセントラルライン上にあった。■ロンドン地下鉄■もっと調べると、ナイツブリッジのあたりにあった川の名前は、■ウェストボーン川(River Westbourne)■今は、地上には出ていないウェストボーン川は、スローン・スクエア駅の構内を鋳鉄製の導管を通って流れていてホームの端、出口の近くの天井に配管があるそうだ。■大阪の川の痕跡■を調べている私は、スローン・スクエア駅の天井の配管を確認しにロンドンに行きたい。( ̄m ̄*)ウェストボーン川とセントラルラインの川の名前との関係を知りたいと思いネットで探したが見つからない。(ノД‘)◎エンリコホテル◎・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.06
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■2018.7.12(木)■テート・ブリテン■に行った後、歩いて、地下鉄でピムリコ→チャリングクロス駅へ。駅の近くのトラファルガー広場へ。■トラファルガー広場には■いくつかの銅像が立っていますが、その中でも最も高い銅像がネルソン提督の記念柱です。この広場は1805年イギリス軍がフランス・スペイン連合艦隊との戦いに勝利したことを記念して作られた広場であり、その戦いで殉職したホレイショ・ネルソン海軍提督の功績を称えるためにこの像が立てられました。何と高さは約46メートル!ネルソン記念柱は高すぎるがゆえになかなか記念写真を撮るのが難しく、その代わりに記念写真を撮る銅像として人気なのが、記念柱を四方に囲いたたずむライオン像。これは1782年に沈没したイギリス軍の船ロイヤル・ジョージ号に取り付けられていた大砲から作られているそうです!日本の百貨店でおなじみの『三越』の前に必ずあるライオンの像はこのライオンたちをモデルに作られたという逸話も。広場の近くにあった、アールヌーボーの建築。▲こんな形はパリでは何回か見たがロンドンでははじめて。▼歩いてピカデリーサーカスに行きエロスの像のある広場に。台湾の人が経営する店でランチ。餃子の王将の餃子が食べたいと思いながら食す。二人ともお昼はこれだけ。 ☚夫はこれ。乗り降り自由なロンドンパスを使ってバスに乗る。■前日に続き2回目。■美しい門があった。バスの説明では、ライオンは、イングランドをユニコーンは、スコットランドを表すという。イギリスの童謡「マザーグース」に「ライオンとユニコーン」というのがあるという。■「ライオンとユニコーン」■ライオンとユニコーン王冠かけて戦った ライオンがユニコーンをやっつけて街のあちこち追いかけ回す白パンあげて黒パンあげて プラムケーキもあげてから どちらも街から追い出した ▲ハイドパーク▼公園内には、パトロールカーや警官がいっぱい。トランプ大統領が来るので厳重な警戒がひかれている。■ヨーロッパの公園は、■支配階級の庭園や狩場の開放に始まるが、それが急速に進展するのは産業革命と結びついた都市化の時代、19世紀に入ってからである。日本の公園も、ヨーロッパに余り遅れることなく、明治6年(1873)からであるが、その後の彼我の格差は著しく拡大してしまった。水と緑の公園の外には、馬に乗った人が・・・。(*´▽`*)これって絶対に馬でなくても、車でもいいのに、観光への配慮?オリジナルツアーのバスでヴィクトリア駅まで帰って、駅の中にあるスーパーで夕食用の食べ物を買って帰った。◎エンリコホテル◎・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.03
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(▲イギリスの国旗の色)■2018.7.12(木)朝食後9時、ビクトリア駅へ。地下鉄、ビクトリア線で次の駅ピムリコ駅へ。■テート・ブリテン(Tate Britain)は■イギリス・ロンドンのテムズ川畔、ミルバンク地区にある国立美術館。建物は1897年にミルバンク刑務所の跡地に建設された。大改修の上2001年に「テート・ブリテン」と名称を変え再開館した。 テート・ブリテンは、1500年代のテューダー朝美術以降、現代に至るまでの、絵画を中心としたイギリス美術を時代順に展示している。日本人らしき人も数人いた。この美術館は、ラファエル前派の作品が揃っている。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが、ウィリアム・モリスの妻、ジェインをモデルにした絵があった。特に有名な作品は、ジョン・エヴァレット・ミレーによる『オフィーリア』。オフェーリアとは、ハムレットを慕って我が身を水に投げた女性。シェークスピアの名作に出てくる場面。川の流れに仰向けに浮かぶ少女のモデルは、後にロセッティの妻となるエリザベス・シダルである。 また、ターナーの寄贈した初期から晩年までの充実した作品群は、専用のウイングであるクロア・ギャラリーに常設展示されている。ターナーの部屋を探していたら、「Ask me」(私に聞いて)と書かれたカバンをかけた人が案内してくれた。幅広い年代のイギリス人美術家の作品もが常設展示されている。 ■ミレーのオフィーリア■オフィーリアとは、シェイクスピアの4大悲劇のひとつ「ハムレット」のヒロイン。縦76.2㎝横111.8㎝の油彩画に描かれた、むせ返るような緑の中で川に浮かぶ彼女は、夫ハムレットに欺かれ正気を失い、誤って川に落ち、死を迎えようとしています。そのまなざしは恍惚なのか絶望なのか…。圧倒的な自然描写にも驚かされます。 作者は19世紀、イギリス画壇に革命をもたらした男、ジョン・エヴァレット・ミレイ。その非凡な才能から幼少の頃より「神童」と称えられ、わずか11歳でロイヤル・アカデミーの学生に。ミレイは、仲間たちと「ラファエル前派兄弟団」を結成し画壇に反旗を翻しますが、その作品は轟轟たる非難を浴びることに。その屈辱をバネに発表されたのが今回の作品でした。 ■ミレーのオフィーリアは、「美の巨人」を見てから絶対に見たいと思っていた作品。■(▲これも芸術??) カフェで、お茶休憩後、 歩いて、地下鉄でピムリコ→チャリングクロス駅へ。この後、バスで観光する。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.02
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■2018.7.11(水)■タワーブリッジ(Tower Bridge)は、■イギリスのロンドン市内を流れるテムズ川に架かる跳開橋。1886年に着工、1894年に完成した。第二次世界大戦中はドイツ空軍の爆撃目標、あるいはV2ロケットなどの目標となり、1944年8月2日にはV-1ロケット1発が車道部分に命中して被災した。 この橋はロンドンの観光定番スポットとなっているが、同じテムズ川のすぐ上流にある、民謡「ロンドン橋落ちた」で有名なロンドン橋であると、世界中の人から度々間違われている。 19世紀後半、イーストエンド・オブ・ロンドンの商業発展のためロンドン橋の下流に新たな橋が求められた。しかし、ロンドン橋とロンドン塔の間にプール・オブ・ロンドンが存在し、入港の障害となることを避けるため固定された橋の建設はできなかった。この問題を解決するため1876年に設立された委員会は、デザインの公募を行い、テムズ川を横断する方法を模索した。50以上集まった提案に対する評価の議論は長引き、1884年に都市建築家であるホーレス・ジョーンズの設計が承諾された。 (▲この模様、兜姿の騎士に見える。)橋の長さは244m、左右にあるゴシック様式の主塔の高さは65mあり、内部は展望通路・歴史博物館がある。主塔間の橋桁の長さは61m、上部橋の高さは44mである。塔のデザインは鉄塔を腐食から守る目的と、名前の由来ともなっている付近のロンドン塔の景観への配慮から、コーンウォール産花崗岩とポートランド石(英語版)で覆われている。★■塗り替えられたタワーブリッジ■1977年、タワーブリッジはエリザベス女王のSilver Jubilee(即位25年祝典)の時にイギリス国旗の色である赤、青、白色に塗り替えられました。それまではチョコレートブラウン色でした。世界でもっとも美しい橋といわれる「タワーブリッジ」を船から見たり、バスから見たり、歩いてみたり・・・。中に入らなかったのは残念。◎エンリコホテル◎・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.10.01
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■2018.7.11(水)ロンドンの宿、エンリコ・ホテルでは、パン、ヨーグルト、果物、コーヒーなどの中から選ぶ朝食スタイルで、温かいビーンズ、ソーセージ、卵、ベーコンといフルブレックファーストではない。■2016年に行ったスコットランドのキルマイケル ハウスB&B■も冷たい朝食だったが、それ以外では、なかったような。 朝食後、8:55、宿を出て徒歩で、ビクトリア駅の近くの「オリジナルツアー」のバス停に着く。この日は、ロンドンパスを使って市内観光する。▲テレビ局。■ロンドンパスは■乗り降り自由な一日観光バスツアーで、60ヶ所以上あるロンドンの観光スポットで自由に利用できる観光パスです。バスにいろんな言語があって日本語を選択。街並みを見ながら、サウスバンクスとよばれる地域に。「サウスバンクス」は、テームズ川の南にあり、観光スポットが集まっている。「ロンドンアイ」は、その中の目玉。ロンドンの中でも1位、2位を誇る人気のこのアトラクション。「ロンドンアイ」はヨーロッパ一大きな観覧車。一つのカプセルは、25人も乗れるほど大きく、ゆっくりと30分かけて回る。1999年末に登場したロンドン・アイ。ミレニアム記念として作られたので、はじめは5年のみの営業予定だったが人気の高い観光地となったため恒久的な施設となった。▲観覧車の中から見た景色。▼▲観覧車の中から見た景色。▼ロンドン・アイを降りて対岸から観光船に乗った。これもロンドン・パスの料金に含まれている。船を降りてから、ロンドン塔に。(▲ロンドン塔になぜか、象の作り物が・・・。)■ロンドン塔は■1066年にイングランドを征服したウィリアム征服王が1078年にロンドンを外敵から守るために堅固な要塞の建設を命じ、約20年で現在のホワイト・タワーが完成した。1066年にイングランドを征服したウィリアム征服王といえば、■へイスティングスの戦いの王。■ウィリアム征服王からイギリスの歴史が始まったというがここにも足あとがある。▲大砲までも美しい。▼18:00、宿に戻る。◎エンリコホテル◎・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.25
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■2018.7.10(火)この日は、アッシュフォードから電車でロンドンに向かう日。荷物が多いので、B&B「コーナーストーン」からタクシーでアシュフォード駅に向かう。切符は、昨日買っておいたので、乗り込むのみ。まずカフェでのんびりしてから、ホームに。10:32 アッシュフォード駅発、ロンドン・チャーリング・クロス駅行の列車に乗る。列車の中から「ロンドンアイ」が見えてきた。そして、チャーリングクロス駅に到着。ロンドン、キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!(荷物が多い人はここから出る。)11:50に、ロンドン・チャリングクロス駅に着く。荷物が多いので、チャーリングクロス駅からヴィクトリア駅近くのB&Bまでタクシーに乗った。▲ロンドンのタクシーは、向かい合わせに座る。▼12時半ごろエンリコホテルに到着。この日から7日間ここに滞在。チェックインは3時なので部屋には入れないがスーツケースなど荷物は預かってもらい外出。ビクトリア駅のオフィスで、オイスターカードとロンドンパスを買う。■オイスターカード■は、現在、ロンドン交通局 (Transport for London, TfL) が運営するロンドン市内のすべての地下鉄、バス、DLR、トラムリンク、オーバーグラウンドで利用可能なほか、一部のナショナル・レールでも使用可能である。乗車(もしくは、乗車と降車の両方)の際にカードを改札機の読み取り部にタッチして、精算を行う。ロンドンパスも勧められて同時に2日分のを購入。便利な割引特典つきの観光パス。ケンジントン宮殿やロンドン塔、ウェストミンスター寺院といった人気のスポットが無料・割引になったり、優先的に入場できるヴィクトリア駅にあるカフェでランチ。そのまま、ロンドンをうろつく。ロンドンの街は、どこを向いても美しいものであふれている。建物の高さや色が揃っているのが、美しさの原因なのか。▲ヴィクトリア・コーチ・ステーション。アールデコスタイル!イギリスではアールエコは20世紀になってからの新しいスタイルだからはじめて見た。ここから、イギリス国内、ヨーロッパまでも行くことが出来る。▼夜も明るいので19:30分にホテルに帰った。スーパーで買った食材で夕食。部屋は狭く、ネットが出来ないので、ネットの繋がるダイニングルームで過ごす。はじめはロンドンでこのホテルで4泊、もう一つ別のホテルで3泊の予定だった。しかし、私が、同じホテルの方が効率的と提案したのが裏目に出た。ネットの繋がらない狭い部屋で1週間過ごすのはつらいけど、仕方がない。エンリコホテル・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.24
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■2018.7.9(月)■ストラトフォード・アポン・エイヴォン■で、レンタカーを借りたのが6月12日(火)、4週間が過ぎた。この日は、ドーバーのB&Bから、アシュフォードまでラストランだ。ドーバーで泊ったB&Bは、高台にあり見晴らしはいいがスーツケースを持って上がるのは大変だ。B&Bのご主人が手伝ってくれた。 朝食の後、出発。途中、洗濯をするために、B&Bで聞いていた、ランドリエッタに行く。(コインランドリーは日本語。)ランドリエッタの前は、駐車禁止なので洗濯をしている間、スーパー、「モリソンズ」へ。チーズ、果物、パン・・・。今回の旅行中、何度も何度もスーパーに行って買った袋を車に積んでB&Bへ帰ったけどそれも今日で終わり。もう一回、コインランドリーに行って、乾燥。また、スーパーへ。スーパーの駐車場で見かけた車は、自動車教習所のものだろうか?洗濯終了後、アッシュフォードに向けて出発。アッシュフォードのB&B「コーナーズ・ストーン」に着いたのは、お昼前。事前に、レンタカーの返却の件でメールしていたので、オーナーとすぐに話が通じ、チェックインできた。(▲部屋への階段部分の壁)老舗のB&Bという感じ。部屋で、一休みししてから、車の返却に向かう。▲車をかえす前にガソリンを満タンに。▼ハーツ・レンタカーの店舗はアシュフォード駅にあった。途中道が大幅な工事をしていて、大変だったが、なんとか無事返却。(▲この車は私たちの車の前に止まっていた。)28日間の全走行距離は、1530マイル=2448㎞。レンタカーでの旅、無時終了。駅内で、明日のロンドン行きの列車のチケットを購入する。そして、歩いて、宿に向かって歩き出す。▲歩いていると、「1918」「1945」と書かれた門を発見!▼中を見ると公園になっていた。▲1914、▼1918、って第一次世界大戦の始まった年と終わった年だ。「アッシュフォード・メモリアル・ガーデン」戦争記念なのだろう。公園を後に、B&Bに向かったが、途中、遅い昼食をとった。アシュフォードは、観光地ではないが、街は緑がいっぱいで美しい。「アッシュフォード」って、ここも浅瀬の川があるのだろうか。■トリビア・フォード■泊ったB&Bは、緑の広場みたいな街の裏側にあり、入口はここ。この路地を入ると「コーナーストーン」B&B。日本では、先日から豪雨。長女の連絡によると、7月6日が一番大変だったようで家族中休んだという。次女は、電車が運転見合わせのため、職場からバスで家まで帰った!という。「コーナーストーン」B&B。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.23
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■2018.7.8(日)■ドーバー城■を見た後、「ドーバーの白い崖」を見に行った。ドーバーの崖を歩く前に腹ごしらえ。▲カフェの前で海を見ながら持ってきたものを食べている人もいた。▼■ドーバーの白い崖は、■ケント州のドーバー海峡に面している有名な断崖である。ロンドン南方を東西に横切る低丘陵地帯ノース・ダウンズの東端にあたり、断崖の高さは110メートル(350フィート)に達する。断崖は主にチョーク(白亜)で構成されているため白く見え、所々に黒い燧石が混ざる。断崖の一部は途切れ、古代から重要な港湾であるドーバーの港がある。 ▲ここは、ナショナルトラストが管理している。イギリス海峡の最も狭い部分でヨーロッパ大陸に対峙しているドーバーの白い崖は、イギリスにとって象徴的な存在である。歴史的に大陸からの侵略に脅かされてきた地であり、断崖は侵略に対抗する象徴的な防壁となった。また、飛行機の時代が到来するまではドーバー海峡が大陸との主要交通路であったため、白い断崖はイギリスを訪れる者が最初に見るイギリスの景色であり、同時にイギリスを去る者が最後に見る景色でもあった。白い断崖は対岸のヨーロッパ大陸から視認でき、イギリスの通称「アルビオン」(ラテン語で「白い」の意味の「albus」が語源。)の由来となった可能性がある。 ▲船がひっきりなしに通っていた。1972年、初めてイギリスに来たときは、オステンドからドーバーの船に乗った。その次からは飛行機。2010年、ロンドンからパリに行ったときは、■ユーロスター■を使ってドーバーの海底を通った。■その頃、イギリスで暮らしていた■次女のレイは、パリからコーチ(バス)でロンドンに帰った。ヒースウッド・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.22
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■2018.7.8(日) ☚へイスティングス城にて。■ドーバー城:はじまり■1066年10月14日、ドーバーより南に行ったヘイスティングスの戦いで、イングランド王ハロルドに勝利した、ノルマン人の征服王ウィリアムは、10月21日にドーヴァーへたどり着き、町を燃やし、8日間ドーバーにとどまって、防御用の要塞を築く。やがて、ウィリアムは、カンタベリーへ赴き、その後、クリスマスの日に、ウェストミンスター寺院で、イングランド王ウィリアム1世として戴冠するためにロンドンへ。これから約20年後の、1086年の土地台帳(ドゥームズデイ・ブック)には、ドーバーには課税の対象となり得るものがほとんど記帳されておらず、ウィリアムによる破壊の度合いがかなりだったのではないかという事。また、ドゥームズデイ・ブックには、ドーバー城も記帳されていないそうで、当時、この場にどのような要塞が建てられていたかは定かでないようです。■ヘイスティングスの戦い■■ドーバー城:歴史■ドーヴァー城の現在の姿の基盤を作るのは、ヘンリー2世(在位1154~1189)。王の影響力から隔離された、教会と聖職者の持つ特権をめぐり、*カンタベリー大司教であったトマス・ベケット*と、ヘンリー2世は大喧嘩。結果、1170年、ヘンリー2世に忠誠を誓う4人の騎士によって、ベケットはカンタベリー大聖堂内にて暗殺。死後、瞬く間に、奇跡を起こす聖人として、イングランドのみならず、キリスト教世界全土にその評判が広がり、カンタベリー大聖堂への巡礼者は、ヨーロッパからもわんさと押し寄せるようになるのです。ヘンリー2世が1180年から、イングランド内の他のどの城の建設よりも大きな金額を注ぎ込んで、ドーバー城を建設させたのは、このカンタベリー巡礼を目当てに、ヨーロッパからやってくる主賓を迎えるにふさわしい場所を設けるためであったと言われています。フランスにも広大な領土を有していたヘンリー2世ですが、フランスへ出かけるときは、彼はドーバーではなく、ポーツマス、サザンプトンの港から出港しており、またドーバー周辺には狩猟ができ、大量に食用の肉、薪などが確保できるフォーレストも無かったため、王自身と宮廷が長期滞在する場所では無かったようです。いずれにせよ、ヘンリー2世が、フランスで死亡した時(1189年)には、ドーバー城は、まだ完成していません。20世紀の第一次世界大戦ではドーバーは英仏海峡防衛の中心となった。第二次世界大戦の間には市街がドイツ軍の爆弾と長距離砲による絶え間ない爆撃を受けた。■ダイナモ作戦は、■第二次世界大戦のダンケルクの戦いにおいて、1940年5月26日から6月4日にかけて行われた、連合軍の大規模撤退作戦のイギリス側コードネームである。イギリス海軍中将バートラム・ラムゼイが本作戦を計画し、イギリス首相ウィンストン・チャーチルにダイナモ・ルーム(ダイナモすなわち発電機があるドーバー城地下の海軍指揮所の一室) にて概要を説明したことから名づけられた。▲地下の野戦病院。9日間に、860隻の船舶が急遽手配され、331,226名の兵(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)をフランスのダンケルクから救出した。この“小さな船たちの奇跡”はイギリス国民の心に深く刻まれ、大いに士気を高揚することとなった。▲戦争の間、ドーバーの崖の下の洞窟やトンネルは防空壕として使用された。▼▲地下ツアーがあって内部を見ることが出来る。 ▲地下トンネル内のスペース。▼■映画ダンケルク■■人生はシネマティック■など、「ダイナモ作戦」をテーマにした映画を見たので当時のことがよく分かった。■現在ではドーヴァー海峡を■泳ぐスイマーたちの目印であり、渡り切った暁には城下のパブで祝杯を上げるのが通例となっているという。☝カンタベリー大聖堂**カンタベリーが巡礼地として脚光を浴びたのは12世紀。**きっかけとなったのは、大司教トマス・ベケットにまつわる奇跡の物語。国王と対立の末、カンタベリー大聖堂の中で暗殺されたベケットが、死後、難病や大けがに苦しむ人々のもとに現れ、治してくれたという話が広まり、世界各国から巡礼者が訪れるようになったのです。カンタベリー、ヘイスティングス、そしてドーバー・・・。このあたりは、イギリスの歴史の宝庫だ。Heathwood・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.21
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■2018.7.7(土)■日中、カンタベリー市内を見て回ったが■あまりにも暑かったのでいったんB&Bで眠って4時過ぎからまた市内を回った。ウェスト・ゲート(西門)のそばに川が流れている。▲川の両側が公園になっている。ウエスト・ゲートガーデンだ。▼西門のすぐそばの橋の上から見ると右側に船着き場があり、客が乗り降りしていた。カンタベリーは田舎の小さな街なので自然が豊かです。私のおすすめは、カンタベリー市街の入り口ウェストゲート(West gate)のところを流れる小さな川に沿ってできた庭園、ウェストゲート庭園(West gate garden)です。緑がとても豊かで、夏が涼しいイギリスでは長期間きれいなバラが咲いているのを見ることができます。ウェスト・ゲートのすぐ前を流れるのは、スタワー川(River Stour)。この川岸が、ちょっとした公園(ウェスト・ゲート・ガーデンズ)となっていて、花壇が綺麗。帰りに、電車の時間を待つ間、ここのベンチでのんびり、なんていうのもいいかもしれません。川の一部にこんなところがあった!川底がレンガのようなもので平らになっている。■フォードだ!!■●フォードは、(歩いて渡れる)浅瀬。地名にあるフォードは、(歩いて渡れる)浅瀬を意味する。ストラトフォードは、ストラト(古英語のストリート)の浅瀬。オックスフォードという地名があるが、「牡牛の渡る浅瀬」。 帰ってから調べてみたら、日本では「洗い越し」といい方をするそうだ。街中でカフェのかわいい看板を見つけた!!入らなくても看板だけもこんなのを見るとパチリ♪この日のランチは「ワガママ」という名前のレストランで。私は餃子を食べた。ランチは餃子のみ。毎日よく歩き、小食だったから痩せた。もちろん、帰国したらすぐ元に戻ったけど・・・。_| ̄|○ザ シティ オブ カンタベリー・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.19
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■2018.7.7(土)街中が世界遺産という■カンタベリー■に行った。カンタベリー (Canterbury) は、イギリス・イングランド南東部ケント州東部に位置するシティ・オブ・カンタベリーの中心エリア。中世から代表的な巡礼地として栄えてきた。 「ウエストゲート(West gate)」という門がカンタベリー中心部への入り口。街の西にあるこのゲートタワーは町の玄関とも言える場所に堂々と立っている。昔のロンドンからの巡礼者はこの門をくぐりカンタベリー大聖堂へと向かった。ウエストゲートはイギリスで現存する最古の門で、今もなお実際に通行ができる大変貴重なものです。現在の門は630年以上もの歴史がありますが、最初に建てられたのは何と紀元3世紀。この頃、古代ローマ人たちが町を守るために造られました。(▲門の向こうが旧市街地。)その後、1380年代にフランスからの侵攻を防ぐためにより強固に造りかえられ、現在までその姿を維持しています。(▲新市街地?門の近くの八百屋さん。)この門を抜ける道が、そのままカンタベリー市街の目抜き通りへとつながっている。▲門の近くに川があって、川沿いに駐車場がある。▼この川の周りには、イギリスらしい昔ながらの家々が美しい状態で保存されています。▲カンタベリー大聖堂の門▼そのカンタベリーが、この「カンタベリー大聖堂」で、カンタベリー観光には外せないスポット。街の中心に位置する荘厳な大聖堂は、内部も圧巻で一見の価値ありです。外観も内装も精巧に作りこまれた大聖堂を見ていると、巡礼者たちが憧れ目指す聖地というのも納得できるでしょう。美しいステンドグラスを眺めるには天気のいい日中が最高ですが、夕暮れの大聖堂も素敵です。■聖オーガスティン修道院遺跡■現在、聖オーガスティン修道院の遺跡は世界遺産に登録されており、イングリッシュ・ヘリテッジに管理されている。 今日の修道院遺跡はカンタベリー大聖堂の東側のかなり広い範囲に及んでいるが、かつて修道院の全盛期には、修道院付属教会は近隣のカンタベリー大聖堂とその規模を競っていたのである。 しかし16世紀には修道院解散命令が出て、以降は宮殿として貴族たちに貸し出されましたが、18世紀以降になると廃墟となってしまいました。現在は、聖アウグスティヌスがもたらした歴史的功績をたたえて、ユネスコ世界文化遺産にも登録され、多くの観光客が訪れるスポットとなっています。マーティン教会は、世界遺産のひとつ聖オーガスティン修道院より徒歩で約5分にひっそりと佇む石造りの趣ある小さな教会です。イギリスで現在使用されている最古の教会で、イギリスの宗教史にとても重要な役割を担った教会です。▲マーティン教会の門▼6世紀にローマ教皇のグレゴリウス1世からキリスト教布教のために派遣された、アウグティヌスが同所を起点として布教活動したことでも知られています。アウグティヌスが 597 年に布教活動に訪れる前にケント王妃のベルタの私的な礼拝堂として建てられました。建設時期はローマ占領時代が終わった4世紀半ばだと考えられています。教会の基礎部分の煉瓦や教会内にあるタイルの壁などは古代ローマ時代のものです。 イギリスを代表する作家チョーサーの代表作である「カンタベリー物語」。■カンタベリー物語■は14世紀を生きた英国の詩人、ジェフリー・チョーサーが書いた物語集。カンタベリー大聖堂へと巡礼の旅にでかける一団が、道中の退屈しのぎに、それぞれが知っている物語を次々と披露していく様子をえがいています。■カンタベリーが巡礼地として脚光を浴びたのは12世紀。■ きっかけとなったのは、大司教トマス・ベケットにまつわる奇跡の物語。国王と対立の末、カンタベリー大聖堂の中で暗殺されたベケットが、死後、難病や大けがに苦しむ人々のもとに現れ、治してくれたという話が広まり、世界各国から巡礼者が訪れるようになったのです。現在は、ゴシック建築の最高傑作と称される大聖堂や、中世の美しい街並みが広がる旧市街を一目見ようと、世界中から大勢の観光客がやってきます。(☚街に立っていた人形)カンタベリー大聖堂、聖マーティン教会、聖アウグスティヌス修道院跡は、とともに、世界文化遺産群に指定されているということで、予定は消化した。この日、カンタベリーは、最高気温29度、最低16度だったとか。昼食後、B&Bに戻って16:30まで、休憩。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.18
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■2018.7.6(金)早朝、B&Bの周りを歩くと霧のリーズ城。その後、オーディオガイドを借りて城の中を見学した。■リーズ城は「the loveliest castle in the world世界で最も美しい城」■という惹句で語られている。実際リーズ城を訪れると、世界一と言い切ってしまうのは大袈裟な感もあるのだが、ヘンリー8世が行った大改築後のリーズ城は、確かにヨーロッパ随一の名城であったに違いない。ただ、その当時の名城の大部分は失われる運命をたどった。 16世紀に王族の手を離れた後のリーズ城は、20世紀に至るまで貴族階級である城主の手を渡っていくのだが、城には常に維持費と相続費の問題がつきまとっていた。時代が変われば変わるほど、城の存続は厳しさを増すばかりで、城は、英国中に散在する廃墟の城と同様、ただただ風化していくのを待つばかりに見えた。そこに救世主のごとく現れたのがオリーヴ・セシリア・パジェット――。後に「ベイリー夫人」としてリーズ城の歴史に欠かせない存在となる人物だ。オリーヴが初めてリーズ城を訪れたのは1926年。リーズ城をひと目見たときからその壮麗さに心奪われていたオリーヴは、1926年にリーズ城を18万ポンド(現630万ポンド=約9億5000万円)で購入。新聞王ハーストでさえ手を出さなかった曰くつきの物件を若干26歳の若妻が射止めることができたのには、彼女の類まれな蓄えによるところが大きい。もともと裕福な家庭に生まれ、金銭的には何の不自由もなく育ったオリーヴだが、その後も財運の女神に終始守られ、求めずとも豊かな富が流れ込んでくるような一生を送った。そして、自分の愛するもののために際限なく、その資産を注ぎ込んだのである。念願の古城を手にしたオリーヴは、自らの審美眼を試す絶好のチャンスを得て心躍らせたに違いない。自分好みの「マイホーム」になるよう、修復にあたってはさまざまな設計案、改築案を積極的に出したという。 若かりし頃にフランスで教育を受け、フランス文化に精通していた彼女は、当時国際的に活躍していたパリの建築デザイナーであり、室内装飾家のアルマン・アルベール・ラトーArmand-Albert Rateauをこの大修復の監修役に起用する。▲窓の下にある鉄の飾りのようなものは、暖房設備を隠すために考案された。▼また、この頃からリーズ城の内装を手がけ始めたフランス人室内装飾家のステファン・ブーダンStphane Boudinとも強い信頼で結ばれ、城をより美しくするための「共同作業」は、30年にも及んだ。ブーダンは、ホワイト・ハウスの内装を手がけたことで有名な、当時のインテリア界の大御所であった。ともに完璧主義の2人は意気投合し、各々の部屋について、床、壁の色調、家具、細部の装飾などが吟味され、さらに各々の部屋が全体として調和を奏でるよう計算し尽くされた。▲バスルーム。バスタブ▼(▲バスタブについているカーテンって、これから考えられたのだろうか?)リーズ城が、類まれな財産家であり、優れた審美眼を備えたベイリー夫人という人物に見初められ、蘇ったことはきわめて幸運なことだったといえよう。これにより、城は王宮だった中世の頃の品格と威厳を恒久的に持ち続けることができたのだ。週末の宴に招待された30名ほどの招待客は、金曜の夜か土曜の朝に車かチャーター便で到着し、土曜の朝食後はテニスやゴルフ、スカッシュ、乗馬、堀でのボートやスケートを楽しんだ。招待客の中には著名な政治家はもちろんのこと、ウィンザー公爵エドワード王子とウォリス・シンプソンや、ケント公ジョージ、ルーマニア王妃などを含む王族の他、ベイリー夫人が映画ファンだったことから、チャーリー・チャップリンやジェームズ・スチュアート、ロバート・テイラーなどの銀幕のスターたち、歌手や作家などが含まれていた。ベイリー夫人の、フランス仕込みの身のこなしや趣味の良さがゲストたちに受けたのは言うまでもない。ザ シティ オブ カンタベリー・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.17
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■2018.7.5(木)■シシングハースト・カースル・ガーデン ■を見た後、リーズ城に行った。この日は、外から眺めるだけ。(▲堀にかかった橋。)リーズ城の起源は9世紀に遡り、もともとはノルマン征服以前のサクソン人が所有していたものだった。1090年、ウィリアム2世が■ヘイスティングズの戦い■での功績を称え、従弟であるノルマン貴族に与え、12世紀になって石造りに建てかえられた。王族の所有となったのは13世紀のエドワード1世の治世で、王妃エレナーに献上され、王宮となった。その後、エドワード1世の後妻のマーガレット王妃に寡婦産(未亡人が相続する夫の財産)として譲渡されてからは、未亡人となった王妃が所有権を持つという慣習が始まり、エドワード2世のイザベラ王妃、リチャード2世のアン・オブ・ボヘミア王妃、ヘンリー4世のジョーン・オブ・ナヴァール王妃、ヘンリー五世のキャサリン・オブ・ヴァロア王妃などが所有および居住したため、「貴婦人の館」の異名を持つ。これら王妃のうち3人がフランスの王女だったため、フランス王室らしい室内装飾が施されるなど、中世を通して優雅さと気品に満ちた城だったことが伝えられている。リーズ城のシンボル「黒鳥」は、ベイリー夫人により初めてイングランドに持ち込まれた。鳥をこよなく愛していたベイリー夫人(20世紀になってからの城の持ち主)はドイツ、オランダ、ベルギーなどのヨーロッパ諸国はもちろん、南アフリカ、マダガスカル、オーストラリアまで自身で買い付けに出かけ、100種もの鳥を集めた。鴨池には珍鳥を含め、さまざまな水鳥が放し飼いにされている。そして、城の敷地内にある「リーズ城B&B」に一泊。ウサギのブックスタンドがある窓の下には▲美しい庭園が広がっている。▼▲珍しい草花で構成されている。▼▲庭には、クジャクが放し飼いにされていて大きな声で鳴いたり屋根に飛び上がったりと賑やかだった。▼翌日の朝食はバイキングスタイル。お茶のサービス券があったのでお城の見えるカフェでくつろいだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.16
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■2018.7.5(木)シシングハースト・カースル・ガーデン (Sissinghurst Castle Garden)は、イギリス、ケント州にある庭園。現在、ナショナル・トラストが所有し管理を行っている。シシングハーストの庭園がつくられたのは、1930年代、詩人のヴィタ・サックヴィル=ウェスト、彼女の夫で作家・外交官であったハロルド・ニコルソンによってである。(▲井戸のある風景。)ヴィタはブルームズベリー・グループの仲間である作家で、『オブザーバー紙』の園芸記者としてウィークリー・コラムを執筆し大きな人気を得ていた。そのため偶然にも(彼女は自分から売り込みを行ったことはなかった)、ヴィタ自身の庭が有名になったのである。シシングハーストの庭園は、イギリス全土において最も愛されている庭園の1つで、世界中から観光客を集めている。庭園そのものは、色やテーマによって異なる特徴を持ち、高く刈りこまれた垣根や多くのピンク色のレンガ壁で仕切られた、各々のルーム(room)の連続として設計されている。(▲堀と東屋(パビリオン))▲パビリオン(東屋)について書いてある。(▲木々に囲まれた美しい散歩道。)シシングハーストの土地は古くからある。ハースト(hurst)とはサクソン語で『囲まれた森』を意味する。防衛用に備えられた3つの堀を持つマナーハウスは、この地に中世に建てられた。ヴィタとニコルソンがシシングハーストを知ったのは1930年であった。2人がセヴンオークス近郊のロング・バーンに持っていた土地が、自分たちの管理が及ばないほどの開発が迫っていることを憂慮した後である。▲牧場へと続く。▼ シシングハーストは人の手が入らず遺棄された状態だったが、2人は邸宅の廃墟とその周辺の農地を購入した。それから2人は我々が現在知っている庭園をつくり始めたのである。▲ホワイト・ガーデン▼▲ホワイト・ガーデン▼▲植木鉢もユニーク。▼2009年、BBC Fourは8回シリーズのドキュメンタリー番組『シシングハースト』を放送した。住宅と庭園、アダム・ニコルソン(ヴィタとハロルドの孫)と妻サラ・レイヴンによる試みについて説明した内容であった。彼らはナショナル・トラストと協力関係にあり、シシングハーストの寄贈者であり住人でもある。▲この手の花の植え方、ヨーロッパでよく見る。うちに昔の流しがあるから真似したい♪▼ 【左】お揃いの帽子のカップル。【右】花模様が庭にピッタリ!2人はシシングハースト・カースル農場において従来のWealden農業のかたちを復元させている。▲野菜もかっこよく作られている。▼彼らの計画は、シシングハースト内のレストランで出されるランチ用食材を提供する目的で土地を活用することである。 ■ヴィタ・サックヴィル=ウェスト■*▲ヴィタの部屋がある塔。*▲塔の1階の飾り。▼**▲塔の上に上る途中で「VITA ヴィッタ」の文字。▲塔の上から見た庭。▼**▲庭は、白い花と銀葉で構成されている場所があった。▲古いベンチがあった。▲納屋リーズ城B&B・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.15
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■2018.7.4(水)1泊した「ジョージホテル」は、1階がレストランになっている古いホテルだった。取り立てていうほどの所ではないかもしれないが、近くの看板などがかわいらしくて印象に残っている。7月5日朝早くから、散歩を兼ねてコインランドリーを探してうろつくも、見つからなかった。■ジョージ・ホテル The George Hotel Cranbrook ■歴史的な14世紀の建物を利用した美しいブティックホテルです。美しいオリジナル時代の特徴とスタイリッシュで現代的なデザインが見事に調和した、ユニークな内装の異なる12室の客室を提供しています。(▲1階はレストランになっていた。壁に木の柱が出ている、チューダー様式。)The George Hotel & Brasserieは、クランブルックで最も歴史的な建造物の一つで、元は遠く1300年代までさかのぼります。現在はユニークなブティックホテルに生まれ変わりました。(▲裏庭もある駐車場から道路を見る。)(▲駐車場にある「ジョージ・ホテル」の印。)(▲駐車場にある犬の印。)現代的な快適さと設備の備わる年代物の豊かな美しい客室、または最先端設備の備わる洗練されたスタイリッシュで現代的なデザインの客室など、エレガントで豪華な客室から選択できます。▲駐車場から見たホテル。▲ホテルの正面の道路の向かいにある薬缶の看板?▲これも道路の筋向いにあった。▲近くの建物もあった白い馬のマーク。▼▲ホテルの正面の道路から見た風車。▲朝食。▼・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.12
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■2018.7.4(水)■魅惑のガーデン~スコットニー・キャッスル・ガーデン Scotney Castle Garden■イングランドで最もロマンティックなガーデンと言えばここ、スコットニー・キャッスル・ガーデン。ロンドンの南に広がる風光明美なケントにある、英国の代表的なガーデンの一つです。ガーデンの中心には、14世紀に建てられた、静かな湖畔に建つお城。まるで絵本の中から抜け出てきたような古城です。18~19世紀にかけて、英国では風景式庭園(ランドスケープ・ガーデン)が人気を博していました。このガーデンは、そのデザインがあまりに整然とし過ぎているとの考えから生まれた、ピクチャレスク・スタイルという新しいコンセプトの下に作り上げられたものです。「ピクチャレスク(Picturesque)」とは、絵画のように完璧な景色のこと。ドラマティックでバラエティーに富んだ風景を意味します。古城は、この庭を設計する際にフォーカル・ポイント(視点を集めるポイント)となるように、必要な部分だけを残して取り壊されました。さらに1952年には、当時のオーナーであったクリストファー・ハッシーとその妻エリザベスによってさまざまな植物が植えられ、1年中、彩りの絶えないガーデンへと変貌していきます。特に5月から6月にかけての季節は圧巻です。エントランスをくぐって小道を歩くと目の前に現れる、まさに1枚の絵のような光景。古城を眼下にシャクナゲやアゼレア(ツツジ)が色鮮やかに咲き乱れています。その花々に囲まれながら緩やかな丘を下っていくと、やがて白藤の蔦がからまる古城と、それを映し出す鏡のような湖面が目前に広がってきます。まるでロマン派の風景画の中に迷いこんでしまったような、素敵な錯覚を覚えるガーデンです。▲ボートハウスこれも風景になっている。またこのスコットニーには、広大なエステイト(領土)もある。屋敷の中にも入ることが出来る。▲ナショナル・トラストのカフェで一休み。▼壁に「AD1837」と書いてある。ヨーロッパでは建築年代をいれてあるのをよく見る。▲納屋のような別棟にあった、かわいいおけ?B&Bのパーキングにあった犬のイラスト♪ザ・ジョージホテルB&Bの近くにあった看板。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.12
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■2018.7.4(水)●ヘイスティングズの戦い(バトル・オブ・ヘイスティングス)■バトル (Battle) は、■イングランド、イースト・サセックスにあるタウン、行政教区である。ロンドンの南南東79km、ブライトンの東46km、カウンティ・タウンのルイスの東34kmに位置している。タウンの南東でヘイスティングスと接している。ノルマンディー公ウィリアム=ギヨーム2世(同一人物)がハロルド2世を破ったヘイスティングズの戦いの舞台となった場所で、戦いに勝利したウィリアムは、1066年イングランド王ウィリアム1世となった。西フランク王国(現在のフランスに相当)王は、北西の沿岸部の土地をノルマン人の一部族の首領であったロロに与え、公爵として封じた。間もなくその一帯はノルマンディーと呼ばれるようになる。(■▲前日に行った「ヘイスティングス城にて撮影■)その後、1066年、7代目のギヨーム2世=ウィリアム1世のとき、イングランドの王位継承を主張してイングランド王国へ侵攻し、ハロルド王を破ってイングランド王に即位した(ノルマン・コンクエスト、ノルマン朝成立)。 (■▲前日に行った「ヘイスティングス城にて撮影■)そのウィリアム1世が建設したとされるのが■「Hastings Castle(ヘイスティングス城)」。■●戦後処理●ギヨーム2世=ウィリアム1世はイングランド南部を平定、12月25日にウィリアム1世=ギヨーム2世として即位し、ノルマン朝を開いた。(■▲前日に行った「ヘイスティングス城にて撮影■)ウィリアム1世=ギヨーム2世は反抗したアングロ・サクソン系貴族の土地を没収して本土から付き従っていた功臣に与え、彼ら諸侯に忠誠を誓わせて強大な王権を樹立した。またロンドンを首都と定め、教会組織も整えた。こうしてイギリスには、中世では例外的に王権が強力な独自の封建制が成立することになった。戦いが繰り広げられたバトルの地には征服王(Conqueror)とも称されるウィリアム=ギヨーム2世がその後、カトリック教のバトル寺院(Battle Abbey)を建立。寺院はその後、ヘンリー8世によるカトリック排斥の命を受け解体と相成ったが、修道院などの古跡が古戦場とともに人気の観光スポットとなっている。解説テープが聞ける受話器を耳に古跡や古戦場を歩くことができる。その後、ノルマン人はアングロ・サクソン人に同化し、文化の融合も行われた。(■▲前日に行った「ヘイスティングス城にて撮影■)言語もアングロ・サクソンの言葉を中心に、ノルマン・フランスそれぞれの要素を融合させ、今日の英語になっていったのである。 ●その後●ノルマンディー公は、フランス王に臣従する一方で、イングランドでは王として君臨した。このイングランドとフランスの複雑な関係は、後の百年戦争の遠因となる。■ノルマンディー家■7.ギヨーム2世(1035年 - 1087年)「庶子公」「征服公」 イングランド王(ウィリアム1世、 1066年 - 1087年)「征服王」もし、この時、ノルマン軍が負けていたら、文化や言葉が違うかもしれない。今のようなイギリスではなかったかも知れない。この日、この時歴史が動いた。この地はイギリスの歴史を変えた。日本では「天下分け目の天王山」というけれど、「天下分け目のヘイスティングスの戦い」。日本語の音声ガイドを聞きながら廻った。▲小学生が遠足に来ていた。バトル (battle) 小規模な紛争、戦争、戦闘の意味。▲氷室ここから氷室へお入口。もちろん、入れないのだが。もうひとつ、イギリスの歴史を変えた戦争の地を訪れたことがあった。■天下分け目のカロードンの戦い■2016.7.23に行ったスコットランド。ハイランド地方インヴァネス近郊のカロードゥン湿原(ムア)において、ジャコバイト軍とグレートブリテン王国(以下イギリス又は英国と表記)軍との間で行われた戦いである。▲この日のランチ。▼・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.11
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■2018.7.3(火)■「Hastings(ヘイスティングス)」■伝統的な漁港と美しい景観を併せ持つヘイスティングスは、ロンドンからの日帰り旅行に最適な場所です。 歴史的には1066年に起こった「ヘイスティングスの戦い」の舞台として知られています。アングロ・サクソンの王であったエドワード懺悔王の支配下にあった当時のイングランドでしたが、王の死後、その妻の兄に当たるハロルド2世が即位しました。そのことを不服とし、兵を挙げたのがエドワードの従甥であったウィリアム1世。勝利を収めたウィリアムがノルマン朝を開き、現在のイギリス王室の開祖となりました。(▲対岸のフランスからの遠足なのかフランス語で語り合っていた子供たち。)特筆すべきは、王となったウィリアムがノルマン人(フランス人)であったということ。その後ノルマン人はアングロ・サクソン人に同化されてゆきますが、イギリス王室がフランス人の手によって開かれたという史実に驚かされます。そのウィリアム1世が建設したとされるのが「Hastings Castle(ヘイスティングス城)」。現在では城跡を残すのみですが、その崩れかけた姿に寂れた味わいがあります。小高い丘の上に建つ城跡は、絶好のビューポイント。お天気のよい日には英仏海峡を見渡せるほか、美しいビーチとかわいらしい町並みが一望できます。歴史を刻む廃墟と青い海のコントラスト。どの角度をとってみてもフォトジェニックであることに間違いありません。●美しいビーチと町並みが魅力の「ヘイスティングス」▲丘の上の広場には野鳥のために水を用意している。丘の上から見ると街に置いた車が小さく見える。高いところにある城跡には、まちからエレベーター(リフト)が出ている。古くて小さなリフトは、レトロ感満載。中も木造で、これまたレトロ。ヘイスティングス城からも見下ろせる「Hastings Pier(ヘイスティングス・ピア)」は、19世紀に建てられたという桟橋。落雷や火災による被害により再建され、現在のものは2016年より使用されています。●港町で堪能する本場の味「フィッシュ&チップス」港町での楽しみのひとつは、なんと言ってもおいしいシーフードを味わうこと。お城の近くでフィッシュ&チップスを買って持ち帰り夕食とした。17:00 「ル・シャトー・ジャポネ」に着く。チェックイン。車は、ホテル前の路上駐車。1Fの2号室。部屋は、かなり年代が経っている様子。バスタブがあった。温水式の便器は、今回、初めて見た。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.10
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■2018.7.3(火)ビジターセンターから約1時間■蛇行するカックミア川■の畔を歩いてやっとセブン・シスターズの見える海岸に着いた。■セブン・シスターズは、■イングランド南部にある、石灰岩からなる海食崖。高いもので150メートルにもおよぶ、壮大な絶壁だ。その外観に似合わないかわいらしいネーミングは、7人の乙女が立っているように見えることから名付けられた。青い空の下、イギリス海峡に迫り出すように連なる白亜の断崖は、ダイナミックで見るものを圧倒させる。だが、いずれはこの景色も見られなくなってしまう。というのも、チョークと同じ素材の石灰石でできているため、波や風に浸食され、毎年数十センチずつ削られているからだ。数年ですべて消えてしまうわけではないが、景色は年々変わっていくはず。この美しい景色が見られるうちに、ぜひ訪れておきたいものだ。☚「打ち上げ花火下から見るか?横から見るか?」「セブン・シスターズ、下から見るか?横から見るか?」■上から見ても大迫力!!■帰りももちろん■蛇行する川の畔を■歩いてビジターセンターに。ビジターセンターの近くのカフェでランチ。ダイエットのためでもないのだが、ランチはいつもこんな風。セブンシスターズの近くのカフェを出て緑のトンネルを抜け次の目的地へ。▲途中、スーパー「テスコ」で夕食を買い物。「セブン・イレブン」毎日、朝7時から夜11まで営業。私たちは便利だけど働く人は大変。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.09
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■2018.7.3(火)■蛇行する川には蛇行の理由あり急げばいいってもんじゃないよと■俵 万智川は湿原に水を配りながら蛇行していました。人間はA地点からB地点へ、直線で行くことばかり考えがちだけど。白亜層の断崖「セブンシスターズ」を見るために、カックミア川を見ながら歩いた。セブンスターズに近づくためには、歩くしかないのだ。 行く前ビジターセンターに寄って片道1時間くらいかかるから、トイレを済ませて・・・。 歩きながら、なぜ川は蛇行するのかと考えてみた。そしたら冒頭の俵 万智の歌を思い出した。■川の蛇行はなぜおきるか?■川は最初から多少曲がって流れていますが、流れがとくにゆるやかになる下流では、わずかな障害物があっても流れの向きを変えることが多いです。そのとき、流れは岸の一方に当たってその部分をけずり、次には反対側の岸をけずります。また、流れがかわるときの内側の岸は、いつも流れの速さがおそいので、運ばれてきた土砂どしゃがたい積します。(▲雨が降らないので水が枯れていた。)このようなことがくり返される結果、川の曲がりかたはますますひどくなり、川の流路がヘビのうねった姿のようになります。これを川の蛇行だこうといいます。土が非常に薄いので、ほとんど草しか育たない。わずかな木も海からの強い風に一方に傾いている。ビジターセンターの近くではカヌーをする人でいっぱいだったけれど30分以上歩いたころには人影もまばらに・・・。そして、とうとう川の終点についた。■川は人生に似ている。■まっすぐ流れる川。蛇行する川。迷走する川。清流、濁流、奔流。私の人生の川はどんな川だったのだろうか・・・。この先は海・・・。そしてセブンシスターズ!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.08
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■2018.7.2(月)ワイト島からポーツマスを経てナイマンズ・ガーデンへ。■ナショナル・トラスト:ナイマンズ・ガーデン■ナイマンズの庭は、株式仲買人のルードヴィッヒ・メッセルとその家族により、1890年から半世紀かけてつくられました。ドイツから英国に亡命したルードヴィッヒは、ロンドンの金融市場で大成功を収めると、6人の子どもたちをのびのびと育てられる理想の田舎家を持とうと、ナイマンズの地所を買い求めます。 もともと美術に造詣が深かったルードヴィッヒは、新たな趣味として庭づくりに取り組みます。 知識豊富な庭師のジェイムズ・コーマーの力を借りながら、彼は美的センスを発揮して、ロックガーデンやヒースの庭、針葉樹園などをつくり、園芸界の注目を集めます。彼はまた、世界の珍しい樹木や植物を集めたり、それらの耐寒性を実験したりと、新しいものに取り組むチャレンジ精神も持っていました。1915年、ルードヴィッヒが亡くなると、長男のレオナルドが地所を受け継ぎます。レオナルドの妻モードは、芸術家肌の創造性豊かな人物で、古風でロマンチックなものが大好きでした。彼女はいささか平凡だった屋敷を、美しい中世の邸宅風に建て直させ、卓越した審美眼で室内も美しく設えました。しかし、残念ながら、屋敷の半分は、1947年に起きた火事で失われてしまいます。夫妻は別宅へと移りますが、皮肉なことに、廃墟のようになった外壁は、まるでおとぎ話に出てくるような美しい背景となって、ナイマンズの情緒ある庭景色に不可欠なものとなったのでした。1953年、レオナルドの死後、ナイマンズはナショナル・トラストに遺贈されます。娘のアンは、社交界の華として注目され貴族と結婚して伯爵夫人となった人物ですが、未亡人になると幼少期を過ごしたナイマンズに戻り、愛しい庭で余生を送りました。母譲りの美的センスを持つアンは、庭の花々を自ら摘んで、部屋の雰囲気に合わせて生けるのを楽しんだといいます。(▲暑かったので日陰で過ごすヒツジの群れ。)ナイマンズの庭園の外には素晴らしい森が広がっていて、ウォーキングや野生動物の観察を楽しむことができます。1987年、イングランド南東部を大嵐が襲い、ナイマンズの庭園や森では樹齢数百年の大木を含め、500本を超える木々が失われました。30年が経った今、庭や森は美しく再建されています。宿に向かう途中、スーパー(生協)があって、寄って食材を買ったが、そばにコインランドリーを見つける。とりあえず、洗濯ものをマシーンに入れてから、宿に向かう。ワーシングの「ハイダウンホテル」にチェックイン。Highdown Hotel&restaurant-Relaxlnnz・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.07
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■2018.7.1(日)■オズボーン・ハウス■の後、ホテルに行って車を置き、散歩しながら夕食を食べに行った。歩いていると キノコ!!発見!!そこからしばらく歩くと、一番上の写真のような家が見えてきた。オールド・ビレッジだ!!名(オールド)は体を表す!どの家も藁ぶき屋根で童話の中の家のように古い。中でも目立つピンクの家は、「ベスト ティー ルーム」。中に入らなかったのは残念。(ノД‘)屋根の上には、藁で出来たティーポットとティーカップ♪他の家にネズミを追いかける猫の屋根飾りもあったけど、何のためなのだろう・・・。目印なのかな・・・。謎・・・。ピンクの家の斜め前にあるイタリアン・レストラン「パバロッティ」で夕食。崖を見ながら宿に帰ることにする。崖の下にも家がたくさんあるし、砂浜には人も多い。下まで行くのは大変だー。▼ん??クリフ・ロフト?崖エレベーター?▼左の塔のような建物がリフト。 有料だ。▲ごみ収集車。▲マールボロー・ホテル1階。▼部屋の中ではWIFIは使えない。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.07
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■2018.7.1(日)■カリスブルック城■の後、オズボーン・ハウスへ行った。■オズボーン・ハウス■■オズボーン・ハウス ■は、1845年から1851年の間に、イギリス女王ヴィクトリアと王配アルバートのために建てられた。設計はアルバート公自身がした。結婚してから3年が経過した1843年10月、ヴィクトリア女王は既に1男2女の母となっていた。当時のオズボーン・ハウスは、レンガと石から成るこぢんまりとした3階建てのものだったが、女王は「部屋は少々狭いけれど、気に入りました。子供たちのために改装して、増築すれば素晴らしい住まいになるでしょう」と、日記に記している。1845年、女王夫妻は342エーカーの敷地を持つオズボーン・ハウスを購入。さらにその3年後には、スコットランド中部アバディーンシャーにあるバルモラル城 Balmoral Castleも、オズボーン・ハウスと同様の理由で手に入れている(正式な所有権は1852年からとなる)。(2年前にスコットランドに行ってアバディーンにも行ったのにバルモラル・キャッスル行ってない(ノД‘)これにより夫妻は英国土を縦断するように、それぞれ北と南に一軒づつ理想的な別邸を有したのである。▲マグノリアの花のランプ♪オズボーン・ハウスにはレストランやカフェがあって、レストランでランチ。レストランには、マグノリアのランプがいくつも置いてあった。足元の部分も葉っぱのレリーフがある。こちらの人はマグノリアが好きなのか、この宮殿にもあったし、■アガサ・クリスティーの家■にも立派な木があった。■動物コレクション■▲痛ーーたたた!!首しめるな!痛いやないか!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.06
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■2018.7.1(日)■カリスブルック城■(引用)1000年頃に、ヴァイキングの侵略に対する防御としての壁が作られ、12世紀ぐらいからおよそ2世紀にわたり石壁や塔なども含めた城として整備されていきました。イングランド王が所有していた時期もたびたびあったようです。唯一処刑されたイギリス王チャールズ1世が、処刑前の4か月間、この城でとらわれていました。ワイト島の長官であったヴィクトリア女王の末娘ベアトリスの屋敷でもありました、わりと高台にあり、キャリスブルック村がよく見えました。そんなに展示物はなかったのですが、中は見学ができました。礼拝堂に入ってすぐのところにチャールズ1世の胸像(チャールズ1世がここに処刑前にいた)。キープ(天守)への階段はめちゃ急で、さらに、キープの周りも歩くことが出来ました。城壁の上を歩けます。城の庭の一角に、ロバがいた。間もなく、ドンキーショウがあるというので見た。屋根のある部屋の一部に大きな樽が置いてある。その前に井戸があった。ワイト島は島なので井戸を掘っても塩水が出るのではないか・・・。もし、真水を得ようとすれば、よほど深く掘らなければならないんだろうか・・・。とにかく、昔は井戸水を得ることは重労働だったのだろう。ロバが樽の中を回ることで、釣瓶に入った水が上に上がってくるという仕組みになっている。いくら足を前に出しても進むことのできない樽の中でロバは何を考えていたのだろうか・・・。ロバの考えなど人間はお構いなしにみんなロバに拍手を送る・・・。■イギリスで見た動物たちはみんな大事にされていたのに・・・。■城壁をあるいてみたいと思ったが、ワイト島には1泊のみで、この後の予定があったので、さっと引き上げた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.06
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■2018.7.1(日)10:15分、レンミントンフェリー乗り場からフェリーでワイト島を目指す。船の客は、犬を連れた人がけっこう多い。■ワイト島は■イギリスのイングランドの島であり、島全体で1州をなす。本土(グレートブリテン島)から狭い海峡を挟んだ南方に位置し、対岸はハンプシャー州。(赤字に白の字が鉄道。)フェリー乗り場のすぐそばまで、鉄道が敷かれている。フェリーに乗ってしばらくすると、賑やかな歌声とギターの音。10人以上の人が、ギターを弾きながら歌っていた。■「戦場のピアニスト」■ならぬ「船上のギタリスト」。 曲は、■ビー・マイ・ベイビー動画■♪音が出ます!!(▲ザ・ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」1963年。)(*´▽`*)この曲、大大大好き!!!もう一曲は、■ 「デイ・ドリーム・ビリーバー」■1967年。 もし、私が歌と英語が上手かったら、リクエストして、「夢のカルフォルニア」(1965)なんかも一緒に歌いたい♪ところで、ワイト島は、1970年には前年のウッドストックを上回る約60万人が集まった過去最大のロック音楽祭のひとつワイト島音楽祭の拠点になった。飛行場もない島に60万人が集まったなんて、その時代の熱を感じる。ノリノリの曲を聴いていたら、45分の船旅はあっという間に終わり11:00ワイト島・ヤーマス港に着いた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2018.09.02
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