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最近のぼくは、どうもチャレンジが足りない。もっと何か始めないと。1年前の今日は、もっとアタフタしていました。食うや食わずやの生活で、毎月10万円くらい貯金が減っていって、プライベートその他でも大変な時期でありました。何度も「もうダメか?」と思いました。しかしその分、非常に学びの多い時期でもありました。しかし最近はどうだろう?去年に比べると、ずいぶんと余裕ができました。ちゃっかりマザー牧場になんかに遊びにいってしまいました。10人以上施術しても、ほとんど疲れなくなりました。週末の今日も、ヘトヘトという感じではありません。給料も、なんとか暮らせるくらいになりました。愉しいです。けれど、そんなことで良いのかな?まだまだ「ぬるま湯」に浸かりたくはないんだよね。「生ぬるい温泉はまだちょっとでいい」んです。だって、花の20代だよ?地位も金もないけれど、時間と体力がありますよ。経験はないけれど、未来がありますよ。今チャレンジしないで、いつチャレンジするんだろう?「○○さえあれば頑張るのに」「○○が□□になったらチャレンジする」「いついつになったら勉強をはじめるつもり」それは条件付けじゃなくて、「やらない理由」つまりただの言い訳です。明日を生きることはできません。ぼくらは今日を生きることしかできないのです。遅すぎるなんてことはありません。いつでも今日から、チャレンジできるのです。
2010年10月23日
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突然ですが、あなたは「プロフェッショナル」ですか?「俺はプロだ」と誇りを持っていえますか?たしかに、この現代では、技術だけでは生きていけない。プロフェッショナルは一流の技術を持っていることが当たり前なのだ。一流になるには、一流のものに触れることが大切だと言われています。しかし一流のものは、なかなかそこらへんに転がってはいない。というか、そこらへんに転がっていないから、一流なのだ。一流の技術は、絶対に普及しません。その理由は、1:一流はむずかしい2:一流は金がかかるです。普及したように見えるものもありますが、普及するときはかならず簡素化されて、「大切な部分」はたいてい、そぎ落とされている。ぼくはテレビがあんまり好きではないですが、それは情報の密度がやたら薄いからなんです。おおよそ三流の情報しか流れていない。だからテレビの情報ばかりしゃべる人は底が浅い。しかし一流のテレビ局というのはあります。というか、みんなが見ているフジテレビとかテレビ朝日とか有名どころはすべて一流と思います。しかし、それは広報・広告・プロパガンダの技術が一流なのです。言ってみれば「見せ方」が上手いのです。自分が広告の勉強をしてみて、テレビというのは本当に一流の技術で広報するのだと思った。けれども流れているのは(ぼくが思うに)三流の情報です。それはテレビが悪いのではなく、けっきょく、多くの人(マス)に一流の情報を伝えるというのは、どだい無理な話なのです。禅に「不立文字」という言葉がありますが、一流の情報は、言葉では伝わらない。ましてや多くの人に同時に伝えるなどということは、どう考えても不可能なのです。一流の情報は、言葉にならないし、そしてほとんどは高級です。金がかかります。ですからお金のある人が、一流の情報を入手して、そしてまたお金を稼ぐという構造になっているのですね。ですから超一流のプロになりたいのなら、やはりそれなりにお金をつまねばなりません。またテレビや本にはない情報を入手しなければ、とても一流にはなれません。それには一流の人のそばにいることです。そうすれば「気」として情報が入ってきます。一流の「気」が移るのです。たしかに大衆向けでも素晴らしいものはあります。吉野家の牛丼はうまいし、マックのポテトのにおいにそそられます。けれどもそういった価値観とともに、なかなか手に入らない、高級な一流の価値観も楽しめる自分になると、より人間力が高まるのではないかと思います。ぼくは仕事をする以上、本当のプロフェッショナルでありたい。あー、うまく言いたいことがまとまりませんでした。
2010年10月19日
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https://twitter.com/ozekeyツイッター、はじめました。↑「冷やし中華はじめました」的に今後もみんなが使うのでしょう。はじめました、というか本格的に取り組むことにしたということです。数ヶ月前にアカウント取得したのですが、使い方が分からず放置していました。ただ、ちょっと勉強してみるとどうもぼくが今後生きていくのに非常に有効活用できそうなので、さっそくやってみます。なんでも、やってみないとわかりません。新しいものを否定するのはモッタイナイですね。https://twitter.com/ozekeyツイッター本などを読んでみて分かったのですが、「ツイッター」というのは新しい言語体系なのですね。「@」「RT」など、それを見た瞬間にパッとカラダで分かる、そういう脳の状態にもっていけば、ツイッターはかなり使えると読んでいます。ただ、その言語体系を習得するまでにすこし時間がかかる。まあ、英語を覚えるのは大変だけど、覚えたらスゴイ武器になるのと一緒ですね。ぼくは英語は全然しゃべれなくて、「hello」と「thank you」と「back come on」しか分からないのですが、なんとかツイッターなら習得できそうです。どうあがいたって時代は変わっていきます。その流れに乗るも乗らないもあなた次第。それから、時代によって変わるものと変わらないものを見極めることが大切ですね。ではでは、尾関ツイート、よろしくフォロー願いますm(_ _)m https://twitter.com/ozekey
2010年10月02日
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【前回までのあらすじ】「上から目線」にするとクレームが減る?正しい敬語を捨てて、ラクに接客する技術とは?==================================そもそも、人間関係というのは「相対的」なものです。係長と課長ですと課長が目上で、課長と部長ですと、課長は目下です。つまり、相手があって、はじめて自分がある。自分があって、はじめて相手がある。そのことを「立場」と言います。しかし主に接客業では、「お客様は神様だ」とか言われて、ついつい相手を異常に持ち上げてしまいます。サービス業のマニュアル本などですと、そうして「王様気分になって気持ちよくなってもらう」なんて書いてありますが、ぼくから言わせてもらえばそれは間違いです。相手を王様に仕立て上げてしまえば、相手がわがままを言うのは当然でしょう。だって王様ですから(笑)もちろんお客様は神様でもなんでもありません。神様がふつうのスーパーに買い物に来るわけない(笑)とにかく相手が調子に乗ってしまったら、それはもうクレームの下地ができたことになります。けれども、逆にこちらが「上から目線」で行くと、相手は必然的に「下から目線」になってしまいます。「相対的」な「立場」というのシーソーのようなものですから、片方が上がれば、片方が下がるのです。ただ、ここにひとつポイントがありまして、単なる「上から目線」では、「王様」の火に油をそそぐ結果になりかねないのですね。ではどうするかというと、「先生」になればよいのです。「先生」という職業は面白くて、だいたいの人がお金をもらって偉そうにしています(笑)なんでそんなことができるかと言えば、「教えてあげる」ことができるからなんです。なんで「教えてあげる」ことができるかと言えば、プロだからです。あることを知らなくて困っているのが素人。素人の知らないことを知っていて解決できるのがプロです。プロはプロなのだから、プライドを持って堂々としておればよいのです。何も卑屈になる必要はない。ラーメン食べにいくのだって、やたら恐縮していて、敬語が上手で、ラーメンが下手くその店主がいる店よりも、堂々としていて旨いラーメンをつくる頑固親父の店にいくでしょう。頑固親父がバカ丁寧に接してくれなくても、それはクレームにならないのです。素人は、プロの経験と知識にお金を払うのです。正しい敬語のために、財布のヒモをゆるめたりしません。素人は、経験と知識のあるプロが家族のように接してくれると嬉しいのです。その「親身さ」を求めているのです。それさえ満たせば、けっしてクレームが起こることはありません。それは関係性ができあがる段階で、クレームが起こりようもない状態になっているからです。いかがでしょうか?クレームを減らす「上から目線」仕事術。参考になりましたか?
2010年09月23日
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正しい敬語をしゃべるから、クレームになる。クレームに対応するよりも、クレームを出させないように対応することが肝要だ。ぼくも、本屋時代にはよくクレーム処理をしたものです。世の中には、つまらんことでクレームをつける人って、いるもんですよね。きっとブログ読者の中にも、クレームでお困りの方も多いでしょう。というわけで今日は「クレームを出させない仕事術」をお送りします。ところでぼくは、見かけによらずけっこう短気なところがあり、レジの店員の態度が悪いと、ぶちキレそうになることがあります。「コラァ、ボケェ!!」とかは言わないのですが、けっこう不快な思いをすることが多い。あまりにもヒドイ態度のコンビニ店員に一度だけレシートを丸めて投げつけたことがあります(笑)なんでそんなにも怒ったかというと、人間扱いしてもらえなかったからですね。もちろん、コンビニでね、高級ホテルのような対応しろって言ってるんじゃないですよ。ただ、ふつうに人間相手にしゃべってほしいだけなんです。なんかありきたりな論調になってしまいますが、「マニュアル至上主義」で、大切なことを見失ってる人が多いような気がします。「このセリフを言えばいい」「こういう敬語を使わないといけない」というヘンなルールに縛られて、訳わかんないことになっちゃっている。ぼくもマジメ君ですから、社会人になりたてのころなど、敬語を一生懸命覚えたものです。それでもやっぱりクレームは出るわけです。どんなに敬語が正しくても、怒るやつは怒るんです。当たり前ですけどね。じゃぁ何が大事かって言ったら、やっぱりそこは気持ちなんですね。「気持ち」次第で、クレーム発生率は大幅に変わってきます。ではいったい、どんな「気持ち」になれば、クレームが減るのでしょうか?それは・・・「上から目線」です。ふざけちゃいかん!と思った方、とりあえずもう少しだけ読み進めてみてください。なぜ、「上から目線」にするとクレームが減るのでしょうか。それは・・・続く
2010年09月23日
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何かを発言したいと思ったら、結果を出せばいい。なんの実績もない人が、俺を理解してくれ!俺を褒めてくれ!俺の言うことを聞け!と叫んでも、負け犬の遠吠えに聞こえるだけだ。まずは結果を出すこと。数字を残すこと。その数字をみんながスゴイと思えば、自然と話を聞いてくれる人が増える。この1年間で、ぼく自身の成長と整体院の成長がありました。そして数字が上がれば上がるほど、発言力が強くなるのを実感しました。1年前はホントにペーペーでただ言うことを聞くしかできなかったが、今ならある程度の意見を通せる。施術の技法や見立てについてもある程度の議論ができる。それに月収も数倍になり、やっと食っていける分をもらえるようになりました。モヤシ生活から脱却し、最近、先輩の誕生日にラーメンをごちそうできました。またいつもおごってくれていた仲間を飲みに誘って、お返しができました。時間を切り売りしてもらったお金でなく、自らの手で稼いだお金で人様に喜んでもらう。これは極上の喜びです。結果を見て、人は判断するのです。努力を評価してほしいというのは、単なる甘えです。「あれだけやったのに・・・」ではなく、「あれだけしかやらなかったから、 こんな結果になってしまったのだ」と考えたほうが自身の成長につながる。つべこべいう前に、どんな手を使ってでも結果を出し、数字の残すのだ。倫理やら道徳はそのあとで結構。まずは世の中で自分の居場所を切り開くこと。それが何より大事だと思った。ちなみに今だから告白しますが、本屋時代もかなりエグい手を使って目標達成してました(笑)結果を出せば、誰も文句は言えない。圧倒的な数字があれば、何も言わなくても雄弁なのです。それは施術であれ、他の仕事であれ、ほとんど真実だと思うのです。
2010年09月06日
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最近は仕事が「熱い!」実は9月のはじめにぼくが働いている施設が1周年記念イベント行うのです。ここ数日はその準備でてんてこまい!また我らが整体も新たなコンセプトを打ち出すことになり、そちらの準備に大わらわ。いやー、でも楽しいね。毎日アタマがフル回転です。整体の研究もいいけれども、なんかみんなで事業をやるのも楽しいかもね、と思ったりする。とにかくそのイベントが終わるまでは走りきるのみ!がんばります!!
2010年08月20日
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ボツ。はい、却下ー。ボツほど悲しいことはない。一生懸命つくった作品が、まったく認められない。精魂こめて作ったのに、批判ばかりされる。自信喪失。ぎゃふん。しかし、のちのち振り返ってみると、ボツが多ければ多いほど、そのとき出来た作品は良質だ。そしてボツを食らった作品を見てみると、たしかに一味足りない。そのときはじめて「客観的な視点」を受け入れることができる。ボツは本当にありがたいことです。褒められることも嬉しいけれど、「これはダメだ」と言われることで成長することも多い。ついついがんばって作った作品には「おもい」がこもってしまい、素晴らしいものに思えてきたりする。しかし、周りから見たら、非常にレベルの低いものを作っている可能性がある。だからボツはもらえばもらうほど、良い作品を作ることができる。ボツを恐れちゃあいけない。食らったボツが多いほど、没我(無私無欲の状態)になって、よい作品が作れるのです。
2010年04月17日
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およそ1800年前の中国の名将「韓信」は、街のごろつきに馬鹿にされたが、言われるがままにその股をくぐったという。曰く「恥は一時、志は一生。こんな輩を相手にしている場合ではない」そう、つまらんプライドをぶっ壊し、屈辱に塗れて、ボロボロになれ。それでこそ、ほんとうの成功を掴み取ることができる。
2010年03月11日
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みずから頼ると決めているものがあるのは幸せなことです。ぼくにとっては、生き方の基準が「合気道」になっています。ですから、「それがよいのかどうか?」という判断は、それが合気道の考え方に合うのか合わないのかを考えます。あとは「禅」というものに興味があって、本格的には修行したことがありませんが、合気道と考え方がとても似ているので、禅的なものに対しては「是」ということになります。整体の技術に関しても合気道と身遣い(カラダの動かし方)が同じであれば「是」、合気道の身遣いにそぐわないようであれば「非」というふうに判断しています。ここ1週間くらいで、合気道と整体のトンデモナイ共通項を見つけてしまい、ひとりで小躍りしていたのですが、また昨日ヤンゴトナイ共通点を見つけ、今度は本格的に踊ってしまいました。明日はじめて実践で使ってみようと思うので、施術が楽しみです。それはともあれ、判断の基準となる規矩を持つということ。それがだんだんと「自分」という軸になってきます。そしてその軸を突き詰めることにより、「使命」が見えてきます。とはいえ、ぼくはまだ自分の「使命」が見つかりません。なんとなくモヤモヤとは見えているのです。キーワードは「日本」「こころ」「整体」・・・。このあたりのキーワードがカチッとハマれば、「俺はこのために生まれてきたんだ!」と思えそうな気がするのですが、まだなかなかそこまで至りません。いつも「自分の幸せ」ばかりを優先してしまっている気がします。しかし言いわけになるかもしれませんが、与えるためには「余裕」が必要です。自我の欲求を満たし、自分が満足したところで、他人の幸せを求めても遅くないのかなあと思ったりする。でも、「自分の満足」って際限がないよね。どこで「足るを知る」か。それが問題だ。まー、なんだかんだで最高の仕事につけて幸せですよ。なんでこんな自慢をするかと言うと、うらやましく思ってもらいたいからです。「くそー、俺も天職と思える仕事に就いてやる。尾関ができるんなら、俺でもできるだろう」と思ってもらいたいからです。だから今、「天職」に就いている人はべつにブログを読まなくたっていいのです。でも、「なんか自分の仕事がしっくりこない」「仕事が嫌い」という人には伝えたいことがあります。だって、「仕事が嫌い」なんてもったいなさすぎるよ。チョコっと変えれば、すぐに楽しくなるのに・・・。そんな思いでブログを書いているわけです。次は、テレビの前の・・・アーナーターたちです!なんか話がそれたような・・・。
2010年02月28日
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「お金を儲ける」ことよりも、ぼくは「お金を集める」ということをしたい。これは言葉遊びではなくって、「集める」という表現は、「何かしらの目的のために集める」という意味合いがあるのです。お金は目的ではないんだよ、と。でも、そのお金を遣う目的はまだ見えてこないのです。うーむ。
2010年02月21日
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昨日、寝る前に思いついたのだが、やはり誰しも「自分」が好きなのだ。だから「自分」はビジネスになる。「自分」こそが、いちばん大きなマーケットだ。
2010年01月22日
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決断力とはやらないことを決める力だ。整体でも他の仕事でもそう。手段(手法)を精選し、バシっと決める。要らぬことをダラダラとやらない。やると決めたらやる。それだけなんだけどなあ。
2009年12月25日
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仕事に貴賎なし。「すばらしい仕事」や「カッコイイ職業」などない。「みじめな職業」も「つまらない仕事」もない。ただ、誇りを持って遂行される仕事は美しく、仕事に誇りを持つ人間もまた、美しい。誇りもなく働くのは、仕事に対して失礼で、また自分自身を冒涜する行為である。
2009年12月15日
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仕事って一体なんなんだ。仕事って何のためにやるの?世のため人のため?家族のため?それとも自分のため?もう、わからん。
2009年11月21日
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部下の提案が抽象的であいまいなとき、「なんだこの企画は。あまりに具体性がないよ。 もっと詳細まで考えて持ってこい!」と「お、おもしろいアイデアじゃないか。 もうすこし具体的にして、もう一度見せてくれ」とでは部下のやる気も大違いなのだ。出している指示はメタ的な意味で「具体的な企画を持ってこい」だが、言い方ひとつで成果も変わってくる。言葉って、すごいな。言葉って、怖いな。↓「言われてみればそうかも」と思った人はクリック!
2009年11月08日
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仕事を変えて間もないですが、転職してよかったと心から思います。もちろん給料が少なかったり、シンドイことも多いですが、それでも前よりは全然よいです。前の仕事では何かしらコンプレックスがあったんです。本屋ってすばらしいと今でも思いますが、どうも自分がやるには合わなかったのです。今はやっぱり何かが違うんですよね。「仕事を給料で選んだわけじゃない」って心から言えるというか、世間に対して、誇りを保てる感じです。「やりたいことをやる」というのは面白いもんですよ。肚をくくってさ。さあ、みんなも「こっち」へおいで!
2009年09月25日
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今日は10名の方に施術しました!親子で来院されているかたもいましたが、お二人とも笑顔で帰られ、ぼくも嬉しいかぎりです。今日の実感。我らが療法の威力はスゴイ!!肩コリが、ほんの数十秒でなくなるなんてなかなかないからね。もちろん他の効果もすごい。明日もがんばるぞ。
2009年08月05日
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本日、ブレーメン習志野での初仕事でした。不調者さんは12名!あまりの忙しさに昼飯(おにぎり)を食べるのが16時半になってしまいました。でも楽しい!キツいこともありますが、今日はなんだか楽しかったですね。明日は販促やらなんやらの計画を練る日です。さてさて、どんな戦略でいきましょうか。
2009年08月03日
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ブレーメン習志野がオープンしました!ケアプラザならしのビコーがオープンしました。千葉健康回復整体ネットもオープンしました。この3つはどういう関係?!面倒くさいので、あえて説明はしません! orz!!とにかく僕は、整体師としてここで働くっちゅうことです。今日は仲間の先生が12名の方に施術しました。ぼくは月曜日に9名施術する予定。この調子でいけば、なんとか生活できそうだ!気になる方は「千葉健康回復」で検索!!カラダの不調を良くしたい方は、お早めにカモーン!今夜12時、あなたの肩コリを奪います。怪盗肩こり泥棒、ozekeyより。(キャッチコピーをいろいろ考え中)今日は幕張で遠くにいろんな花火を見ながらごはんを食べてきました。なんかヘンなテンションです。お風呂にいってきます!
2009年08月01日
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明日、8月1日、千葉県習志野市東習志野に、「ブレーメン習志野」がオープンします!ぼくはそこで働きます。気になる方は「千葉健康回復」と検索してみてください!果たして、どんなものがヒットするでしょうか?http://kenkokaifuku.net/
2009年07月31日
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いやいや、なんだか大変なことになってきました。まあ、なんとかやるぞ!
2009年07月16日
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今日は、知り合いの先生の施術所で修行&ミーティングしてきました。この3日間はめちゃめちゃ勉強させてもらって、最高に楽しいです。3日で10時間くらいしか寝てないですが・・・。明日はいちおうオフですが、チラシ作りがあります。チラシっちゅうのは、見るのは簡単ですが作るのは難しいもんですねー。引越しの片付けがぜんぜん進みません。3日間お世話になった施術所「東葉コンディショニング」すごい先生ばかり揃ってます。肩・腰に痛みのある方はぜひどうぞ。http://toyo-care.com/
2009年07月12日
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今日は、年に一度の会社の総会の日で全国に散らばった全社員が一堂に会する珍しい日であります。そして今日は、ぼくの最終出勤日でもありました。今までお世話になった上司や先輩・後輩、そして最良のライバルであり最高の仲間であった同期のみんなといろいろ話ができて、すごく楽しかったです。次もがんばれよと多くの人に応援していただき、とても勇気が湧いてきました。じぶんで言うのもなんですが、いい辞め方ができたように思います。これは、ほんとうにありがたいことですね。どうか会社が発展して、同期のみんなが超ハッピーになってほしいと思います。ぼくは、なにがなんでもやりぬきます。ここに、誓います。ありがとう。ありがとうございました。
2009年06月29日
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いまの会社を辞めることになりました。残るはあと2日。今日と、明日です。引き続き、千葉に住むことにしました。今度は、習志野市に引っ越します。いまの会社のおかげで、いろいろ学べました。4年強も給料をもらい、それで食っていくことができました。ありがたいことです。ありがたや、ありたがや。
2009年06月25日
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リーダーがどんな仕事をしようと、とにかく自分のことばかり考えている場合、フォロワーのモチベーションは上がらない。
2009年06月18日
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仕事は結果が命だとしても、成果ばかりを追い求めてはいけない。功を焦って、人間として大切なことを忘れてしまうと、手痛いしっぺ返しがくる。どうせ仕事など「自分がいなくても回るもの」なのだ。かといって無責任にやるわけではないが、自分を見失うほどモーレツになってしまっては、本末転倒なのではないか。成果主義なんて体のいい言葉にまどわされてはいけない。「仕事の成果」なんて誰も図れない。数字はウソをつかないが、数字を読む「人間」がウソをつく。けっきょくはイメージで評価が決まることが多い。「あいつはデキそうだ」という評判が決め手になる。そうなると、どう仕事をするかということも変わってくる。そして、「仕事とは何か」という答えももちろん変わってくる。
2009年05月23日
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「言われたことしかできない人」はたいてい、「言われたことすらできない人」だ。
2009年05月08日
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仕事ってなんだろう?4年前、会社に入りたての頃、「仕事ってのは、思いやりだなあ」と思いました。それから1年くらいして、「いや、そんなに甘くない。仕事ってのは、計画性だなあ」と思いました。そしてちょっと前に、「仕事とは、受け入れられることだなあ」と思いました。じゃあ、今はどう考えてる?きっと、仕事を辞めるまで、つまり定年退職するまで、その意味は出ないのでしょう。仕事ってなんじゃろね?でもきっとそんな難しいもんでもないんだよね。仕事ってのは、給食当番とか学芸会の準備とかまあ、そういうもんと似てるなあとは思います。とりあえず仕事はロマンなのです。
2009年04月17日
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仕事には依存性がある。仕事というのは麻薬のようなものなのだ。ワーカホリック<仕事中毒>という言葉があるが、まさしく毒に中(あた)るがごとく、仕事にハマってしまうと、周りが見えなくなる。仕事にハマる、というとなんとなく口当たりのいい響きだ。またそのほうが成果もあがるだろう。しかしぼくは、仕事にハマってしまう心の奥底に、「自己不全感」があるのではないかと考えた。自己不全感というのは、なんというか「このままではダメなのでは?」という感覚といってよい。「自分が自分では足りないような感覚」とも言えるだろう。何かが足りないような気がするから働く。もちろん自分では気づいていない。仕事が好きで好きで仕方がない、というように自分では思っている。しかし心の深奥では、どこか欠乏感を抱えている。その「穴」を埋めようとして、必死に働いてしまう。こういう人は、がんばるのが好きだ。もっと言えば長時間労働が好き。ぼくはこのタイプで、たくさん(長い時間)働いた日などは、成果に関わらず「あー、よくやった」と思ってしまう。がんばっちゃう自分が大好きなタイプ。この性分は昔からで、中学校のころは冬休みに縄跳びをして持久力を鍛え、高校のころは日曜の朝からジムで筋トレしたり、夜、寝る前に毎日腹筋をしたり、大学の頃は元旦から公園で木刀を振ってたり、社会人になっても毎朝シコ踏んでるし、なんかやってないと気がすまない。気がすまないし、なんかやってる自分は大好き。なにか「努力」めいたことをしていないと不安になってしまうのです。カッコよくいうと努力家。ふつうにみれば、がんばり屋。しかし心の奥底をのぞいてみれば、どこか欠けた部分を埋めようとしえいるのだ。そもそも「好き」ということは、世の中でわりと手放しで賞賛されているけれども、実はけっこうアブナイ。というのは「好き」は「隙」から来ているとぼくは見ている。つまり「こころのすき間」に「好き」が入り込む。好きなものをぼくらは「欲しい」。で、「欲」という字を見てみると。「谷」と「欠」。谷はヘコんだ部分ですね。欠けた部分なのです。つまり欲望というのは、そのかけた部分、へこんだ部分を埋めたいという感情なわけです。で、話がカナーリそれてしまいましたが、「仕事が好き」というと一見、健全に聞こえるのですが、そこには危険が潜んでいるぞよ、と言いたいのです。たぶん、仕事って好きとか嫌いとかじゃないんでしょうね。業(ごう)っていうのかな。カルマですよ、カルマ。仕事たっぷりやってないと不安ってのもあったとしても、それを仕事中毒になって解決するのではなく、じぶんの心の奥底に目を向けて見ることで、ほんとうの解決があるのでしょう。そう、問題は外にあるのではなく、いつでも胸のうちにひそんでいるのです。
2009年03月19日
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男にとって仕事は誇りであり、生き甲斐である。仕事は鏡であり、本気でやるとどんどん面白くなり、テキトーにやると、どんどんつまらなくなる。生きるために働くよりも働くために生きるほうが断然おもしろい。仕事は男にとって犯されざるべき領域である。しかし仕事を神聖視してはいけないのでは?とも思ったりする。「仕事だから」この「理由(いいわけ)」はどこまで通じるのだろうか?親の葬儀があっても「仕事だから」親族の結婚式でも「仕事だから」子供がさみしがっても「仕事だから」。部下やパートさんが苦しんでいても「仕事だから」それでいいのか?どうなのだ?「仕事だから」というのは、すごくカンタンに言えて、なおかつ自分が正しいような気がしてくるし、なんとなーく自分がカッコイイような錯覚をさせてくれる、魔法のことばである。しかし、この言葉をどこまで使っていいのやら。「(友人から電話で)明日、ひさしぶりに遊ばないか?」「いやー、明日仕事なんだよ」これはふつうの会話だ。「よし、じゃあ仕事休みにするよ」というやつはいないし、もしいたら社会性が欠けている。「(奥さんより)あなた、明日は太郎(←息子)の運動会なのよ」「いやー、明日仕事なんだよ」これはギリギリのラインな気がする。それが「あなた、ついに明日、赤ちゃんが生まれそうよ」「いやー、明日仕事なんだよ」となるとちょっと狂気に近いような気もする。しかしその人の気持ちが分からないこともない。それにそういう人ほど仕事がデキたりする。なんといっても、仕事は男の誇りなのだ。時間の切り売りをしてお金をもらっているのではない。仕事を後回しにしてしまっては、じぶんに対する自信も生まれない。自信がなけりゃ仕事もできないから、稼ぐこともできない。そうなると家族を幸せにすることもできんのだ。かといって「仕事だから」というのは単なるわがままに過ぎないのかもしれないと思う。「仕事だから」というコンビーニエントなセリフを覚えてしまうとなかなか手放せない。しかし映画「フラガール」で南海キャンディーズのシズちゃんが、危篤のお父さんに会いにいかず、フラを踊ることを決心するシーンがあるが、ああいった「公(おおやけ)」を重んじる姿勢は、多くの人に感動を与える。しかし、当のお父さんはさぞ寂しかったことだろう。シズちゃんの(役名は忘れたが)名前を呼びながら死んでいったとのこと。いったい何が正しいのだ?ぼくはすごく迷う。百年後の名誉は、今そばにいる家族を幸せにはしない。なにを取る?何を選ぶ?それは、自分しだいなのだ。
2009年03月19日
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仕事は「いまの自分」を如実にあらわす鏡である。仕事がつまらないなあと思っているとき、その人じしんが、つまらない人間になっている。仕事の問題がどんどん膨れ上がってしまうとき、じぶん自身の問題とむかいあわないで、逃げている。最近ちょっとモチベーションがダウンぎみで、なんだかぜんぜんダメな日が続いていました。やる気なくなる⇒ミス頻発⇒クレーム・叱責⇒自己嫌悪⇒やる気なくなる⇒続く・・・、みたいな。これはもうほんとうに見事なスパイラルなのですね。ヘタすると抜け出せない。ミスに対する言い訳ばかり出てきます。冷静に観察すると面白いですよ。「いや、あのとき時間なかったし」「まあもうちょっと本気出せばできたけどね」「決まりごとといっても、売上に関係ないし」「人件費の予算が少ないからさあ」「お店のみんなが言うこと聞いてくれないんだもん」「上司の言うことがぜんぶ正しいわけ?」「一生懸命やったつもりなんだけど」ぼくはじぶんに対して、そんな言い訳ばかりしていた。「逃げ」モードに入ってしまうとほんとダメですね。仕事というのは成果が大事ですが、ほんとうに大事なのは、成果よりも「誇り」です。「誇り」というのは「努力したつもり」にすこし似ているのでちょっと危険をはらみますが、「努力したつもり」との違いは、「じぶんに嘘をついていないこと」です。じぶんに嘘をつくと、どうあがいても「誇り」を持つことができません。じぶんの仕事にプライドがなくなるのです。そうすると叱責が怖い。逃げれば逃げるほど、叱責が怖くなるのです。そしてじぶん自身にたいする誇りもなくなってくる。じぶんの人生がみすぼらしく思えてくる。大げさに思うかもしれませんが、ぼくにとっては仕事というのはそういうものなのです。いつのころからだろう、打算で仕事をするようになったのは。「これくらいでいいや」なんてどうして恥ずかしげもなく言えるのだろう。給料が安いからやる気が出ないなんておかしい。給料と幸せはあんまり関係がない。もしそうであるなら、新入社員のころより、今のが幸せなはずだ。給料があがる以上に、ぼくが変わってしまったのだ。ちょうどいい機会なので、いろいろ考え直します。「仕事はじぶんを映す鏡」このことばを、忘れないように。
2009年03月07日
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たしかにすこし疲れてはいたものの、会議室でハアと息をつきながら目頭のツボを抑えている自分がいて、この姿はむかし、自分が嫌悪していた「つかれたサラリーマン」そのものではないのか、とぼくは大きなショックを受けたのだった。知らぬ間に、ということはおそろしい。
2009年02月25日
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強み、強みといっても、意識しすぎると、単なるイロモノになる。けっきょく、他人が「彼の強みは〇〇だ」と思ってくれないと、「じぶんの強みを生かす」なんて言っても、ジタバタするだけだ。ちなみに、「つよみ、つよみ、つよみ・・・」と何度も言っているとだんだん人の名前に思えてくる。
2009年02月18日
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どんな仕事も、極端に言えば、「人の不安をとりのぞく」ということに集約できるのではないだろうか。
2009年01月23日
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仕事力にはいろいろな要素があるが、その中でもっとも大きいものは「人間関係力」であると言える。もちろん職人さんで、技術さえあればぶっきらぼうでも、という仕事もあるかもしれない。でもたとえばぼくの仕事なんかは、もうほとんど人間関係で、それさえできればあとは特に何をすることもない。旧友に「店長になった」と自慢すると、(別に自慢することでもないのですが、「それなりの名前」がつくのは嬉しいことなので、ついつい主張してしまいます)「店長って何をするの」と聞かれることもあるのですが、よくよく考えてみると、大したことはしていないことに気づきます。店長の仕事1:ハンコを押す店長の仕事2:あいさつをする店長の仕事3:笑わせるそれくらいです。うちの会社は仕組み化がよくできているので、書類の仕事なんかは「誰でもできる」ものがすごく多いですね。ほとんど「ぼくがやらなくてもいい仕事」です。まあまかせる人がいないから自分でやっていますが・・・。おっと、話がそれてしまいました。で、言いたいのはあれです。「仕事力は恋愛で鍛えなさい」どうです、ビジネス書のタイトルみたいでしょう(笑)ぼくが思うに、恋愛というのは人間関係力を鍛える最高の場であります。いわゆる「お付き合い」が始まる前でもはじまってからでもいいのですが、恋愛ほど相手を思いやる場はないでしょう。「どうしたら相手が喜んでくれるか?」「どうしたら相手の笑顔が見れるか?」恋愛とは、そういった問いの答えを始終かんがえることです。そのなかで、いろんな「ひとのこころ」が分かってきます。人間として共通ポイントもあるし、ひとりひとり「うれしがるツボ」というものある。そういうことが分かってくる。見えてくる。深く観察することで、なぜ相手がそのような状態になっているのか、ということも分かってきます。その意味でも、恋愛で相手の気持ちが知りたくてやきもきする、という経験はとても大事だと思いますね。恋愛で得た人間関係力は、かならず仕事に生きてきます。そして逆もまたしかり。仕事でえた人間関係力を恋愛に活かすことも可能です。人が生きるということは、人間関係を調和していくということです。メイワクな存在でなく、役に立つ人間になる。それには人間関係力を鍛えていくしかないのです。
2009年01月21日
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ぼくが話を聞くかぎりでは、多くの人は問題を解決しようとしていない。「問題がある!」「問題に困っている」「問題をどうにかしてくれ」「問題があるからイヤだ」「問題がなくなればいいのに」「なぜ問題があるのか」ほとんどは上の6パターンにあてはまるフレーズを言っているだけ。そして口は動かすのだが、手や足は動かしていない。つまり行動しようとしていない。問題を解決したいなら、問題を解決すればよいのです。どんなに大きな問題も小さく区切って、ひとつひとつ、解決していけばよいのです。
2009年01月20日
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偉大な業績は、「自分は凡人である」という意識から生まれる。「オレは天才だから努力しなくていい」と傲慢になれば、成功はないだろう。かといって、「オレには才能がないから無理だ」というのも違う。「オレは凡人だ。だからこそ努力しないと偉大な業績は残せない」というある意味の危機意識が、偉大な業績につながるのだ。
2008年12月12日
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つまらない仕事などない。つまらないのは、あなた自身なのです。
2008年12月12日
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世の中に「できる人」などいないのだ。ほとんどの人は「ダメな人」で、残りの2割か1割くらいが、「ふつうの人」なのだ。「ふつう」であることはすばらしい。「あたりまえ」であることはすばらしい。誰しもが、成長する過程でゆがんでいく。まっすぐふつうに成長する、ということはものすごくスゴイことなのだ。自分が思っていること・考えていることを、ふつうに言葉にして、ふつうに伝える。そういったあたりまえのことができるだけで、もう十分、スゴイ人なのだ。モテる人、というのも同じ。モテる人、というのがいるわけでなく、ふつうであれば、モテるのだ。ふつうとは?相手の話を聴く。相手が喜ぶ話題を振る。相手がワクワクするような言葉をかける。気遣いをする。好意があることを伝える。あたりまえのことばかり。「あたりまえ」なのにしかし、世間ではそれは行なわれていないのです。だから「ふつうのこと」を「実行・実践」することができると、世間では「スゴイ人」と呼ばれるのです。
2008年12月08日
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「自分らしく」というのはなんだか分かりません。「自分らしく生きたい」と思ったことはありません。しかし「自分ブランド」ということばには興味があります。ビジネス書なんかでよく使われていることばですね。「自分をブランド化せよ」みたいに書いてあります。エイゴ好きの人は、「セルフブランディング」なんて言いますよね。端的に言えば、「あの仕事ならあいつに」と言われるようになろうということらしいです。と、考えてみるとどうも僕にはブランドがないなあと思いました。3年半も働いているのに、とくに特技がないので、なんだか恥ずかしいキモチです。ああ、ひとつだけいつも頼まれる仕事がありました。それは筆ペンでのPOP書きです。筆ペンを多用するせいか、「筆ペンならあいつに」とお店では思われるようです(笑)いやしかし、仕事人ならもうちょっとねえ、運営面や商品の展開とかさ、売上に貢献できることでブランディングしたいじゃないですか。「シフトを作らせたらあいつにはかなわない」とか。まあうちの会社はチェーン展開しているので実際、同期でもどんな仕事ぶりか知らないんですよね。だから人事異動とかけっこうイメージでやっているんじゃないかと想像します。「なんとなくあいつならいけそう」とか。しかし逆に自分ブランドというのはそういうものらしいです。つまり「なんとなくのイメージを操作する」ということ。ぼくだって、書道を習ったことはないですからね。学校の授業だけ。だから基本はできてなくて、独学なのです。それでもお店の人は、「筆ペンでお願いします」と言ってくる。つまり「いつも書いてるし、なんとなくあの人でいいんじゃない?」みたいな感じになっている。それこそがブランディングなのかもしれません。しかしそれを操作するとなると・・・むずかしい。そもそも自分の「つよみ」はなんなのか、やっぱり未だに分かりません。まあとりあえず今日も精一杯働きます。
2008年11月27日
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なにかと文句をいう人がいます。どこの職場にも、ひとりはいると思います。新しい製品ができたり、制度が変わったり、なにかあるたびに、「えー、こんなのダメに決まってるじゃん」「意味分かんない」「だから会社(上司)はわかってない」「かわいくなーい」という感じで不思議と上からの目線でモノをかたります。(そういう人ほど、実際の立場は低い)しかし批評家の人というのは、えてして実行力がないのです。行動力もないし、具体的に考える力もない。だからこそ、偉そうなことが言えるわけです。知らないからこそ、言える意見というのがあるのです。たとえば我々市民が「最近の政治はさあ、」などとしたり顔で語るというようなやつです。そういった人には、実際にやらせてみるのが効果的です。たとえば愚痴ばかり言ってくる人がいれば、「わかった、じゃああなたが自由にやってみてください。 わたしが全責任をとりますから」と言ってやってもらう。決めさせる。そうすると、「実際にやる、決める」ということがどのくらい難しいかに気づくようです。また自分の決めたことがコミュニティに影響すると分かると、途端に気弱になり、「わたしの意見ってことはあまり言わないで」というような態度をとる。批評家は、責任から逃げたがるのです。ものごとをゼロから創るというのはとても難しい。しかし出来上がっているものを批評するのはカンタンなのです。ぼくらは、ゼロから作った人をもっと尊敬しないといけない。たとえば会社というのは人間がつくるものだから、かならず不備があります。完全にシステム化できない部分があります。ミスだってあるし、完璧な人事体制などない。だけど、どうしても批判する人がいる。そういう人は、「わたしは全体が見えていません。何も分かってはいません」ということを周りに言いふらしているようなものなのです。それは恥ずかしいことだ。批評するくらいなら、自分でやってみればいい。そしてゼロから創ることの難しさを痛感すればいい。言うは易し、行うは難し、なのです。そのことばを自分でも忘れないようにしたい。
2008年11月26日
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毎日がエブリデイ。どうも、尾関です。集英社新書に「上司は思いつきでものを言う」という本がありましたが、上司は「思いつきでものを言う」のではなくて、上司には「思いつきでものを言う権利がある」のだ。そrは部下にはないのです。どういうことかというと、たとえば上司が何か思いつく。すると「ちょっと、あれやってみて」と言う。部下は「はい」といって、いろいろ折衝などして、具体的に動かなねばならない。時間やヒトやカネをやりくりして、実際にやるのは部下。しかし部下が思いつきで言う権利はない。「課長、あれやってみたいんですが」といえば、「具体的に案を考えてから言え」と言われる。つまり具体的に行動するのは部下の役目なのだ。だから思いつきでモノを言うことは許されないし、逆に上司は思いついたらぱっと言ってしまい「あとはお前が具体的に考えろ」と言える。実は最近部下を持ったのですが、よいものですね。まあそれなりに優秀だから良かったということもありますが、なにより業務命令が出せるのがいい(笑)後輩やパートさんにはなかなか命令はしにくいしね。性格的に偉ぶるのは好きなので、非常に仕事はやりやすいです。もちろん部下として働く場合は、「従順に」がんばりますよ。というわけでまとまりがないですが、明日からも思いつきでがんばります(笑)
2008年11月24日
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おととい、草刈を完了いたしました。はじめて草刈機を使ったのですが、なかなかむずかしいものですね。エンジンの回転数の調節がうまくいかなくて、弱すぎたり強すぎたり、四苦八苦しました。それでも30分もやっているとコツがつかめてきて、最後30分は鼻歌まじりにやっていました。肩の力を抜いて、腰で操作するのが肝要ですね。それと草の「中心」をとらえること。端的に言うと、草のくきに垂直に刃を当てるということです。そうしないと、刃がつまったり、はじかれたりします。機の扱いになれてくると、合気道の身体遣いにそっくりだと思えてきました。そうしたらおもしろくなってきて、バリバリ草を刈ってしまったというわけです。しかし始めの30分で筋肉ちゃんを使いすぎたらしく、さっそく当日から筋肉痛になりました。まあ2日後になるよりはいいですね。↓ ↓結果です。(もとは僕の背丈くらいの草がぼーぼーでした)
2008年11月24日
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ウソが大事です。ウソのひとつもつけないで、どうやって社会を渡っていくのか。いい言葉ではハッタリといいます。ハッタリをかますことで、いい結果が出れば、それは虚言とは言われないのです。みにくいウソはつかないほうがいい。じぶんのためにつくウソは醜い。保身のためのウソは、卑怯だ。が、正直すぎるのも考えもの。シゴトには効率というものがありますから、バカ正直にやっていると遅くてしょうがない。会社というのはある程度のウソを容認するシステムになっているのです。なぜか?それは、誰もがウソをつくからです。いちいち目くじら立てていたら、シゴトが回らないからです。ウソをついていいところとウソをついてはいけないところを見分けることが大事なのだと思います。ハッタリをかます度胸がない言い訳として、「オレは正直だ」ということを言ってはいけない。大ウソをつける人が、正直にモノを言うので、それがはじめて信頼できるというわけです。肚をきめて、大きなウソをつくのです。
2008年11月20日
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好かれることが目的になると、非常に醜い。相手に迎合する。相手にとって耳ざわりの良いことしか言わない。厳しいことは言わない。シゴト上で、そういった行為をすることを、ぼくは恥ずかしいと思う。「好かれ」というのは技術であり、それは手段でなくてはならないと思っている。シゴトの仲間はトモダチではないのだ。シゴト以外であれば、嫌いなやつに嫌われようとかまわない。しかし嫌われてしまうと、シゴトにならぬこともある。そこで、技術的に「好かれる」必要が出てくる。だからそういうノウハウ本がたくさん出版されている。とはいえ、シゴトだから相手を機械のように扱っていいということではない。相手はあくまでも人間なのだ。しかし、ふつうの人間ではなく、シゴトをする人間なのだ。つまり「兵士」ということです。「兵士」とは、役割をもった人間のことです。「兵士」は嫌いでない人を殺さねばならないときもあります。逆に好きでもない人から好かれなければならないときも出てきます。そのとき、手段として「好かれる」よう努力すべきとぼくは思うのです。ほんとうは結果的に好かれるのがいいのでしょうが、そうならない人もいる。しかし好かれることが目的になっては、元も子もないなという気がします。手段と目的を違えてはいけないのです。
2008年11月20日
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この世にあるほとんどのモノゴトは、誰かの手によって作られたのだ。たとえばこのパソコンもある日突然、地面からモコモコ生まれてきたわけではない。誰かが作ったのだ。インターネットというサービスも誰かが作ったのだ。ぼくが勤めている会社も創業社長が作って、先輩方が仕組みを構築してこられたのだ。もともと、そこにあったわけではないのです。そういった意味で、社会に対して敬意と感謝を表明することは大切だと思います。誰が何をしても、なんかかんかで人の仕事にケチをつける人がいるでしょう。あれはねえ、よくない(笑)クセなんだろうね。むずかしく言うと思考の習慣だね。なにかあれば、悪い部分を見つけてあげあしをとる。とってもかなしい、不幸な習慣です。しかも「自分はただしい」「見る目がある」「仕事ができる」みたいな口調だからこっちも閉口してしまう。人の仕事にケチをつけるのはいかんですよ。みんな、その人なりに一生懸命やっているんだから、それはそれで評価したらいいんですよ。ビジネスだからそんな甘いこと言ってられねえっていう人もいるでしょうけど、人の仕事にケチをつけて、いちばん損をするのは自分です。なんといっても心が汚れてしまうからねえ。ケチをつけることがクセになると、抜けられなくなります。顔がゆがんで、みにくい顔になっていく。そういう人は説得力も魅力もない。みんなから鼻ツマミにされても気がつかない悪い鈍感力を磨いていくのです。そんな人がなにかを評価しようが批判しようが誰も聞いちゃいません。悦に入っているのは、自分だけです。ケチばっかりつける人のそばにいるのは嫌なものですが、人間関係のいい練習台にはなりますので、本で読んだコミュニケーションテクニックをそういう人に対して使ってみるのは面白いです。社会に対して、会社に対して、他人に対して、不平不満とグチばかり言う人にはなりたくないものです。
2008年11月16日
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今日は、千葉県に行ってきました!というのは。じゃじゃん!今度、千葉県のとある店舗の店長になることになりました。いろいろあって、親しい人にもお伝えできていなくて、ブログでの報告になってしまってスミマセン。というわけで今日は部屋を見てきたのです。田舎なので、安くて広いなかなかいい物件が見つかりました。海が近くてサーファーの町です。九十九里浜のそばです。おまえ100まで、わしゃ九十九里浜です。次の転勤は東海地方になると思っていたので、また関東になってしまいビックリですが、まあ関東ライフを楽しもうと思います。関東は楽しいところがいっぱいあるからね。茨城はもう行きつくしたので、ちょうどよいです。サーフィンをする人は、ぜひうちをホテルとしてご利用ください。1泊2食付で、今なら特別価格42800円でよいですよ!!もちろんサービス料込です(消費税は別)そんなこんなで昨日は「うた魂」を見ました。夏帆かわいい・・・。しかし、それだけ。ストーリー、メッセージなど、ちょっと浅かったなあ。あまりに陳腐だったので、つい噴き出してしまった。まあ夏帆がかわいいので、許しますけどね。そんなこんなで来週引っ越します。左様なら、茨城県。今日は、千葉県。アイラブ関東。
2008年10月07日
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仕事は常に明るく愉快にやるべし
2008年10月05日
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人は誰でもミスをするのだから、ミスを怒ってはいけない。叱らなければまたミスを犯すだろう、とふつうは思う。しかし最近のぼくの考えでは、叱ろうが叱るまいが、ミスをしてしまうときはしてしまう。じゃあ、叱らないでのびのびやってもらうほうがよっぽどいいのでは?と考えている。「ミスしないように、ミスしないように」とオドオド、ビクビクしながら仕事をすることは、どんなにか苦しく、つまらないことだろうか。オドオド、ビクビク、緊張し、収縮した筋肉と頭では、いいアイデアは浮かばないし、創造性も自主性も発揮されない。自分がミスをしたとき、上司にどんなふうに言ってもらいたいだろうか。「てめー、2度とこんなミスを犯すんじゃねえ」と言われたいのか、「今回は仕方ない。次から気をつけろよ。今日のことは忘れろ」と言ってほしいのか、どっちだろうか。どっちをいう上司についていこうと思うだろうか。「ミスをしないように」という考えは、にんげんを萎縮させる。「まずミスゼロありき」でやると、誰しもが緊張してしまう。ミスを内包した、というかミスに寛容なシステムをつくっていかないといけない。叱るべきは怠慢だ。怠けていたり、サボっていてミスをしたならば、それは厳しくしかるべきだと思う。仕事では結果が重視されがちだが、一生懸命やってミスをしたのか、適当にやってミスをしたのかでは全然ちがう。一生懸命やってミスをしてしまった場合は、叱るどころかなぐさめるべきだ。そのほうが、その人はよっぽどミスをしなくなる。通り一遍で叱りつけるようなやり方は、どう考えでも愚かなやり方としか言えない。そんなことを思います。
2008年09月29日
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