明日に架ける橋 Bridge Over Troubled Water    ケン高倉☆彡

明日に架ける橋 Bridge Over Troubled Water ケン高倉☆彡

一章


祖父は、活動写真(映画)が日本に来た年明治30年に生まれました。

大正時代 (大正11年)栃木県の思川近辺に、肩に刺青をした粋のいい一人の男が居ました。いつもは、人力車を引きながら祭りの時になると、決まってその男は、バチで音頭を採りながら八木節の樽を叩いて居たと言うくらい祭り好きの男で、本当だったなら、今でもある思川の『八木節源太』の13代目になると、噂されていた男でした。
男は、3人の女性と付き合って居て、一人はやくざの親分の娘、もうふたりの女性の一人は、大工の娘、後一人は町娘でした。ある日、極道(やくざ)の親分に男は、そのキップの良さを買われ、「家の娘婿になって家業を継いでもらえないか。」と、言われたのです。
しかし、その頃、キップはいいけど、やくざなどには興味の無かった男は、一人の町娘を身ごもらせ、もう一人の大工の娘と、逃げる様にしてその地を後にしました。

栃木に置き去りにされた女性は、『あの男の子なら自分の子として育ててもいい』と言う人と結婚したそうです。

大正12年、『旅人の唄』が流行っていた頃、そんな置き去りにされた娘が妊娠した事など露知らず、ふたりの間には、ひとりの子供が出来、その子を抱いてふたりは、その『旅人の唄』の如く駆け落ち同然で茨城県の日立にたどり着きました。その時、男は、26歳 一緒に駆け落ちした相手の女性は、19歳でした。その男「源一郎」こそゆくゆく、わたしの祖父になる人物です。そして残念ながらわたしは逢えませんでしたが、「源一郎」と一緒に逃げる様に駆け落ちした女性「かん」はわたしは、逢った事はありませんが本当の祖母です。

その後、栃木に残された女性に「源一郎」の子(女の子)が生まれた後、もう独り男の子が出来、その女性は、ふたりの子を授かりとても幸せに暮らしていたそうです。ですから、わたしには、栃木にまだ逢った事の無い従姉妹がいるのです。

その祖父たちが駆け落ちした同じ頃、わたしの母方の祖父母も結婚しましたが、その頃の結婚と言うのは、親が相手を決め、式の当日まで相手の顔を見たことがなかったと言う時代でした。ですから、「源一郎」と言う人は、その頃にしては、垢抜けた結婚をした事になります。

大正12年、「源一郎」と「かん」のふたりは、栃木から男の子を連れて駆け落ちして来ましたが、日立にたどり着いた年の9月に関東大震災が三人を襲いました。一緒に連れて来た男の子は、時代が時代でろくに栄養も摂れない時代なのにもかかわらず、長旅で身体も弱ってしまって居ました。そこに追い討ちをかけるように震災があり、大正12年10月栃木から連れて来たふたりの間に出来た初めての子「政夫」は、やっと1歳になったばかりと言うのにその小さな命はこの世を去ってしまいました。

「源一郎」は、栃木で慣らした人力車の腕前を活かし、日立の人力車小屋で働きながら、生計を立てていました。その頃、芝居小屋と言ったものの全盛期で、日立に旅役者が来ると、日立の町中を 旅役者を乗せた人力車が行列になって走ったのです。今で言えば、パレードのようなものです。祖父は旅役者を乗せ、その人力車の列の先頭になって走っていました。
人々は、ひと目役者を見ようと黒集りになって集まりました。
その先頭を走る「源一郎」は、人力車を引いている自分にほこりを持っていました。でも、その一方では、「いつかは自分もこの日立の地に役者を呼べるような人間になりたい」そう思っていました。
その頃、日立の駅前の近くに赤線街がありました。「源一郎」は、駆け落ちして日立に来ても女癖が直らず、仕事が終わると赤線通いをし、等々一人の女性を身請けして来てしまったのです。

 二人は、正妻の住む家の目と鼻の先の家で、暮らし始ました。そして、「源一郎」は、その身請けしてきてしまった女性と正妻の居る家を行き来すると言う奇妙な生活を始めました。
でも、そんな生活をしていても、妾には、子供を作らず、妾の家と正妻の所を行き来し、正妻「かん」に6人の子供を作ったのですが、それでも「源一郎」はその後30年間と言うもの正妻と子供達とは住む事をしませんでした。

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