ルナ・ワールド

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マイノリティのいがみ合い



「一般人」と呼ばれる社会のマジョリティと
見かけの違うマイノリティと
見かけが「同じ」マイノリティの間には
亀裂が生じることが良くある。

理由はもちろん多岐にわたってるわけだけど、
ひとつはお互い、相手が
「羨ましい」
「そんなんで済むんだったらいいじゃん」
と思ってることにあるかもしれない、と思う。

見かけの「違う」人は
マイノリティであることを隠せない、
だから自分が「何者」であるかを
「言わない」「定義しない」権利が保障されない、
と言うか、そんな権利はいつも踏みにじられてる。(笑)

いや、マジな話、結構ひどいと思う。
みんな主に思春期とかを中心に
「自分探し」とか
「居場所探し」とか
「自分は誰」
と言う自我を育てようとしてる中で
見かけの「違う」マイノリティは
自分が好むと好まざるに関わらず、
常に「あなたは~~」という
レッテルを貼られてる、
常に「自分は~~」と規定されているという
雑音に囲まれている。
そしてそれが何歳にもなっても止まらない。

自分で自分を規定することを拒まれてるわけ。
見かけだけを元に。

だから、「見かけ」で判断されない
溶け込んでしまえるマイノリティは
「羨ましい」
「あんたの悩みなんて所詮内面的なものだけでしょ」的な態度になるのかも。

でも、
「自分は誰」
であるかを知ってるのに、
それを周りにすぐに認めてもらえず
逆に誰であるかを自ら名乗り出ないと
周り(マジョリティ)と同じことをすることを
したり考えたりすることを期待され、

その期待を裏切ったらどんな目にあうだろう・・・
と言う恐怖感を持って暮らすのも、

周りに
「実は私はあなた(マジョリティの人)と異質の人間なのよ」と打ち明けたら、
どんなひどいことを思われるだろう、

「僕は君が思ってた人じゃないんだ」と打ち明けなかったら
自分はうそをついているのだろうか、
自分の身を偽っていることになるのだろうか、
と絶えず感じなきゃならないことだってかなりの苦痛だ。

新しい人と出会うたびに
「この人にはどこまで打ち明けるべき?」
「この人には打ち明けて平気?」
「自分にはどこまで打ち明ける義務があるの?」
と自問自答する面倒くささもなんか気が遠くなる。

「えっ?何?~~なの?じゃあ、~~なんだよね?」
を何万遍も聞かされてることになるわけで。
ああ。

どうしてどっちのほうが
マシだとか
マシじゃないとか
比べる気になるのかが
そもそも私には良く分らない。

どっちもどっちで辛いじゃないか。

面白い話を聞いたことがある。
ネィティブアメリカン(いわゆるインディアン)の親と
ユダヤ系アメリカ人の親を持った人がいるそうで
その人の家族が集まると
よってたかって
どっちの民族のほうが苦労したか、悲惨な歴史を経験したかを
競う合うのだそうだ。
まあ、この時点では半分冗談なもののようだけど。

でも、このマイノリティ同士の亀裂を見かけると
(もちろんこんなふうにならない人同士も十分要るけど)
その話を思い出す。

みんな、辛いのは一緒。
どっちのほうがより辛いかを競い合うのはやめて、
お互いから学べることは学んで
協力し合えるところは協力し合って、
違いも認め合えっていこう。

違う部分ってのはどうせ
違う性格、ってレベルでも出てくるものなんだから。

※これは りーちゃんの「んだんだ!」 に触発されて書きました。りーちゃん、ありがとう!

(2004/9/6アップ)



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