December 14, 2021
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カテゴリ: 気になるTV番組
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。

今回は、日露戦争の時代を背景にしてドラマが進む中で、
序盤・中盤・ラストで徳川慶喜を演じる草彅 剛さんの
セリフに感動しました。

序盤では慶喜が尾高惇忠(田辺誠一さん)の生きざまを
「尊い」とまで言ってくれ、惇忠は生き長らえてきた
これまでの思いがようやく報われ涙しました。

中盤で渋沢栄一(吉沢 亮さん)が重い病になり生死の

「 ”尽未来際” 、生きてくれ!」と栄一に言葉を送り、
その後の栄一はみるみる回復していきました。

”尽未来際” は慶喜が全幅の信頼を置いて心を通わせた
亡き平岡円四郎が自分に向けてくれた言葉で、円四郎が
亡き後は、いつしか栄一が慶喜の心を通わせる相手に
なっていたのでしょう。

でも慶喜の言葉でイキナリ復活のエネルギーがぐんぐん
湧いてくるなんて、やはり「推しは尊い」。
この一言に尽きるようです。

そして終盤の、35分50秒から40分まで続く慶喜の
語りは圧巻の一言でした

ふだんの人間関係の中でも大きな意義をもつ言葉だった
ので、ここに書き留めておきたいと思います。


欲望は道徳や倫理よりずっと強い。
ひとたび敵と思えば、いくらでも憎み残酷にもなれる。
人は好むと好まざるとにかかわらずその力に引かれ、
栄光か破滅か、運命の導くままにひきずられていく。


大河ドラマ館も2か所でオープンしています。
※埼玉県深谷市  こちら   ※東京都北区   こちら

#青天を衝け
 ドラマ内のことが解説されてます  #青天ナビ


明治33年(1900)、尾高惇忠(田辺誠一さん)と渋沢喜作(高良健吾さん)は
渋沢栄一(吉沢 亮さん)を介して、徳川最後の将軍となった徳川慶喜(草彅 剛さん)に
会う機会がもてました。
慶喜は喜作のことを成一郎と幕臣のときの名で呼び、惇忠のことは「尾高さん」と呼び、
惇忠の弟・平九郎のことも惇忠の富岡製糸場での働きも知っていました。
慶喜は「長く生きて国に尽くされ言葉もない。残され生き続けることがどれほど苦で
あったことか。私はねぎらう立場にないが、尊いことと感服している。」
遠い昔に行商先で遠くから見たあの利発な若様がやがて将軍となり、そのお方が自分の
生きざまを認めてくれている。
言葉をかけられた惇忠は喜びに打ち震え、感涙して平伏していました。



明治35年(1902)、アメリカを視察した栄一は首都・ワシントンで大統領のセオドア・
ルーズベルト(ガイタノ・トタロさん)と会談しました。
栄一は日本の発展に大きく関わってくれたアメリカに感謝を伝え、ルーズベルトもまた
日本の目覚ましい発展と軍事力の向上を称えてくれました。
ただ実業家の栄一にとっては日本の商工業の名声が低いことが不満であり、今後自分は
ますます商工業の発展に精進していくとルーズベルトに誓いました。



栄一が世界で活動するようになると、それまで放蕩を重ねてきた嫡男の渋沢篤二
(泉澤祐希さん)は父・栄一の仕事を手伝うようになりました。
そしてこの頃の栄一は、韓国での銀行の仕事や養育院の増設、新たに作る女子大学校の
ことまで関わっていて、家を空けることが多い多忙な日々を過ごしていました。
そんな栄一不在の渋沢家に慶喜を客として迎えたある日、篤二は父から聞いた慶喜の
決断が日本を救ったこととそれへの感謝の話をし、さらには自分は父よりよほど慶喜の
生き方(現在の世間から見える、趣味を極める部分?)に憧れるとまで言いました。



栄一がアメリカから帰国した頃、ロシアが朝鮮半島を狙う南下政策を進めていました。
ロシアは朝鮮半島全体の権利を要求してきて、それは日本の国防に脅威を与えました。
井上 馨(福士誠治さん)は、このままでは対馬海峡までがロシアの勢力下となり日本の
国防が崩れると言い、陸軍参謀次長の児玉源太郎(荻野谷幸三さん)は、今やすっかり
世論は主戦論になっている、金も兵もない日本がロシアと戦うためには財界のさらなる
緊密な協力が必要、財界にも主戦論を掲げて欲しいと栄一に頼みました。



「今は危急存亡の時、ロシアが朝鮮半島に入れば次は日本が危ない」ーー
児玉と井上の説得を受け、栄一は不本意ながらも商工業者向けの講演会を開きました。
栄一は戦費を集めるために「仁義の戦であったなら戦後必ずその国は繁盛する」と聴衆に
国債の購入を呼びかけ、会場にいた聴衆は栄一の演説に賛同、「大日本帝国、万歳!」と
唱和して戦争への機運が高まっていきました。



しかし講演の後、栄一は過労と心労が限界を超え、倒れてしまいました。
体調は悪化して危篤となり、栄一は自分の死後のことを嫡男の篤二に頼みますが、父が
つくり上げた渋沢家はあまりにも大きく、篤二が抱えられるものではありませんでした。
また周囲も内心は篤二では頼りないというもので、篤二は重圧に耐えきれず半狂乱に。
そのとき栄一を見舞うために渋沢家に来た慶喜と居合わせ、篤二はつい先日「あなたの
生き方に憧れる」と言った慶喜に向かって「僕も逃げたい!あなたは日本を全て捨てて
逃げた。なのに今も平然と・・」と言葉を投げつけ、走り去っていきました。



朦朧とする意識の中で栄一は枕元に、自分の生涯の主君である慶喜がいることに気が
付き、無理やり身体を起こしました。
慶喜は栄一に「今は死なぬほうがよい。私もまたそなたに何も心を尽くせてはおらぬ。
そなただけは、どうか尽未来際・・生きてくれ!なんでも話す。そなたともっと話が
したいのだ。だから死なないでくれ。」と、強く思いを伝えました。
慶喜の言葉が励みとなり、栄一はその後みるみる回復していきました。



明治38年(1905)5月の終わり、栄一はまだ病床にありましたが、日露戦争のほうは
海軍大将・東郷平八郎が率いる艦隊が日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破し、
翌6月半ばに講和となり、日露戦争は日本側の勝利で終わりました。
この結果を見たアメリカは、日本海軍の戦力はあなどれないと判断し、ルーズベルトは
「万が一に備えアメリカ海軍を強大にしておかねば」と今後の方針を決めました。



「日露戦争は日本が勝利した」ーーこの部分だけしか知らない国民は勝利に酔いました。
講和条約に向かう外務大臣の小村寿太郎(半海一晃さん)を民衆は新橋駅で熱狂的に
見送り、8月、小村はアメリカのポーツマスで交渉に臨みました。
しかしこの戦争で国力を使い過ぎた日本は、英米の支援でなんとかロシアと講和できな
ければ国が破滅するという厳しい状況にあり、栄一も初めてその事実を知りました。
そして9月、日本とロシアの間でポーツマス条約が調印。
しかし国家予算の6倍もの戦費負担を国民に強いたのに、ロシアから賠償金が取れず、
国民の怒りは爆発して各地で暴動が起こり、小村や栄一に怒りが向けられました。



世情は未だ落ち着かない中、慶喜の伝記の編纂のために歴史学者や昔を知る人たちが
集められ、渋沢喜作や猪飼勝三郎(遠山俊也さん)などかつての幕臣たちも久しぶりに
互いの顔を見て、再会を喜び合っていました。
そして慶喜が登場し、一同は緊張と喜びの中で司会の栄一の変わらぬ多弁ぶりを笑って
いましたが、慶喜が大坂城を抜け出たあの時の話が始まると、語る慶喜も聞く一同も
真剣な面持ちになりました。



「事実、自分は逃げたのだ。大坂城内の家来の暴発を制止できない状況になった。
人は誰が何を言おうと、戦争をしたくなれば必ずするのだ。(中略)
私は抵抗することができなかった。ついにどうにでも勝手にせよと言い放ったことで、
鳥羽伏見の戦が始まった。失策であった。後悔している。戦いを収めねばと思った。
しかしその後も言葉が足りず、いくつも失策を重ねた。」



「多くの命が失われ、この先は何としても己が戦の種になることだけは避けたいと思い、
光を消して余生を送ってきた。」
ずっと黙して語らなかった慶喜の心の内を初めて知った一同は、何も言えませんでした。
猪飼が「そこまでのお覚悟が・・。」と、そして喜作が「それはただ逃げたのとは違い
ましょう。あれほど数々のそしりを受け、なにもあえて口を閉ざさずとも・・。」と
己を責め続ける慶喜を思い言葉を返すと、それでも慶喜は己に厳しい言葉を続けます。
「人には生まれついての役割がある。隠遁は私の最後の役割だったのかもしれない。」
ーー「自分の役割」。この言葉は栄一と篤二の中に深く刻み込まれました。






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Last updated  December 14, 2021 11:41:02 PM


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