人生朝露

人生朝露

スティーブ・ジョブズと禅と荘子。


小ネタ続きでありますが、ま、もともと「荘子」という書物は、バラバラのものなので、まとめずにやるのも一興かと。

久々なので、簡単な素材から行きましょうか。
スティーブ・ジョブズ。
言わずと知れたAppleのCEO、スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)。

Appleの創始者の一人であり、iMac、iPod、iPhone、あとはピクサーもそうでしょ、今はディズニーの筆頭株主だっけか、えーっとねぇ・・ま、とにかく規格外の経営者として、世界的に有名な人ですよね。ええ。何年か前にすい臓がんであることをカミングアウトしまして、んで、療養していて、ようやく最近、一時的に復帰いたしましたね。

彼のスタンフォード大学でのスピーチは、まぁ、今でも語り草になっています。
もともと、プレゼンの異常なまでの上手さというのがジョブズの武器の一つではあるんですが、これは心を打ちます。
スピーチをするジョブズ。

参照:
スティーブ・ジョブズの感動スピーチ(翻訳)
http://sago.livedoor.biz/archives/50251034.html

Youtube Apple創始者・スティーヴ・ジョブスの伝説のスピーチ(1) 日本語字幕付き
http://www.youtube.com/watch?v=qQDBaTIjY3s

彼のスピーチの中にこうあります。

>私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。

非常にシンプルな哲学、これ、ほとんど同じことを言っている人を私は知っています。

正法眼蔵随聞記。
道元ですよ。

>学道の人は後日を待って行道(ぎょうどう)せんと思うことなかれ。ただ今日今時を過ごさずして、日々時々を勤むべきなり。

正法眼蔵随聞記の第二にこうあります。

>十六 夜話に云く、古人の云く、朝に道を聞て夕べに死すとも可なりと。いま学道の人も此の心あるべきなり。廣劫多生の間だ、いくたびか徒に生じ徒に死せしに、まれに人身を受けてたまたま仏法にあへる時此の身を度せんずれば、何れの生にか此身を度せん。たとひ身を惜しみたもちたりともかなふべからず。ついに捨てて行く命ちを一日片時なりとも仏法のために捨てたらんは、永劫の楽因なるべし。

・・・スティーブ・ジョブズは、私と同じ曹洞宗でね。「正法眼蔵随聞記」は、私の愛読書の一つです。共鳴しないわけありませんよ(笑)。ジョブズが「心の師」と仰いでいたのは日本人の禅僧・乙川弘文という人です。一日一日を大切に生きていくという教えを、私は、小さい頃に故郷のお坊さんに教わりまして、ジョブズも同じ「禅のこころ」をお坊さんに教わっているんです。不思議なもんですな。

乙川弘文。

ジョブズの「心の師」乙川弘文は、英語版のWikipediaには載っています↓
参照:
Wikipedia Kobun Chino Otogowa(英語)←本当は「Otogawa」なんですけどね(笑)
http://en.wikipedia.org/wiki/Kobun_Chino_Otogowa

ちょっと、前掲の道元の言葉を分析しますとね、宋に留学した道元は儒の考え方にも造詣の深い人でして、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉は、「この世の真理(道)を知ることが出来たのならば、その日の夕方に死んだとしても私は構わない。」(「論語」里仁第四)という、孔子の言葉です。実に2500年以上東アジアの大勢を占めることとなる儒教の祖である孔子が、多くの門弟を抱えながらも一学徒としての姿勢を崩さずに、学問に臨む気持ちを表したものだと解釈しています。この熱い志に道元が感銘を受けているという箇所です。

ジョブズのスピーチは、

>「Stay hungry, stay foolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。「Stay hungry, stay foolish.」それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。Stay hungry, stay foolish.

と、結ばれているわけなんですが、これも、「正法眼蔵随聞記」にあります。

>学道の人は最も貧なるべし。
>世人を見るに、財有る人は先づ瞋恚(しんに)恥辱の二難定て来るなり。財有れば人是れを奪ひ取らんと欲す。我れは取られじと欲する時、瞋恚忽に起る。あるいは之れを論じて問注対決に及び、遂には闘諍合戦を致す。是(かく)のごとくの間、瞋恚起り恥辱来るなり。貧にして而も貪らざる時は、先づこの難を免る。安楽自在なり。証拠眼前なり。

「瞋恚(しんに)」というのは、貪欲(とんよく)・愚痴(ぐち)と並ぶ仏教における三毒でして「怒り」という意味ですね・・・余計な財産があると、なにかに打ち込むことはできないと、あとはもうちょっと哲学的に言うと・・まぁ、分かりやすいのは、

Yoda。
"Fear leads to anger. Anger leads to hate. Hate leads to suffering."
ということでしょう(笑)。

禅においては、智慧を重視して知識なんていうものは、むしろ軽視されます。道元は中国に留学しても、一切仏典を持ち帰らず、ただひたすら座禅に励むことで、誰の心にも備わっている仏に気付かせる、というような人なので、ジョブズのスピーチは、上手く禅のこころを表現していると思いますよ。

実は、「正法眼蔵随聞記」ではこのあとに、

>寺の寮寮に塗籠をおき、各各器物を持し美服を好み財物を貯え、放逸の言語を好み、問訊礼拝等の衰微することを以て思ふに、(中略)、仏法者は衣盂の外に財宝等を一切持つべからず。なにを置かんがために塗籠をしつらふべきぞ。

と、当時の建仁寺の僧侶の風紀の乱れを嘆いておりまして、「僧侶は衣盂の外に財宝等を一切持つな。何しに寺に入ったのか。そんなことだから仏法が衰えるんだよ!」と言っているわけですが・・Appleでジョブズが行った改革のなかに、「会社にペットを連れて来るな」とか、あったじゃないですか。あれって、道元の志がジョブズに受け継がれているような・・道元を怨まんでくださいね。社員のみなさん(笑)。

「愛国心」だの「道徳」だの「武士道」だのとオモシロさんがガーガーピーピー喚いていますが、武士道の根幹の一つである「禅」の解釈で、日本の文化人の中に、ジョブズよりもしっかりとした人はそういませんな。日本の伝統文化の理解について、アメリカ人に負ける有様というのが、日本の実情であります。ちょっと前の文化人にはちゃんと分かっている人がいた筈なのに、気付けばバカばかり(泣)。バカが「誇り」をもったって、「偉そうなバカ」でしかないのに、そういうやつほど羞恥心というのがなくて声がでかいのでここまで堕ちるんですな。

ジョブズを見ていると「和魂洋才」の巨大なしっぺ返しを食らっているとすら思えますよ。ウォークマンを発明した国がiPodに席巻されるという敗戦。

再び、ジョブズのスピーチを。

>自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。
>君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。

これも、禅のこころ・・だと半年前まで私は考えていましたが、中国に仏教が伝来する前にいた、荘子の考えなんですよね。ジョブズのスピーチも出てくる「ドグマにとらわれない」とか「天国に行くこと」を否定するのも、明確に形として出てきているのは荘子の思想ですよね。

荘子 Zhuangzi。
『生也死之徒、死也生之始、孰知其紀。人之生、氣之聚也。聚則為生、散則為死。若死生為徒、吾又何患。故萬物一也。』(『荘子』知北遊篇)
→ 生には死が伴い、死は生の始まりである。だれがその初めと終わりを知り得よう。人の生は氣が集まったものであり、集まれば生となり、散じれば死となる。生と死とが一体であるとすれば、私は何を思い煩うことがあろうか?

『荘子』の言う「氣」は「仏性」に近い要素をもっています。
現代のアメリカ人が、『荘子』に近い死生観を有しているという珍しい例です。

『夫大塊載我以形、勞我以生、佚我以老、息我以死。故善吾生者、乃所以善吾死也。』(『荘子』大宗師篇)
→ 天地は、私を大地に乗せるために肉体を与え、私を働かせるために生命を与え、私が永遠に働けぬよう老いを与え、私を安息にするよう死を与える。すなわち、生を善しとするということは、死を善しとするということである。

・・・一種のシンクロニシティなんですが、紀元前にインド人も中国人も似たようなことを考えていて、峻別して意味のない段階まで融和しているものがあります。インド人だと、2時間くらいかけて老子や荘子と同じようなことを語りますが(笑)、なかなか老子や荘子ほどシンプルには語れません。禅宗って、インドと中国の叡智の根本の素養を兼ね備えているといっても過言ではないでしょう。多分、臨済宗の人の方が良く感じるとは思います。

ジョブズやゲイツがやっていた、禅(Zen)におけるシンプルなコンセプトと、茶の湯のもてなしの心の応用編のような"Presentation"の手法については、こちらのサイトをどうぞ↓

http://presentationzen.blogs.com/presentationzen/2005/11/the_zen_estheti.html

このサイトに"Shizen"という単語が出てきています。400年ほど前に日本人が「ナツウラ(英語で言うとnature)」なる言葉に首をかしげている文章を読んだことがありますが・・おかしなもんですな。

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