人生朝露

人生朝露

荘子から陶淵明の草枕。



参照:曳尾塗中と籠の中の鳥。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5085

Confucius (551 BC ~ 479 BC)
『論語』の微子編に田畑を耕する隠者、長沮(ちょうそ)と桀溺(けつでき)に共感する人物が現れます。

遙遙沮溺心  悠悠とした長沮や桀溺の心は、
千載乃相關  千年を時を経て相照らすものがある。 
但願常如此  いつまでもこうあって欲しいものだ。
躬耕非所歎  耕作に精を出すのは、(苦しいけれども)嘆くようなことではない。
(陶淵明 『庚戌歳九月中於西田穫早稻』より)

・・・次なる荘子読みは、
陶淵明。
陶淵明(Tao Yuanming 365~427)であります。

参照:Wikipedia 陶淵明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%B7%B5%E6%98%8E

若き日に大いなる志を持って役人に仕官したものの、官職が性に合わず、職を捨て郷里で農作業に明け暮れ、貧しい中でも酒と田園を愛し続けた詩人であります。陶淵明といえば、なんといっても菅原道真の訓読で知られる「帰去来兮(かへりなんいざ)」ですが、今回は省略。隠遁と言っても、漂泊ではなく、帰郷や、帰農に近いですね。

参照:帰りなんいざ、田園將に蕪れなんとす:帰去来辞
http://tao.hix05.com/102kaerinan.html
・・・現在の福島を思わずにはいられません。

歸園田居五首 其一 陶潜

少無適俗韻  若いころから世俗に合わせることが苦手で、
性本愛邱山  元々邱山を愛する性分だった
誤落塵網中  誤って俗塵に身を投じることとなり
一去三十年  めまぐるしく三十年の歳月が過ぎた
羈鳥戀舊林  繋がれた鳥はかつて暮らした林に恋焦がれ
池魚思故淵  池の魚も生まれ育った淵を思う
開荒南野際  南野の荒地に鋤を入れ
守拙歸園田  拙を守って園田に帰る
方宅十餘畝  方宅は十餘畝
草屋八九間  草屋は八九間
楡柳蔭後簷  裏の楡柳は軒に影を落とし
桃李羅堂前  表の桃李は枝を連ねている
曖曖遠人村  隣の村が霞んで見える
依依墟里煙  墟里の煙は親しげに誘う
狗吠深巷中  深巷の中に犬は吠え
鷄鳴桑樹巓  桑樹の巓に鶏が鳴く
戸庭無塵雜  戸庭に余計なものを置かず、
虚室有餘間  部屋には光差すゆとりをもたせた
久在樊籠裡  籠の中にいた私だが、
復得返自然  復た自然に返ることができた

儒学の教養の基礎もありますが、『歸園田居』には老荘思想の影響がまざまざと。実は陶淵明は若き日に荘子の墓を訪れているんですよね。彼の荘子からの影響は、いちいち挙げるのは大変ですので一部だけ。

Zhuangzi
『澤雉十歩一啄、百歩一飲、不?畜乎樊中。神雖王、不善也。』(『荘子』養生主 第三)
→沢のキジは十歩に一度エサをついばみ、百歩に一度水を飲む。そんなキジでも籠の中に閉じ込められる事を望まない。人間で言えば王様のようにエサや水にありつけても、心がそれを善しとしないからだ。」

『子獨不知至徳之世乎?昔者容成氏、大庭氏、伯皇氏、中央氏、栗陸氏、驪畜氏、軒轅氏、赫胥氏、尊盧氏、祝融氏、伏羲氏、神農氏,當是時也,民結繩而用之,甘其食,美其服,樂其俗,安其居,鄰國相望,?狗之音相聞,民至老死而不相往來。若此之時,則至治已。今遂至使民延頸舉踵曰“某所有賢者”,贏糧而趣之,則?棄其親而外去其主之事,足跡接乎諸侯之境,車軌結乎千里之外,則是上好知之過也。』(『荘子』キョキョウ 第十)
→あなたは至徳の世について知っているだろうか?(中略)その当時は、民は文字の代わりに縄の結び目を使い、自分の手で作った食べ物を美味いと思い、自分の手で織った着物を立派だと思い、その土地の娯楽を楽しいものと思い、粗末であっても自分たちの住まいで十分だった。隣の国とは鶏や犬の聞こえるほど近かったが、人々は老いて死ぬまで往来をしなかった。このような時代にこそ、人々はのんびりとくらしていた。ところが今では、つま先で立ってせかせかと歩き回り、遠くに賢人がいると聞くと、教えを請いに遠くまで出かけていく。故郷の親を捨て、ゆかりのあった人たちも捨て、国をも越えて千里の外へ車で走り回るようになった。

参照:荘子と進化論 その76。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201105200000

・・・最後にある「復得返自然」は、現代の感覚では「自然(じねん)」と読むか「自然(しぜん)」と読むか、どちらが自然でしょうか?

ちなみに、陶淵明の詩に出てくる守拙歸園田 (拙を守って園田に帰る)という場合の「拙」は、『老子道徳経』の第四十五章、『荘子』で言うとキョキョウ篇の「大巧若拙(大巧は拙なるが若し)」の拙です。これは鈴木大拙の「大拙」の由来である「拙」です。

そして、
漱石。
夏目漱石の「木瓜(ぼけ)咲くや  漱石 拙を守るべく」の「守拙」です。

才子群中只守拙 才子群中 只(ただ)拙を守り
小人囲裏独持頑 小人囲裏 独り頑を持す
寸心空託一杯酒 寸心空し 一杯の酒に託し
剣気如霜照酔顔 剣気 霜の如く酔顔を照らす
(漱石作「無題」より)

陶淵明。
飲酒二十首 其五 陶潜

結廬在人境  庵を結びて人境に在り
而無車馬喧  しかも車馬の喧しき無し
問君何能爾  君に問う 何ぞ能く爾(しか)るやと
心遠地自偏  心遠ければ地も自ずから偏なり
采菊東籬下  菊を采る 東籬の下
悠然見南山  悠然として南山を見る
山気日夕佳  山気 日夕に佳く
飛鳥相与還  飛鳥 相い与(とも)に還る
此中有真意  此の中に真意有り
欲弁已忘言  弁ぜんと欲して已に言を忘る

都会の喧騒を避け、貧しいながらも、その生活と郷土の山河から詩を綴る彼の態度は、地に足がついていながらも、何かしら達観したものがあります。昔は日本にもこういう人がたくさんいましたね。

「欲弁已忘言(弁ぜんと欲して已に言を忘る)」は、禅においても重要な「忘筌(ぼうせん)」です。
Zhuangzi
『筌者所以在魚、得魚而忘筌。蹄者所以在兔、得兔而忘蹄。言者所以在意、得意而忘言。吾安得忘言之人而與之言哉。』(荘子 外物 第二十六)
→魚を得てしまうと、魚獲りの道具である筌(ふせご)は不要になって忘れてしまう。ウサギを獲ってしまうと、ウサギの罠の存在を忘れてしまう。言葉もまた、真意を得てしまえば価値を失い、言葉そのものを忘れてしまう。私は、どうにかして、このような言葉を忘れてしまった人と語り合いたいものだ。

参照:中島敦「名人伝」と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5014

有名なのは「菊を采る東籬の下 悠然として南山を見る」ですね。
漱石。
《苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。
 うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠然見南山。ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照。ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は「不如帰」や「金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気な扁舟を泛べてこの桃源に溯るものはないようだ。余は固より詩人を職業にしておらんから、王維や淵明の境界を今の世に布教して広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人絵の具箱と三脚几を担いで春の山路をのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥(しょうよう)したいからの願い。一つの酔興だ。≫(夏目漱石『草枕』より)

参照:荘子、古今東西。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5038

荘子の処世と、価値のない木。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5028

正岡子規と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5076

Zhuangzi
『予惡乎知説生之非惑邪。予惡乎知惡死之非弱喪而不知歸者邪。』(「荘子」斉物論第二) 
→生きることだけを喜びとするようなことを、私は人の迷いではないと言うことができない。逆に、人間が死を憎んでばかりいるのは、旅人が故郷に帰ることを忘れるということに似てはいまいか?

芭蕉。
(晋の淵明をうらやむ) 窓形に昼寝の台やたかむしろ
草の戸や日暮れてくれし菊の酒  芭蕉

漱石。
憂ひあらば此酒に酔へ菊の主
菊の香や故郷遠き国ながら  漱石

今日はこの辺で。

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