人生朝露

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『徒然草』と追儺。

荘子です。
荘子です。

兼好法師と荘子 その3。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005169/

『徒然草』と老荘思想、というか「道教」なのかな。

兼好法師((1283~1352)。
『唐橋の中將といふ人の子に、行雅僧都とて、教相の人の師する僧ありけり。氣のあがる病ありて、年のやうやうたくるほどに、鼻の中ふたがりて、息も出でがたかりければ、さまざまにつくろひけれど、煩はしくなりて、目・眉・額なども腫れまどひて、うち覆ひければ、物も見えず、二の舞の面の樣に見えけるが、たゞ恐ろしく、鬼の顔になりて、目は頂の方につき、額の程鼻になりなどして、後は坊の内の人にも見えず籠り居て、年久しくありて、猶煩はしくなりて死ににけり。
 かゝる病もある事にこそありけれ。(『徒然草』第四十二段)』

二の舞の腫面と咲面。
唐橋の中将の息子さんが、重度の皮膚病にかかって、二の舞の面(腫れ面)のような形相になったというお話があります。兼好法師は「まるで鬼の顔だ」と形容しています。この文章を読むたびに『ブラック・ジャック』の「獅子面病」を連想してしまいます。天然痘かハンセン氏病のように見えますが、この症状からいってどうなんでしょうか。

兼好法師((1283~1352)。
「應長のころ、伊勢の國より、女の鬼になりたるを率て上りたりといふ事ありて、その頃二十日ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に參りたりし、今日は院へ参るべし。たゞ今はそこそこに」など云ひあへり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言といふ人もなし。上下(かみしも)たゞ鬼の事のみいひやまず。
 その頃、東山より、安居院(あぐゐ)の邊へまかり侍りしに、四條より上(かみ)さまの人、みな北をさして走る。「一條室町に鬼あり」とのゝしり合へり。今出川の邊より見やれば、院の御棧敷のあたり、更に通り得べうもあらず立ちこみたり。はやく跡なき事にはあらざんめりとて、人をやりて見するに、大方逢へるものなし。暮るゝまでかく立ちさわぎて、はては鬪諍おこりて、あさましきことどもありけり。
 そのころおしなべて、二日三日人のわづらふこと侍りしをぞ、「かの鬼の虚言は、この兆(しるし)を示すなりけり」といふ人も侍りし。(『徒然草』第五十段)」

・・・こちらは、第五十段の京都で鬼を目撃したという噂が流れたお話。最後に「二三日、人が病気にかかっていて「あの鬼の噂は、この流行病の前兆だったのだ」という人がいたとしています。

荘子 Zhuangzi。
『桓公田於澤、管仲御、見鬼焉。公撫管仲之手曰「仲父何見?」對曰「臣無所見。」公反、謗詒為病、數日不出。齊士有皇子告敖者曰「公則自傷、鬼惡能傷公。夫忿奮之氣、散而不反、則為不足、上而不下、則使人善怒。下而不上、則使人善忘。不上不下、中身當心、則為病。」桓公曰「然則有鬼乎?」曰「有。沈有履、辻有髻。戸内之煩壤、雷霆處之、東北方之下者、倍阿、鮭蟹躍之。西北方之下者、則逸陽處之。水有罔象、丘有宰、山有蝮、野有彷徨、澤有委蛇。」』(『荘子』達生 第十九)
→斉の桓公が、管仲にくつわを取らせ、沼地に狩に行ったとき、目の前で鬼の姿を見た。そこで管仲の手を取って「管仲よ、今、何か見えたか」と尋ねたが、管仲は「いえ、私には何も見ませんでした」と答えた。
 桓公は帰ると、何日も病に伏したままになってしまった。斉の家臣で告敖(こくごう)なる者がこう告げた。「殿、あなたは自分で病気になっているのです。鬼は殿を傷つけることはできません。そもそも内に滞った気が外に発散したまま体に戻ってこないと、気が不足してしまうのです。気が上ったままでは、怒りっぽくなりますし、下がったままでは、忘れっぽくなります。気が乱高下せず、水平を保っていないと病気になるのです。」
 桓公が「ならば鬼は存在するか?」と尋ねると、告敖は「存在します。泥水には(履・リ)という鬼がいまして、かまどには(髻・キツ)がおります。ごみ捨て場には(雷霆・ライテイ)が巣食い、東北の低地には(倍阿・バイア)(鮭壟・カロウ)が跳梁し、西北には(イツヨウ)がいます。水際には(罔象・モウショウ)、丘では(シュツ)が、山には(キ)が、原野には(彷徨・ホウコウ)が、沢地には委蛇(イダ)がいます」と答えた。

・・・鬼と病です。

兼好法師((1283~1352)。
「追儺(ついな)より四方拜につゞくこそ、面白ろけれ。晦日(つごもり)の夜、いたう暗きに、松どもともして、夜半すぐるまで、人の門叩き走りありきて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空にまどふが、曉がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年のなごりも心細けれ。亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都には無きを、東の方には、猶することにてありしこそ、あはれなりしか。(『徒然草』第十九段)」
→追儺から四方拝に移り変わる様は、興味深いものだ。大晦日の夜、真っ暗な中で松明をかかげ、夜半過ぎまで他人の門を叩いては、何事かと思わせるほどそこかしこを騒いで回っているが、夜明け間近になって、静けさを取り戻すようになる頃、過ぎ去り行く年の名残に、心細さを感じるものだ。この世を去った魂が戻ってくる夜を祀る儀式は、昨今の京の都では廃れたが、東国にはまだその儀式があるという、趣深いものだ。

『公事十二ヶ月絵巻』  追儺。
ここに、「追儺(ついな)」という行事が記録されています。「鬼やらい」とか「鬼追い」といった名前でも呼ばれるものです。

兼好法師((1283~1352)。
「尹大納言光忠卿、追儺の上卿(しゃうけい)を務められけるに、洞院右大臣殿に次第を申し請けられければ、「又五郎男を師とするより外の才覺候はじ」とぞ宣ひける。かの又五郎は、老いたる衞士の、よく公事に馴れたる者にてぞありける。近衞殿 著陣したまひける時、膝突を忘れて、外記を召されければ、火たきて候ひけるが、「まづ膝突をめさるべくや候らん」と、忍びやかに呟きける、いとをかしかりけり。『徒然草』(第百二段)」

・・・第百二段では、宮中での追儺の儀式の段取りの場面が回想されておりまして、神祇官であった兼好法師にとって思い入れのある儀式であったことが推察できます。

儺(な)。
この「儺(な)」という儀式について。
中国の神話に由来する疫病退散の宮廷行事で、『周禮』や『後漢書』にも記録される歴史の長い風習です。現在の日本で言うところの「節分」の儀式です。

今回は『徒然草』の十三段で「あはれなる巻々」とされている、兼好法師の愛読書であった『文選(もんぜん)』の『東京賦(とうけいのふ)』から引用します。作者は後漢の文人にして科学者・張衡。東京とは洛陽の都を指します。

張衡(Zhang Heng 78~139)。
『爾乃卒歲大儺、敺除羣萬。方相秉鉞、巫覡操茢。侲子萬童、丹首玄製。桃弧棘矢、所發無臬、飛礫雨散、剛癉必斃。煌火馳而星流、逐赤疫於四裔。然後凌天池、絕飛梁。捎魑魅、斮獝狂。斬蜲蛇、腦方良。囚耕父於清泠、溺女魃於神潢。殘夔魖與罔像、殪野仲而殲游光。八靈為之震慴、況鬾蜮與畢方。度朔作梗、守以鬱壘、神荼副焉、對操索葦、目察區陬、司執遺鬼。京室密清、罔有不韙。於是陰陽交和、庶物時育。卜征考祥、終然允淑。(『東京賦』張平子(張衡))』
→年の暮れに大儺に、もろもろの悪鬼がたたき出される。方相がまさかりを、巫女はキビの箒を振り回す。赤いずきんに黒の衣をまとった童男童女を従え、桃の弓に茨の矢をつがえ、四方八方に放ち出す。飛び交う礫の雨あられ、悪鬼もたまらず倒される。松明の火は馳せて流星のように疫鬼を四隅に追い回し、天池に飛び橋をまっすぐに渡し(中略・前記『荘子』にも登場する魍魎、委蛇、罔像、キなどなどの、常用漢字にない魔物達を駆逐しています。)かくして、八方の悪霊達はちちみあがる。度朔の山の桃の木でできた人形は、鬱塁を主、神荼(シント)を副として、葦の縄を手に、逃した悪鬼に目をこらし、部屋の隅々を守る。宮中は静けさとすがすがしさを取り戻し、よからぬ兆しも無くなる。かくして陰陽は和やかに交わり、万物はすくすくと育まれる。皇帝が巡行を占っても、「旅の終わりまで吉」との卦がでるものだ。

参照:維基文庫,自由的圖書館 東京賦
http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E8%B3%A6

Wikipedia 張衡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%A1%A1_(%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85)

非常に賑やかな行事であったようです。

日本の『延喜式』にも、陰陽寮が取り仕切りながら「桃の弓」と「葦の矢」を使っていたとの記録があります。

≪親王門候止申。即方相首親王已下。随次入立中庭。陰陽寮儺祭畢。親王已下執桃弓葦箭桃杖儺出宮城四門。/東陽明門。南朱雀門。/西殷富門。北達智門。∥其方相仮面一頭。/黄金/四目。『延喜式』≫

参照:古事類苑全文データベース  追儺〈土牛童子〉
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?cmd=read&page=%E6%AD%B3%E6%99%82%E9%83%A8%2F%E8%BF%BD%E5%84%BA%E3%80%88%E5%9C%9F%E7%89%9B%E7%AB%A5%E5%AD%90%E3%80%89%E3%80%88%E4%BD%B5%E5%85%A5%E3%80%89&word=%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%AA

吉田神社。
後々のことになるんですが、兼好法師の実家・吉田神社はこのお祭りの民間に広めまして、京都では現在でも「節分」と言えば「吉田さん」なんだそうです。

参照:兼好法師と老子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005168/

参照:吉田神社 節分祭 鬼やらい(追儺式) 2012年
http://www.youtube.com/watch?v=bb5w9Fq374w

また、続きます。

今日はこの辺で。

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