陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

この空の下で 56




―何度も、すみません。ご迷惑なのを承知でお手紙書いていることをお許し下さい。

あなたの家庭を壊すつもりは、ありません。

ただ、一度だけお目にかかりたいのです。

それだけです。

私の我が儘だと言うことは十分わかっています。

一度だけでいいのです。

お願いします。

場所と日時は、あなたの都合に合わせます。

彩子―

彩子は、電報のような短い文を書くのがやっとだった。

手紙を出しが翌日の夜、彩子の携帯に公衆電話から電話がかかってきた。

翔からだった。

「もしもし。」

「川村ですけれど。手紙、受け取りました。この間も話したとおり、今、会ってどうなるの?もう、あれから10年以上たっているんだよね。君にも、僕にも家庭がある。立場もあるんだ。分かってもらえるよね。思い出は思い出のままがいいんだ。僕の中の君との思い出を壊したくない。どうして今、なの?」

「あなたのことを思い出して、どうしても会いたくなってしまったの。私の我が儘だってことも、あなたの迷惑になることも分かっているわ。でも、会って欲しいの。一度でいいの。お願い。」

彩子は、どうしても、自分が癌に冒されているとは言えなかった。

「いや、会わない方がいい。思い出のままにしてくれない?このまま、話を続けるのも辛いよ。」

「ごめんなさい。」

「君への思いはもう思い出の中なんだ。きれいな思い出のままにしておきたい。本当の気持ちなんだ。これが。」

「わかったわ。ごめんなさい。」

電話は切れた。

彩子は、ベッドに横になって、声を殺して泣いた。

『もう、一生、翔さんに会うことはできない。』

自分の心が自分でどうすることも出来なかった。


痛む心


彩子は、抗ガン剤治療を続けた。

妊娠7ヶ月に入り、超音波で胎児が男子であることが確認された。

早速、彩子は、隆に電話した。

「隆、赤ちゃん、男の子だって。あなた、今度は、男の子がよかったんじゃない?嬉しい?」

「そうか。別にどっちだって、元気に生まれてきてくれればいいよ。」

「本当?でも私は、男の子で嬉しいわ。きっと、あなたに似てイイ男よね。」

「あったりまえだろう。翼か。つ・ば・さ。元気な子だろうな。ああ、早く帰りたいよ。今、試験で、むちゃくちゃ頭、痛いよ。でも、それが終われば、ご褒美が沢山待っているんだな。彩子、頑張れよ。」

「うん。分かっている。隆もね。みんなで待っているから。」

彩子は、電話を切った後、ベッドに横になって泣いた。

『ごめん。隆。私、あなたに悪いことしている。今、私の胸の中は、翔さんのことで一杯。隆は、私を愛してくれ、信じているのに。この思いを断ち切りたい。どうすれば、また、思い出の箱の中にしまえるの?』

彩子は、お腹の中の子どもが動くのを感じた。

『この子にも分かるんだ。私を叱っているのね。』


早まる出産


抗ガン剤治療が出来るのは、32週までなので、それまで、彩子の体力が維持でき、胎児の機能が整えばすぐに出産するというのが医師の方針だった。

超音波検診の結果、後、2週間ほどで十分胎児が母体から出て育っていけるということになった。

週に、2~3日は、祐子が彩子をお見舞いに来ていた。

「もうすぐだね。楽しみ~。叔母さん気分だよ。」

「人のことより、自分はどうなの?仕事ばかりにかまけて。そろそろタイムリミットじゃないの?」

「そうよねって、自分でも思っているよ。健二も子ども欲しがっているし。仕事もまあ、自分としては十分やってきたし、同じポストに復帰させてくれるって上司もいっているから。それより、名前そろそろ考えておかないとね。」

「そうよね。」

彩子は、子どもの名前を祐子に言えなかった。

『翼』

「どんな名前がいいかな?黎ちゃんは隆さんに合わせて一文字の名前にしたのよね。じゃあ、今度も、一文字の名前にするの?男の子だからね。今って、どんな名前が流行っているんだろう。黎ちゃんの名前を考えたときの本、まだあるの?」

「えっ、ああ、あるよ。隆に任せるわ。男の子の名前だし、彼には、きっと夢があるはずよ。なんだかんだ言っても、自分の分身みたいなものじゃない?」

「そうだよね。あ~、何だか私も今すぐにでも欲しいな~。」

「頑張っ・て・ね。健二さんも元気?相変わらず、仕事いそがしいの?」

「あんた達みたいに留学でもしておけばよかったわ。自由なアメリカで自由な生活。」

「そうね~、楽しかったよ。また行きたいな。行けるかな。」

苦笑いをして、ポツリと彩子が言った。

「行けるわよ。言うなれば、その子は、made in USAよね。」

「そうなるわね。」

二人で顔を見合わせて笑った。

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