陽炎の向こう側             浅井 キラリ

陽炎の向こう側   浅井 キラリ

優しく抱きしめて 29



「わあ~、全然気が付かなかったわ。もう、そんな時間?」

「そうだよ。早く行こう。仕事人間なんだから~。」

「そんなんじゃないわよ。どこ行く?」

「そうね~、久しぶりに洋風カレー屋さんにでも行く?」

「いいよ。」

2人は、日差しの強くなってきた、ビル街を歩いて行った。

「どう?その後、体調は?」

「何とか。でも、本当のことを言うと、これから忙しくなっていった時、不安があるの。投げ出せないし、やり通さなくちゃ。でも、体がついて行ってくれるのか心配なの。」

「お医者さんは何て?」

「やっぱり疲れるのはよくないから、疲れないようにって。薬を上手く使ってくださいって。」

「川原さんに言った方がいいんじゃない?」

「できないよ。絶対に外されちゃう。もう始まったのよ。」

お昼休みの後、美奈は、資料に目を通した。

時々、美奈は、森口のことを思い出していた。そうすることで、心が支えられていた。

「どう、村沢君。」

室長の川原が声を掛けてきた。

「はい。色々と問題点が出て来そうです。」

「そう。一度、ざーっと目を通して、問題点を挙げて、見せて。」

「わかりました。」

仕事が本格的に動き始め、美奈の残業時間は、少しずつ長くなっていった。

金曜日の夜には、もう、疲れのピークだった。タクシーの中でグッタリとしている美奈だった。

土曜の朝、美奈は、着替えるためにクローゼットを開けた。

『何を着ていこうかな?ピンクのアンサンブルに白のスカートにしよう。バックと靴はベージュがいいかな?オーデコロン、ママの少し甘めのを借りようかな。』

ドレッサーの前に座り、髪をブラシでとかしながら、美奈は自分の姿を見ていた。

『いいかな?』

「あら、美奈ちゃん、何だかいつもと感じが違うわね。スカートなんて滅多に履かないのに。」

「あっ、たまにはいいかなって思って。どう?」

「似合っているわよ。女性らしいわ。」

いつものように父親の車で病院に向かった。

今日も、1時間半ほど待たされ、名前を呼ばれた。

「村沢美奈さん、3番診察室にお入りください。」

森口の優しい声がした。

「失礼します。」

ドアを開けて入って来た美奈の姿を見て、森口の目が一瞬止まった。

一瞬、森口目が美奈に釘付けになった。

美奈は、森口の座る机に向かって歩いていった。

森口は、直ぐに医師の顔に戻っていた。

「どうぞ、おかけください。」

「失礼します。」

先週の診察では、まともに森口の顔を見ることが出来なかった美奈だが、森口を見つめ、口元に笑みを浮かべていた。

「この一週間、体調はいかがでしたか?」

「少し仕事が忙しくなってきたので、疲れが溜まってきています。平日は、通常のお薬と頓服でどうにか、過ごしていますが、病気の為か、薬の影響なのか、体がだるく、集中力が低下している感じがします。」

「それは、病気の症状と薬の影響の両面で考えられますね。週末は、ゆっくりとお休みになって下さい。」

「はい。でも、少し不安なんです。いつ発作が起きるのかと思うと。」

「大丈夫。病気のことから離れましょう。ただ、お疲れを溜めないことだけを考えて下さい。電車内で起きて以来、大きな発作は起きていないのですから。このまま、体がその記憶を忘れてくれるといいのですが。そうすれば治ってきます。気にしないことです。」

「はい。」

「夜は、ちゃんと睡眠は取れていますか?

「はい。」

美奈の耳には、森口の言葉の一つ一つが美奈の心の中で安心に繋がっていった。

美奈には、森口と向き合うこの時間がオアシスにいるような感じがした。

「また、来週、いらして下さい。」

「はい。ありがとうございました。」

美奈は、このオアシスから離れがたかった。

美奈は、席を立つと一礼してドアに向かって歩いていった。

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