ペット喜怒哀楽

反戦平和の手帖


著者 : 喜納昌吉/C.ダグラス・ラミス (以下、喜納はK,ダグラス・ラミスはC)
出版社: 集英社新書 0334A 2006.3.22第1刷 237ページ ¥735

感想 : 2007.4.13,15,16,17,18 日記に記載

気になった文章:
* 戦後二十七年間、米軍は沖縄のオーナー、つまり主権者、として堂々と振舞った。米軍(特に海兵隊)は潜在意識化において、沖縄の日本への「返還」を納得していないのだろう。形式上、米軍が沖縄で基地を持つ権利は、国際条約によるものであるが、米軍にとっての沖縄は征服権によって手に入れた戦利品だ。米軍にとって、日本政府の沖縄における「主権」は、大きな邪魔にならなければ従ってもいいような茶番だが、緊急事態になると、「十三日の金曜日事件」ではっきり見えたように、米軍は躊躇なく、沖縄に対する主権者として振舞う。この事件はもし、米軍が東アジアで大きな戦争にかかわることがあれば、沖縄がどう扱われるかという小さな予告編だったろう。(C)(Cは米軍海兵隊にいたことがある)

* (Kが国会議員になったことに関して、Cの発言)
自分の政治活動の領域が政府の外にある場合、ある種の特権が与えられる。それは、自分が真実と信じていることに基づいて発言し、行動することができる、ということだ。すなわち、多数者が何を考えているのか、ということに縛られない。
(全く、だから、議員や大臣の馬鹿な発言があるわけよ。ここをわきまえていない! それこそ国民として他の国民に申し訳ないわ)
(中略)しかし、議会に入ったら、活動家にはできないことが可能になる。なぜなら、市民運動が要求することの多くは、結局、政府にしか実現できないことだからだ。軍縮を要求しても、武装しているのが政府である以上、軍縮を実行できるのも政府だけ、ということになる。原子力発電の廃止を要求しても、原発を作っているのは政府なので、廃止できるのも政府だけだ。沖縄からの米軍基地の撤退を要求しても、その基地を沖縄に置いているのが政府(この場合、日米政府)なので、撤退を決定できるのもその政府だけ、ということになる。議員は、そのような決定が行われる場に近いので、活動家が持てないような影響力を持つようになるかもしれない。(中略) 私たちの間には、基本的な考えが一致しているところも数多い。そのうちでもっとも重要なのは、反戦運動が「現実主義者」に対して闘っている「理想主義的な」運動などではなく、軍国主義者のロマン的幻想に対抗する現実主義的な運動であることを多くの人に意識してほしい、と訴えたいことだ。

* (ベトナム戦争帰還兵の自殺者多数に関して)
凄絶な体験が、生きる力を失わせた。傷つけられた側ではなく傷つけた側だからこそ、闇に取りつかれることがあるのかもしれない。(K)
What Every Person Should Know About WAR(本当の戦争ーすべての人が戦争について知っておくべき四三七の事柄、2004年、集英社)に、戦争中、従軍した軍人の何割がくるってしまうかを調査した米軍に関するレポート、戦争の最前線で60日間戦い続けると、98%の人がノイローゼになる。 残りの2%は普通の社会にいればもともとクレイジーな人。そんな人たちは軍隊に入れば目立たなくなるんですね。その人たちは狂わない。普通の人は、最前線で毎日毎日戦い続けたら、手の震えが止まらなくなる、目がみえなくなる、声がでなくなる、症状はさまざまだけど、体も心もおかしくなるんです。(C)
戦争には勝利者はいない、人類の敗北があるだけだ(K)

* 米軍のなかにも人種差別があってね、当時の基地周辺でも、立場によって遊ぶ場所が決められていたんですよ。(中略)それに不満をもった黒人兵が他の通りへ出て行って、講義を始めたわけ。(中略)ウチナーンチュの不満にも火がついていった。白人に対する憎悪が募って、あれだけの大きさになったんです。しかし、「暴動」という言葉が使われていますが、よくよく見るとコザ暴動のとき、ウチナーンチュは黒人兵の車には手を出していないんです。燃やされたのはぜんぶ白人兵の車ばかりなんです。こういったところに、ある意味でウチナーンチュの意識が冷静だったことが現れていて、「暴動」といわれることへの違和感を訴える人が多いんです。しかし、当時の沖縄の運動家や政治家たちは、この事件に対して口をつぐんでしまった面があるんです。(K)

1960年代の後半から70年代にかけて、反戦平和運動が盛り上がってね、世界的にメッセージソングというものが流行ったでしょう。日本もそれに乗って、あの当時各地でフォークジャンボリーが流行ったんですよ。社会派といわれるようなミュージシャンがたくさん出てきて一つの社会現象になっていたほどです。だけど安保闘争がしぼんでくるにつれて、それも下火になってしまった。それでも活動を続けるミュージシャンは路線を転向して、愛とか恋とかをうたうようになった。私のように、それでも社会に向かっているミュージシャンは、タブー視されるようになっていったんです。正直言って、私が今、名前を知られているのは、沖縄側から喜納昌吉が発進されたからではありません。実のところ喜納昌吉はヤマトの評論家や海外から発掘、評価され、彼らが世界に押し出してくれた面が大きいんです。なにせ当時の沖縄では、琉球放送や沖縄テレビなどのテレビ局でもラジオ局でも、私の音楽は放送禁止になっていましたからね。(笑) 局内に、喜納昌吉の音楽はかけるな、というポスターが貼られていたんです。(K)

* 当事者じゃなければ、ずっと知らんふりもできるでしょう。CTSが建っても漁師でなければ関係ない、原発が爆発しても自分の住んでいるところでなければ関係ない、自衛隊が派遣されても海外のことだから関係ない。直面しない限りは他人事。しかし、それを許しているうちに確実に迫ってくる危機というものがある。(K)

* 今のようにこんなにイラクなど世界が大変なときこそ、ミュージシャンが立ち上がるべきではないでしょうか。期待を込めて、たくさんの人たちがそれを待っていると思います。

* 私にとって、安保のイメージはヨーロッパの民話にある「取り替え子」です。地方によって話の内容が少しずつ変わっているんだけど、だいたい次のような話なんですね、ある村に、とっても美しい赤ちゃんが生まれました。それを知った鬼たちが、「あんなに美しい人間がいるのは耐えられない」と嫉妬して、赤ちゃんを盗みに来ます。そして、代わりに鬼の赤ちゃんをベッドに置いていった。人間の親はそれに気づかなくて鬼の子どもを育ててしまう。子どもが大きくなって、それが鬼の子だと気づいても、もう遅い。(C)
美しい赤ちゃんが日本国憲法で、鬼の子が日米安保ですか。(K)
日本国憲法は、原案の時点ですでに美しい概念が書かれていたと思うんです。鬼たちもそれを認めざるを得なかった。でもその美しさに我慢ができなくなって、鬼の子を押しつけることにしたんです。(C)

* 安保は日米平和友好条約へと切り替えるべきです。(K)

* 沖縄も琉球王朝の時代は、床の間に刀ではなく三線を飾っていたという話をよく聞きますが、それはただ美談なのではなく、琉球内で繰り返された争いの時代から脱却しようと、武器をすて、文化や対談などによる交渉能力を身につけていったゆえのことなのです。武器を持たないことは戦えない弱さではなく、暴力を使わないように、勇気を持って取り組む非常にリアリティのある平和外交の表れなんです。先住民に共通することは、地球に対して畏敬の念を持ち、その精神文化が非常に豊かで力強くあるということです。文明に行き詰った人類が見習うべきところがたくさんあるんです。(K)

* (ポストベトナム症候群に関して)
この病気を治すには、戦争をして勝たなければいけない。それが結いつの治療法なんだと。だから、今すぐにでも戦争がしたい。そこでレーガンは戦争する相手を探している。そんなことをデリンジャーが話したんです。治安の乱れた国が、それを治すために戦争をするというのは、昔からあることですけれど。(中略)外に敵を作れば、内側は結束しますから。しかしあんまり長引く戦争だと、またベトナム戦争と同じく反戦運動が盛り上がるから怖い。でもあんまり小さい戦争だと治療になりそうにない。レーガンはちょうどいい戦争を探していたんです。(C)
そして、グレナダ島侵攻、パナマ侵攻、イラク、
「この戦争で買ってアメリカ国民と軍隊に自信が戻った」とか「やっぱりアメリカは戦争ができるんだ、兵士は逃げない、治安も乱れない」と公の新聞に堂々とそういったことが書かれていた。 そこのところを、安保条約を支持している日本人は気づいていないと思うんです。自分の都合で適当な国を選んで戦争をしかける。そんな国についていくのが果たして安全なのかどうか...。(C)
それまでは、日本の戦争のイメージは攻撃を受けた側のものだったんですが、湾岸戦争以降、攻撃する側のものになった。(C)

* 今朝ニューヨークの友人からメールが届いていました。イスラエルの空軍パイロットが公開した手紙を、転送してくれたのです。その内容がおもしろいんですね。一部のイスラエル兵士が宣言しているんです。「私たちはシオニストであり、イスラエルを愛している。軍隊だから、イスラエルを外側の攻撃から守ります。けれども、パレスチナ人の居住区はもう空襲しません。暗殺の命令などにも従いません。」かなりランクの高い人たちを含む二十数人により、署名入りの声明文です。(C)(中略)新聞やテレビには本当にでてこないですね、こういった話は。(K)

* 「修学旅行で沖縄に行きますので、予備知識を教えてください」と頼まれて、質問の時間になって、生徒に「沖縄で何が見たいですか」と聞いたら、最初の子が「戦闘機が見たい」「基地で戦闘機が見たい」 彼らは沖縄のなかの米軍基地、そこにあこがれがあるんですね。なんとなくドラマティックでスリルがあって、犠牲になっている、でも頑張っている沖縄の人々がいて。独特の音楽があって、ビーチがあって・・・・・・、そんな沖縄が大好き。(C)
以前、沖縄の基地を観光の目玉にしてはどうかという意見さえありましたね。アメリカの文化に触れることができるのは日本のなかでは沖縄だけだから、それは貴重だと。それを大切にしたほうがいいから、基地に反対してはいけない、そんな議論さえありました。(K)

* 屈折した左翼から運動がおこると、また暴力に走る不幸な歴史を繰り返してしまう。屈折した右翼にしても同じこと。私たちの運動は、暴力を超える第三の道を持たなくてはならないんです。だから私は、右翼でもない、左翼でもない、中翼(仲良く)だというんです。(K)

* 沖縄の独立という話になると、大きなテーマになってしまうから、ここでは抽象的なことしか言えないのだけど、たとえば世界で紛争している国や地域などを国境主義から独立させて、国連の信託統治とそ、他の国の利権争いから解放させていけばいいのではないかと考えているんです。だからそこにこそ本来の国連の役割があると思います。そのときにそれを受け止められるような地球規模の規則を作っていくんです。武器を持っている者をチェックするとか、病気に対してチェックするとか、それから麻薬などの犯罪に対してチェックするとか。(K)(中略)本来、国境とは、生命と生命が出会うための場だったはずなんですが、今は争いの場になってしまった。だから、利権による争いの場というものを放棄するんです。国境のこっち側が放棄したら、相手に取ったら寄り添っている相手がなくなり真空現象が起きるようなもの。この真空現象がすこいことになるような気がしているんです。(中略)そこにこそ国連が必要だと思っているんです。だから、沖縄に国連を誘致しようという構想も出てくるんです。(中略) 世界にはいろいろな問題があるでしょう。台湾や朝鮮半島、チベット、ウイグル、イスラエルとパレスチナ、クルド民族など、国境によって、国家と国家の圧力につぶされて、行き場のなくなってしまっている人たちがたくさんいるじゃないですか。そういうところは非常に軍事的にならざるを得ない。軍事の先頭になるわけ。ちょうど朝鮮半島の三十八度線のようにね。私が思うに、こういう問題を抱えている国々が、ぜんぶ国連のなかに飛び込んでくるようにするんです、信託統治という形で、争いを放棄するんです。ただし、条件をつけるわけね。どういう条件かというと、完全は非武装、武器をぜんぶ捨てるということ。ということは、地球上に非武装地帯ができあがっていくことになる。どんどん武器が拡散している人類に対して、逆にそれを解体していく人類的な運動が起きてもいいのではないかと。そうすると、地球に対しての破壊が当然、削減されていくはずなんです。 アメリカなんて、年間の国防費が三八七三億十九00万ドル(2003年度・43兆円以上)を超している。恐ろしいくらいの人々の富が無意味なものに費やされている。それは人類の恐怖心によって形成されているわけです。この恐怖心が地球を破壊して歩いている。だから、人類の恐怖心をどうして取り除いていくかが大事なんです。それをこの沖縄から取り組んでいこうと。(K)

* 沖縄ももちろん、できることなら基地をなくしたいとみんな思っています。しかし、運動をしても容易に現状は変わらないだろうというあきらめがあるわけです。基地撤去に成功したことで沖縄の経済が壊滅しても困るし、という具合に。(K)
その思い込みもアメリカの計算かもしれないですよね。もし自分がアメリカの総領事だったら、なるべく基地反対の運動が起こらないよう、何をやっても基地撤去は不可能だという意識を住民に植え付けようとします。(C)
実際には、フィリピンは撤去させた。ピナツボ噴火を理由にしてね。フィリピンはすでに貧しかったから、「貧乏になるぞ」という脅しは効かなかった、(C)

* 独立、といえばいいお手本があるんです。地中海にあるマルタ島。1964年に独立国になったのですが、それまでマルタはいろんな国の植民地だったんですね。(中略)独立して基地をなくしたんです。テロとか、暴力をいっさい使わないで、ただマルタ人が団結しただけ。独立した歴史がないから、まったくゼロから国を作ったのですね。できると信じて、成功したわけです。(C)

* (原爆展が開催できなかったことに関連して)
事実に直面するのが怖いということですね。本当に原爆を投下したことは正しいと納得しているのならば、見るのも見せるのも、平気ははずです。
アメリカ社会の共通意識のなかに、この何十年分もの罪悪感がたまっているのだと思うんです。また、その罪悪感がさらにアメリカを暴走させているともいえるんですよね。アメリカは「テロに対する戦争をしているのだ」と言いますね。しかし本当のところテロはアメリカです。フロイトの精神分析で「投射」という用語がありますね。(C)
世界のどこよりも大量破壊兵器を持っている国はアメリカ。大量破壊兵器はどこだと言って、大量破壊兵器で攻撃しているわけです。(K)

* 軍隊では、私の場合、米軍の海兵隊に在籍していたわけですが、過酷な訓練をさせられるんです。肉体的に過酷なのはもちろん、健全な考えができなくなるように、精神も徹底的に追い詰められる。なぜそうするかというと、人を平気で殺せるような人間を作るためなんです。(中略)それと、しつこくしつこく女性的なものをバカにすることも、軍隊の訓練につきものですよね。弱みを見せると、「お母さんの所へ帰るか」とか「おまえは女か」とか、言われる。女性の権威をバカにして、男が優れているんだ、というような価値観を植え付けようとするんです。今も昔も、どこの国でもそれはいっしょみたいですね。(C)

* 日本人は、今やたらと不安だから、はっきりとした不安の原因とか敵を見つけて安心したいのです。そこでたとえば石原慎太郎が出てきて、中国人窃盗団だ、カラスだ、ディーゼルだ、と何かを名指ししていきます。それらを叩きださないと、明日にでも都民は生きていけなくなるくらいの勢いでバッシングする。しかし本当は対象は何でもいいところがある。これが悪い、というものを見つけて徹底的にやっつける。みんなの潜在意識にある漠然とした不安を、言葉に変換んしてボンボン喋っているわけですね。それでみんなもすっきり、石原もすっきり。カタルシスの相互作用とでもいうのかな、大衆と石原の、不思議な関係ができてしまっているところが、彼の支持率につながっている。石原慎太郎が聖人だとは言いませんが、人間にはこういった大衆心理があると思います。(K)
この「ナチ」は部屋に閉じ込めて、心療内科の先生と向かい合わせて、そういったことを喋らせたらいいんです。彼は自分のセラピーを公の場でやるから問題がある。(C)
結局、彼は「アメリカにノーと言える日本人になろう」と言いながら、それをせずに、中国や韓国などアジアに対しては強硬な姿勢を見せて、弱い者いじめをしているだけです。それに、「ノー」というだけでは幼すぎるんですよ。アメリカに「ノー」というだけではなく、アメリカに「モノ」を言える日本でないといけないでしょう。本当ならば、これだけアメリカが権力を横暴に振っている今こそ、「モノ」をいわないといけないはずなのに。(K)

* 自分のこどもが殺されそうになっても、私は暴力は使いませんなんて言う親がいたら大変なことです。あんまりそういうお父さん欲しくない。(笑)。個人の場合と、誰かを保護する責任を負っている立場の場合では、意味が変わってくるわけですね。(C)

* ベトナム戦争から撤退してきて自殺した米兵の数は、戦士した米兵の数と同じくらいでしょう。せっかく体は生きて帰れても、魂は死んでしまったようなもの。生きるエネルギーを根こそぎ失ってしまったということ。(K)

* 沖縄の渡名喜島という小さな島、戦時中、被害が非常に少なかった。なぜかと島の人たちに聞いたら、当時、日本軍から模擬飛行機を造るようにと命令が出たらしいんです。実際の飛行機がないから、木材などで模擬の飛行機を造って相手に戦力として見せかけようとした。渡名喜島の人たちは、そんなことは無意味だと、その命令を聞かず造らなかったらしいんです。そしたら、造ったところは当然飛行機があると思われて爆撃された。しかし渡名喜島にはないので爆撃されなかったというんです。これは、武力は持つからこそやられるといういい教訓だと思いましたね。(K)
理論じゃなく、実際の歴史的体験として、そうですよね。軍隊があったから殺された。安保が本当に安全なら、まだマシなんだけれども。安保は安全じゃない。安保は危険なんです。本当に安全だったら、誰でもそっちのほうがいいよ。暴力が自分と自分の家族に近づかないことを、誰だって望みますよね。しかし安保は安全と言いながら、実は安全んじゃない。沖縄の場合ははっきりしていると言いましたけど、ヤマト日本も結局同じことです。ヤマト日本人に聞きたいんですけれど、日本の歴史のなかで、いちばん軍事力が強かった時代はいつだったか。そして、日本の歴史のなかで、暴力によって日本人が殺された時代、いちばんひどい時代はいつだったか、同じですよね。軍事力がいちばん強かった時代、いちばん多く殺される。その経験から直に学ぶようにしないと。(C)

* タブーという言葉、もともとポリネシアの「聖なる」という意味の言葉なんですね。それが英語として使われるようになると、先住民族の迷信的な文明を軽蔑するような意味になる。(C)

* 私は不思議でならないんですけどね、たとえばドイツの話なんですが、あそこはあれだけのすばらしい偉人たちを生んだ国でしょう。アインシュタイン、バッハ、ベートーベン、ニーチェ、ゲーテ、ルターだとか・・・・・・。なのに、なぜかヒトラー一人にぜんぶ飲み込まれてしまうような印象がありますでしょう。そうすると、今までの哲学や文学や芸術や音楽とか、いったい何だったのだろうかという気持ちになってしまう。私はそういうところに、人間の暴力に対する弱さを見てしまい、暴力をはるかに超える哲学や、その理念といったものを人類はいまだに作れてないんじゃないかと思ってしまうんです。なにもドイツだけではなく、人類そのものがね。そうならば、人類が持っている暴力性とは何なのかを考えなくちゃいけないんだ。そこに深く視点を入れていこうとする動きが、文化としてまだ作り出されてないんじゃないかと。(K)

(国会銀になるという)私の出馬の話が世間に出だした途端、決まっていたコンサートが急にキャンセルになったり、なぜだか私の自転車のタイヤが何度もパンクさせられたり、私の自宅にハンマーを持った強盗が入ったけど私がいないのがわかると何もせず帰っていったりとか、仲間がビール瓶で後ろから切られる殺人未遂事件が起こったりとか、もう大変でね。その事件なんて警察に届けても新聞にも載らないし、犯人はすぐに捕まったけれど、すぐ釈放されたり。信じられます?(K)


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