新・やっぱりクマが好き!!

新・やっぱりクマが好き!!

少し前のお話 その3



2と3続けて書きました。
まだ終わりそうにありません。ごめんなさい。
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旦那の心境は計りかねない。
私とぴろのどちらもがもうすぐ死ぬはずだった。
それをいきなり宣告されたような物である。

結婚して1ヵ月半。
まさかこんなことがいきなり起きるなんてといったところだろうか?

涙が出そうになるのをこらえて旦那は未熟児センターの話を聞きに言ったらしい。ぴろはひどく赤紫色をしていた。

そんな中で先生が語ったのは
「未熟児は大体生後二日以内で危険度が80%
それ以降は50%までさがります。赤ちゃん自体の生命力にもよりますがこればかりはやはり小さく産まれたリスクがありますし、障害の事とかについても今はわかりません。でも私たちは赤ちゃんを元気にしてお2人にお返しするのが仕事です。それで申し訳ないのですが名前をすぐにお付け願えますか?」

「え?名前ですか?」

「はいお名前をすぐ付けていただきたいのです。こちらで診察券等を作らなくてはなりませんので」

そして旦那は1枚の写真を貰ってきた。
それを私に渡した。
ぴろの一番最初の写真だった。

たくさんのチューブや点滴等がつけられた痛々しい姿。
この写真を見た旦那や母はみんなぴろがダメだと思っていた。

だけど私はこの写真を見た瞬間、母親のカンだろうか?
「この子はもう大丈夫だよ。このまま育っていくから」
と言ってのけた。

みんなはビックリしていたが何かそう言うのがわかった。
(案の定ぴろはそれからは元気に回復していった)

次の日にはゴールデンウィークを利用して新潟の佐渡まで行っていたが突然の知らせにとんぼ返りした旦那の両親が駆けつけた。
ここもみんなもうだめだと思っていたらしい。
しかしその期待を裏切るようにぴろは元気になっていった。

そして私も3日がたち初めて歩いて未熟児センターに行ってみた。
お腹の痛みを耐えつつゆっくりゆっくりと歩いていった。
(初めて会うぴろは保育器の中で寝ていた)

「ぴろくんのお母さんですね」
「はい」
「私はぴろ君担当の看護士です。ぴろ君は順調に元気になっていますよ」
「で、そろそろ体調が落ち着いたらお母さんにも母乳を搾って持ってきていただきいただきたいんです。まだたくさんは飲めませんので少しでかまいませんので・・・」

「わかりました」

私は母乳を初めて搾ることになった。
普通なら子供を産んだ瞬間に出るはずの母乳が
私は全然出る気配が無かったのだ。

自分で搾ってもダメ。
看護士さんに乳腺のマッサージや暖めてもらっても全然母乳が出ない。

どうして?・・・凄く悲しくなった。

さっきピロの顔も見てきたのに。
母親のはずなのに。何で母乳が出ないの?ぴろは凄く可愛いし、
子供がいとおしいと思ったらでるはずなのに・・・。

このとき私の胎内にはまだ残っていた胞状奇胎というガンに限りなく近いものが妊娠中と同じ様なHCGという妊娠中と同じホルモンを分泌させていた。

そのことによって私はほとんど母乳が出ない状態に陥っていたのだ。

私は当時そんなこと知る芳も無い。
ストレスを貯めたりすると逆効果だというけれど
本当に母失格とまで思っていた。
週数を早く産んだだけでなく、母乳さえもやれない母親。
何があの子の為にできるのだろうと。

そんな中一番最初にいた病室に帰れるという。
4人部屋で過ごしていると少しは気分が楽になった。

そんな時本当に少しだけだけど母乳が出たのである。
このときの感動といったらもう。
言葉では表せないくらいだった。

その母乳を注射器で吸い取り未熟児センターに持っていく。
たったの0.5mlだけどぴろはそれを1日8回に分けて飲むという。

それから少しずつ出るようになった来た日に
例の中絶と同じ手術をする日が来た。

この間先生が取ってくれてにもかかわらず
まだ胎内にはおびただしいほどの量が残っていたらしい。
フィルムケースに入れたイクラ15粒ほどのこの病気が
1粒で多大なる影響を与えるのである。

それが15個分といえば母乳が出なくても当然の話である。

先生も「もうこれで後は落ち着いたらHCGの値も下がるだろうし、
そうしたら母乳が出るようになるよ。で、落ち着いたら退院しようね」

そう言ってくれた。

正直手術後はまた水分が出て58キロ近くまで落ちていたし、
精神的にも体力的にも良かったんだろう。
他の妊婦さんとは全然違う量だけど少しずつでも
出るようになっていった(でも6cc注射器1個分ほどだけどね)

そんな中、血液検査と尿検査でまた驚くほどHCGの数値が上がっていることに。

そう、私は絨毛ガンに移行していたのだ。

2回検査をして2回目は最初に検査をしたときよりも
数値は圧倒的に高かった。

体はその頃もう普通通りにはなっていたし、
私は退院できる物とばかり思ってるから
この結果は正直嘘であって欲しいと思った。

ちょうどダンナがその頃、会社の人事移動で鳥取に行くことになり
引っ越さねばならないことになっていたから。

そして3回目の検査でガンは確実な物となった。

旦那が呼ばれて、先生から話を聞いた。
「奥さんは絨毛ガンと言う病気に移行しています。ただ、発見が早くて抗がん剤を投与すれば100%治ります。ですのでこれから抗がん剤を1週間に5回、毎日片方ずつのおしりに1本ずつ交互に打っていきます。それで治療すれば今なら完治が望めます」

抗がん剤・・・?

ガン・・・?

誰が?私が・・・?何でこんなに元気なのに!

泣きたくないのに涙か勝手に出て来る。
私は死んでしまうかもしれないんだなぁ。
もうそれしか思えない。

「あとは抗がん剤の副作用としては脱毛、吐き気等がありますが
一番弱い薬ですし、症状も個人差があるということなのでわかりません。でも使わないと奥さんの命が危ないのは事実です」

「わかりました。治療をお願いします」
夫婦で出した結論はそれしか選択が無かった。


ホントは弱い自分を誰にも見せたくない。
特にそれは旦那にも見せたくは無かった。

でもダメだった。

抗がん剤を打つという怖さもあったし。
自分がガンってことを認めたくないけど
否定は出来ない自分との葛藤・・・。

こういうときの苦悩はきっと当人じゃないと
わからないかもしれない。だけど私もまた
当人以外の苦悩を知るよしも無かったと思う。

そして次の週から抗がん剤を打つ事になった。
筋肉注射はものすごく痛い。
だから一番筋肉のあるおしりに打つ事になったのだが
それでも痛かった。
苦痛にゆがみながらもわたしは耐えた。

今死ぬわけには行かない。
私にはぴろも旦那も、それ以外にも私も
助けてくれる人がいるんだから。
その一心で頑張った。

でも抗がん剤を打ち始めたことで犠牲になったこともある。

ピロの母乳に抗がん剤が出るので与えては
いけないということになった。

わたしは毎日、自分で出る母乳を搾り、搾った物をそのまま
洗面台に捨てた。母親としてどんなに辛いことかわかるだろうか?
その頃も同じ4人部屋でその中の1人の人が子供を産んだ。

その人は産んですぐ子供を自分の手で抱き、母乳をあたえてあげれる。

卑屈になってはいけないと言い聞かせた。

だけど、私は子供を産んだもののあの子は保育器の中で
他の人に貰った母乳を飲んでいる。
私はというと前の病院が見逃したガンのせいで抗がん剤を打って、
自分で出るはずの母乳を搾って捨てている・・・。

こんな状態でそう言う幸せそうな人を見るのは辛い。
卑屈にもなってしまう。

抗がん剤の痛みにのた打ち回りながら卑屈になりそうな自分と戦いながらそのときは生きていた。

羨ましかったんだと思う。
だけど、・・・どうしようもなかった。

前にも書いたけど弱い自分は人には見せたくなかったし、
性格は明るく天真爛漫な感じと思われていたので楽だった。
お調子物のふりをしとけば悩みが無さそうに見えるから。

そんな私はいつしかみんなの寝静まった消灯後に
屋上に行くのが日課になった。

真夜中の屋上は誰もいなくて星がよく見えた。
そんな星空の下で昼間泣けない分、夜はここで泣いた。
屋上だけが私の弱さを出せる場所だった。

そして1週間たったある日・・・。
ついに副作用が出始めた。
髪の毛がごそっと抜け始めたのだ。
くしで梳いただけなのに髪の毛がくしにものすごい量ついている。

知識としては知ってた脱毛。
それが今、目の前に現実としてある。
髪の毛を触れることさえも怖くなった。
元々髪の毛は多いほうだったがこのとき大量に抜けて以来
私の髪の量は少なくなってしまった。

旦那には電話で冗談ぽく「ついに髪が抜けた(笑)」
っていったが本当はものすごく真実は怖かったのだ。
そしてまた私は屋上で泣いた。

そして1週間後検査の結果が出た。
少し良くなっているという。

抗がん剤を打った甲斐もあったものだと
私は副作用のことを少し忘れて喜んだ。

しかしその幸せは長くは続かない。
その後の検査で数値はで再び上昇。そして2回目もまた上昇した。

CT検査とMRRI検査を受けることに。

どんどん怖くなっていく。
私の体は見えない悪魔に知らない間にのっとられているかのような
錯覚さえ陥る。

そしてCTなどの結果が出た。

再びだんなが呼ばれた。
「奥さんの検査結果が悪いので検査してみたところ転移しています。肺に転移しているんです。体が若いと血流に乗っていろいろなところにいってしまう可能性があったんですが奥さんは子宮内には無いのですが肺に転移しています」

転移・・・?
肺に転移?

転移って言葉は知ってる。
だけど23歳の私にはその言葉がとても遠い言葉に聞こえた。
知識としては知ってる転移。
だけどこうして自分の体内で起こっているなんて・・・。

あまりのショックで私は椅子から転げ落ちた。
何だかもうどうでも良くなってきた。
もうきっと治らないんだ。私は死んじゃうかもしれないんだ。

自暴自棄になりそうだった。
だんなは落ち着き無い私の手を握ろうとしたが
私はそれを拒否した。

何だかもう何も信じれないし、信じたくなかったから。

とりあえずもう1つ違う抗がん剤にかえるという。
それだけ聞いて病室に帰った。
旦那と話をしたけど何を話したかも覚えていない。

その晩また同じ部屋の人がお母さんになった。
また私は抗がん剤を打ち母乳を搾っては捨てた。
そして私はまた屋上にいた。

正直、転移という言葉は重すぎたし、今まで頑張ってきた私を
奈落の底に落とすには十分な言葉だった。
この日から頑張るって言葉が嫌いになった。
努力したって無駄なんだ・・・。それしかもう思えなかった。

私はふらふらと柵のところに歩いていき1つ乗り越えてみた。
「この下に落ちちゃったら楽になれるかな?」
ボソッとつぶやいてみた。

飛ぶ勇気もいつもならない。
だけどこのときはかなり自分でも危険だったから。

・・・私がいないほうがいいかな?だんなもこれだけ面倒な私と離婚して新しい奥さん貰ったほうがいいんじゃないだろうか?
ぴろだって私はほとんど初乳を少ししか与えてない全然ダメな母親だし・・・

邪な考えが頭の中をグルグル回る。

「だけど私あんまりいい子じゃないから天国にはいけないし、
こんなことぐらいで死んじゃうようならぴろは生まなかったよね。
あたしは何があってもぴろを守るって言ったんだから
こんなことで悩んでるヒマは無いんだよね」

さっきまでの自殺しようとしてた自分を打ち消し
何とか思いとどまることが出来た。

だけどこのとき死のうとした気持ちは未だに忘れれない。



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