独り言 反 女権主義

独り言 反 女権主義

処女、非処女論争3 見た目の判別と本能

処女、非処女論争 3 「見た目の判別方法がないから本能ではない?」

ただ自分の経験則からいえば、男側の論客、男で処女嗜好は本能じゃなくて文化じゃないの?という側は冷静な場合が多く、かなり意味のある議論ができる。


女はこの問題に感情的な反発しかせず、極端な思考しかできない。全く議論にすらならない。そして男が遺伝子を正常に残す権利を無視しようとするクズな態度をとる。


面白かった議論の1つに 「若さが男がもつ本能的嗜好だということは理解できる。
しかし処女かどうかは若さと違って見た目では見分けがつかないのだからやはり生物的な進化論におけるオスの嗜好というのはあてはまらないんじゃないか?」
というようなとてもいいところをついた指摘を男の文化人類学側の人から受けたことがある。


これはいい指摘である。若さというのは外見的記号で判別できる。しわのあるなしなど。でも処女なんてのは判別できないのだから、はるか昔から、それこそ何万年も昔からオスの嗜好として進化してきたというのはおかしいんじゃないかという話。

しかし配偶者、異性を求めるシステムはより複雑で、例えばメスが経済力のある保護力、子どもを守る力を持ったオスと結婚したがるのは本能とされてるが、かつて、何万年もの昔はそれは肉体的記号だったろう。しかし現代社会ここ数千年の社会ではその能力は経済力など外見上は見分けがつかないものに変わっている。
だが、女が経済力の高い男を求め、安心して子どもを育てられる環境を求めるのは本能だろう。女はそれを様々な情報から知るわけだ、年収を聞いてみたり、職業を聞いたり。


それと同じことが男もいえるだろう。処女かどうかなんてその女が過去に付き合った経験の有る無し、年齢などの情報である程度推測できるわけだ。
そしてそれの可能性の高いメスを求めるんだろう。


女が経済力のある男を求めるのが本能なら、これも本能になる。





また文化人類学側は何故かこの処女を男が求める嗜好をわずか2千年程度の文化に関連付けて語ろうとする。 しかしこっちは本能的嗜好と言っているのだから、
そんな浅い歴史の話をしていない、何十万年も昔それこそ我々が猿、原始人の時代から進化の過程で身に付いてきたものだという話をしている。
それらの嗜好でメスを選ぶオスがより多くの遺伝子を残せて進化が起こっているんだから。若さももちろん入る。
ある程度若いメスを好む嗜好を持つオスと、年老いたメスを好むオスがたまたま出現した場合、若いメスを好むオスの方がより多く健康な子どもを残せる。
そしてそのオスの遺伝子を持つ子どもは父親の性質を受け継ぐので若いメスをやはり好む。そしてどんどん増えていく。

一方、年老いたメスを好むオスはどうか?あまり健康な子どもを作れない可能性があり、子どもの数も少ないだろう。最悪そのメスはもう子どもを産む能力がないかもしれない。
そして数少ない子どもができる。その子どもたちは父親の[年老いたメスを好む性質]を引き継いでしまっている。だから次世代もどんどん減っていく。
そして若いメスを好むタイプのオスに淘汰されていく。これが進化の自然淘汰の流れであり、処女嗜好も若さほど絶対的な要素でなくても
自然淘汰の子孫を残す要素として働いただろう。

結婚相手が処女かどうか(他のオスと以前にセックスしたかどうか)気にするオスは、そうでないオスよりも自身の遺伝子を継ぐ子どもを多く残すことができる。
何故なら結婚相手との子が別のオスの子どもである可能性が減るからだ。 そしてその子どもたちは父親の処女を結婚相手に好むという性質を引き継ぐ。
だから自然淘汰で勝ち残るオスは結婚相手の処女を気にする側である。そして我々は自然淘汰で生き残ってきたオスの最終的子孫である。



だからオスが若いメスを好むことが生物的に普遍的なように、オスが結婚相手に処女を好むというのも全人類のオスに普遍的に存在するのだ。
これを否定するやつは社会生物学を否定することだ。残念ながらオスが処女の方を好むというのはわざわざ言及されてる 科学的事実 なのだ。
どんなにそれが女にとって都合が悪かろうが。



そして問題はなぜ日本文化では上野らの言っていることが真実として 何万年も歴史が続いてきた中の2000年だけポッカリとそれが消えたのか。
当然男側の嗜好としては消えてないので 文化的に抑圧されていたのだろう 、なぜかオス側の嗜好が。

そして単に都合が悪かったから無視されたのかもしれない。例えば現代社会でも明らかに男は本音の部分では単純な+処女を選べるのなら結婚相手として好んでいる。実現できるかできないか別として。

また男だけの空間ではやはりそういう考えが主流になる。女の前では言わなくなるが。これはネットでもそうだ。明らかに男だけの空間では処女を好むことが(選択できるならばというニュアンス)主流である、そして女側(大抵ネット上ではネナベ)がいる空間ではそれを女側は否定したがる。


要は男側にはバイアスをかけずに見て普通に存在する、女側がそれを気に入るかは別問題。


これを信仰というのは苦しい。ある程度みなが共感するからこそ、そこにセクシュアリテイ、を持つからこそ多くが共有できる信仰になるのである。
普通にバイアスをかけずに見れば好みだ。

しかしこれらが、後世、文化として記録に残るかあやしい。平気で「20世紀、21世紀前半では男は処女を好むという考えはなかった、むしろ経験豊富な女性を求めた」
とか書かれそうである。 何故ならフェミいや女権が権力を握ってる社会では権力がある女に気にくわない事実は汲み上げなければいいだけの話だからである。

それはかつての「処女を男は結婚に求めていなかった」と上野らが言ってる時代と一緒である。もし、現代のような状況がかつてもあれば、男が処女を結婚相手として望んでいたとしてもその時代の権力側の資料に残らなかったのかもしれない。




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