『福島の歴史物語」

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2023.08.14
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樅の木は残った

 『樅ノ木は残った』は、小説家山本周五郎による歴史小説で、江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動、いわゆる『伊達騒動』を題材にしたものです。『伽蘿先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』などで、従来は悪人とされてきた原田甲斐を主人公とし、江戸幕府による取り潰しから藩を守るために尽力した忠臣として描き、新しい解釈を加えたものです。この小説は、昭和四十五年に放映されたNHKの大河ドラマになっていますので、ご記憶にある方も多いと思われます。

 ここに出てくる伊東七十郎重孝の先祖は、郡山最初の領主・伊東祐長からはじまったとされています。そして戦国時代になって、安積にあった伊東氏は、仙台・伊達氏の麾下に属していましたが、天正十六年(1588年)、郡山の夜討川合戦の際、倍する勢力の常陸の佐竹、会津の蘆名、それに白河、須賀川などの連合軍の攻撃に苦戦し、伊達政宗の命運も危うくなった時、伊東祐長より14代目の伊東肥前重信が政宗の身代わりとなって僅か20騎で突撃し、須賀川の家臣の矢田野義正に討ち取られて壮烈な戦死を遂げたという武功ある家柄でした。伊達家では、その討ち死にをした地に『伊東肥前之碑』を建ててその武徳を永久に顕彰することとしたのですが、その碑は現在、富久山町久保田の日吉神社に移されています。この神社は、この合戦の際の伊達軍の前哨基地であったとされる所です。

 伊東七十郎重孝は、この伊東肥前重信に連なる伊東重村の次男として、仙台に生まれました。儒学を仙台藩の内藤閑斎、さらに京都に出てからは陽明学を熊沢蕃山、江戸にては兵学を小櫃(おびつ)与五右衛門と山鹿素行に学んでいます。その一方で七十郎は、日蓮宗の僧の元政上人に国学を学び、文学にも通じていました。また、武芸にも通じ、生活態度は身辺を飾らず、内に烈々たる気節を尊ぶ直情実践の士であったとされます。

 さて本題の伊達騒動は、江戸時代の前期に仙台藩で起こったお家騒動です。黒田騒動、加賀騒動とともに、日本三大お家騒動と呼ばれる事件の一つでした。仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったために、大叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌めたのですが聞き入れられず、やむを得ず親族と家臣との連名で、幕府に綱宗の隠居と嫡子の亀千代の家督相続を願い出たのです。そこで幕府は、21歳であった綱宗を強制的に隠居させ、それを継ぐ4代藩主に、わずか二歳の亀千代を伊達綱村として相続させたのです。

 ところが幼い綱村が藩主になると、一関藩主の伊達宗勝と仙台藩家老の原田甲斐が実権を掌握し、権勢を振るっての専横の限りを尽くすようになったのです。伊東七十郎は伊達家の安泰を図ろうとして、権勢を振るう伊達宗勝を討つことを本家筋の伊東重門と謀ったのです。しかし仙台藩の家老であった伊東重門は、二歳の藩主・伊達綱村の後見役となっていた伊達宗勝と岩沼藩主の田村宗良に、叛逆をしないという誓書を書かせるのには成功したのですが、まもなく重門は病に倒れ、後事を分家の七十郎に託して死去したのです。ところが、この伊達家を乗っ取ろうとした伊達宗勝に対し、これを阻もうとした七十郎の計画が事前に漏れて、捕縛されてしまったのです。

 七十郎は、入牢の日より33日の間絶食をして抗議したのですが、許されることはありませんでした。処刑の日が近づいたのを知った七十郎は、
『人の心は、肉体があるから物欲に迷って邪道に陥る危険がある。本来人に備わっている道義の心は物欲に覆われ、微かになっている。それゆえ人の心と道の心の違いをわきまえ、煩悩にとらわれることなく道義の心を貫き、天から授かった中庸の道を守っていかねばならない』と書き残しています。この言葉の出典は中国の書経(しょきょう)であり、彼の教養の深さが十分に伝わるものとされます。こう書き残した四日後の寛文八年(1668年)四月二十八日、七十郎は死罪を申し渡され、『我が霊魂、三年の内に逆賊を滅すべし』と絶命の言葉を残して、米ヶ袋の刑場で処刑されたのです。

 七十郎は処刑される際に、処刑役の万右衛門に「やい万右衛門、よく聞け。われ報国の忠を抱いて罪なくして死ぬが、人が斬られて首が前に落つれば、体も前に附すと聞くが、われは天を仰がん。仰がばわれに神の御魂が宿ると知れ。われは三年のうちに疫病神となって必ず伊達宗勝殿を亡すべし」と言ったというのですが、それを聞いての恐れのためか、万右衛門の太刀は七十郎の首を半分しか斬れなかったという。そこで七十郎は斬られた首を廻して狼狽する万右衛門を顧みて、「あわてるな、心を鎮めて斬られよ」と叱咤したと言われます。気を取り直した万右衛門は、2度目の太刀で七十郎の首を斬り落としたというのですが、同時に七十郎が言った通りに、体が天を仰いだといわれます。その後の七十郎の一族は、御預け・切腹・流罪・追放などとなっています。七十郎の遺骸は、いまの仙台市若林区新寺の阿弥陀寺に葬られました。後になって処刑役の万右衛門は、七十郎が清廉潔白な忠臣の士であったことを知り、阿弥陀寺の山門前に地蔵堂を建て、七十郎の霊を祀ったとも伝えられています。


 騒ぎを聞いて駆けつけた柴田の聞役・蜂屋可広(よしひろ)が原田甲斐を斬り、その後になって、伊達兵部は土佐に流されました。その結果、七十郎の名誉は回復されてその忠烈が称えられ、四代藩主の伊達綱村により伊東家は再興したのです。 いま七十郎の墓石の中央の戒名が刻まれている部分が少しくぼんでいますが。ここには当初は、『罪人』であることが刻まれていたのですが、名誉が回復された後に削り取られ、改めて戒名が刻まれたと伝えられています。 七十郎の墓に並んで、父・重村と兄・重頼の墓もあります。のちにこの裁断を下した板倉重昌は福島藩に転封され、いまの福島市杉妻町の板倉神社に祀られました。福島市では、重昌の訃報が届いた一月七日に門松を片ずける習わしが、今も続いています。なお明治三十年、仙台市太白区向山の愛宕神社境内の神門の前、愛宕山東登り口の改修工事中に伊東七十郎の遺骸が発見されました。遺骸は、伊達一族の菩提寺である裁松院に葬られていたのですが、明治四十年に発見された場所に、二百四十回忌の招魂碑が建立されました。しかし後にこの碑は愛宕神社に移されています。

 この伊東七十郎の死により、世間は伊達宗勝の権力のあり方に注目し、また江戸においては、文武に優れ気骨ある武士と言われていた七十郎の処刑が、たちまち評判となりました。そして伊達宗勝一派の藩政専断による不正や悪政が明るみに出ることとなり、宗勝一派が処分されることで伊達家が安泰となり、七十郎の忠烈が称えられたのです。また、当時の人々が刑場の近くに七十郎の供養のため建立したいまの仙台市青葉区米ヶ袋の『縛り地蔵尊』は、『人間のあらゆる苦しみ悩みを取り除いてくれる』と信仰され、その願かけに縄で地蔵尊を縛る習わしがあり、現在も毎年七月二十三、二十四日に、縛り地蔵尊のお祭りが行われています。さらに昭和五年になって石巻市北村に七十郎神社が創建され、その霊が祀られています。 なお七十郎には2人の息子がいましたが、兄の重綱は父の七十郎の跡を継いで大阪の陣で活躍し、仙台藩成立後は、家老となっています。いずれ伊東七十郎は、郡山とは深い関係のあった人でした。

 この伊達騒動を扱った最初の歌舞伎狂言は、正徳三年(1713年)の正月、江戸・市村座で上演された『泰平女今川』ですが、その後の重要な作品として、安永六年(1777年)に大阪で上演された歌舞伎『伽羅先代萩』と、翌安永七年、江戸・中村座で上演された歌舞伎、『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』、さらに天明五年(1785年)、江戸・結城座で上演された人形浄瑠璃、『伽羅先代萩』の3作が挙げられています。現在、歌舞伎は伝統芸能の一つとして、昭和四十年に重要無形文化財に指定されています。なおこの時の仙台藩主の伊達綱村は、参勤交代などで郡山を通った時には、七十郎の三代前と思われ、しかも伊達政宗の身代わりとなって戦死した伊東肥前重信の碑に、必ず足を止めてぬかずいたと言われます。これには、七十郎の功績を讃える気持ちもあったのかもしれません。

 ところで、山本周五郎の『樅ノ木は残った』に戻ってみます。
 お家騒動の発端以後、ひたすらに耐え忍ぶことを貫き通した原田甲斐。私利私欲のためでもなく、名誉のためでもなく、ただただ伊達藩とそこに属する人々を守るために、彼は進んで悪名を被り、そうすることで黒幕の懐深くへ入り込む。甲斐にとって更に修羅場なのは、かつて甲斐と親しくしていた者たちが、非業の死を遂げていくことである。伊達兵部は、自分の邪魔をする者に対して、容赦することはなかった。部屋住みだが甲斐と親しかった伊東七十郎は、彼と絶交した後、兵部の暗殺を計画するが、家来の鷺坂靱負の裏切りにより捕らえられる。そして七十郎の一族は、共々罪死する。原田甲斐は道を違えて以降、この血気盛んな若い志士の七十郎とは、最後までわかり合うことができず、甲斐もまた、七十郎の死を止めることができなかった。

 このNHKの大河ドラマ、『樅の木が残った』において伊東七十郎役を演じたのは、伊吹吾郎でした。いま、船岡城址公園の遊歩道を『樅の木が残った』の舞台となった『樅の木』を目指して行くと、左手に『伊東七十郎辞世の碑』があります。
『いつの世でも、真実国家を支え護立てているのは、こういう堪忍や辛坊、人の眼につかず名も表れないところに働いている力なのだ』

 著者の山本周五郎が一番伝えたかったのは、この一文にあったのかも知れません。





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最終更新日  2023.08.14 10:25:25
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