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元禄五年(1692年)、相馬藩は、幕府より、「各江戸屋敷で畠を荒らす猪を追い払うので、もし屋敷内に逃げ込んだら追い出すように」との主旨が伝達されました。しかしこのような動物退治は、日を決めて一斉にやらないと効果がありません。どこかの屋敷が一軒でやっても別の屋敷に逃げ込むし、別の屋敷でやると、今度は元の屋敷に逃げ込んでしまうからです。この時に、幕府が耕作を妨げる動物として挙げたのは、猪の他に、鹿と狼がありました。この江戸屋敷の広い庭の中には、森や畑などもありましたから、狸や狐、それに猪や人間に捨てられた野犬も隠れ住んでいたようです。ですから、これらの動物が広い屋敷の敷地内に巣を作ったとしても、不思議ではなかったのです。本郷にあった加賀屋敷をはじめ、いくつかの屋敷に、狐や化け猫の怪談などが残されているのも、このためかも知れません。しかしこんな牧歌的作業も、中止せざるを得なくなります。いわゆる、『生類憐みの令』が公布されたのです。
この『生類憐みの令』は、かつては跡継ぎがないことを憂いた五代将軍・徳川綱吉が、母の桂昌院が帰依していた隆光僧正の勧めにより発布したという説が知られています。綱吉には娘はいたものの、後継ぎとなる息子がいなかったのです。当時、儒学を重んじていた綱吉は、「親を大事にせよ」という教えを信奉していたため、母親が薦めた隆光僧正の言葉を鵜呑みにしてしまったというのです。つまり、「あなたは前世で動物を殺してしまったので、子どもが生まれないのだ。あなたは戌年生まれであるから、犬を大事にしなさい」と言われたというのです。これを真に受けた綱吉によって、「生類憐みの令」が出されたというのです。綱吉が、犬公方というあだ名で呼ばれたのは、特に犬を過度に大切にさせたことに対する世人の批判によるものと言われます。しかしこれは、「生類を憐れむ」ことを主旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称であって、一本の成文法ではなく、すべての生きものを憐れむことを趣旨とした諸法令の総体なのです。
一連の『生類憐みの令』政策がいつ始まったかについては議論があります。それに少数ではありますが、四代将軍・徳川家綱時代から生類憐れみ政策が行われていたという見解も存在するのです。初代の徳川家康は鷹狩を好んだのですが、鷹狩もこの政策により禁止され、また鷹狩で獲った獲物などの贈答なども禁じられました。地方においても『生類憐みの令』の政策の影響は及びました。馬の保護に関する法令については、老中が各藩に対して通達を行いましたが、運用はそれほど厳重ではなかった地域もあると言われます。また長崎では、もともと豚や鶏などを料理に使うことが多く、『生類憐みの令』はなかなか徹底しなかったとみられています。長崎町年寄が、『長崎では『生類憐みの令』が徹底していないので、今後は下々の者に至るまで遵守せよ』、という内容の通達を出していますが、その通達の中でも、長崎にいる中国人とオランダ人については例外とし、豚や鶏などを食べることを認めていました。なお江戸城では、貞享二年(1685年)から鳥・貝・エビを料理に使うことを禁じていたのですが、京に住む公卿に対する料理として使うことは認めています。これは『生類憐みの令』の政策より、儀礼を重視したためとみられています。この『生類憐みの令』では、特に犬を保護したとされることが多く、綱吉が『犬公方』と呼ばれる一因ともなりました。犬については、『御犬囲』が作られ、中でも中野の御犬囲は非常に大きな規模で、敷地内は五つの御囲があり、『壱之御囲』が34、538坪、『弐之御囲』、『参之御囲』、『四之御囲』がそれぞれ五万坪、『五之御囲』が57、178坪と広大なものを作って収容しました。野犬か飼犬かを問わず、『御犬囲』に収容したことで幕府が管理する犬となり、将軍の権威を帯びた『御犬』となったのです。
三春藩分家の五千石旗本である秋田淡路守季久は、いまの江東区平野に屋敷を持っていました。ここの家老が、屋敷内で自分の子どもと遊んでいて、飛んできた燕を間違えて、弓矢で打ち落としてしまったのです。この弓矢で射られた燕が自分の屋敷内に落ちれば、悲劇は避けられたのかも知れないのですが、この射られた燕の落ちた所は運悪く、隣にあった幕府の御用人の喜多見若狭守の屋敷であったのです。驚いた若狭守は、幕府に事の次第を報告したのです。もっとも若狭守としても報告を怠り、燕の死骸が自分の屋敷内で見つかれば、自分の責任が問われるのです。そのため、秋田淡路守としては、どうにも手の打ちようがありませんでした。結局この家老は見せしめとして、五歳の息子もろとも浅草で磔の刑に処せられ、これを見ていた家来は、八丈島へ流罪となってしまったのです。この冷厳な『生類憐みの令』の施行は、江戸の町を震撼させました。
この事件の経過を目にした秋田淡路守季久は恐怖に憑かれたようになり、家中の子供たちに、例え屋敷内であってもくれぐれも殺傷をしないようにと諭し、親たちに対しても厳しく申し渡したのです。各大名たちも、家臣の親たちに対して、この旨を厳しく申し渡さざるを得なかったのです。もはや「まちがえてのことだから」とか、「子どもがやったことだから」と言い訳をしても、幕府は決して容赦はしてくれないことを知り、それぞれの屋敷内での周知徹底を計ったのです。
元禄十二年(1699年)、守山藩の下屋敷に幕府御徒目付の三宅権七が訪れ、「もし首輪が付いていながら飼い主のいない犬が通りかかったら、縄を解いて飼育し飼い主を捜し、結果をお目付まで申し上げるように」と申し渡し、その旨の承諾書を差し出すようにと言って帰って行きました。江戸家老であった有馬三太夫は早速承諾書を 認 め、辻番に持たせて権七方へ届けました。何の落ち度もない筈だったのですが、翌日、 三宅権七 から、公儀へ差し上げる承諾書を粗末な紙に認め、しかも辻番のような軽輩に持参させたのが不調法だというイチャモンがついたのです。守山藩は戦慄しました。 当時、 藩主は大塚の上屋敷にいて、三太夫の不調法な振る舞いについて少しも承知していなかったことと、三太夫には必ず叱り付けることを、使者をもって権七に伝え、合わせて陳謝の口上を申し 延べさせてようやく落着した というのです 。
ところで綱吉本人は、生き物を直接殺したということはなかったのでしょうか。実は綱吉は、自分の頭の上に糞を落としたカラスに激怒し、それを捕えるよう命じたのです。しかし自分が『生類憐れみの令』を出した手前、カラスを死罪にすることができず、捕らえたカラスを八丈島への遠島処分にしたのです。八丈島に運ばれたカラスは籠から出されたのですが、なんとそのカラスは、江戸へ向けて飛び去ってしまったというのです。本当にマヌケな話ですが、これには、『これは史実です』との注が加えられています。
生き物を直接殺したということはなかったのでしょうか。実は綱吉は、自分の頭の上に糞を落としたカラスに激怒し、それを捕えるよう命じたのです。しかし自分が『生類憐れみの令』を出した手前、カラスを死罪にすることができず、捕らえたカラスを八丈島への遠島処分にしたのです。八丈島に運ばれたカラスは籠から出されたのですが、なんとそのカラスは、江戸へ向けて飛び去ってしまったというのです。本当にマヌケな話ですが、これには、『これは史実です』との 注が加えられてい