『福島の歴史物語」

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2024.09.20
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カテゴリ: 目明かし金十郎



  阿久津村の芝居
 宝暦二年(1752)四月に、阿久津村、いまの郡山市阿久津で金十郎が興行した歌舞伎芝居は、天候が不順にも関わらず、大きな成功を収めました。これらの芝居は野外で行われていたので、天候の良し悪しが、大きく関係していたのですが、初日の四月八日は天気がよかったのです。九日には少し雨が降りました。十日は晴天で十一日も晴天、十三日はおしなべて晴天でしたが、昼頃少々雨が降りました。このような雷雨のときには、当然興行にも支障が生じます。晴天七日の興行という条件で許可されていたのですが、九日が雨天でしたから、順延となっていました。その時の興行成績が残されています。

四月八日  一、金一分・銭十一貫五百七十文 入千人程
  十日  一、金二分・銭十四貫五百文   入千四、五百人程
  十一日 一、金一両・銭十六貫七十文   入二千人程
  十二日 一、金二分・銭十四貫五百文   入千四、五百人程
  十三日 一、    銭三貫二百三十文  入三百人程
  十四日 一、    銭九貫百文     見物人七百六十人程
  十五日 一、    銭四貫七百文    見物人四百人程
 これによると、十五日までの七日間の木戸銭総計は、金二両と、銭七十貫三百七十文でした。この年五月の守山地方の米相場は金一分につき五斗二升五合であり、銭相場は一貫五十文が金一分であったから、右の木戸銭合計は、おおむね米三十九石三斗七升五合、約百俵に換算されたのです。もっともこのような木戸銭収入は、客の人数を概数で示していることからも分かるように、むしろ低額に抑えて陣屋に報告するのが常でしたから、これ以上の収入があったと思われ、金十郎にとって大儲けであったと思われます。この阿久津村での興行は、阿武隈川の河原で行われたものと思われます。そして、このような場所で演じる役者は、河原乞食などと呼ばれていました。

ところで。芸能興業の芝居地であるが、権勢を誇る寺社の境内では、一年を通じての常設興行はそもそも不可能であった。そして町家が密集する町域では仮小屋を作ることすら認められていなかった。遊芸民が市中に定住して、そこを拠点に活動しようとしても素性もよくわからぬ漂泊の『よそ者』として排除されることは目に見えていた。そこで浮かび上がってきたのは河原だった。なぜ河原が常設の興行地になっていったのか? さきに見たように町の地域から外れていて、取り締まりも厳しくなかった。そして興行に利用できる空間があり。小屋掛け工事の得意な河原者がいた。近世初頭の頃では、河原がまさに最適な興行空間であった。

身分制の下辺に置かれて教育を受けることがなかった民衆は、自分たちがどう生きて行くかという問題について、積極的に自己主張する場を築くことができなかった。お上の政策に正面から楯突いてものをいう場合は、命をかけた一揆による他に方法がなかった。日頃の鬱憤を晴らすのは役者たちが舞台で演じてみせる仮構の世界であった。日常の不平不満を代弁し、支配権力の内実をそれとなく暴露する芝居を民衆は待ち望んだ。しかし。当時の武家社会の内実をリアルに描写することは禁じられていたから、歴史的時代に仮託して物語は劇化された。民衆もよく知っている。通俗的な中世史に寄りながら。史実や風俗も無視して。朝廷貴族や武家の姿を誇張した虚構で描いてみせたのである。史実を無視して、歴史上な有名人物を揶揄する荒唐無稽な物語は、抑圧されてきた人々の情動の浄化となった。世に入れられず、あぶれものとして。芝居に登場する無頼・無法・異端の徒にしても、鬱積した民衆の心情の代弁者として人気を博した。民衆は斜め下から世間を見据えていた。その民衆からの目からの、風刺と諧謔とこう笑が込められていたのであった。

  芝居帰りの殺人
 三春領下枝村、いまの中田町下枝で芝居が興行されたとき、守山領金沢村、いまの田村町金沢の半右衛門が見物に出かけました。その半右衛門が帰り道、何者かによって殺害され、三春領海老根村、いまの中田町海老根で、その死骸が発見されました。報告を受けた三春藩から代官の手代と下目付が来て検分を済ませ、そのまま早々に立ち去りました。その後三春藩の役人から、『三春藩の検分が済んだ。死体が損じるので早く引き取るように。』との手紙が守山代官に寄せられたのです。守山陣屋側からは、役人と死者の親類を連れて現場へ行ったところ、三春側からも見届けのため代官の手代と下目付が来ていて、その顛末を確認し合いました。その後にこの事件に対し、守山陣屋は金十郎に捜査を依頼しました。金十郎は、関係すると思われる金沢村、荒井村、蒲倉村、下行合村、下枝村、海老根村、高倉村で聞き込みをしていましたが、これという成果を得られないでいたところ、三春の目明かしから、「内密に相談したいことがある。」との呼び出しを受けました。金十郎は三春領赤沼、いまの中田町赤沼に行き、犯人の使った脇差が、「高倉村の宇衛門か重次郎のどちらかが買い取ったという風聞がある」と示唆してくれたのです。それにより逮捕された重次郎は拷問にかけられ、六年もの間牢獄生活を送ったのですが、ついに自白することがありませんでした。その後重次郎は、病気のため牢死しています。

  婿養子の刃傷沙汰
 須賀川から守山へ婿に来ていた藤吉が、行水を使っていた自分の女房を斬りつけ、犯行に用いた脇差をその場に投げ捨てたまま逃走しました。すぐさま町役人たちによる追っ手が須賀川に向かったのですが、逮捕には至りませんでした。陣屋では、「素人では役に立たぬ。」と言って、金十郎を送り込んだのですが、それも不発に終わっていました。ところが金十郎のところに、白河の小田川の遊び人から、「藤吉が江戸に上るのを見た。」という情報が入ったのです。そこで守山陣屋は、『水戸藩御用』の鑑札を金十郎に与えた上で、「江戸で犯人の捜査に入るときと逮捕の際は、江戸の役人に連絡するように」との指示を与えました。これは江戸市中の警察権は、全面的に南町奉行所と北町奉行所にあるので、これを侵害することは許されなかったからです。その金十郎が、ようやく、いまの茨城県境町で藤吉を逮捕し、連れ戻ってきました。藤吉の養父の元左衛門は、監督不行き届どきとのことで、戸締まりを命ぜられました。戸締まりとは、門を閉ざして家に籠ることです。

  『目明かし』の不法行為
 仙台權六と名乗るヤクザが、杉沢村、いまの二本松市杉沢の人の女房とその十歳になる女の子を誘拐して金十郎の所に逃げ込んできました。金十郎はこれらの人を、山田村、いまの田村町守山田向にかくまったのです。それを知った守山陣屋は、金十郎の手下の目明かしの新兵衛に命じて、權六らを三春領に追い払わせました。守山陣屋としては、二本松藩から、「權六らを引き渡せ。」という正式の交渉があれば事が面倒になると考え、あくまでも表立てないで、新兵衛の一存で済ませたように処理したのです。しかし陣屋は、今回のことについて、金十郎を厳しく叱っています。

  金十郎の失敗
 『目明かし』である金十郎がヤクザの立場で不法を犯し、それがバレたことがあります。長沼領畠田村(はただむら)、いまの須賀川市畠田のヤクザであった喜八が金十郎を頼って来たので、大供村の七郎平の家で手間稼ぎをやらせていました。ところが喜八は、無頼者の性格丸出しで、喧嘩好きであったのです。この喜八が酒気を帯び、町で行き会った行商のタバコ売りに近づいて、「タバコをよこせ。」と凄んだので口論となり、乱暴にも喜八は、脇差で斬りつけたのです。知らせを聞いた目明かしの新兵衛が駆けつけ、二人を守山領外に追い出しました。もちろんこのような不祥事が発生したのは、金十郎が目明かしの身分を忘れ、ヤクザの喜八の世話をしたのが原因でした。陣屋は金十郎に対して、今後一切無宿者を世話してはならないと叱責しています。しかし無宿者がヤクザを頼って、そこに巣食うようになるということは、至極ありふれた事情であったのです。





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最終更新日  2024.09.20 06:40:12
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