下層へと歩を進める度に、闇が密度を増していく。
静寂の中、互いの息遣いと石段を打つ乾いた靴音だけが周囲に響いていた。 螺旋階段には一定間隔で塔を横断するように桁橋が通っており、幾度目か同様の行程を進んでいる時、それは起こった。
―――カラン……
シャルロットの靴先に硬質な感触が伝わる。
「?」
音の正体を確かめようとシャルロットの視線が足元に向いた瞬間、
「きゃあ」
シャルロットの左脚に何かが絡みつくような感覚が走る。
「シャルロットさま!?」
背後を振り返ったミルフィーナの両眼が驚愕に見開かれる。
角灯の光に照らし出されたシャルロットの四肢に半透明な糸のようなものが纏わりついていた。 それは瞬く間に数を増し、少女の身体を巻き込んで虚空へ引き上げようとする。
「上か!?」
抜き打ちに放ったエドゥアルトの短剣が、上層の闇に呑み込まれて消える。
「ひっ……」
吸い寄せられるように見上げたシャルロットの視界に血色の燐光が映り込んでいた。 それは見る者の正気を失わしめる光彩―――心の弱いものが見れば、それだけで発狂してもおかしくない冥らい輝きであった。
シャルロットの身体が、ゆっくり……まるで獲物が味わう恐怖をも楽しむかのように緩慢な動きで引き上げられていく。
「アレは……」
屍族である首人アルフォンヌの暗視眼が常闇の奥でソレを捉える。
垂れ下がる鉄鎖の束の中心、横合いから死角となっていた位置に球体状の糸巣が浮かんでいた。 転瞬、上方で気配が動き、糸巣の下部に空いた穴から、闇よりも濃い霧のようなものが噴出する。
「毒液の類のようじゃが、成分がわからぬ。 皆、できるだけ息を止めて行動するのじゃ」
首人アルフォンヌが叫ぶと、首座を抱えたノーラと最後尾にいたエドゥアルトが吹き付ける悪臭から逃れるように後退る。 ミルフィーナだけが毒霧の只中を、突っ切り、引き上げられていくシャルロットを追うように螺旋階段を駆け上がる。 遅れて咄嗟に状況を理解したシーラが後を追う。
「それにアレは霊糸の巣のようじゃ。 となれば厄介じゃな……」
見上げる首人アルフォンヌの視界に長大な手足を折り畳んだ異形が映る。
それは一見、巨大な蜘蛛と見紛う生物だった。 だが、直に地上に存在する如何なる真正クモ類とも異なる特徴と外観を備えていることがわかった。 瓢箪のような頭胸部から五対の歩脚と一対の触肢を生やし、黒檀色の繊毛に覆われた頭部には真紅の瞳が三つ輝いている。 巨大な口蓋からは、先端が細く鋭い鎌状の鋏角が伸び、紫色の液体が滴っていた。
再びエドゥアルトが短剣を放つ。 銀光が走り、視界の及ぶぎりぎりの位置に垂れ下がる鉄鎖に絡まった腐敗物に突き刺さる。 だが今度は刃の根元に樹脂を染み込ませた布地を巻きつけており、火が点されていた。 腐敗物が燃え上がり、周囲の闇が断片的に切り取られる。
「あの怪物を知っているのかい?」
炎に照らされて浮かび上がった異形から視線を外さずに、エドゥアルトが首人アルフォンヌに訊ねる。
「深淵に潜むモノ―――神代に堕ち神の魂を喰らう為に生み出された生物だと聴いたことがある。 本来、幽界に身を置く存在であるらしいが、メナディエルの魂の波動に呼び寄せられて顕界に現出したのじゃろう」
首人が苦苦しくはき捨てる。
「だが、なぜシャルロット姫を?」
「リュズレイの血脈からメナディエルの魂の記憶を嗅ぎ取っておるのやも知れぬ」
無論、それだけはあるまいがな。 心裡で付け加えると首人アルフォンヌは、ノーラとエドゥアルトに手短に指示をだす。
「はい」
「まったく人遣いの荒いことだな。 俺はここでお姫様が落ちてくるのを受け止める役回りがよかったのだが……」
二つ返事で螺旋階段を駆け上がるノーラを、愚痴りながらも追随するエドゥアルト。 楽して役得を味わう腹積もりだったようだが、そうも言っていられない状況だった。
「くっ、どうなっている?」
先んじてシャルロットの救出に走ったミルフィーナの表情に焦りの色が浮かんでいた。 何度斬りつけようとも、半透明の糸には傷ひとつ付かない。 それどころか、空気や水を斬るように、まるで手応えがなかった。 しかも、どういった原理か、実体の存在しない細糸はまるで生きているかのように蠢き、シャルロットにのみ物理的な干渉を果たしているようである。
「ミルフィーナ団長……」
ミルフィーナの後ろでは、シーラが長剣を片手に呆然と立ち尽くしていた。 実体の無い怪物を相手に立ち回る術がみつからないようだ。
その時、下方から螺旋階段を駆け上がるふたつの靴音が響き、
「姉上、コレ持っておいて」
ノーラがミルフィーナとシーラの間を走り抜けざまに首座を放り投げる。 続けざまエドゥアルトが通り抜けていくが、こちらは不謹慎にも片目を瞑ってみせた。 慌ててシーラが首座を掴み取った時には、ノーラと後ろを走るエドゥアルトの背中は既に小さくなっていた。
「くそっ……」
ミルフィーナが唇を噛む。 眼前では、為す術もなくシャルロットが虚空の闇の中に吊り上げられていく。
一方、シャルロットは声も出せずにいた。 霊糸の触れた部分から伝わる冷気が、少女の身体から急速に熱を奪っていく。 己の肉体の輪郭が曖昧になり周囲の闇と混濁していくようだった。 それに先程浴びせられた毒液の影響か、頭の中がぼんやりして思考がまとまらなかった。
―――シュゥゥゥ
一刻、更に一刻と深淵に潜むモノは器用に触肢を使い、霊糸を手繰り寄せていく。
「聖女さま目を閉じてくださいっ!!」
その時、一同の頭上からノーラの声が響く。
「……ノーラ?」
見上げたシャルロットの視界に、螺旋階段から伸びた横梁の上に這い蹲るノーラの姿。 その隣には火打ち石を片手にエドゥアルトが佇んでいた。
シャルロットは小さく頷くと、忠告に従いきつく両眼を閉じる。
――バシュ……シュウゥゥゥ……
上空から粉塵と鉄片が降り落ち―――次の瞬間、弾けるような音と共に深淵に潜むモノが大きく体勢を崩す。
足場にしていた糸巣が瞬く間に炎に包まれていく。
「なるほど、首人殿の仰る通り炎は効果的なようだな」
「いや、失敗じゃ。 やはり俗界の炎程度では滅しきれぬか」
首人の苦顔が示す通り、炎の中から黒々とした巨体が這い出してくる。 既に異形の顎はシャルロットの目前にまで迫っていた。
―――ギィ…キィィィ……
苦悶にのたうつ深淵に潜むモノの口蓋から大量の消化液が零れ落ちる。 それはシャルロットの頭上にも幾筋か降り注ぎ、図らずも左腕を縛る霊糸が引き千切れる。 右肩にも焼けるような痛みを感じたが、それが幸いしたのか朧気に混濁していた意識が覚醒する。
「届いて!」
シャルロットは身体を揺すり、吹き抜けに垂れ下がる鎖束へと無我夢中で手を伸ばす。
「つっ……」
錆びてざらついた連環の感触を引き寄せた時、シャルロットの指先に鋭い痛みが走った。 目を凝らすと、鉄鎖の束の隙間に一振りの短剣が挟まっている。
『―――その魔物の弱点は逆三角に並んだ三眼の中心です』
不意にシャルロットの頭の中に聞きなれない声が響く。
声の人物を誰何する暇はなかった。 意を決すると、自由になった左手で短剣の柄を握りなおす。
「えいっ」
シャルロットは無我夢中で短剣を振るった。
―――キィィィ……ギキ…ピィ…ピュ……
刀身に鈍い感触を感じた直後、ひきつれた咆哮がシャルロットの鼓膜を揺さぶった。
少女の膂力では、深淵に潜むモノの外皮を突き破るには至らなかった。 しかし、怯ませるには十分だったらしく、霊糸の束縛が解かれ身体が宙に投げ出される。
「シャルロットさまっ!!」
それを見たミルフィーナが躊躇うことなく虚空へと身を躍らせる。 炎塵を掻き分けて、少女の身体を空中で無事に受け止めると、垂れ下がる鉄鎖の一本へと腕を伸ばす。
「くっ」
ふたり分の体重が右腕一本に掛かり、ミルフィーナの顔が苦痛に歪む。
「ご無事ですか?」
「……フィーナ!?」
ミルフィーナの声に閉じていたシャルロットの両眼が開く。
だが、安心したのも束の間、絡みつくような悪寒がふたりの背筋を貫いた。
―――フュ……シュゥゥ……
深淵に潜むモノが重い油の中を泳ぐように霊糸を伝い、間近に忍び寄っていた。
ミルフィーナはシャルロットを庇いつつ、鉄鎖を伝い下方へと距離を取る。 だが、絶望的な逃避は直ぐに終わりを迎えた。 命綱であった鉄鎖がふたりの命運を予期するように足元で途切れていたのである。
「ここまでか……」
ミルフィーナが苦渋を顕に唇を噛む。 せめてシャルロットだけでも、助かる方法をと模索するが状況は絶望的に閉塞されていた。 足場となっている桁橋までは、飛び降りるには距離があり過ぎた。
「まだです。 フィーナ、試してみたいことがあります。 わたしを信じて貰えますか?」
だが、シャルロットは諦めていなかった。
「勿論です。 私奴の命ならご自由にお使いくださって構いません」
「ありがとう、フィーナ」
ミルフィーナの同意を得て、シャルロットが意を決したようにこくりと頷いた。
次の瞬間、止める間もなく、少女は手に持った短剣の刃を己の二の腕に滑らせていた。
「シャルロットさま!?」
驚くミルフィーナの眼前で、少女の純白の肌から零れた鮮血が刀身を朱色に染めていく。
「これであの魔物の眉間を狙ってください」
シャルロットは動転するミルフィーナに血塗れの短剣を手渡すと、微笑みかける。
「わかりました」
意図を悟ったわけではない、だが、ミルフィーナに迷い疑う余地はなかった。
降り落ちる火の粉を振り払い、裂帛の気合と共に迫りくる深淵に潜むモノへと短剣を突き上げる。
―――ギキィィィ……ギュ…ギィィィ…
断末魔の絶叫。
紅い輝きが弾け、三眼の中央を深々と貫かれた深淵に潜むモノは、機能不全を起こしたように大きく痙攣した後、闇に同化するように消失した。
「よかった」
シャルロットは右肩と前腕部から響く鈍痛に顔をしかめながらも、安堵の息を吐く。
「シャルロットさまの血があの魔物を?」
「はい、わたしの血で濡れた短剣が当たった時、あの魔物が怯んだように思えたので……。 ひとつの可能性として検討に値すると思いました」
つまり、シャルロットはリュズレイの血そのものが、幽界に身を置くモノに干渉することが出来ると、考えたのだろう。
「どうやらシャルロットさまの機転に命を救われたようですね」
「いいえ、わたしだけでこの窮地を切り抜けることはできませんでした。 フィーナが傍に居てくれたから」
互いの台詞にこそばゆさを覚えたのか、シャルロットとミルフィーナは僅かに頬を染めて微笑みを交わす。
「仲睦まじいのは結構だが、そろそろ上がってきたくはならないかな?」
そんな両者を横梁の上からエドゥアルトが見下ろしていた。 片手で荷袋から取り出した救助用の荒縄をチラつかせている。
「そ、そうですね。 シャルロットさましっかり掴まっていてください。 あと、とりあえず今回は貴様にも助けられた。 不本意だが感謝する」
シャルロットにはにこやかに、見上げた顔は可愛げの欠片も無いミルフィーナ。
「おいおい、そんな態度だと助けるのを止め―――がっ」
「お二人ともいい加減にしてください」
背後から現れたシーラがエドゥアルトの後頭部を問答無用で殴りつける。 そのまま奪い取った荒縄を手際よく横梁に結びつけて、もう一端を下方に向けて投じた。 未だ危うい状態であるシャルロットを差し置いて、口喧嘩をはじめそうな両者に呆れ顔だった。
「ありがとうございます」
シャルロットは足の裏に石段の感触を得た瞬間、その場にへたり込んでしまう。
そこに双子の騎士が駆け寄り、シャルロットの肩と腕の傷に応急措置を施しはじめる。 消化液で負った右肩の熱傷は軽度であったが、思いの他、左腕の出血が酷かった。 大事には至らないが、薄皮を浅く切り裂くつもりが、刃物の扱いに不慣れな為か、深く切りつけ過ぎたようだった。
「シーラにノーラ、それに首人さまも助かりました」
次いで自力で上がってきたミルフィーナが、ごく一人の例外を除き謝意を告げる。
しかし懲りないエドゥアルトが間に割って入り、
「いやいや、相手がむさい男ならたんまり礼金を要求するところだが、お二人なら熱い口付けだけで―――」
「貴様への感謝は取り消す」
皆まで言うこと無く、エドゥアルトの提案はミルフィーナによって却下された。


