「源義経黄金伝説」 飛鳥京香・山田企画事務所           (山田企画事務所)

義経黄金伝説■第44回



作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所
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第6章  1189年(文治五年) 平泉

■5 1189年文治5年7月 鎌倉

「さあて、源氏の古式にならい、旗をあげる時じゃ、広元、準備おこたりない
か」源頼朝が言った。
大江広元は大江国房の孫である、平泉に攻めいるは源氏が「前九年の役」から
の野望であった。
「源氏の血を奥州に広めねばならん」。
「大殿(頼朝)様、日本のすべての国に動員をかけませ。頼朝様の見方かどう
か判断できましょうぞ」
「ということは、源平の争いのおり、我が源氏の軍に刃向かいものどもにも、
動員をかけるわけか」
「さようでございます。今天下は大殿さまに傾きつつあります。誰が見方か、
敵か、この動員に参加するかどうかで見事にわかりましょうぞ。これにより、
大殿様の天下草創が周知徹底できましょうぞ。すなわち、源氏が武家の王であ
ることが見事証明できましょう」
「わかった。みなまでいうな。広元、その力をもって平泉を征服しょうぞ」


東国は将門(まさかど)の乱の後、1028年(長元1年)平らの忠常
(ただつね)が反乱を起こした。追討使は源頼信。多田の満仲の子供である。
源頼義(よりよし)は前九年の役(1051年から1063年)、後三年の役
(1083年-1087年)を通じて関東平家を郎党とする事に成功した。

源頼義(よりよし)は、板東の精兵を、奥州の乱の鎮圧に動員した。その契機
は平直方(なおかた)の娘婿となったからである。忠常(ただつね)の乱のお
り、平直方(なおかた)は追討使となり、源頼義(よりよし)の騎射の見事さ
に感心し、娘を嫁がした。

平直方(なおかた)は鎌倉に別荘を持っており、源頼義は義理父からこの屋敷
を譲り受ける。鎌倉は関東平氏のの勢力範囲であったが、源氏は関東地方に人
の支配権を得た。源頼義の子供であり平直方(なおかた)の外孫である義家
(よしいえ)は、前9年の役、後3年の役でその武名を天下にとどろかせた。

源義家よりの4代目が、源頼朝、源義経の兄弟である。後三年の役は1087年に
終わり、その100年後、頼朝の私戦、奥州大乱は、1189年7月に鎌倉の出発を
持って始まる。
頼朝は、新しい日本歴史を作ろうとしていた。日本の統一である。

■6  1189年(文治5年)9月 平泉王国   

 (なぜ私が攻められるのじゃ)。
奥州王である藤原泰衡は悲しくなった。
(約束を守ったではないか。ちゃんと頼朝が言うとおり、義経を殺し、その首
を差し出したでしないか。義経を差し出せば、奥州は安堵するという約束をし
たではないか。くそっ、西の人間など、やはり信頼できぬ。この戦どうしたも
のか。助かる手段はないものか。そうじゃ、ともかくも頼朝に平謝りに謝ろ
う。そうしなければ、親父殿、祖父殿に申し訳が立たぬ。この身、どうしても
奥州仏教王国守らぬばのう。
 そうだ、まだ西行がおる。あやつを捕まえ、頼朝に申し開きもうそう。そう
だ、それがよい)

 奥州の平泉王国第4代国王、藤原泰衡は思った。
 が、一瞬後、その命が吹き引き飛んでいた。郎党、河田次郎の裏切りであっ
た。奥州黄金郷は、ここに滅んだ。
1189年(文治5年)9月3日の事である。
(続く)
義経黄金伝説■第44回
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