Straight@Arc

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東方花水紀





 春には色とりどりの花が咲き乱れ、視覚的にも嗅覚的にも、心のうちを癒しくれるという。
 ――色彩の鮮やかさで見る者の目を癒し、その香りで惑いへ誘う。誘いは明らかな誘惑、つまりはそんな“素敵”。外の世界の人々は、それを天国というのかもしれない。
 彼女の目が醒める。花の上に寝転がっていたために、頭には黄色や紫、赤といった暖色系の花々の花弁がついていたが、淡髪の色と相まって、それすら鮮やかに見せた。その花弁に気づき、くすぐったさを感じながらはらはらと払って髪形を整える。目は虚ろで正常な思考がまだ出来ない、完全な寝起きの状態だということが、自分でもよくわかった。
 だから、特になにを考えるでもなく――考えることができず――その香りに身を任せて再び花の絨毯に転がった。
 時間さえも忘れてしまう。
 この場所で、いつから何をして、こんなに眠っているのだろう。それすらもどこか頭の遠くにあるような気がした。
 なぜなら、こんなに“素敵”なのだ。花が爛漫に咲き乱れ、けして山の奥ではないはずのこんな平野に吹き渡る暖かな風。それに乗って運ばれる芳醇で甘ったるい香り。どれをとっても夢のような空間で、些細な疑問なんてもの花粉と一緒に飛んで行けばいいと思える。たとえそれが誰かの花粉症を悪化させるようなものだとしても、春はもう来てしまったのだから。
 そうして彼女は再び眠りにつく。
 此処が何処なのか――そんな疑問を零して。



 1



 春爛漫の幻想郷だが、桜の花びらも姿を消し始め、白玉楼の気紛れがなければこのまま例年通り夏を迎えるだろう。本来、幻想郷とはそういう場所だ。季節に応じて花が咲き、散り。季節に応じて食を変え、太り。季節に応じて暇を弄び、寝る。そしてたまに、そんな平和に退屈した妖怪たちが、細やかな異変を起こす。それだけ。
 そんな異変解決の専門家である博麗霊夢は、たまの平和を限り無く堕落した生活で使い切る。なんというか、緊張感に欠けるのん気者なのだ。
 今日も今日とて例外であるはずがなく、珠には境内の掃除でもしようと思ってのだが、あまりにも快適な陽気のため鳥居に腰掛け眠っているのは紅白の巫女。おめでたい格好の割りにはちっとも縁起の良さそうな雰囲気が感じられず、その上腰掛けた真横には盆に乗せた茶と菓子があることから、やはりというか、計画的睡眠らしい。
 頬を撫でる風は心地よく、とても寝過ごしやすい環境にいることがわかる。今は日頃あちこちを駆け回るこの巫女を労って、健やかに寝過ごさせてやるのがい
いのだろう。
 ふと、霊夢の頬に触っていた風がびゅっと強くなった。
 箒に跨がる金髪の少女がその黒い装束を翻す。
「おーい、霊夢。ちょっと話が――って、寝てるのかよ」
 相変わらずだぜ、と軽く嘆息。空飛ぶ箒から飛び降り、綺麗に着地した。
 声に気付いたのか霊夢が唸りながら目をあける。
「おぅ、すごい顔してるぜ、霊夢」
「……いきなり来て挨拶ね、魔理沙」
 なんだか起こしちゃいけなかったというか、見てはいけなかったような霊夢の寝起きを見て霧雨魔理沙は少々申し訳なくなった。いや、別に起こしちゃいないんだぜ。
「ふぁ」
 伸びをしながら欠伸。その姿は何故だか疲れているように見えた。
「どした? またなんか異変でもあったのか?」
 魔理沙が帽子を取って霊夢の隣りに腰掛けながら聞いた。
 ちょっと、狭いわよ、と文句を言った霊夢も詰めて鳥居のスペース空けながら、首を横にふるふると振って否定する。
「なんだかねー、最近眠り過ぎるのよ」
「あん?」
 あの霊夢がこんなに疲労感を見せるほど“面白い”異変があったのかと不謹慎だが内心わくわくしていた魔理沙が拍子抜けしたように眉を顰めた。
 それはそうだろう、寝過ぎで疲れているなんて如何にも霊夢らし過ぎて面白くもなんともない。
「どういう意味よ」
「そのままの意味だぜ」
 ふぅ、と霊夢が溜め息を吐いた。
「なんなんだ? 原因はわかってるのか?」
 言われて、霊夢は顎に手をやり空を見上げて記憶の詮索を始めた。寝る前のことだ、なかなか記憶には残らないのだろう。うーんと唸り続けている巫女はなかなかシュールだ。
 少し考えると、今度は腕を組んだ。
「姿勢を変えたってどうにもならない気がするが……」
「あ、そうだわ」
 姿勢を変えたら閃いたようだ。
「なんだか、ものすごくいい香りがするの。春だからあんまり気にならなかったけど、眠たくなくてもあの香りを嗅ぐと眠り粉を吸ったようにころっと寝ちゃうのよね」
 それを聞いて、次は魔理沙が唸り始めた。
「気のせいじゃないのか?」
 それは霊夢も考えたところであるが、毎日毎日では疑いたくもなる。
 すでに五日間、この“素敵な香り”を嗅ぎ続けているらしいが、それにもかかわらず記憶に残らないのはやはりそれほど熟睡しているということなのだろう。
「でもなぁ……私は全然、そんなことないぜ?」
「そうみたいね……。だから不思議なのよ」
 霊夢にだけ起こっている異変だとしたら、これは一大事になる。幻想郷において博麗の巫女とは必要不可欠な唯一無二の存在なのだ。
 日頃から寝るのが仕事と化しているとはいえ、寝過ぎるのも考え物か。魔理沙としては、これを期に少しは睡眠のとりすぎも地獄であることを肝に銘じて欲しいところではある。
「異変なら解決しなきゃね」
 霊夢が苦笑すると、魔理沙もそれに続いてにかっと笑う。
「ま、お前のことだから心配はしてないけど」
「何よそれ」
 冗談で笑い飛ばした魔理沙だが、腕を組んで何か考えているようだ。お気楽な魔理沙にしては珍しいと、霊夢は霊夢で失礼な思考回路をしている。
「もしかしたら……んー」
「何? 何か思い当たることでもあるの?」
 だとしたらぜひ教えてほしいものだ。いい加減寝過ぎで、眠いんだか眠くないんだかで混乱しているのだから、いつものリズムに戻したい。
「いや、それとは関係ないんだが……。うん、なんでもないぜ」
「……なんだか気になる言い方ね」
 魔理沙にしては歯切れが悪い。隠すようなことでもあるのだろうか。いや、魔理沙のことだ、また“面白い”ことにでも加担しているのだろう。だとしたら面倒なことにかかわるのはそのまま面倒だ。
「あはは。それじゃ私は帰るぜ」
 魔理沙が誤魔化しのように笑うのを見て、別に咎める気もなくなった霊夢は、
「ん」
 とだけ返して、友人の帰宅を促した。
 魔理沙が帽子を被り直し箒に跨がると、神社の周りの木々がさわさわとそよぎ始めた。その風を受け、華奢な魔法使いの体が浮き上がる。
 高度が上昇すると、ものすごい勢いで飛んで行った。空の奥の方で「それじゃぁな~」という捨て台詞が聞こえたような気がしたが、もしかすると幻聴かもしれない。寝過ぎているし。
「ふぅ」
 と溜め息ひとつ。腰掛けていた鳥居から立ち上がると、ぐぐっと伸びをする。なんだかたくさん寝たおかげで何だか今ならぱぱっと掃除が終わらせられそうだ。
 茶と菓子の乗った盆を神社の縁側に片付け箒を構えたところで思い出した。
「……魔理沙、何しに来たのかしら」
 世間話をしにきたんじゃあるまいし、とふと感じたが、当の本人がいないのでは、そんな疑問は桜の残滓と一緒に箒で片付けてしまうしかないわね、と、久しぶりにせっせと箒を動かした。

 春、半ばの御話である。



 まただ。この香りである。
 今宵、未だ辰の刻。いつも床に就く時間よりもだいぶ早い時間にもかかわらず、どこからともなく漂ってくるこの香り――この香りを嗅ぐと、今日一日中、ほとんど寝て過ごしたというのに眠気が襲ってくる。
 魔理沙が帰って行ったあと、境内の掃除を行っていた霊夢だが、ほんの三十分ほどでこの香りに阻まれた。しかし、この眠り香はさほど強いものではなかったのか、数十分気を失っただけで目が醒めた。つまるところ、また眠っていたのだ、この巫女は。
 博麗神社は幻想郷でも重要な場所だ。巫女がこうでは神社の機能もいくらか低下する上に、異変解決なんて臨めない。
 寂れた神社の中、座敷に布団を敷き始めた霊夢。表もずいぶんみすぼらしいものだ、この暗い時間に誰かが来るとも思えないので、そのまま今日は寝てしまおうと考えた。
 ――とん。
 考えたのだが、表で何か、物音がした。布団をとりあえずぶちまけて、ふぁと欠伸を垂れ流しながら、きしきしと軋む廊下を歩く。
「まったく誰よ……こんな時間に」
 妖怪だったら少々面倒だが、突然この神社に現れる妖怪と言えば紫くらいのものである。しかしその紫は必ず、自分の能力で境界から現れる。わざわざ沿道を歩いて真正面から来るはずがない。
 だとしたら……。
「思い当たらない」
 日々、妖怪が入り浸る神社と評判があるが、宴会もないのにこの時間、何者かが来るとは考えられなかった。
 表に続く廊下を進む。
 幻想郷の星を眺めながら、眠気を忘れようとして、神社の表玄関に博麗霊夢、推参。
「あら」
 そこには、年端もいかぬであろう少女が、古ぼけた賽銭箱にいくらか小銭を投入しようとしていた。暗闇でよくわからないが、おそらく同年代くらい――妖怪であったら外見と年齢は相応ではないのだが――の雰囲気だ。それと、いくらかその身の内に妖力を感じる。
「まあまあ、物好きもいたものね、こんな時間に」
「えっ?」
 少女が小銭を放り投げたのを確認して声をかけると、暗闇の中で確認しづらい霊夢に気づいたようだ。
「あっ、あのー、こんばんは」
「こんばんは」
 おずおずといった感じに挨拶をしてくれた。敵意はないらしい。
「どうしたの? こんな時間に」
「いや、別に……人がいそうなところを見つけたので」
 人がいそうなところ……?
「此処は博麗神社よ? 無人じゃないんだから誰かしら居るわよ」
 第一、幻想郷に神社は此処しかない。
「あっ、此処が博麗神社なんですね。よかった、辿りつけたみたいです」
「?」
 いまいち話がかみ合わない。幻想郷の住人で博麗神社を知らないような者が果たしているのだろうか。否、そういないはずだ。
「それじゃあ、あなたが巫女さんですよね?」
「そうだけど」
 そう返事をすると、少女がばっと霊夢の懐に飛び込んできた。
「わぁ! ずっと会いたかったんです! 夜分に失礼しますっ」
 まさに目と鼻の先。暗くて見えなかった顔が鮮明すぎるほどに見える。
 人間にしては紅すぎる瞳と、淡い桃色の髪。真紅を基調とした暖かい色が散りばめられた装束。ここらでは見かけない顔だった。
「ちょ、ちょっと待って。あなたは?」
「あ、すみません。私、澄嶺音梓乃姫って言います。長くてかたっ苦しいので、梓って呼んでください」
「すみ……れ?」
 聞いたことのない名前だ。やはり、所見の妖怪か何かだろうか。それにしては出で立ちが人間臭すぎる。
 というか、眠い。
「んぁ、わかった。梓ね」
「はいっ」
 霊夢の対応が投げやりになってきたのを知ってか知らずか、相変わらず梓の顔は輝いて見える。そりゃもう、夜が照らされるような笑顔で、眩い。
 事情がよく飲め込めない霊夢であったが、眠り香は未だに霊夢の瞼を閉じようと必死に鼻腔を刺激していた。もうなんだか、頭が回らなくなってきている。
「わかった……わかった……わかったから、とりあえず私はもう眠いのよ……」
 近すぎる梓の体をいちど引きはがし、しっしっ、と手を払う。眠いと人はいろいろ必死になるものだ、特にこの巫女は。
「え、あー……何かあったんですか?」
 霊夢は布団に向けてすでに歩き始めていたが、梓は構わず歩を同じくした。霊夢にもとやかく言うような気はさらさら起こらない。再びきしきしと廊下を唸らせながら、簡潔に眠くなる香りについて話す霊夢は、めちゃくちゃかったるそうだ。梓はやはり、そんな様子に気づいているのか気づいていないかわからない。どこか抜けているぞ、この少女。
「あなたも感じない? ……こう、甘ったるくて眠くなるように脳を刺激するこの香り」
「へ?」
 その疑問符ですべて察した霊夢は、ふぅと今日何度目かわからない溜息を吐いた。
「私は何も香りませんけど……なんだかとっても素敵な香りですね」
「私を見ても素敵に見える?」
「あーうー」
 ……やはり、どこか抜けているのだろう。いつのまにか床の間にも入ってきている梓を特に咎めもせずに霊夢はそそくさと布団に寝転がった。
「あ、あの、私、博麗……巫……様に……が……です……」
 もう梓の声が左耳から右耳に完全に通り抜けていくほど、霊夢の体は眠気に支配されていた。
 隣で少女がむぅ、と唸る声が聞こえたのを最後に、霊夢は静かに眠り香とはまた違う布団の香りに飲み込まれていった。



 ■



 思えば、これが始まりである。



 ■



「はぅう!?」
 目が醒めて霊夢の目と鼻の先にあったのは見知らぬ少女の安らかすぎる寝顔だった。今年に入ってたぶん一番ビビった。
「あ、あんただっ、だっ……だー……あー思い出した」
 舌を噛みそうになったところで昨日眠りにつく前のことを思い出した。寝巻にも着替えずに、着たきり雀で自分のこの少女の名を確か――梓。
「んくっ……ふぁ、あ、巫女様、おはようございます」
「お、おはようございます」
 静かに身を起こす梓は、どこかのお姫様のようにとても品に溢れていた。髪のほとんど乱れず、寝起きの姿すら艶めかしい、自分と同じ外の世界の“日本”という国を感じずにはいられない。
 というか、そんなことを思っている場合ではないとリボンをほどきながら霊夢が正気に戻ったと同時に、布団が片付けられ淡い緑の座敷が顔を見せていることに気づいた。前を見てみると、梓が自分の身を整えながらせっせと布団を運んでいるではないか。
「あっ、私がやるわよ、片付けくらい」
「いえいえ、一晩置いてくれたんですから、これくらいは」
「む」
 勝手に泊まったんじゃないか、と“理不尽”な思いを抱いたが、それが“理不尽”だと気づいて口を噤む。なんだか、「泊まっていけばいい」というようなことを言ったような記憶があるような……ないような。酒も飲んでいないのにこうまで記憶が飛ぶなんて考えられないのだが……やはり異変が起こっているのだろうか。
「えーと、梓だったわよね」
「はい、巫女様」
 片付けも終ったらしく、再び自分のいる間に戻ってきた梓に尋ねる。
「その巫女様っていうのはよしてよ、私は博麗霊夢。霊夢でいいわ」
「は、はい、霊夢さん」
 かしこまって、ちゃぶ台を挟んで正座して向かい合うと、霊夢がとりあえずの疑問を口にする。
「んー……ものすごく眠りが深かったからよく覚えてないんだけど……」
 思わず頭を抱えていた。
「あ、私が巫女様……霊夢さんに用事があったんです」
「用事?」
「はい。たぶん、霊夢さんが言ってた眠くなるほど“素敵”な香りにも関係があ
「本当!?」
「ひゃっ」とちゃぶ台をたたきつけて立ち上がった霊夢に驚いた梓が小鳥のような悲鳴をあげた。自分でも取り乱したことを反省。
「ご、ごめん」
「いえ。えぇと、それで用事なんですが……」
「うん、うん」
 身を乗り出している霊夢だったが、梓が顎に手をやってなんだか考え込んでいるようだったのでしゅるしゅると引き下がる。
「たぶん、ハナミズキだと思うんです」
「ハナミズキ?」
 春の花で四月から五月ごろに咲く、何の変哲もない植物だ。確か神社の裏にもいくらか生えていたような気がする。
 しかし、そんな強烈な香りをハナミズキが放つなんて聞いたことがない。
「そうなんです。だから私もよくわからないんですが……そういう“素敵”に私が反応するんです」
「それは――あなたの能力ってこと?」
「たぶん……」
 なんとなく歯切れが悪いが、証拠としては十分だ。
“素敵”に反応する梓の能力……あの香りはけして“素敵”とは思えないが……彼女が言うのならおそらく真実なのだろう。そして此処から一番近いハナミズキは――
「この神社の裏、ってことね」
「はい。私もその“素敵”に誘われたんです。でも……」
 昨日、記憶している限りでは常に満面の笑みを浮かべていた梓の顔が急に翳った。
「どうかした?」
「あっ、いえ。なんとなく、不安なことが……大丈夫です」
「そ?」
 出会って幾時間も経っていない相手にいちいち詮索するのもデリカシーのないことだろう。と、霊夢は割り切って立ち上がった。
「じゃ、私は行くけど」
 急だが、これ以上何者かに、それも強制的に眠らされるのは聊か癪に障る。妖怪がやっているのであればそれを退治するのが博麗の巫女の本職なのだ。
「あ、私も行きます」
 一緒に梓も立ち上がった。その行動に意表を突かれたが、とりあえず忠告だ。
「でも、妖怪の仕業だったら危ないかもしれないわよ?」
「ああ、それなら大丈夫ですよ。私にも責任があるし……」
 梓の輝くような笑みが一転、不敵な笑みに変わった。ごそごそと懐漁って、ぺらっと薄い何かを取り出すと、その手には――数枚のカードがあった。
「私も、ちょっとならお手伝いできますから」
 なるほど、と霊夢はちょっと呆れながら笑った。


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