玄鏡

玄鏡

青葉に -12分の5-



<序> 卯月 仲呂(ちゅうりょ)

 ちちく、ちちく、
 ちちく、ちちく、

 椋鳥が精一杯に抑制を利かせた声で鳴く。

 ちちく、ちちく、
 ちちく、ちちく、 

 胸いっぱいに空気を吸い込んで、それを胸半ぱいだけ声として吐き出す。残りの半分でそっくり返るほどに胸をそらせるのだ。

Vol.0

 青葉が茂る。
 葉先が透明な陽光に融けて行きそうな瑞々しい翠の葉。それは自然の象形として、時に若さあるいは永遠の命の象徴として表現される。陽光はそのいみじい細胞の一つ一つに行き渡り、葉脈の一つ一つを完璧に磨き上げる。
 十力の金剛の露置く若葉、青葉。
 緑の、碧の、翠の、緑の中に。
 こうして万緑が溢れてゆく。
その中で。

 ぶちっ、

 おや、散文的な音が響く。何の音でしょう?

 ぶち、ぶちっ、

 はらり、と地面に舞い落ちるソレ。ってやめなさいよ。可哀相なコトするもんじゃないです。

 ぶち、ぶち、ぶちっ

 って、やめろって言ってんだよ(怒)

 ぱこっ


Vol.1

 いてぇ、と何やら情けない声が雑木林の中に響いた。

「ナンなんだよ、一体・・・・・・」

 ぶつぶつと意味不明のことをつぶやき、後頭部を撫で擦る。その手からぱらぱらと何枚かの樫の若葉が零れ落ちた。
 ぽす、と季節外れの樫の実が傍らに地面に落ちた。

「おいっ、ばさばさ翼のうるさ型の椋鳥がっ!!ナンの恨みがあっておれにこんなもんぶつけんだよっ!!」

 からかうような高らかな鳴き声が新緑の光を切り裂いた。

「騒ぐんならっ!!余所でやっておくれっ!!」

 それに答えるように一層けたたましく鳴くとふいに姿を消した。

「へっ!!たぬきの平吉さまにかかると、ざっとこんなもんよ」

 満足げに嘯くと手の中に残っていた樫の若葉をくるりと回した。それをおもむろにちょこんと頭に乗せたのは。
 たぬきである。
 ふくふくの触ってみたいようなお腹にぷりぷりの尻尾。ばっちり入ったアイラインに細長い鼻面。おまけのようにくっついたぴんぴんの髭。つぶらな瞳は零れんばかり。
 しかーし、全体像は。
 イイとこ、茶色のぼろ雑巾である。

「こんなもん乗せて化けれたら苦労しないよなぁ!!まっ」

 ふっと風に飛ばす。

「すっごーいっ!!」

 素っ頓狂な無邪気な声が雑木林の静寂を引き裂いた。

「ねっ??ねっ??これから化けるの??すごいやっ!!」

 たぬきの平吉が仰天して下を見るとくりくりした目を輝かせた6歳ばかりの子供が躍り上がらんばかりにしてたぬきを見上げていた。ボーダーの長袖に暗い色の半ズボン。右膝の絆創膏がご愛嬌だ。
 なんでい、椋鳥が逃げたのはこいつのせいか。たぬきの平吉としては面白くない。

「ガキはけーんな。見世モンじゃねぇーよ」

 つーか、立派に見世物である。何故ならたぬきは大きな樫の木の一番下に張り出した枝の上に仰向けに寝そべっていたのだから。ぽこんと突き出したお腹が何とも言えず愛らしく、若い女の子なら虜になること請け合いだ。
 たぬきがしゃべればびびって逃げるだろう。そう踏んだのだ。

「わーっ!!しゃべれるのっ!!」

 耳をつんざくような歓声を上げる。今度こそ本当に飛び上がった。
 ちっ。だから子供は嫌いなんだよ。

「ねっ???ねっ!!!触っていい??」
「・・・・・・・・・・・・ちったぁ、不審がれよ・・・・・・・最近の子供はどっか突き抜けてんのか?・・・・・・・・」

 付き合いきれるか、とたぬきの平吉は頭からぴん、と樫の若葉を叩き落す。あ、ひょいと枝から飛び降りる。これ見よがしに四足で樫の木の裏側に回ろうとした。
 そのしっぽをくいと子供が引く。

「あっ、待ってよっ!!たぬきさん」
「・・・・・・・・・・・んだよ」

 律儀に返事を返すが、邪険にしっぽは取り返す。尻尾の用途はそんなことにあるのではない。だが何の役に立つのかと言われれば返答に困るのだが。まっ、見場ってことで。

「ねぇ、たぬきさんは妖怪でしょ?」
「妖怪・・・・・・つーか、まっ、妖、かな」
「んでさ、んでさ、葉っぱを頭に乗せていろんなものに化けるんでしょ?」
「なんでまた・・・・・・」
「そいでもって、人を騙してお酒をとったり、油揚げ食べるんでしょ?」
「・・・・・・・・・すりゃ、狐だ・・・・・・」
「それからさー、糸車廻して、糸を紡いだり、化かしたつもりが化かされて狸汁になったり、すんだよねっ?・・・・・・・・で、おいしいの?」
「何の話だよ、そりゃー・・・・・・・・・・・・・・ってか、おれが知るかい、たぬきの味なんざ」
「それからさ、それからさ、恩返ししたり、祟ったり、いろいろ忙しいんだよね」
「・・・・・・・・・忙しいし、おれは怖いたぬきなんだから、お子様はかえんな」
「だからね、だからねっ!!」
「・・・・・・・・・・この子供、こっちの話をちっとも聞いてないしっ」
「僕に化け方を教えて欲しいのっ!!」
「はっ?」

 かくん、とたぬきの口が開く。子供は真剣そのものの顔付きだ。

「が、がきの戯言に付き合いきれるかーっ!!」

 叫んだたぬきに子供がにっこり笑う。だっと駆け出す。

「あ、約束だよっ!!また来るからねーっ!!」

 いつの間に約束になったんだっ!!いつの間にっ!!
 走り去るたぬきに一瞬放心した子供はすぐに、わっわっ、と叫びながらこれまたどこかに嬉しそうに走り出した。


Vol.2

「たーぬきさーんっ!!」
「どわっ!!」

 新緑に染まる木立を幾束もの光の帯が落ちてくる。雑木林は明るくて春特有の浮き立つような雰囲気に若芽も一際引き立つというものだ。歳月を重ねた樹々も柔らかな青葉を頂き、しっとり蒼める苔を懐に抱く。

「うわっ、おまいさん、どっかから湧いて出たっ!!」
「やだなぁ、約束したでしょ?」

 忘れたの?こくん、と首を傾げてみせる子供。今日はパーカーに半ズボン。赤いスニーカーが鮮やかだ。たぬきはがっくり肩(?)を落とす。
 まじで来るとは思わなかった。っていうか夢だと思っていた、たぬきである。妖のくせに現実逃避はどうかと思いますっ、たぬきの平吉さんっ!!
 いつもの樫の樹の枝で惰眠を貪っいて不意打ちを喰らったのである。

「ボケるの早くない?」
「っ妖がボケるかぁーっ!!」

 叫んでから、はっと我に返る。これでは約束とやら肯定したも同然。
 妖には妖の仁義っていうか名誉律みたいなものがあって、それを破ればストレートに痛い目にあう。
 それは口約束という契約で成立するのだ。
 はっ、まさかこの子供っ??それを狙ったっ??

 ごそごそ

 だが、子供は。頓着なく腰を下ろし、ナニやら紙袋をかき回す。そこからナニやら心そそる匂いが漂ってきた。

「ナニやってんだ、おまいさん」
「僕の夕飯♪あ、たぬきさんと半分こねっ」

 考えすぎだった・・・・・・・たぬきは更に深々と肩を落とす。

「コロッケだよーっ」
「まっ、なっ、ほうっ、気が利いてるじゃないかいっ」

 コロッケ・・・・・・偶然か、故意か。コロッケはたぬきの平吉の好物であった。
 それまでの渋い顔を現金なまでにほくほくに綻ばせたぬきは遠慮なく受け取る。
 たぬきと子供。仲良く並んで、仲良く両手で金色に揚がった、衣はさくさくじゃがいもはほっくり、しかもほかほかと湯気の上がるコロッケをほうばる。
 静かな雑木林に黙々たる咀嚼音が響いた。
 動物は餌で釣りましょうっ。
 正しく実践している無意識の子供恐るべしっ!!

「っていうか、これどうしたんだ?」
「んー、僕の夕飯♪」
「いやそれさっき聞いたし。栄養バランスっていうか、おまいさんのおっかさんが夕飯作ってくれるだろう?」

 たぬきの平吉さんっ、どっからそんな知識をっ!!最近の妖は現代事情にも明るいのかっ!!

「・・・・・・・・・・・・・んー、とね。僕のお母さんはお仕事で忙しいの。だから僕はね自分で夕飯を用意するんだよ。だってね、お母さんにね、迷惑かけちゃいけないし」
「おとっつあんは?」
「お仕事だよ。お父さんもお母さんも僕のために一生懸命働いてるんだって」
「ふーん、鍵っ子かぁ」

 たぬきは眼をこずるそうに細めた。
 と、いうことは。この子供を丸め込めば。
 毎日(まぁ、多分)コロッケが手に入る♪(←飽きますよ、たぬきの平吉さん)

「まっ、そこまでいうならぁ、特別にぃ、教えてやってもいいかなぁ」
「ホントにっ!!」

 たぬきは最後に残ったコロッケの欠片をぱくりと口に放り込む。子供は手放しで喜んだ。

「なっ、まっ、まぁなぁ。物事っていうものは、give and take なんだわ」
「ぎぶあんどていく?」
「う~ん、何でもタダで手に入ると思っちゃいけない。おまいさんも欲しいモノを手に入れるし、おれもまあすこーしばかりの見返りがあるってわけだよ。それが公平ってモンだろぉ?」

 たぬきの含み笑いが新緑に噎せるような雑木林に響いていった。


Vol.3

「ていっ!!」
「えいっ!!」
「ふんっ!!ふんっ!!」

 可愛い気合声が静かな雑木林を賑やかに駆け抜ける。
 街の拡大は郊外への拡大を意味した。たぬきの住み着いている雑木林は宅地開発の波に呑み込まれようとしている残り僅かな場所だ。住民の憩いの場所になるには少々、雑木林のある斜面は急で、林も懐が深い。
 もちろん、住民も特に子供は近付くなと言われているはずだが、ほぼ放任に近いこの子供には無関係なようで。なまじ街まで遊びに行くより、近くて安全なのだろう。
 しかし雑木林の縁を掠めるように幹線道路が横たわり、時間帯によってはずいぶんと自動車が多い。もちろんこんな郊外では信号も少なく、やたらにスピードを出す人も多い。

「え~いっ!!」

 一頻り声を上げるその頭からひらりと樫の若葉が落ちた。
 たぬきがその隣りで興味なさ気に寝っころがる。

「や~っぱ、むつかしいねぇっ!!」
「そりゃ~そうさ。一朝一夕でできちゃあ、苦労はしないって、なっ、まっ、頑張んな」

 ぷらり、といつもの樫の枝でしっぽを揺らす。その横にコロッケの包みが二つ。子供とたぬきの分。1週間も続けば食指気味なのか、それとも自堕落に食べたいのか。たぬきはまだ手を付けていない。

「そっかー、そだよねっ!!」

 元気よく、叫ぶ。樫の若葉に手を伸ばすが、ふとためらって足元の落ち葉を拾った。

「うん?」
「・・・・・・・・・あー、んとねっ!!折角の新芽を摘み取っちゃぁ、可哀相だよ」

 大事そうに背後の立派な樫の樹を見上げる。たぬきは何故だか軽く瞠目した。

「あ、お~なかすいちゃったぁっ!!ねっ、コロッケ食べようっ!!」

 落ち葉を投げ捨てるとひょいとたぬきの横に座る。
 たぬきに包みを一つ手渡し、かさりと包みを開いた。
 ひょっとして気を使ってもらったか?たぬきは自嘲する。まっ、思ったよりこの子供はよく続いている。
 実際。
 たぬきは何も教えていない。
 化け方など何一つ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・妖は化かしてナンボだろ?命を取ろうっていうんじゃねぇし、おれはむしろこの子供が雑木林で迷わないように子守してやっている、と言って過言じゃねぇ。そもそもが、余程、引き換えるモノがなくては人は妖の術など操れないって話しだし
 たぬきの平吉は言い訳を考えている自分への自覚がなかった。

「今日はね、肉じゃがコロッケにコーンコロッケにクリームコロッケなんだよっ!!」

 もうたぬきは聞いていない。夢中である。
 が、ふと手を止めて子供を見上げる。

「・・・・・・・・・・・・・・なっ、まっ、なぁ、何でおまいさんは化けたいんだ?」
「うーん?楽しそうじゃない?」
「・・・・・・・・・楽しいって・・・・・・まぁ、そうかもなぁ」
「それにね」
「?」
「お父さんとお母さんが喜んでくれると思うんだっ!!お父さんとお母さんはいつも仕事で疲れて帰って来るんだっ!!難しい顔して、なかなか僕にも笑ってくれないの。だからね、僕がいい子になってお父さんとお母さんを笑わせるんだっ」
「・・・・・・・・・・・・・・いい子に化けたいのか?」
「ちょっと、違うかな・・・・・・・」

 多分。
 この子供の両親は忙し過ぎて。子供の顔も碌に見ていないのだろう。そのくせ、口を開けばいい子にしてなさい、とかって言うのだろうか。この子供は認めてもらいたいのだ。
 父に、母に。自分を見てもらいたいのだ。

「・・・・・・・・・・・・・・・いい子じゃねぇか、充分に」

 ぼそり、とたぬきは子供に聞こえないようにつぶやく。これ以上、ナニに化ける必要がある、というのか。
 たぬきは最後に一つだけ残ったコロッケをしみじみ眺める。
 金色のさくさくの衣にほくほくの中身。
 残念そうにそれを元の包みにしまう。

「今日はもう帰んな。この後、雨が降るしな」
「すごいっ!!そんなこともわかるのっ!!」

 子供は顔全体を輝かさんばかりの勢いでまくし立てた。

「まっ、なっ」

 本当は顔色の悪い子供を心配したのだ。こんな夕飯続きでは身がもつまい。子供ってェのはもっと身のあるもん喰わにゃあ。雨が降るというのもあながち嘘ではない。

 言葉違わず。
 子供が帰ってすぐ。雨が降り出した。


*

「誉れ高きその名も音に聞こえた長老様、お久しゅう御座いまっす~」

 たぬきの平吉はすちゃっと擬音が付きそうな勢いで片手を鼻面の横に振り上げた。

「なんや、えっらい久しぶりやのぅ~平吉どん?」
「そおいう、言葉遣いじゃぁ・・・・・・威厳の欠片もないっすよ・・・・・・」
「~っす、などとふざけた語調のたぬきにゃそれで充分じゃわ」

 ほっほっほっ、とそのまま呵呵大笑する恰幅のいい大狸。その毛皮は真っ白で眼光は鋭く射ぬかんばかり。 
 たぬきの平吉は溜息を盛大に漏らすとすっと両手で包みを差し出した。

「実は平吉、お尋ねしたい儀を持ちましてまかりこした次第に御座います」
「舌噛むぞ平吉」

 長老は素早くたぬきの手から包みを取り上げると、ほうっ、コロッケかと嘆息する。妖狸の好物はコロッケか???
 息もつかずにかぶりつくとじろりとたぬきを見据える。

「修行もせずにぶらぶらとその辺をうろつき廻り、妖の勤めも疎かにするお前さんにしては上出来じゃ。で、何が聞きたい?」
「実は人に御座います」
「ほう、この送り主かの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御慧眼痛み入ります」
「申してみよ」

 べろり、指先に残ったコロッケのかすを舐め取る。たぬきの平吉はそれを惜しそうに眺めていたが、はっと我に返る。

「人は化けることが叶いますもので御座いましょうか」
「無理じゃ」

 即答。そっけない、にべもない即答。一刀両断。

「妖と人では住む所が違うのじゃ。我らの操る呪は人を害する」

 長老の瞳が意地悪く細められた。

「馳走になった礼じゃ。一つ老婆心ながら教えてしんぜよう。人が化ける方法ならある。我らが眷属に迎え入れることじゃ。忘れるな、平吉よ、一端、我らが交わした契約はどちらかの命が尽きるまで、消えることはないのじゃ」

 意味有り気に地面に投げ捨てた包み紙を見る。
 顔色の日増しに悪くなる子供。
 たぬきの平吉は咄嗟に思い浮かべる。
 何をためらう?それが妖だろう?それが判っていながらおれはあの子供を受け入れたのだろう?
 そうだ。
 めんどくさくなったのだ。
 あの子供の子守をするのが。
 もとの平穏な暮らしを取り戻したい。
 樫の木の下で天地の気を集めるだけの生活に。
 そうだ。
 子供だって、妖に関わったところで碌な目にはあうまい。
 会うはずがないのだ。昔語りに詳しいあの子供ならそれを知らないはずもない。これは充分に自業自得なのだ。

「契約を破棄する方法は御座います」
「・・・・・・・・・・・契約者が自ら無効を申し出ること、か。そなたは知るまい、お若いの。それはお前さんの妖力を削ぐことになるのじゃ」

 軽い含み笑いを声に含ませる。

「妖は人の精気を吸い取る陰の獣じゃ。子供ならばその精気も少なかろうなぁ・・・・・・・・・・・」

 お前さんも、一人前の妖じゃろう・・・・・・・?

 闇を含んだつぶやきが雨の音に紛れて消えた。




Vol.4

「今日こそは僕も化けれるような気がするんだっ!!」

 元気よく子供は叫んだ。
 連日の失敗にも全くめげる様子もなく、ひょいと地面から枯れ葉を拾い上げるとちょいとそれを頭の天辺に乗せた。

 えぃっ!!えぃっ!!

 と、威勢のよい気合いが上がった。
 たぬきはそれをしばらく眺めてから子供に声をかけた。

「あのな」
「ふんっ!!ふんっ!!」
「・・・・・・・・・あのな」
「てぃっ!!」
「って、話を聞けっ!!」

 たぬきは必死になる子供の頭をぽこんと叩いた。

「いたぁい、何すんだよぉ」
「・・・・・・ま、座れ」

 たぬきは地面に散った去年のふわふわの落ち葉の上を指差した。木漏れ日が斑に緑の影を落とし、さやさやと葉群らを揺らす薫風が心地よいくらいだった。

「あのな」
「うん?」
「こないだな、たぬきのえらーい長老さんの所に、な、話を聞きに行ったんだ」

 おまいさんがよっく頑張ってるからな、と言えば子供はうれしそうに歓声を上げた。だがたぬきはそれきり黙り込み、しっぽの毛繕いをし、髭を引っ張り、困ったように視線を彷徨わせた。
 昨夜はそれが一番だと思ったのに、今となってしまえばそれが正しいこととは思えなくて。
 迷った。
 迷って、迷った。

「あのな・・・・・・・・・・っもうここに来るな」

 口から零れ落ちたのは意図した言葉とは正反対のモノだった。たぬきは焦ると同時にほっとした。
 もう、これでイイ。
 コロッケの礼だ。

「えっ・・・・・・・・何でっ!!だって修行したら僕も変化ができるかもって」
「だからな・・・・・・・・・・無理なんだよ」

 子供の口がかくんと落ちる。
 それに慌ててたぬきがはたはたと手をふる。

「ま、なっ、まぁ、化けれるからっていいことがあるわけじゃないし・・・・・・」
「どうして?どしてできないなんていうの?」
「お、おれが言ってるんじゃないよ、えらーいたぬきの長老がな、人の子供は人にしかなれないって言うんだっ!!」

 ぽろぽろと泣き出した子供にわたわたとたぬきがその周囲を飛び回る。

「なっ、なっ、まっ、泣くんじゃないよ。おれが泣かしたみたいじゃないかっ!!」
「・・・・・・・・・・・・・なんか方法ないの?僕はなんだってするよ」

 子供がたぬきの胸ぐら(?)を掴んで詰め寄る。

「方法は・・・・・・」

 ある。あるが。

「おまいさんはお父ちゃんにもお母ちゃんにも会えなくなる」

 ぼたり、と子供がたぬきを落とした。たぬきは結構強かに地面に落ちたがそれに頓着しなかった。気遣わしげに子供を見上げる。

 子供は言った。

 仕事で帰って来ない、仕事で疲れた、父と母を楽しませたい、と。
 そうすれば、自分を見てくれるだろうからって。
 自分じゃない自分になれば、父と母のいうよい子になれるかもしれないからって。

 会えなくなるなら意味はない。

「泣くんじゃないぞいっ!!元気出せっ!!そ、そればっかりがいいってわけじゃないし、なっ」

 だが子供は泣かなかった。
 目を潤ませたが泣かなかった。
 泣く代わりに頭の上にまだ残っていた葉をぽいと捨てた。

「・・・・・・・・僕、帰るね」

 ぽつん、とつぶやく。

「う、うん。気いつけて帰れよ」
「うん」

 子供はしおしおと返事を返した。もし子供にたぬきのようにしっぽがついていたらそれは元気なく垂れていただろうし、耳があればぺったりと伏せているに違いなくて。
 たぬきはどうにも申し訳ない気分になった。

 子供は振り返らなかったし、たぬきもそれを見送らなかった。

*

「はは、あれでよかったのさっ!!人が化けようなんて妖のお株をとっちゃいけないよっ!!ああ、これでせいせいした。こんで静かに日を送れるぞっ!!あのおかしな気合い声も聞き納めだぞっ!!」

 だけど。それで。
 たぬきは転がり廻っていた落ち葉の上にひょこんと座り直した。
 急に辺りがしんとなって耳が痛いほどに思えた。
 斑に若葉越しに落ちる木漏れ日も何だかよそよそしく感じた。
 いつから。
 いつからここは。
 ・・・・・・・・・・・・・・こんなに淋しくなったんだろう。

「さ、淋しくなんかないぞっ!!これで元の通りになるんだからっ」

 元の通り。
 仲間もいなくて。日々減っていくたぬきのねぐらである雑木林を見守りながら。
 ひとりで。
 浸食してくる車に怯えながら。

 そうだ、あの子供は。
 無事に帰れるだろうか?この辺の道路は道が狭くて見通しが悪くてスピードを出す車が多い。


 どっしゃーんっ!!


 鈍い打撃音と激しい擦過音。それからギアを入れ替えるような音がして車が猛スピードで走り去る音。

「ほーら、いわんっこっちゃないっ!!」

 たぬきは躍り上がった。髭がぴんと左右に散って、この時ばかりは己の短い足を恨んだ。 

「あいつのはずがないぞっ!!あいつはそんなにドジでもとろくもないぞっ!!」

 口走りながら前足と後足を交互に動かして走った。
 若葉がざわざわとさざめいた。
 僅かに伸びた彦生えに前足を取られた。
 道路までの距離がとてつもなく長く感じられた。

 そして、そこに。
 斜面から見下ろす道路に。
 子供が。
 うずくまるように。

「おいっ!!」

 転げ落ちるように斜面を下り、子供の側に駆け寄る。
 子供はくたりと斜面に倒れ、大きな怪我はないようだった。

「おいっ、なっ、驚かせるなよっ!!転んだだけだろっ!!なっ、まっ、なっ?」

 子供に小さな手を伸ばす。
 だがその手が届くより先に血の匂いに手が止まった。

「・・・・・・・・・・・・うそだろう?」

 ほんのさっきまで、笑っていて、泣いていて、落胆して、悲しませて・・・・・・

「なっ、まっ、おいっ!!」

 子供は答えなくて。動かなくて。

「なぁ、おい・・・・・・・・・・・・うそだろう?」

 名を呼ぼうと初めて思った。それでやっと気がついた。

「おれはおまいさんの名前も知らなかったのに」

 ぽろり、と涙が鼻先を転げ落ち髭の先端に留まってはたりと路面に落ちた。

「・・・・・・・・・・おれは、泣いても笑っても、枯れても咲いても、天下の平吉さまでぃ!!」

 天を仰いで、地を仰ぎ、両手をもみ絞って、指で印を組んだ。
 真剣な顔をして術を喚んだ。
 こんなに必死になったことはなかった。
 妖にたぬきに神様がいてくれるのかどうかは知らないが、それらすべてに全身全霊をかけて祈った。
 そしてたぬきの平吉一世一代の術を解放した。

Vol.5

「探したのよっ!!」

 突然にぎゅっと抱き締められる。その頭にごつんと拳が落ちる。
 心配させるんじゃない、と安堵を滲ませた父親の声と、まあ、あなたっ!!、との母親の抗議の声が重なる。

「こんなに遠くまできちゃダメだぞ」

 父親が母親に取りなすようにいう。

「あ、あれ?お父さん?お母さん?」
「言わなきゃいけないのはそれじゃないでしょ」

 言葉と裏腹に母親はぎゅっと子供を抱き締める。父親もその髪をぐしゃぐしゃにかき回す。

「あ、ご、ごめんなさぁい」

 思わず泣き声になった。
 ひしと母親の暖かい身体に抱き付く。
 そうだ、確かに自動車に撥ねられて・・・・・・それから。
 それから?
 それから?

「さぁ、帰ろう」

 父親が母親を促す。近くに止めた自動車にさり気無く二人を誘導する。

「何?」
「あそこ」

 こそこそと交わされる会話。

「あそこに何か、動物の死体があったんだよ。多分、車に撥ねられたんだよ、かわいそうに。ほとんど傷はなかったけど、まあ、あんまり見せたくなかったからね」


*

 青葉が眼に痛い程、鮮やかな緑に揺れる。
 透けるような陽光が惜しみなく大地に降り注ぐ。それをすんなり伸びた若芽が大地から汲み上げるように天へと返して行く。
 一瞬の停滞も遅延もない久遠の輪廻。
 播種期、生育期。柔らかい緑の影が落ちる時。

 はらり、はらり、

 と樫の木が青い葉を幾枚も幾枚も落とす。
 どうしたのだろう?
 季節じゃないのに。
 どこに落ちるのかな?

 おや、茶色の小さな塊を埋めるように降っているじゃないか。

 はらり、

 とその小さな、100年かけて溜め込んだ妖力を空っぽにして、身代わりの術を施した身体に降り続ける。そんな難しい術を施せる程、高い位にいたわけじゃないのに。身代わった後、受けた傷を癒せるわけでもなかったのに。
 力尽きちゃって。

 もう動かない。もうこれで樫の木から葉をむしることもできない。

 なのに。樫の木は葉を、本来落ちるはずのない若葉を降らせ続ける。
 ほら。
 最後まで剥き出しだった鼻面を優しく樫の若葉が埋めた。

 ねぇ、確かに。
 歪んだ鼻面は。
 うっすら、と笑みを刻んでいたよ。

*

 ちちく、ちちく
 ちちく、ちちく

 椋鳥が精一杯の抑制を利かせて鳴いている。
 柔らかな青葉から溢れる陽は熔けて行きそうな、やがてくる夏の前兆のようだった。

<終> 


© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: