玄鏡

玄鏡

神鳴り -12分の6-



どーん、

と雷が落ちた。さあっと驟雨が巻く。きっと外にいたならば、目を射るような激しい閃光が天空から地上を真一文字に繋ぐのが目撃できたはずだ。

ざぁぁぁぁぁ

驟雨は次第に激しく時雨れ、目も開くことも出来ない豪雨になる。車軸を流したような、天水桶を引っくり返したような。こういう日は乾いた室内でコーヒーでも片手に、凄い雨だなぁとか感嘆の声を挙げるのが一番だ。
でもそういうの、柄じゃないよな。あはは。

ぎゅも、

ナンか情けない音がする。あああ、革靴が再起不能かも。もうここは開き直って鼻歌でも歌ってやれ。‘singing rain’だっけ。フレッド・アステアが雨の中で踊り狂ってたのって。でもあれ確か傘もってたような・・・・・・
つーか、アステアと比較する方が恥ずかしい。俺あんなに足長くないし。
うを。
通行人にヘンな目で見られちゃったよ。
傘持ってないのは俺のせいじゃなーいよ。

そう、俺は。雨の中を歩いている。それも半端じゃない雨の中を。すべては雨の皮膜の中に歪み、そして雨の中にすべてが収束してゆく。大気と水の境界、天と地の境界すら曖昧になるような豪雨。
ま、小半時もすりゃ止むんじゃないかな。この時分の雨なんざ。俺だって帰る途中で降って来た雨でなけりゃ、止むのを待ってたと思う。怪しい雲行きだなぁと思ってたら、腹の底に応えるような凄まじい雷鳴。
それも立て続けに。
大地と天の架け橋。
神々の怒り。
ギリシャ神話では大神ゼウス。北欧神話では主神トールのハンマー。インド神話では雷帝インドラ。中国の神仙思想によるなら元始天尊。日本神話では一説によれば三貴子の一人スサノオは雷を操ったとも言われる。
もしくは天狗。1000年の古木に落ちた落雷から生まれるそうな。

どーん、

こう表現すると間抜けだが、がらがらぴっしゃーんでも気が抜ける。
腹腔の底から縮み上がるような音だ。大気をびりびりと走る振動。地震かと思いたくなるような足元から這い登る震え。音の振動にしのつくような豪雨までもがかすむ。
一瞬で天空を焦がす閃光。
ざうっと風が巻く。雷の威光に大気が身を引くようだ。

それにしても。上着どころか下着の中にまで項から背中を伝って雨が進入してくる。酸性雨にと~け~る~・・・・・・・・・・・・はネタとしても古いか・・・・・・・・・・・・・・・
頭から水をかぶったなんてモンじゃない。
河に落っこちた。
と、言っても誰も疑わんぞ。俺は額を振り上げ、無駄と知りつつ、濡れそぼった髪を指先で掻き上げる。後から後から何の躊躇いも見せずに雨が落ちてくる。
降って来るとか落ちてくるとかいう言葉はこのさい陳腐だろう。天から流れてくる?これも違うっぽい。
そんなことはどうでもいい。どうでもよくなってくる。

身体が空っぽになる。頭の中が真っ白になる。

流れ落ちてくる雨の飛沫の中に俺のすべてが流れ出す。俺と他との境界が曖昧になる。驟雨に洗い流される俺が雷の響きでこの肉という形の中から消える。
このまま俺は?流れる雨のように地面に流れ落ち、アスファルトの路面を下り、排水溝から下水を下り、いつかは海まで流れ着いたりすんだろうか?それともアスファルトの周囲の僅かな緑地帯からこの土に返るのだろうか?
俺がいなくなる。

だが、俺を形作るものもまた、この雨だ。

頭を。髪を。顔を。腕を。指を。足を。この身体を。
俺の輪郭を描くように雨が流れ下る。融けて曖昧に俺の輪郭を再びしっかりした肉に返す。俺の中で空っぽになったすべてが雨という天の恵みに満たされる。
生温かいような、ひどく冷たいようなこの雨が。
そして魂を震撼させるような霹靂の響きが。
空っぽの俺に息吹を吹き込む。

ふわり、と何かが目の前をよぎった。

天→地というベクトルに逆らう動き。地面と覚束ないまでも水平のラインを辿る弱弱しい動き。

はたはたはた、ひらり

蝶だ。

薄い燐粉に包まれた華奢な身体を容赦なく大粒の雨が叩く。強情に水平を保っていたベクトルがやや下方に向かう。
ナニをしてんだか、この蝶は。普通、蝶とか虫は人間より賢くて、雨が降ると大人しく雨宿りをしてるもんでしょうが。野生の薄い蝶なんて聴いた事ないし。
空っぽになったとほざいた俺はあっさりと自我を取り戻す。
とっさに俺は手を伸ばす。弱弱しい動きの蝶を捕らえるなんて訳もなくて。俺は庇を作るように蝶の上に手を伸ばす。

べしべしべしっ

手の甲を雨が叩く。ぽた、と重く雫が俺の指先から落ちる。雨を辛うじて弾く繊細な蝶の羽の上に。

―――羽が破れる

はっと胸を突くような直感。この濡れた不器用で無遠慮な手で羽を摘めば蝶の羽が破れる。俺の躊躇いも知らずに蝶は俺の手という庇から雨の中にひらりと身を翻す。すぐにその身体が傾く。
雨の圧力に勝てない。
俺はその蝶を追う。蝶を傷つけない方法はある、と思う。両手をずっしりと雨に濡れて重い上着で拭う・・・・・・・・・・・・なんか、絞ったって感じ。これでは意味がない。それで懐に手を突っ込みかろうじて濡れていない部分で両手の水分を取る。
取り出した手はすぐに容赦ない雨に打たれるが掌が幾分か乾いていればそれでいい。身を屈め、両手をお碗のように丸めて雨の中から蝶を掬い取った。
呆気なく。まるでそれは蝶が待ち望んでいたことであったような錯覚すら起きる。
手の中で僅かにもがく感触。
こそばゆい。
雨で鈍化した感覚がみるみる研ぎ澄まされる。
俺と他の境界が明瞭で侵し難いものに変質する。心臓がどきどきした。うっかり手に力を込めそうになって我に返る。
本末転倒してはならない。俺は苦笑する。苦笑しながら飛沫に霞む雨の中を見透かす。
人通りの絶えた真昼の道路。僅かに住宅街に入ったここには車すら今はいない。音だって雨の中に消える。
逆説的な静寂。
俺はすぐに手ごろな目的物を見つけた。
子供の頃のように胸を弾ませ、小走りに歩み寄る。両手を桃の実のように合わせたまま。
大き目の街路樹は予想通り雨宿りには好都合で。
俺は手を伸ばせるだけ伸ばして、樹の中心に手を差し伸べる。
そうっと手を開く。
蝶はくたっりと羽を落としていた。
やっぱり無理だった?びくびくした。すると蝶は僅かに羽を上下させ、ふうわりと俺の手の上に浮き上がった。その軽い身体が浮かぶ感触なんて感知できるはずもない。だが俺はその6本の脚が離れるその瞬間がわかった。
蝶はゆらゆらと茂る街路樹の中心に消えた。

へくしっ

くしゃみを派手に俺は飛ばす。
うう、冷えちゃったよ。妙なことしてないで早く帰りましょ。


*


するり、と夜気が部屋に流れ込んだ。
俺はその流れに開いた窓を眺める。大学生向きの安アパートの立て付けの悪い窓だ。
激し過ぎる雨と雷は予想通り小半時もせずに止んだ。お約束どおり俺が家にずぶ濡れで帰りついた2,3分後だ。日頃の行いが悪いんでしょーよ。どうせ。
だがなんの気なしに見た窓枠に。
ひろひろとした薄物を幾枚もまとった手足の細い少女がちょこなんと座っていた。
・・・・・・・・うわぁ、腰が抜けたよ。本当に力が入らないんだぁ。すごいなぁ、こんなの初めてだ。この年になって初めての感慨があるってのはうれしいもんだね。や、年は取りたくないねぇ。

「ねぇ、へんに現実逃避しないでよ」

へぇ、声も可愛いや。姿に相応しい柔らかな響きを含む僅かに高い声。
って、そ~うじゃなくてぇ~、君は誰で、どこから来たの?ここ2階だし。
なんでこんなとこに居るのさ?それにその格好はナニ?仮装行列?
っていうか、なになになにな~んでぇ~~

「は~い、とりあえず、落ち着きましょうね。大きく息を吸ってぇ~」

へ?ああ、深呼吸ね。俺は素直に肺一杯に澄んだ夜気を吸い込む。そうだ、あの凄まじい雨が降った後、気温がちょっと下がったんだっけ。6月という初夏を考えても少々涼しいくらいには。
だから窓も閉めてたはずで。

「ちょっとぉ?吸い込んだら吐き出したほうがよくない?」

はい、その通り。天国のお祖母ちゃんに会うとこだったよ。

「だいじょ~ぶ?」

いや、多分、ていうか確実に大丈夫ない。叫んでいいかな?

「ダメよ。通報されるわよ。前からやばいんじゃぁとかって思われてたのに、やっぱりなぁなんて納得されたら悔しいじゃない?」

あー、そういうこと言うなら出て来て欲しくなかったかも。

「何ですって?贅沢よ。こんなに可愛いわたしが出て来てあげたのに」

自分で言ってちゃダメでしょ。や、充分、可愛いんですけど。

「当然よっ!!」

無意味に強調されちゃったよ。
ぐっと腰に結んだ帯飾りを握り締める。こういう格好を羅衣っていうんだっけ。中国風に髷に結った細い髪も派手な耳飾りも。長い袖をたっぷり取った上衣をこれまたひろひろの幅広の帯でまとめ、薄蒼い佩玉で止めつける。爪先までの裾の長い長衣。今流行のイレギュラーヘムも真っ青のひだの取り方だ。
目元のぱっちりした瞳の大きい小作りな顔立ち。僅かに上を向いた鼻のバランスがいい。

「ね」

とにっこり笑いかけられる。
ああもう何でもいいかも。こんな綺麗な笑顔みちゃったし。ってそれは常識人としてどうよ。不覚にも俺は現実逃避も手伝ってこの現実を受け入れた。だってもしこんなところを誰かに目撃されたらどうしたらいい?
見たトコ、12,3才の子供にこんな格好させて、しかも俺は21才の世の中で一番暇な人種である大学生なんかやっていて。
言い訳のしようもない。
いや、それどころか、昼間の雨に当てられて、熱でも出て、幻覚相手にぶつぶつ言ってるとか?
やかもしんない。
ゆ~め~なら早くさ~め~ろ~

「何してたの?」

へ?とさぞかし俺は間抜けな顔をしたに違いない。袖口で顔を隠してくすくす笑う。笑いながら指先だけ薄く色付いたような指先で俺の机の上を指差す。
あー、大学のレポートだ。

「面白い?」

少女は体重を感じさせない軽やかな所作でふわりと窓枠から下りる。動けない俺に躊躇いなく近付きひょいと手元を覗き込む。

「ふーん?」

硬直する俺の手を掠めるようにレポートを取り上げる。どうってことないレポートだ。ナンか本読んで感想書けとかその辺。
少女はそれを優雅に持ち上げるとひろりと身を翻す。
あ、こら。それを持ってくな。
少女はそのレポート用紙を風に花弁を撒く様にひるりひるりと部屋に散らす。
止めんか、もう。
少女は笑うだけで意にも介さない。
硬直を振り解き俺はぷりぷり怒りながらそれを拾い集める。悪びれるでもない少女に怒りをぶつける気にはならなかった。可愛い子には弱い。哀しいサガだよなぁ~~

「ね、どうして雨の中を歩いてたの?」

え?どうして?

「雨の匂いがする」

少女は後ろ手に手を組んでくんと鼻を鳴らす。そんなもんだろうか?あ、鞄を窓枠に吊ってたからかな?

「ね、どうして?」

どうしてって。

「雨宿りすればよかったじゃない?」

雨宿り?そりゃそうだ。でもなんだか歩きたかった。それに雷が・・・・・・・・・・・

「かみなりが?」

怖いくらいで。
ふうん、と少女は俯くと折角拾い集めたレポートを俺の手から奪い取る。
奪い取るとそれを再びばら撒く。
君は何がしたいの?

「かみなり」

白い紙が天井付近から床まで舞い落ちる。

「かみ、なり」

ああ、またページを揃えなきゃ。俺は溜息を噛み殺し、レポートを拾い集める。
最後のページがほろりと床に落ちる。俺はそれをさっと拾い上げ、とんとんと机で揃える。
ふわり、と何かの花の香りが薫った。
どきっとした瞬間、俺の手からレポートが消える。

「かみなり」

少女はまた言う。ふいに俺は悟った。少女の言葉に当てはめるべき漢字を。
つまり。

神鳴り。

ぱっと紙が散った。

止めてくれっ!!君は何のつもりだっ!!
怒鳴っていた。

少女が真っ青になってその手からばさりと紙の束が落ちた。

だいたい君は誰で、どこから来て、何の用なんだ?
用がないなら元来た所に帰ってくれっ

「あ・・・・・・の」

だいたい迷惑だっ!!幻覚でもなんでももっといい夢がみたいもんだ。訳のわからん問答をするレポートをばら撒くだけの幻影じゃなくて。少女の顔がみるみる曇る。
そうだ、さっきまではなんだか知らないが、えらい嬉しそうな顔してたのに。

「ごめんなさい」

しゅんと萎れた花のように小さくなる。その姿に急に怒りが醒めた。って俺のほうが悪いことしたみたいじゃないか。
もう、俺が悪かったです。ごめんなさい。

「かえるね」

はい、そのほうがお互いにとっていいと思います、俺も。
あ、どこに帰るか知らないけど送るよ。

「ううん、いいの。ごめんね、ほんとに」

いや、俺こそ怒鳴って・・・・・・あ、窓から帰るのはダメだよ。俺の心臓に悪いから。

「うん」

少女ははにかむように大きく笑った。ああ、やっぱそっちのほうがいい。俺はほっとした。少女は足音も立てずに1DKの俺の汚い部屋を横切る。その足には華奢な凝った刺繍の靴が履いてあって。
扉を開ける瞬間、俺に振り向いて、また大きく笑った。
ばたん、大きく音を立てて扉が閉まる。

ナンなんだよ、一体。俺はぼりぼりと後頭部を掻きながら、レポートを拾い集める。どうやって窓から・・・・・・

と、窓を見れば、開いていると思っていた窓は閉まっていた。いや、正確には立て付けが悪いせいで僅かに閉まらないで、10cm程も隙間があるのだった。
それだけだった。
っていうか、今のはなに?
その刹那。
廊下から。
少女の出て行った廊下から。
悲鳴が。
稲光のような絶叫が響き、ふつりと唐突にそれが消えた。
俺はレポートを投げ捨て扉に突進する。乱暴に扉を開き、暗い廊下に飛び出す。

だが。そこには。
何もなくて。

俺は呆然と立ち竦む。共同アパートの扉はどれ一つ開かない。あんなにすごい悲鳴だったのに。俺にしか聞えていなかった?やっぱ俺もとうとうきたかな?
諦め悪く暗い廊下を見回す俺の目に白い断片がふと目に留まった。
それは大きなくもの巣に引っかかった何かだった。
そう、ろくに掃除もしないからやけにでっかいくもの巣が出来てたっけ。
はっと息を呑む。
蜘蛛がささっとその引っかかった何かから遠ざかる。

蝶だ。
白い薄衣のような羽の。もう動かない。

まさか・・・・・・・・・・・まさか・・・・・・・

昼間の雨の中の蝶。雷に誘われるようにふらふらと雨の中を飛んでいた蝶。
どうして俺は雨の中を歩いた?
どうして蝶は雨の中を飛んだ?

雷
霹
靂
かみなり
かみ、なり


神鳴り
神鳴り


*


 新暦では六月。旧暦では皐月。
 中国暦では?賓(ずいひん)もしくは午月。
 そしてその異名を仲夏、仲暑、雨月、早苗月、または、菖蒲月という。
 あやめづき。
 つまり、殺め月。

<終>



© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: