バスが来ないのに苛々しては、
同じ行き先のバスが続けて3台来るのに頭にきたりする毎日でも
ガリバルディ橋
から左手に ティヴェリーナ島
を見つつ、
サンタ・マリア・イン・コスメディン教会
を臨む美しい夕焼けを見るたびに心打たれるわたしがいるし、
バスで ヴェネツィア広場
から カピトリーノの丘
を左手にして
マルチェッロ劇場
の坂を下りる道は
サン・ピエトリーニ(立方体の小さな石のこと。
この道は舗装されたアスファルトではなく、サン・ピエトリーニが埋め込まれてできた道)で
ガタガタいうけれど、右手に紀元前の神殿の跡、今でも残る円柱が見られて、
ライトアップされる夜なんぞには、改めてイタリアで暮らせることを感謝してしまうのだ。
ところで歴史のことを書くと、「マミちゃん、 世界史の先生だったから詳しいよねー
」とよく言われるが、
世界史を教えていた割には、
自分が高校生の時は世界史なんて 授業を受けたことすら覚えていないほど嫌い
で、
地理もまったくもってダメで、世界情勢にはそれほど興味がなかった。
イタリアが世界地図の上でどこにあるかも知らなかったと思う。
それは実際に自分が世界史を教えることになり、
焦る 22の春
まで続いた。
わたしは日本史学専攻であったが、
中学社会と高校地理歴史の教員免許
を持っているので、
世界史や地理を教える可能性もあるというわけなのだ。
大学でもいくつか世界史概説や東洋史などの単位を取得してはいたが、
それが何の役に立っただろう。
それくらい イタリアとわたしは遠かった。
しかし、実は今思えば2度ほど「出合って」いる。
一度目は 「キヨッソーネ」の話
を通じて。
日本人にもイタリア人にもあまり知られていない、
19世紀を生きたこのイタリア人の存在は、
幼い頃に父から聞かされて知っていた。
エドアルド・キヨッソーネ(EDOARDO CHIOSSONE)。
1833年、ジェノヴァ生まれ。
彫刻師で銅版画家だった彼はドイツで紙幣製造の技術を学び、
1875(明治8)年43歳の時、日本政府の招聘で、
俗に言う 「お雇い外国人」
として大蔵省紙幣寮(現在の国立印刷局)において
紙幣、切手、証券などの製版、凹版彫刻、 印刷技術指導
などに当たった。
彼が日本で成した偉業はそれだけではない。
数々の著名人の肖像画を描いて残したのである。
日本初の紙幣に描かれた 神功皇后
、
本人を見てのスケッチによる 明治天皇
、
西郷隆盛
(これは西郷さんの弟と従弟との合成)、
福澤諭吉
、 大久保利通
、 木戸孝允
、 岩倉具視
など。
教科書に載っているこの人たちの顔の多くはキヨッソーネの描いた肖像画なのである。
1891(明治24)年に退職したが、彼はその後も東京に住み続け、
1898(明治31)年に亡くなっている。青山墓地に墓があるそうだ。
また、キヨッソーネの日本美術コレクションは世界でも屈指のもので、その数約1万5千。
浮世絵
、屏風、刀剣、甲冑、陶磁器、漆器、仏像などがあり、
現在はジェノヴァ市立キヨッソーネ東洋美術館に収蔵されている。
余談になってしまうが、このキヨッソーネの展覧会を数年前に鎌倉で催した人たちがいる。
その一人がなんと偶然にもヴェネツィアの友人Fなのだ。
キヨッソーネ研究家でもある友人Fのイタリア語の先生が こんな本
を出版している。
未読だが、日本に帰ったら求めるつもりである。
で。
そうそう、幼い頃父に聞かされた、 「日本に西洋印刷技術を伝えた人物」
が
実はイタリア人だった、ということが言いたかったのである。
この話を父がわたしに語っていた頃には、
わたしがキヨッソーネの国に住むなんて誰が想像できただろう。
二度目の出合いは 「ジョーシュー」というあだ名の高校時代のクラスメート のおかげで。
わたしが通っていた高校は帰国子女受け入れ校である。
高一の時、 イタリアからの帰国子女
でハラダさんというのが同じクラスにいた。
彼女がどこから引っ越してきたのか、
ヴェネツィアだったかジェノヴァだったか
、今となっては忘れてしまったが、
ローマやミラノではなく、名前に濁点が含まれていた都市だったように思う。
先に書いた通り、その当時のわたしはイタリアなんぞにまったく興味を持っていなかったのだから
覚えていやしないのだ。
ハラダさんは 毎日のように遅刻
をしてきて
誰からともなく 「常習」
というあだ名で呼ばれるようになってしまった。
遅刻常習
の意味である。
あまりに毎日だったので進級も危なかったんじゃないか。
当時は考えも及ばなかったのだが彼女の中にはしっかりと
「イタリア時間」が流れていたのだ!
そうでしょう、そうでしょう。
夏休み明けだったか、彼女に ゴンドラの形のキーホルダー
をおみやげにもらった。
夏休みにイタリアに帰っていたのだろう。
銀色のかわいらしいキーホルダー。
2年前にヴェネツィアに行った時に、まったく同じものを見付けて
何だか嬉しくなってたくさん買って帰った覚えがある。
このキーホルダーを初めて手にした時には、
わたしがゴンドラの国に住むなんて誰が想像できただろう。
ジョーシューは今どうしているのかな。もしいつかまた彼女に会えたなら、イタリアの話なんぞ語り合ってみたい。
(2005年4月)