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オベリスクというのは、ギリシア語で「串」を意味します。
確かに串のように長細い、
エジプトの神殿
前に飾られる記念石碑です。
ローマに来たことのある人は、
どこかで一度くらいは見かけていると思います。
世界中には本家本元のエジプトを含めて現在30基あるそうで、
そのうちの 13
基がローマにあります。
ローマに半分近くある理由は、
紀元前1世紀にエジプトがローマ帝国の領内となったためです。
初代アウグストゥスをはじめとした皇帝たちがエジプトから運んできたり、
模倣して造ったりしました。
ツアーは夜8時半に始まりましたが、ローマのこの時間はまだ明るいです。
まずは ナヴォーナ広場
のど真ん中、
ベルニーニによる四大河の噴水
の中心に据えられた、
高さ16メートル強のオベリスクです。
これはエジプトのものではなくて、
ドミティアヌス帝
(1世紀後半)によるコピー品です。
4世紀初頭になってマクセンティウス帝が
自らの 競技場の中央分離帯の装飾
のために使ったのですが、
その後は何百年も捨て置かれており、
17世紀に広場を改修する際にベルニーニが
彫刻の中心の装飾のために必要としました。
出資者の一人でもあった銀行家ジョヴァンニ・トルローニアは
マクセンティウス帝の競技場をはじめとする
アッピア旧街道沿いの一帯の土地を所有していたので、
これを提供できたわけです。
奇しくも ナヴォーナ広場はドミティアヌス帝の競技場跡
です。
それから パンテオン
前のロトンダ広場にあるオベリスクを見に行きました。
これは正真正銘エジプト製、 ラムセス2世
時代のもので、
ドミティアヌス帝によってローマに運ばれてきました。
ジャコモ・デッラ・ポルタによる噴水の中心として使われています。
そこから歩いてすぐのところに
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会
前の広場のオベリスクがあります。
これもドミティアヌス帝がエジプトのヘリオポリスから、
パンテオンのオベリスクと一緒に運んできたものです。
このオベリスクはちょーかわいいです。
なぜかというと台座が 象
さんなのです。 ベルニーニ
作です。
最後に モンテチトーリオ広場
のオベリスクを見に行きました。
これは紀元前6世紀のファラオ、プサメティク2世時代のもので、
ローマ初代皇帝アウグストゥスが
巨大日時計の針にするために運んできました。
日時計の場所は今と少し異なります
。
現在ローマには13基のオベリスクがありますが、
わたしがローマに来たばかりのころは14基ありました。
その1基というのが、ファシズム時代にローマ帝国回帰を目指した
ムッソリーニがエチオピアから略奪してきたもので、
2005年に返還された
のです。
この話になるとイタリア人は、
ルーブル美術館にはナポレオンが略奪したものが山ほどある、
返して欲しいよな、とよく言い始めますが、
わたしは大人なので何も言いません。
オベリスクは特に16世紀のローマ法王 シクストゥス5世
によってまるでチェスの駒のように動かされました。
彼はオベリスクを巡礼の指標としたのです。
オベリスクまとめ!
(1) 場所 (2) 起源と経緯 (3) 最後に現在の位置に置いたローマ法王 (4) オベリスクの高さ (5) 台座、頂の装飾部分を含めた高さ(6) 台座周辺彫刻の作者
Obelisco Lateranese

(1) サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ教会
(2) エジプトのファラオ、トトメス3世と4世の時代のもの(紀元前15世紀)
ローマ皇帝コンスタンティウス2世(4世紀半ば)によって
テーベ川沿いアメン神殿から運ばれてきました。
チルコ・マッシモの中央分離帯に使われていました
(ポポロ広場のものとセットだった)。
(3) 1588年シクストゥス5世
(4) 32.18m (5)45.70m
ローマのオベリスクで最も古いのは言うまでもありませんが、
高さはローマでだけではなく世界一です。
なんと230トンもあるそうです。
(6) ドメニコ・フォンターナ
Obelisco Vaticano
(1) ヴァチカン市国サン・ピエトロ広場
(2) エジプトのアレクサンドリアにあったものを
カリグラ帝が持ってこさせました。
ネロ帝の競技場(現在のサン・ピエトロ)の
中央分離帯に使われていました。
(3) 1586年シクストゥス5世
(4) 25.50m (5)40m
(6) ドメニコ・フォンターナ
Obelisco Flaminio
(1) ポポロ広場
(2) ラムセス2世とその息子メルエンプタハの時代のものです。
ヘリオポリスの太陽の神殿からアウグストゥスが運ばせました
(モンテチトーリオのものと一緒に)。
チルコ・マッシモの中央分離帯に使われていました
(サン・ジョヴァンニのものとセットだった)。
(3) 1589年シクストゥス5世
(4) 24m (5)36.50m
(6) ドメニコ・フォンターナ
Obelisco di Montecitorio
(1) モンテチトーリオ広場
(2) 本文をお読みください。
(3) 1792年ピウス6世
(4) 21.79m (5)33.97m
(6) ジョヴァンニ・アンティノーリ
Obelisco Agonale
(1) ナヴォーナ広場
(2) 本文をお読みください。
(3) 1651年インノケンティウス10世
(4) 16.53m (5) 30.17m
(6) ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
Obelisco Esquilino
(1) サンタ・マリア・マッジョーレ教会
(2) ドミティアヌス帝による模造です。
アウグストゥス廟にあった2本のうちの1本(下のとセット)。
(3) 1587年シクストゥス5世
(4) 14.75m (5) 25.53m
(6) ドメニコ・フォンターナ
Obelisco del Quirinale
(1) クイリナーレ広場(大統領官邸前)
(2) ドミティアヌス帝による模造です。
アウグストゥス廟にあった2本のうちの1本(上のとセット)。
(3) 1786年ピウス6世
(4) 14.63m (5) 28.94m
(6) ジョヴァンニ・アンティノーリ
Obelisco Sallustiano
(1) トリニタ・デ・モンティ教会
(2) ポポロ広場のオベリスクの模造です。
クイリナーレの丘の北側にあった
歴史家サルスティウスの庭園から運ばれてきました。
(3) 1789年ピウス6世
(4) 13.91m (5) 30.45m
(6) ジョヴァンニ・アンティノーリ
Obelisco del Pincio
(1) ピンチョの丘
(2) ハドリアヌス帝がナイル川で溺死した愛妾(と言っても男の子)
アンティノーに捧げて造りました。
郊外のヴァリアーノ競技場の中央分離帯に建っていました。
その後、アウレリアヌス帝の城壁、バルベリーニ宮、
ヴァチカンの松ぼっくりの庭などに移動していました。
(3) 1822年ピウス7世
(4) 9.24m (5) 17.26m
(6) ジュゼッペ・マリーニ
Obelisco del Pantheon
(1) ロトンダ広場(パンテオン前)
(2) 近くのサン・マクート広場(エジプト・コミニュティがあった辺り)で
1373年に見つかりました。
ミネルヴァ広場からヴェネツィア広場方面にかけては
かつてのエジプト人地区であり、
現在のサント・ステファノ・デル・カッコ教会の辺りには
イシスとセラピスの神殿があったと言われています。
(3) 1711年クレメンス11世
(4) 6.34m (5) 14.52m
(6) ジャコモ・デッラ・ポルタ
Obelisco di Dogali
(1) ディオクレティアヌス帝の浴場跡
(2) ラムセス2世時代のもので
ヘリオポリスからディオクレティアヌス帝が持ってこさせました。
パンテオンなどのと一緒です。
1883年サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァで発見されました。
13基の中で発見された年代が最も最近のオベリスクです。
1887年エリトリア(アフリカの元イタリア植民地)の
戦没者の記念碑としてテルミニ駅前に置かれましたが、
1925年ディオクレティアヌス帝の浴場跡である
現在の位置へ移動しました。
(4) 6.34m (5) 16.92m
(6) フランチェスコ・アッズッリ
Obelisco della Minerva
(1) サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会
(2) ドミティアヌス帝時代にヘリオポリスより運ばれてきました。
(3) 1667年アレクサンデル7世
(4) 5.47m (5) 12.69m
(6) ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
Obelisco di Villa Celimontana
(1) チェリモンターナ公園
市所有の公園で、
夏には恒例のJAZZコンサートが行われています。
(2) ラムセス2世時代のものです。
1582年には既にここにありました。
カンピドーリオの丘にかつてあったイシス神殿のもので、
元老院がマッテイ家に贈ったそうです。
チェリモンターナ公園は16世紀のマッテイ家の庭園です。
(4) 2.68m (5) 12.23m
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